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流出雑記 

2015/7/30

2015年07月31日 | Weblog
陰翳礼讃を読み返していたらなんか無性に腹が立ってきた。

古き良き、生粋の日本文化の素晴らしさのなかで育っていない世代には身に覚えのない郷愁の情景が、それこそ饒舌な日本語で描きとられてにおいまで届いてくるのと、時々本気で読めない漢字につまずき携帯で検索する行為を差し挟む残念な感じのコントラストの狭間で羨ましいのと悔しいのと、そんなに昔ばかりがいいのかというのがない交ぜになって腹が立つ。

除菌消臭無味乾燥な現代の生活様式、陰翳はコンビニのネオンに24時間薄められ、蛍光灯の白けた明かりのしたでぺらぺらのファストファッションに身を包み、主に液晶を眺め、自分の居場所までSNSにさらす陰りのなさでも、そこからだって、詩的な豊かさを見出せると信じたい。

きっといつの時代もどんな場所でもむしろ人はどうしても陰翳を見出さずにはいられない。
いつの時代も共通して生きてる状態の命綱は死であるから、ものを見ることはその綱につなぎとめられて生きているこの体をとおすしかない。眼差したものが言葉のかたちをとるとき、そして眼差し自体からも、体が関与することを取り除くことは不可能で、つまり生の状態が反映されないわけにはいかない。

陰と近しく暮らしていた時代とは違うから、もっと目を凝らさないと今の陰翳は見えてこないかも知れない。
ただ現代の生活をアイロニカルに縁取るのでない言葉だって見つかる。そういう言葉を見つけたいとたぶん日々思っている。谷崎潤一郎には到底叶わなくても。

2015/7/29

2015年07月29日 | Weblog

暑さで目が覚めたけれど目が覚めてもしばらく夢の余韻をひきずっていた。

握りこぶし3個分くらいの生姜をみじん切りにして水で煮る。10分くらい煮てから濾して、煮汁の方にレモングラスとキャラウェイシードと黒こしょうの実を入れ一度沸騰させてから火を止めて10分置く。それをまた濾して煮汁の重さを量りそれと同量の砂糖を用意して煮汁に溶かす。最後にオールスパイスとクエン酸を入れるとジンジャエールの素ができる。これを4倍くらいに炭酸で割る。本当のジンジャエールのレシピとは全然違っていて、家にある物を使ってやるとこうなる。でもおいしい。さらに最初に濾した生姜を醤油と砂糖とみりんで味付けして炒って水気をとばす。これはとてもごはんに合う。午前中そんなことをやっていたので、家の中が生姜の館みたいになっていた。猫を嗅いだら猫にも生姜のにおいが移っていた。

鍵括弧のついている会話文を書くのにどこか恥ずかしさがあって、なんとなく避けていたけど今日ちょっと書いてみたら、全然書こうと思ってなかった話しの会話が展開されてきて、どうしようかと思った。男が自分の体の水分が干上がって、体の中で飼っている魚が死にそうになっているから、その日知り合ったばかりのむくみがちな女に代わりに飼ってくれと言い出した。魚が出て来たのも急で、今後どうなるのか書いている人にもわからない。

夕方、曇ってきて一雨来そうだったけれど、図書館に本を返しに行きたかったのと、買い物をしたかったので家を出た。本を返してスーパーに寄り、ほしかったセロリが安かったので気分よく出て来たくらいで一応日焼け止めを塗ってきた腕に雨粒を感じた。そこから家までだいたい15分くらいだけれど、その間に雨あしは徐々に強まり、徐々に強くなるというのは音楽の用語でクレッシェンドだったかデクレッシェンドだったかと思いながらペダルをこいでいた。デが付いている方がだんだん強くなるような感じがする。でも実際は逆だった。

家までの最後の坂を上がって行くあたりで本降りになった。地面が雨で一気に冷やされて、濡れて黒くなったアスファルトからは、日中に籠った熱が地面から50センチくらいのあたりで帯状の気体になって漂っているらしく、自転車でそのなかを突っ切っていくと、生ぬるい空気がスカートの足元にまとわりついてくる。すれ違った工事現場のガードマンは雨に気付いていないかのようにヘルメットを思いっきり雨に打たれながら立っていた。家についてしばらくすると雨は潔くやみ、セミは鳴くのを再開した。

 


