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流出雑記 

2010/1/30

2010年01月30日 | Weblog
この頃描いている。
自分にとって重要なイメージを、やはりずっと肉眼で見たいと思っているのだと確信する。
体の内側に異質なものが結合し癒着し溶解しつつある、何かの萌芽の衝動と、諸要素が混在しながらある風景。
これは風景だったのだ。
画面を見ている目は外的に表出する色や線を捉えているが、具体的なモチーフも下絵もない。それでも何かに統率され、ぶらされながら表れてくる。
様々な段階からの意識の要請。私は朧げに何かを選んでいる。朧げなのは判断基準が外界に対するときの自我によるものではなく、もう少し薄暗い意識とのやりとりが含まれるからだろうと思う。

外界との関係性を編むと同時に、それと出来るだけ離れた自己と対面する時間を持つことに必要性を感じる。
普段この世界で社会的な役割を担い、接続しながら生きている。その接続先は資本主義経済であり、そこにつながるものに価値が置かれる。
資本主義が個人の心の領域に投資を始め、その構造に甘んじてこのような私的な言葉のネットワーク、氾濫に飛び込んでいる中で、息継ぎをするときにふとブログというものを書くことに疑問をおぼえる。
それでも書くことで気付くこと、また言葉を受けとるとき、そこからさらに言葉と思考が展開されるとき、こういう場所から耕された豊かさもある、と言える。
何でもそうだが、どういうものとして、ある対象と自分とを接続させるかでその意味は変わる。
もっと言葉を、広く支根をはるイメージをこの網状で展開出来ればと思う。
私にはまだ学ばなければいけないことがありすぎるが、常に幅広い振動を微細に感じとること、それを表出できる柔軟さを自分の精神にも肉体にも持っていたい。

体の内的なイメージと植物のイメージ、静脈や動脈に葉脈がはしる、光合成、太陽光を浴びる皮膚に日光と共に光速の言葉や図像が通過する。葉緑体の粒にそれらが一瞬映る。そんな光景が思い浮かんだ。

真夜中は~

2010年01月08日 | Weblog
4時過ぎ就寝12時起床の生活リズムが馴染んだ体に久々の7時起きは試練である。
今夜は2時前に横たわったが、まだ目が冴えているのと起きれるかどうかの不安で一向に眠れず。
3時半頃寝返りを打つのにも飽きて寝酒でも飲んでみようと思い立つ。
強くないが酒類のなかで日本酒と梅酒は少し飲める。
家にあった「呉春」という日本酒。これは大学時代の後輩から結婚祝いに頂いたもの。
沢山の銘柄を飲んでいないので怪しい評価だが、今年の正月に飲んだ福井の「黒龍」は水のような角のない飲み口でするする入ってしまい許容量に至り昼間からコタツに沈没。

飲むと言ってもおちょこ一杯、塩辛いものも欲しくなり、冷蔵庫から塩昆布と福さ屋の明太子を一切れつまみ出す。
お酒の甘みと塩気を交互にシーンとした居間でちびちび飲む。
明太子のせいで米がほしくなった。この欲求を朝まで耐えるのは困難と判断し、フライング朝ご飯にする。
また冷蔵庫を開けてタッパーのご飯をチンして茶碗に盛り、湯気のたったご飯にピンクの明太子。
岡崎京子の『PINK』でユミちゃんが深夜に、「おしょう油とさとうの卵焼きでもつくろ」と言うところを思い出した。
この漫画に出てくる食べ物の描写やユミちゃんが食べているところが好きだ。
喫茶店でズルズルすするオレンジジュース、妹と夜食に食べるラーメン、マクビティのチョコビスケットにピーナツバターとバナナの薄切りをのせる、ハルヲ君と朝食の目玉焼きのかたさ加減、昼間にひとりでかじる櫛切りのりんご、レストランでステーキ肉、大嫌いな継母のアップルパイ…。様々な事情の間に食べ物がある。

深夜の明太子ご飯は格別。海苔もあった…あとしょう油しょう油、と冷えきった台所をかさこそ往復する。

ナンバーガールの好きな曲、真夜中は何食ってもうまいと歌う。

そうこうしている内に朝刊届いて5時。

胃と共に過ごす

2010年01月06日 | Weblog
断食してみた。
年末年始で胃がかなり疲れていた為、思い立って始めた。
断食と言っても何も食べないのではなく、レモネードと黒砂糖は適度にとる。
1日目は普段の食事から急に切り替わるので空腹感がある。黒砂糖摂取量も1日目が一番多かった。そうは言っても砂糖の塊なのでそれほどたくさんは欲しくならない。
2日目の昼、強い空腹感はない。自転車で坂を上がる途中はいつもよりペダルが重く感じられた。料理に嗅覚を使ってないから、いつもより鼻が利くだろうかと調香してみる。いつもよりどうかはよくわからなかったが、イメージに近いものはそれほど迷わず組み立てられた。
ほかにはすぐに眠くなる、常から低体温な上に体温が下がるので朝起きられないなど。
3日目の朝、起きたらちょっとふらついた。
もう1日粘ろうと思っていたが、ダーリンが昼食に卵焼きを焼くにおいと、ごはんの湯気のいいにおいにやられて、もういいやと昼過ぎに回復食のお粥を焚いた。
白粥を少しづつ食べる。米がしみじみ有り難いものに感じる。祖母の塩昆布をかじると、塩分がおいしい。黒砂糖の甘みに飽き始めていた舌は塩気と再会を果たして喜ばしく、白粥もさらにおいしい。
それにしても料理をする時間、食べることのない日々はなんて彩りに欠けていたことか。
料理自体は大晦日実家に帰ってからほとんどしていなかったので殊更、早速何か作りたくなり、ダーリンが買ってきた卵で、正月に福井の叔父から教わった半熟煮卵を仕込み、午後から自転車で買い物へ。
久々にカゴを下げて足を踏み入れたスーパーの生鮮食品売り場はまるで楽園のように思われた。
年末折れた菜箸をシリコン製で先が赤いのに新調、丸大根、里芋、金時人参、鶏、牛乳、グレープフルーツジュース等買って帰る。

