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流出雑記 

2015/8/31

2015年08月31日 | Weblog
雨だとわかっていても干さなければならないものは干すし、干しさえすればいずれ乾く摂理なのだから。

朝起きたら夫から昨夜3:25に送信されたサンドウィッチが食べたいというLINEが入っていた。

それで冷凍してあった4枚切りの食パン2枚をそれぞれスライスして8枚切りの状態にしようとして凍ったままパンきり包丁でゴリゴリ切ったら、2枚とも下にいくにつれて片方が薄くなってしまったけれど、具を挟める状態にはなった。玉ねぎをスライスする。冷蔵庫にあったベーコンを千切りにして香ばしくなるまで炒め、塩コショウして溶いた卵を流し、スクランブルにして火を止め、あら熱が取れたらケチャップとマヨネーズで和えておく。パンをトースターで焼いてバターを塗り、炒めたものを乗せ、玉ねぎを乗せ、マヨネーズでその上に※を書く。この※を書くのは学生の頃3ヶ月だけ働いた名曲喫茶でそう教わった。※の上にパン、これを声に出して読むと、米の上にパン、となるけれど、そんなふうに炭水化物を重ねている訳ではなく、※の上にパンを乗せ軽く押さえて半分に切る。

そして3:25にサンドウィッチを食べたいと思ったまま眠りについた人が目覚めてサンドウィッチにありついたのを見る。

返却日の過ぎた本があったので大学の図書館に返しに行く。
気になっていた本を何冊か取ってきて読む。福永信さんの「コップとコッペパンとペン」湯気のようなつかめなさをおもしろく思えるまでに時間がかかり、もう一つの短編はデパートの更衣室のカーテン越しに微妙にズレたやりとりからはじまる話でこっちの方が面白く読めたのは、どういう作風かを踏まえたあと煮ても焼いてもスムーズに喉を通らなさそうでも飲みこむことには慣れたからかも知れない。

雨は細かい粒が時々あたる程度に、だからほぼ止んでいる部類に入る降り方をしていた。カップの自販機で濁りのある甘いコーヒーではないものが飲みたいと探し、それに該当したアイスココアを買って、大学の山を上まで登る。山登りの趣味はないけれど気が向いたら登れるくらいの高いところ、命に別条のない登山
は好き。
大学にいるあいだ昼はいつも人のいなさそうな上の方や別館の屋上にいたけれどそんなことやってないでサークルに入ったりしてキャンパスライフを満喫すれば他学科の友達もできて良かっただろうに、そういうふうには動かない自分の初期設定をいつも残念に思う。

見晴らしのいいところに出て飲むことを思いついたのはよかったが、どこもかしこも濡れていて座るところがなかった。




2015/8/30

2015年08月30日 | Weblog
ただ血の道を歩くことにさえ血道をあげるくせに、肝を潰しては裏漉してパテにしようと画策したり、総毛立っては毛をむしって羽毛布団をこしらえるようなことばかり日がな一日頭に浮かび、浮腫んだ妄想の上で狸寝入りをしながら、もたれかかってくる胃袋の消化活動を盗み見ていた。
しっかりと脂のある三枚肉を砂糖や醤油で調味したものを胃袋に与えると、喜んで袋のなかに収めたけれど、時間が経つほどに脂気の重たさに足を取られて寝付かれず、延々ぽたぽたと寝返りをうっていた。
そういうときには確か酸味のあるものがいいと聞いた記憶を手繰り寄せ、流しの下の戸棚から米酢を取ってきて胃袋の口をひらいて注いでやった。すると酸が強すぎたのか胃は急激に縮みはじめ、恐いくらいに縮みあがり恐縮しきって最後には手のひらに乗る大きさの石のようになってしまった。
元に戻そうとアイロンをあててみたけれど手遅れで、胃袋は完全に石化して二度と元通りになる気配がなかった。生まれてこのかた一緒に暮らしてきた胃袋だったのに。
でもその珊瑚色の石のようになった胃袋は三枚肉の脂気も手伝って艶めいてとても美しく、試しにヤスリをかけて表面を磨いてみたら珠のようにまろやかな曲面の鉱物になった。穴をあけ、ペンダントにして首から下げてみたら胃袋はなかなかすてきな装飾品に転生した。これが元々胃袋だと気付く人はまずいない。なんの石ですかとよく聞かれるようになったので名前を考え、胃袋だからストマイトと名付けた。

2015/8/29

2015年08月29日 | Weblog
かき氷、盆踊り、スイカ、あんみつ、風物詩の心残りを制覇した夏の終わり。
うちの近所で毎年盆踊りをしているのは知っていたけれど、仕事だったりそれほど興味がなかったりで行ったことがないまま移り住んで7年目の今年、なんとなく行ってみた。

