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流出雑記 

映画を見られた日

2010年12月18日 | Weblog
意思があればちゃんと起きられる。6時45分起床。
小豆は朝から食欲旺盛。
室温で冷えたみかんを食べる。白湯で胃の温度を上げる。

7時45分家を出る。
昨日の雨に濡れた手袋はまだ湿っていた。今朝はそれほど冷え込んでいないが、素手で朝の自転車はちょっと辛い。他に家には100均の滑り止め付き手袋の指先の破れたやつしかなく、とりあえず手を覆えればとそれをはめた。自転車を漕ぎながら手許に視線を落とす度に情けないほどみすぼらしい。出町柳あたりまでは耐えられたが、丸太町まで来てみすぼらしさと寒さに耐えかね100均で新しい手袋を買った。

8時半から母校の高校で仕事。
着衣固定ポーズ。後方両サイドには石膏のジョルジュとヘルメスがいる。朝の2時間だけなのですぐ終わる。
四条烏丸に移動。先週見逃した映画を見るため。
芸術センターで夫と落ち合い、前田珈琲でお昼にする。
夫、厚切りベーコンのカルボナーラ、私、ハヤシライスとサラダなど2、3品と小さいティラミス付きのランチプレート。

京都シネマに移動。
『セラフィーヌの丘』を観る。
実在した女性画家セラフィーヌ・ルイの物語。
セラフィーヌは家政婦などの仕事をし、貧しい生活をしながら絵を描いていた。画材も土や草、働いている肉屋の台所で動物の血を瓶に入れて持ち帰り、教会のロウソクの鑞を拝借し、集めてきたものを混ぜ合わせて絵の具を作り、木の板に描きつけていた。
絵を習ったことはなく、描き始めたきっかけは神様のお告げがあったからだという。
彼女は植物や風、周囲の自然によく親和する体を持っていて、その感性から培われた独自の生態系を体のなかに持っているようだった。
描かれるものは、何か対象物を観察しながらではなく、植物のようなものを何も見ないで描いている。それらのイメージは単なる夢想花というより、画家に深く根をはっていると思わせる説得力をもった生気があり、それを丹念に描写しているのがセラフィーヌの絵だと感じる。


この映画を知ったのは、新聞の片隅に紹介されていたのをたまたま発見したからで、セラフィーヌが実在の人物であることを知ったのは見終わったあとだった。

彼女が家政婦をしていたお屋敷に部屋を借りた画商は、偶然目にとまった彼女の絵に惚れこむ。そこから世に知られることになっていく。
絵が売れてお金が手に入るようになると、それまでの家政婦の仕事や画材を採集する、手や足をめいっぱい使う生活を離れる。次にその物質的に満ち足りた生活にかげりが見えはじめたとき、広がる不安に覆われたセラフィーヌの生態系は徐々にくずれ、生活にくまなく散りばめられていた信仰が、閉鎖的、盲目的な依り代のようになり、ついには狂人と見なされるまでに荒廃する。

セラフィーヌの半生のたどり方が少し早足に感られるところもあった。

そのあとお茶しようと思ってた猫のいる店は休みだった。