大根、里芋、人参、鶏を煮る。
夕飯は白味噌雑煮。
我が家ではいつも煮しめの具を雑煮の中に入れていたので、雑煮が食べたい場合、まずそれを作る必要がある。
皮を剥くのも切るのもアクを取るのも楽しい。
福井の家では雑煮は鰹出汁に薄切りの蕪が浮いており、餅が変わっていて、米の粒の入った草餅。これは福井で一般的というわけではなく、相模家が好んで食べているもの。その草餅を貰ってきたので白味噌雑煮に入れてみる。
白いとろんとした碗の中に金時人参の朱色掛かった濃い赤と草餅の緑。
あと母から貰った黒豆の小鉢。いろんな黒豆を食べたが、母の黒豆よりふっくら艶やかに炊けているものは無い。
世の中には意図的に殆ど食べないで生きている人もいるらしいが、私にはそんなの絶対無理だと思った。

2010/1/2

2010年01月02日 | Weblog
窓の外から水の音が絶えず聞こえる。家の外は雪景色。
正月、福井、深夜
皆寝静まった家。昨年末から娘となった私に母が用意してくれたパジャマを着て布団の中、豆電球のオレンジを眺めながら思い出していたこと。

小さい頃、私は寝付きが悪かった。うす暗い部屋で目を開けていると見える砂嵐のようなざらざらした視界、この粒はなんだろうとぼんやり思っていることがよくあった。
時々、そのまま視界が後頭部の方へ、さーっと引いて行って、宇宙からの地球が見えた。
私はそこに住んでいるということは本やテレビで見て知っている。この丸い星の上、ものすごい数の人間の中に私がいる。
でも次にいつも呪文のような言葉が浮かんでくる、今ってなに私ってなに。
そのとき私はもしかしたら本の中の登場人物、もしくは誰かに操られており、起こることはもう全て決まっているのかも知れないと思った。でもそれは父や母に聞いてもわからないことはなんとなく知っている。
今ってなに私ってなに。一瞬視界が真空のように白くなる。そのとき隣で寝ている妹、父、母のことも居なくなり、私だけになる。このときの投げ出された感覚はお化けや幽霊が怖いのとは異質な恐怖、私が今ここにあることをどうすればいい?という底無しの問いに射止められたような数十秒間。それはあっと思うとシャットダウンされて薄暗い部屋と砂嵐の視界に戻る。この先を考えると気が狂ってしまうのだと思った。
このことを母に説明しようと試みたが、幼稚園児の言葉ではどうにもうまく言えなかった。
この真空感覚は故意にやろうと思ってもうまくいかないことが多く、どちらかというとぼーっとしていると訪れた。
小学校高学年の頃、友達の家のガレージでバドミントンをしているとき急に訪れたのが最後だった。このときも友達に説明しようとしたがやはりうまく行かなかった

大人になってからもう一度、半分夢の中にいる時に試したことがあった。
そのときは白い空間が割れて上下左右の分からない真っ暗な所を飛んでいた。飛んでいると分かるのは風をきっているからで、体温と同じくらいの生ぬるい無臭の風だった。

今思えばあの真空感覚、底なしの問いは、今の私を形成する核となっているのだろう。それはどうあっても孤独であるということと同意だ。
ただ生まれて死んでいく私の問題である。親兄弟、友人、恋人、伴侶がいようと関係のないことで、例えば独り身でいるということが孤独なのではない。孤独なんて言うまでもなく、主義として孤独をいうのはくだらない。
底なしの問いに答えを求める欲望、その手探りの手つきで他者に触れ、そのことで私の形を自覚する。今ってなに私ってなに、はその関係の中に常に見いだし続ける方法以外私には思いつかない。
体を伴っているからそれが可能であるが、体がある為に生じる、触れるものがないときの寂しさ、身の置きどころのなさ、誤魔化しのきかない感覚というのを同時に誰でも持っている。
無数の人間の中に自分にとって特別な人を見つければ当然相手も体を伴っている。病むこともあれば確実に老いていく体を。若ければそのことの厄介さから幾分無責任でいられる時期もある。しかし人は苦しむのも泣くのも、いてもたってもいられなくなるのも体である。想念で相手を想うことは結局自分の為に過ぎない。
だから自他ともに体を引き受けること。書くのは簡単だが、これは一生掛かりの課題。
単に表面的なイメージを搾取するのではなく、体の芯から神話(フィクション)を作り上げること、底なしの問いにずっと向かい続けること。鋳型のない未来に体ごと。