会場に子供が目立つのは、かき氷と綿がしをタダでもらえるからで、それに混じって子供の保護者、浴衣の人や衣装をつけた保存会の人。
紅葉音頭というこの地域と上賀茂の2カ所でしか踊られていない踊りがあって、京都市の無形民俗文化財に指定されているらしい。昔は夜通しやっていたのだろうけど今は7時から9時頃まで。

盆踊りにさほど興味がないのは、子供の頃、実家の辺りでやっていた盆踊りというのは近くの盲老人ホームの敷地で地蔵盆の日の夜に開催される一種の慰安行事のようになっていて、スピーカーから東京音頭が流れる。
一応櫓も立って太鼓が置かれたりしているけれど、叩く人はおらず時々不意に鳴るのは子供のいたずらでだった。施設の人に手を引かれた老人が櫓を2、3周して休憩、という感じで近隣住民は子供の監視と夕涼みに来ているふうで、まともに踊っている人はほぼいない。だから盆踊りとはなんとなく手をひらひらさせて櫓の周りを歩く程度のものと思い、踊り自体に魅せられるような機会がなかった。という冴えない記憶だった盆踊りに久々立ち会って、ちゃんとしたステップがあったことを知る。振りはそんなに複雑ではない6パターンくらいの繰り返し。保存会の人でなくても手練れと思われる女性も何人かいて、ちょっとした間の取り方や手の返しが上手い。中には外国人も混ざっていて、見よう見まねで手練れのお姉さんについて踊る小学生の女の子たちも加わる。さらにノリノリのおっちゃんなどで、踊りの輪は自然と広がっていく。それは見ていて楽しいものだった。歌は櫓にいるおっちゃんが交代しながら鐘を打ち歌い続ける。
私は見ていて輪に入るまでに1時間くらいかかったけれど、入ることができた。終わりの10分前くらいだった。
毎年8月27日に開催されるらしい。
来年はもうちょっと早い段階から輪に入って踊ってみたい。



2015/8/27

2015年08月27日 | Weblog
台風で飛ばされてきたサルスベリのピンク色が玄関先に溜まっている。乾燥した蝉の死骸をほうきの先で側溝に落とし、夏の始まりに一輪だけ咲いた半夏生のいつが咲き終わりなのかわからない姿を見、酷暑にもめげず咲き続けたばらは秋に向けて静かに勢い付いて新しい枝を伸ばしている。クロード モネの鉢にどこからか飛んできた種から育った小松菜に似たなんだかわからない植物が生えてきた。小松菜に似た雑草 と検索してみたりしたけれど、何なのか未だにわからない。花でも咲けばもう少し的を得た調べようもあると思ってそのままにしている。

夏に駐車場や空き地の隅のまともに土もないようなところから、異様に大きな葉の植物が生えているのを時々見かける。突然変異の奇形に見えるというか、ものすごい規格外なサイズ感で不気味だと思っていたけれどそれが桐の幼木であることを最近知った。
桐箪笥、桐箱、桐の紋、なんとなく格式高いイメージなのに自販機と並んで不用意に生えてみたり、一見してあの茎がやがて幹になって家具が作れる材木になるとは思えない。葉が異様に大きいのは幼木の間だけで成長すると常識的な葉っぱサイズになるらしい。つまりこれは幼年期における木の無邪気が具現化した現象でいっそ無邪木と書いて、そう呼んでも差し支えないように思う。

あのでかい葉っぱなに?
あれは桐の無邪木や。

というふうに。

久々に明け方まで寝られず、連日の20分×8の立ちポーズはやる前から堪える。

2015/8/26

2015年08月26日 | Weblog
目を皿のようにして
皿に目を盛り付けて
付け合せの野菜を
彩りよくあしらい
試行錯誤を繰り返した
目のためのソースを
点眼したこの一皿
完璧な状態で供することに
ほぼ命を懸けたのに
厨房から食堂へ
運んで行くときに
あろうことか
皿から目が転げ落ちた

床に落ちた衝撃で
網膜が破れ
硝子体がとろとろ
漏れだした目を
目の当たりにする

でも目というものは
眼球は
文字通り球とつく
球体だから
どう転んでも
一所に留まるには不向きな形で
おおむね転がり落ちる運命にあるでしょう

そんな自己弁護を
一瞬でも頭に過ぎらせた自分に
あと一球使ってしまえば
亡 くす
目 と書いてすなわち
盲だと戒め

ああ眼帯の奥が疼く
落下した目の痛みを
眼窩が悼んでいる
そのような痛みは
幻視痛と呼ばれる



2015/8/25

2015年08月25日 | Weblog

朝から日常の輪郭を歪める勢いの風と音。
2階の東と西の窓を網戸にしておくと突風が部屋の中を、階段を駆け下り1階の空気まで動かす。台風の日は不謹慎でもわくわくするのは、まるで日々に沈殿した憂いものまで暴力的に吹き飛ばす力を持った非日常の到来、そんな目を持ったものに見られている気配を感じるからだろうか。台風の目はくっきりしているほどたしか強かったんじゃなかったか。目力が強いほど。はるか上空の目は目視できる生き物の生活風景、そのいとなみに配慮の余地無く能力のすべてを発散させなければ終われない。荒れ狂うさまを見ていると、水や風には生き物に丁度いい配慮なんてものは当然ない。気象に感情はないだろうけれど、暴風雨が怒りと受け止められる感受性の人間らしさ。