2015/7/28

2015年07月28日 | Weblog
1日に産出できる言葉の量には限りがあり、今日はもう別の箇所で使い果たした。けれど夕方から雨が降ったので夜は窓を開けておくといい風が入ってきて気持ち良く眠れそうなことと、チューリップの「心の旅」はなんていい曲なのかと思ってちょっと泣けたことだけ書いておく。

2015/7/27

2015年07月27日 | Weblog

長くてあまりおもしろくもない。

多様であることは芸術という分野で言うまでもなく肯定されるべきことで、そんなことを言うこと自体不粋だと思いながら、そういうことについて。
芸術とは、この世界に生まれ落ちた瞬間からある国や地域、家族などの枠組みに属さざるを得ず、制度のもとに教育されながら成長することを余儀なくされてきた個人に於ける制約を受けることのない営みであり、この世に既にある枠組みや制度のなかでは発露を許されないもの、有用ではないもの、こぼれてしまうものを眼差すことに自らの生の軸を見出してしまった人によってなされる行為である、と芸術とは何かと問われたら私はそう答える。

もちろん美術史の観点から見れば芸術の発展には地域における文化や宗教、創作を後押しする財力、政治的なものの介入は不可欠であって、その過程を経て今日のコンテンポラリーアートも成立している。時代によって芸術が引き受けるポジションも変容し、創作する人たちは各々の時代の空気を呼吸しながらものを作るのだから、どのような立場をとっても生きている時代と無関係であることはできない。今、芸術ということを思うとき、世の中は多様であることを肯定しむしろそれを要請するように振舞いながら、多様さは徐々に排除されていると感じる。

自分が関わっているコンテンポラリーダンスの分野について考える。
10年前くらいにコンテンポラリーダンスが盛り上がりを見せた時期があって、様々なダンスの在り方が出現した。為されることがおもしろいかおもしろくないかはさておき積極的に多様な在り方が肯定され、それから飽和状態の時期が訪れた。多様であったはずのものが均質に見えてくる。各々独自の方法で違うことをやっているようで違いが際立たない、その均質化への無意識は、なんでも受容されるかのような地盤を作ったのではないかと思う。均質な雰囲気を作りだしていたのは、おそらく創作時のコンセプトの似通り、舞台に立つ体を支える根拠が、私が他でもない私であることに依存する傾向にあり、私語りから逃れられられなくなったからではないだろうか。そうすると半径2メートル以内のことより外のことに想像が及ぶ余地のない、箱庭的な表現に陥り、結果どこに評価基準を設けたものかとなったときに、結局コンテンポラリーと言っても西洋的舞踊テクニックを持っていることをベースにしたものという傾向が根強いという結果に帰結しているように感じる。

そういう状況のなかで、ではどうすればいいかと次の動きを模索しはじめた人たちは、私というものの私的な根拠からもっと普遍的なもの、オリジンなものを求め始める。民俗芸能や地方の祭り、踊りといったものをリサーチ、習得といったことをはじめるアーティストが増える傾向があらわれる。それは震災後により強まったように感じる。しかし何かしら根源的なものを求めたとき、その先に刷り込みの土着のイメージがちらつく。それは自分にとって根源的であると思い込みたいもののイメージで、実際には縁もゆかりもないものを引き寄せる積極性が起こす錯覚のような気がしている。(その錯覚がフィクションとして体に根付くところまでいけばあるいは面白いのかも知れないが)私たちの体の根源を探る箇所はもっと別の、普段浸っているこの土のにおいから遠い、ネットの網に掛かって目をきょろきょろさせている、抗菌消臭無味乾燥な日常の中から見いだす他ないと私は思っている。後付けの根源ではきっと根元まで届かないという直感が私の体にはあるが、これは私の場合で、何かしらの必然を見出す人もいるのかも知れない。水の中にいる魚が水を知覚出来ないのと同じで、数歩引いて見ないと近すぎて見えないことが多い。自分の居場所を見る為に出掛けて行くのは有効かも知れない。でも出掛けなくても遠ざかる方法はある。