固められた護岸を大人しく流れる川の水や、蛇口から意のままに出てくる水や、エアコンやドライヤーのスイッチひとつで便利な使い慣れた風のそもそもの状態というか、自然のなかでの振舞いは全然手に負えないんだそう言えばと思いながら夕方、仕事帰りの自転車が向かい風でほんとうに進まない。何が鳴っているのかわからないけれど怖いような音と共に風が塊でぶつかってくる。高い木をしならせ、自転車や看板やプラスチックの鉢植え、軒先に置かれたウエルカムと書いた人形などを倒し、どこから飛んで来たのか不思議になるくらいの太い枝が道路にごろりと転がっていたりする。音にするとビュュゴゴウーンという感じだけれど、この擬音語じゃ怖さが全然伝わらない。そんな風ニモ負ケずスーパーに寄って合い挽き肉と玉ねぎを買い「今日の夕飯はハンバーグ」の日常で抵抗してみる。咲いているばらを全部切って屋内に引き入れたら豪華な感じになった。



2015/8/24

2015年08月24日 | Weblog
飛んで火に入る
日の入りを待って
水平線をうつしとる
塩の結晶
結んでひらいて
触れて弾けるカタバミの種

飛んで火に入る
懐の無私
日焼けのあとを剥がしとる
焼き付く陰の
面影焼べて
引く手伸べる手営火の調べ

2015/8/23

2015年08月23日 | Weblog
髪の毛から嗅ぎ慣れないバニラのにおいがするのは、昨夜実家に一泊していつもとは違うシャンプーを使ったからで、実家からの方が翌日の奈良方面の仕事に出るのに都合が良かったし、月に一度は甥のぴよに会いたくなって帰りたくなる。
夕方帰ってぴよにごはんをあげる。ひとくちめは格別のようで、食べて上半身を左右に揺する。そんな屈託のない踊りを目の当たりにすることは喜び以外の何ものでもない。教えられなくても踊りは既に体にあることをぴよは見せてくれる。この世に現れて約400日の人。なんでもよく食べるけれど、おかずが2種類あるときは交互にあげないとなぜか怒る。器のごはんがなくなっても足りないとイタと言って手を合わせる。これはいただきますの意味で教えられたのだけれど、ぴよはこうすると食べ物がもらえると思っているらしい。そんなことをされたら可愛くて無碍にできないのでさらに米粉パンをあげたらそれも全部食べてしまった。
台所で妹と春巻きを巻いて揚げる。
大人の夕飯より先に食べ終わったぴよは皆の食事中テーブルの足元を行ったり来たり、テーブルの上に手を伸ばしたかと思ったら、調味料ラックから胡椒の瓶を取って来て転がしたり、別のおもちゃに突然集中し、ふらふら立ち上がって机の角に頭をぶつけて泣いたりしている。

ぴよの横で寝る。
小さいけど心臓が立派に動いていることに感動する。


2015/8/19~20

2015年08月22日 | Weblog
城崎温泉にはじめて行った。
わざわざ休んで旅行やレジャーがどうも苦手だけれど、城崎にはアートセンターがあり、そこで滞在制作をしている作品のショーイングを見るという名目で温泉地へ。

京都と兵庫は近いようで城崎までは下道で4時間くらいかかる。道中道の駅に寄ってよもぎ餅を買ったり、日本一と書いてあるたい焼きに寄ったり、何度かの休憩をはさんだから実際は5時間近く移動に使った。
風景はほぼずっと緑。亀岡、丹波、但馬。豊岡市は広く山の幸も海の幸も豊富にある。山路、田畑に重たい屋根の家々。代々農家や林業で暮らしてきた人と土地との密着はこの屋根の重さから感じる。白、ピンク、濃いピンクのサルスベリが盛んに咲いて、日差しの鋭さも真夏のピークを過ぎて少しずつ丸みを帯びてきた。
いくつもの山をくぐって海に出る。

お盆を過ぎて海水浴場も閑散としている。スピーカーから浜辺の乾いた音質でカラカラ流れてくる音楽を久々に聞いた。
道の駅で買ったお弁当を海辺で食べた。海風にあおられてバランが飛ばされる。

チェックインの時刻になって宿へ。素泊まり4000円。大きな旅館が若者向けに低料金で泊まれる部屋を出していて、安いかわりに布団を敷くのはセルフサービス。部屋には箱のティッシュもお茶もない。でも部屋は広く、関東方面に行ったときに泊まるようなベッドがきちきちに収まっているビジネスホテルの数倍いい。床の間があり、窓際には椅子と机もある。シーツにはちゃんと糊がきいているし、浴衣と下駄は貸してくれる。部屋に浴室はないので券を買って外湯に入る。1泊350円で入り放題。
とりあえず一番近くの地蔵湯というところに行った。4時過ぎで人もまばら。地元のおばちゃんがふたり。温泉というか、雰囲気は銭湯でお湯が熱い。長時間全身浸かれないのでへりに座ってひざ下を浸ける。
そこへ若い女の子がひとり入ってきた。ハタチ前後くらい。彼女は風呂場に浴衣を着たまま入ってきた。最近の温泉地ではそういうこともあるんだろうかと眺めていたら、それを見たおばちゃんらが、お姉ちゃん、あんた浴衣着たまま入ってきたらあかんで、という声を風呂場にこだまさせ、女の子はびくっとして小さな会釈をして出て行き、そのあと戻ってこなかった。
おばちゃんらは最近の若い子にはびっくりするわ、あそこの旅館に泊まってる子やわ、浴衣の柄見たらどこの客かすぐわかる、戻ってこうへんかったな、よっぽど恥ずかしかったんちゃうかと話していたけれど、やっぱり彼女は中国か韓国からの海外旅行者だったんじゃないだろうかと思う。彼女が来たとき脱衣所には誰もいなかったから、ほんとに温泉がはじめてならわからないかも知れない。その上わからない言葉でいきなり怒鳴られて面食らったんじゃないかと気になった。

早起きしたので眠くなり、部屋に帰ってちょっと寝て、夕方アートセンターへ。温泉街の中心地の街並みはリノベーションされた感じで、店舗自体は今っぽい店の方が目立つ。そしてやたらソフトクリームを売っている。賑やかな辺りを抜けて山手に歩いて行くと、想像していたよりずっと立派なアートセンターがあらわれる。

岡田さんの新作、野球を題材にした演劇のショーイング。台本片手に読まれるけれど、それは覚えられなかったのでは当然なく、早く覚えてうまく喋れるようになることが目的ではなくて、言葉からイメージを持つことを重視するために、台本を、書かれた言葉を手放すことを急かさないのだと思う。イメージをとにかくしっかり持ってほしいということは今年の3月タイでのクリエーションのときにもよく言われた。
韓国と日本の俳優男女ふたりずつ。日本の俳優のひとりはねじさんでいい役どころをやっていた。楽しそうだった。
終わってから施設内を見せてもらい、打ち上げにも混ぜてもらいちょっと話す。

日付が変わった頃戻る。居酒屋のようなものはなく、温泉街は寝静まっている。なのでこれ以降はどこも部屋飲みする他なく、そのためコンビニのおつまみがそうとう充実している。発泡酒は売っていない。

翌朝は朝風呂。
チェックアウトしてから城崎温泉の近くに玄武洞という採石場跡があるので寄った。これがなかなかすごくて。
玄武岩というのは亀甲の形に結晶する性質があるらしく、溶岩が流れて固まって冷えていくときにその流れの方向性を保ったままいく筋もの六角形が形成され、岩肌全面にびっしりひしめいている。
そもそもほぼ同じ形をしているから加工するには都合がいいらしい。そんな訳で束になってる部分を手前の方から採掘していった跡はめくれて、その様子はスケールの大きさに加え、均一な形状は人工物の様相なのに自然物で、しかも圧倒的な質量の群になっていて、精巧さとコントロールされてない勢いが同居する模様にはもはやぞっとした。


海辺だからとお昼は海鮮丼を食べて帰ってきたのに、夜は国道沿いの回転寿司に入ってしまう節操のなさ。魚が尾を引いて。夜には雨が降ってきた。



2015/8/21

2015年08月21日 | Weblog
我々には
誤読以外に
一体何ができるのか
五徳の上の鍋のなか
煮える蒟蒻
根も葉もない
事実無根の
灰汁を取り
誤読時々誤爆する
ミスリーディング公演打って
過ちは直ちに土に埋め
そうすればまた
軟体たちが生えてきて
大地に弾力を分泌し
例え弾みがつきすぎて
舞い上がったのちに
イカの骨まで折ることは
誤算であったとしても
着地点は
いつも裏切らない
なぜなら着地点は
足の裏の接触に
何も期待していないのだから
いくらでも誤飲して飲み下す
健啖家たれ