多様性の価値を提出しようとしてうまくいっていないもの、多様であることを積極的にそれ自体価値である、として押し出してくるものを良いと思えないのはなぜか。それは、差異の価値を観客が読み取る前に、予め差異はそれ自体価値であるのだと前提として渡されてしまっていることにある。そうするとどういうものでも肯定せざるを得なくなり、あとは選り好みくらいしか出来なくなる。そこで言われる多様とは前提として人がそれぞれに持っている差異のことを言っているだけであって、そんなことは当たり前で、そこから先、その体から見いだされたもの、眼差された世界の様相をうつしだすことをやらなければならない。コンテンポラリーダンスの技術はスクリーンとなることではないかと思う。と、いう理屈を散々並べたうえで、そんなこと全部ほっといて自分の恋したものをただ踊ればいいとも思っている。


2015/7/26

2015年07月27日 | Weblog
ダムに蓄えた雨水の余裕を感じさせるとうとうと流れる川、川辺で足を浸し憩う休日の人々、飛び石を飛んでいく子ら、土手に座った私の傍らには落としたパンに群がる蟻と交尾する蝿。


昨夜、見逃してたインフォマニアック見た。ラースフォントリアーは特にドッグヴィル、奇跡の海が好き。アンチクライストもメランコリアも見たけど断片的にしか思い出せない。
インフォマニアックは色情狂の女性の話し。若い間は彼女の美貌も手伝って欲望の赴くままに振舞うことができたのに、彼女が唯一好きになれた男性に触れたとたん性感が体から失せてしまう。そこから先はどうすれば体から消え失せたそれを取り戻すことが出来るかという葛藤のなかで、徐々に身を持ち崩していく。
ラースフォントリアーの映画にはもっとも願うものへの欲望の成就がありながら、それで満たされたゲージをゼロかマイナスまで持っていく。どの映画もラストシーンでは夢も希望も神も仏もない結末を迎えるけれど、枝葉を繁らせ人の感情を掘り起こし根本までさらしてくれる。

仕事から帰って酢漬けの野菜を量産した。

2015/7/25

2015年07月25日 | Weblog
枝葉を切り過ぎることはむしろ根幹に関わることなのに、そのことを考えてないようなことが起こり過ぎ、丸裸の枯木にしたいのかと思う。
剪定を言い訳をしてやっていることは伐採に近い。
剪定は植物が育つために最低限の枝を整理することで、そこには愛がある。切るところを間違えると新芽は出ない。伐採は別の都合で切ることだ。

夜のお菓子と言えばうなぎパイだけれど、急にうなぎパイなんて言葉が出てくるのは、昨日うなぎを食べてなくて、うなぎを食べることに付きまとう様々な不安要素とうな欲の折り合いが付いていないことのあらわれであるかも知れないが、本当の夜のお菓子は虎屋の羊羹ではないかと思う。黒糖を加え闇夜を練り上げた天鵞絨の舌触り。
餡子が好きな人間には、たとえ真夏の練り羊羹でも暑苦しいなんて思わない。好意を持つことにはそういう効用がある。ただ羊羹についた歯型に歯並びの悪さを見せしめられるだけ。

2015/7/24

2015年07月24日 | Weblog
イラストレーターの有瀬くんの絵を見に行った。パネル全面に描かれた植物。草花を見ながら描いているのではないらしい。けれど葉っぱや花びらはみな説得力を持っている。目を向けてきた記憶の集積が交配して新種が生み出されていると言えるくらい、日頃から植物をちゃんと見ていないと描けないディテールの集積が咲いていた。
目を介して見られた世界にあるものが、単にモチーフとして扱われているのでなく、目の中で混ざって発芽して育ち、画面上で枝葉を伸ばしている。その引き寄せ方は、世界にあるものを自分のいいように扱うのとは違うやり方で捧げられ、描かれた植物は独自の呼吸で何かを空気中に放出していた。
つまりとても美しかった。

先週の今日は大雨だった。
今日は晴天。また明石に来ている。
朝から京都で仕事し、サンドイッチが200円で食べられてしかもおいしいブラジル喫茶店で休憩してから個展を見て明石へ。
駅前は再開発で工事中。チェーン店系のカフェが全然なく、年季の入った喫茶店が点在している。商店街を歩いたら、魚屋がたくさんあって、鮮魚じゃなくても魚の佃煮とか練りもの、明石焼きの店が軒を連ねていた。魚屋の店先には新鮮そうな生蛸や銀色の剣みたいにしゅっとした見たことない魚が売っている。
商店街の中に行列が出来ていて、何かと思って近くまで行ってみたら、鰻屋だった。今日は土用の丑の日だから。
あれだけ鰻の数が減ったと言われているのに、そうは言ってもうちが食べる分くらいは何とかなるでしょ、という顔をした中年男女のうな欲の行列が、空前のともしび鰻を持ち帰えろうとする行列自体も鰻のようになって、そのさまはさながら鰻憑きという様相だった。
早く着いて時間が余ったからお茶でもしてないと暑さでもたない。和菓子屋さんの2階でやっている喫茶店に入ってクリームあんみつを頼んだ。和菓子屋だからそういうのが得意なんじゃないかと思って。

昨夜見逃していたラース フォン トリアーのニンフォマニアックを見た。DVDは2枚組でまだ1枚目しか見ていない。冒頭の雪のシーンで水音を聞かせていくところが良かった。
画面に図形や文字が出てきたり、内容に対応して画面が3分割になったり、何かを思い出すと思ってた。ピーター グリーナウェイ。その名前を久々に思い出した。最近何を撮っているのか名前を聞かない。
ニンフォマニアックは色情狂の女性の話し。ラース フォン トリアーの映画の人の顔の撮り方が好きだと思う。続きが見たい。

2015/7/23

2015年07月23日 | Weblog

近所のスーパーの見切り品のラックにいつからか 食品エコにご協力お願い致します と花模様で囲まれたフォントで印刷された紙が張られるようになって、それを見る度に嫌悪感を覚える。

客は見切り品を、別にエコだから買うのではない。単に安いからだ。しかも協力を、願う、というのはお金を払って商品を買う客に対して言うことだろうか。

これが、ご自由にお持ち帰りくださいならまだわかる。けれど例え半額になったキャベツであれバナナであれ、商品を買うという行為に違いはないのだから協力を請うというのはおかしいし、エコという聞こえのいい言葉で勝手に得な買い物をしたいだけの客を何かに貢献したかのように修飾しないでほしい。エコに協力的なために見切り品の野菜を買う人なんてまずいない。

食品エコにご協力お願い致します は、そこに並ぶ多少萎びたり色が変わったりしているけれど、まだ食べることの出来る野菜は売る方にとって既に廃棄物に見えてますと言っているようなもの。

食品エコにご協力お願い致します に似た気持ちの悪い言葉はよく見れば世の中にあちこちに発見できる。何かしら良さそうなことを言ってる顔をして、読むと一方的な押し付けを受け取るしかないような言葉を。何かを促す書き口に込められた意味合いは断定的で、煙に巻いているだけの言葉が入り込んでくるのはとても嫌な感じがする。


2015/7/22

2015年07月22日 | Weblog

シュリンゲンジーフの「外国人よ、出て行け!」
どういう作品か聞いたことはあったけどドキュメントを今日ちゃんと見た。見る前私はこういう社会的なテーマをひたすら真っ正面から扱った作品に関心を寄せても心底好きになれないんじゃないかと思っていた。けれどすごく良かった。
2000年にオーストリアで上演された作品の記録にシュリンゲンジーフ本人や関係者のインタビューも加えたドキュメント映像。街中にフィクショナルな状況を設置し、そこから波紋を広げて市民の内発的なものに着火していく振付に思えた。ー方向の運動を生む強制力のかけ方とは違うやり方で、さまざまな言葉が引き出される場が仕組まれる。そのためのシュリンゲンジーフ自身の作中での振舞い、泥のかぶり方が素晴らしかった。

その次の日の夜、1年半くらいぶりにりなちゃんに会った。今月はなんだか大学時代の友達にたくさん会う月。
りなちゃんは結婚して京都に戻ってきた。新居祝いはソイルのバスマットにした。これで毎日足の裏の水分を吸い取られて楽しんでもらいたい。5時過ぎに会って9時過ぎまでぶっ通しで喋っていた。人は欲望の乗り物なのか、欲望は人の乗り物なのかというようなことを、考えた。

 

シニカルってどういう意味だったかと思って、それにくっついてシアトリカルという言葉が浮かんで来てどっちも検索したら、シアトリカルというのは演劇的なとか劇場風のという意味の他に、そういう名前の馬が、競走馬がいたことを知った。なんでそんな名前がついたのか気になって親馬をたどってみた。

シアトリカルの父はヌレイエフといって、ロシアのバレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフから来ている。
ヌレイエフの父はノーザンダンサーという名前。ヌレイエフにはニジンスキーやリファールというロシア出身ダンサーの名のついた兄弟たちがいる。他にもファビュラスダンサーとかシャリーフダンサーというのや、サドラーズウェルズというロンドンの劇場の名前をもらっているのもいた。シアトリカルの根拠はあり過ぎた。


仕事が終わってからお腹空いて近くにあったイオンでねぎとろ巻きを買って食べたらとろをよりとろらしく表現するために魚でない油脂のような何かが混ぜ込まれている気配がして過剰にとろを主張してくる不気味さがあった。夜に作ったパスタはトマトソース系になるはずだったのに中途半端なナポリタンみたいになって食べたい感じと違うものが出来てしまった。今日は思う物が口に入らない日らしい。きっと緑がないと思ってピーマンを入れてしまったことがそもそもの過ちだった。


2015/7/19

2015年07月20日 | Weblog

詩人の会は最初自作の詩を読む会だった。学生の頃、最初人数は5、6人いたかも知れないけれど、今は寺田くん、西崎くん、西野くんという4人で集まる会になっている。そして現在は各々の生き様が一編の詩であるとして、自作の詩を読まずにスーパーの惣菜をあてに飲んだりする。学生の頃は西崎くんの下宿先だったラーメン屋の2階に集まってそんなことをしていた。大学卒業してからは3年に1回開催となぜかそうなり、でもそんな遠くに置いた約束もちゃんと叶う人たち。

寺田くんが東京に移り住むことになって送る会をする。京都は今月いっぱいまでのようだから引っ越しの準備があるのではと思っていたけれど家に招いてくれたので、3人でスーパーに寄り適当に買い物をしてグーグルマップに導かれ家にたどり着いた。平屋の一軒家で聞くと家賃が驚く程安かった。前の住人はお年寄りで風呂やトイレに手すりが付いていて、老人ホームに入ったあとの空き家と不動産屋から説明されたが本当かどうかという感じらしい。寺田くんは学生の頃から音楽をやっていた。私はあまりライブハウスに行ったりするほうではなかったけれど何度か歌っているのを聞きに行った。うさぎ一羽、という歌詞の曲の印象をまだ覚えている。今の歌は音も歌詞の世界観もずっと伸縮性をもって多色使いに感じる。でもグレイッシュなトーンを帯びている。

昨夜ラジオで寺田くんの新しい曲がかかった。目の前にいる人の紹介を電波に乗ってくる言葉で改めて聞くことはあまりないのでおかしい。西野くんはAmazonで買った寺田くんのCDをちゃんと持参していて、そこにサインをもらった。それを見て西崎くんは持参していた話題の本である火花にサインをもらうことにして、私はまだ手に入れてなかったCDをその場で本人から買ってサインをもらった。最近iTunesで音楽を曲単位で買うようになってしまったけど、CDを久々手にするとジャケットに音楽への入口が作られていること、手にとって、見て、開ける動作があることでアルバムに込められた音楽の世界へ入っていく体感を伴うことに気付く。西野くんはダンスミュージックとかはiTunesで買うけれど、言葉のあるもの、バンドの音楽はCDで買う、それで心して聴けるということを言っていた。私はほんとうに欲しい曲だけ手元に集まっていればいいと思うようになって、音楽を買うこととCDをブツとして買う物欲がもう乖離している。でも好きなものだけ抜粋するその聞き方も好みに包囲されてしまうのかもなとも思った。

いま本の栞がなくてチョコの包み紙を挟んでいるのを知るはずのない西野くんが思いがけずイタリア土産のとてもいい栞をくれた。4人のなかで西野くんが唯一親に、いい父親になっていた。西野くんは嫌味のない正しい軸を持っていて、いつもそういう言葉と声で話す。

西崎くんは学生の頃ダンスをしていて、踊りはとてもいいけれど歌もうたう。自分の歌を弾き語りしてくれた。数年前にも一度聞いてちょっと泣きそうになった曲でサビはこんな歌詞。

僕の頭は破壊された動物園 魔法の檻が壊れたあとでぐらぐらになったものたち 大切なところをかじられたまま 風に吹かれて笑ってら

西崎くんはいまCDを作ったり舞台をやったりしているわけではないのだけれど、この曲に全部混めてしまったんではないかと思うくらいこの人の良くも悪くもどうしようもなさとやさしさから結晶したものに思えた。

寺田くんの音楽がもっと多くの人に聞かれるといいし、世の中がどんなになってもそれぞれが詩人としての生をまっとうできますように。