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流出雑記 

2015/2/28 バンコク

2015年02月28日 | Weblog
果物が食べたい、特にパイナップルだと思いながら市場を歩いて、果物屋が連なっているゾーンに来た。
カットしたパイナップルを見つけて近づくと、4切くらい入っている袋を遠ざけられ、丸のまま一個を勧められた。一個は多いと思っていたら、45バーツなのを40バーツにまけるよと言ってくれたのでつい買ってしまう。買うと切ってくれる。結構ずっしり重い。2日間毎朝、パイナップルでお腹いっぱいになる量はあった。

甘いマンゴーより、グリーンのマンゴーをスティック状に切って、甘塩っぱいソースを付けて食べるのをよく見かける。甘いマンゴーが食べたくて見つけて買ったら、それはマンゴー単品じゃなくて、ココナッツミルクで炊いた甘いごはんを添え、ココナッツミルクのソースをかけて食べるカオニャオマムアンというやつだった。おやつなのかごはんなのか。感覚的にはおはぎだろうか。
けっこうもたっとお腹にたまるけれど、おいしい。

まだ食べていないものもいっぱいあるし、タイと言ってもバンコクしか知らない。けれどここにいるのもあと数日。

つながれたりしていない犬が通りのあちこちに寝そべっている。物乞いしているおばあさんや肘から先のないおじさんが歩道橋に毎日座っている。夜に路上の店で飲んでいたら、スピーカーを背負ってギターを弾きながら男性がやってくる。彼のお母さんくらいの年齢の人に手を引かれて歩いてくる、つまり目の見えない音楽家がそうやって日銭を稼いでいるのにすれ違ったりする。
山積みの雑貨、服、靴。食べ物も生き物もその中でもちろん人も、むき出しな感じがする。都市部はめちゃくちゃ都会なんだけど、それでも完全にコンクリートで塗り固められていないような、塗っても割って生えてくるような、生きてるものの勢いがずっと生。

ひとつの国のある地域にいるだけで、これだけ多様なものに溢れていることを知れるのだから、長生きはした方がいいだろうと思う。

今日の夜公演は初日を迎える。


2015/2/27 バンコクですでに5日目

2015年02月28日 | Weblog
またバンコクに来ている。

来る前に風邪をひき、喉をやられて来てから2日ほど体調が悪かった。たぶん飛行機に乗っているあいだ熱があったと思う。
バンコクは先月来たときよりも確実に暑くなっている。たくさん水を飲み、果物を食べ、暑さによる発汗にのせてはやく風邪を体から絞り出してしまいたい。

22日にバンコク入りして、公演は28日。再演という名の新作に近いものだから短期間の稽古でテキストを覚え、動きにして、さらに空間と他の要素との関わりのあたりをつけなければいけない。今日、27日。つまり明日が本番。気付けば。

新しい4つのテキスト。最初はとりあえず覚えることに急き立てられていたけれど、発声しながら動きをつけていくと動きごと言葉が入ってくる。動きのために言葉を利用するのではなく、でも言葉の説明に動きを従属させるのでもない。ざっくりした動き、でも抽象化とは違う。
毎回その調整が難しい。

タイでは毎日屋台で食べ物を買う。日本の、お祭りの屋台みたいなのではなくて、常時食べ物の屋台があちこちに出ている。
先月初めて来たときは、不慣れで興味のあるものにも手を伸ばし辛い感じがあったけれど、ようやく慣れてきて、屋台がたくさん集まる市場のどこにどの店があるかもなんとなく把握できるようになった。店の人の顔も少し覚えた。

店はいろいろで、スープ類を専門に売っている店、おかずをたくさん売っている店、炊いたごはんだけ売っている店。タイ米とタイのもち米、カオニャオがある。赤米のもち米も。揚げ物専門店、サラダ専門店、スイーツ専門店。調理したものあるけれど、八百屋も肉屋もある。
肉は鶏と豚が主で、これも屋台で売られている。日本じゃあれだけ鶏肉は傷みやすいからって冷やして管理するのに、そんな必要本当にあるのかと思うくらい常温の、それも気温30度超えるところで吊るされて、あるいは山積みで売られている。でも屋台のものを食べても当たったり今のところ全然していない。

今日は屋台に入って初めてひとりで麺を食べてみた。上にはたくさんトッピングが乗っている。蒸し鶏に、鶏の関節部を煮たコラーゲン、煮茄子のようなもの、赤茶色の謎の塊。豆腐のような雰囲気。でも原料は大豆じゃなさそうで、色からして血を固めたようなものかとちょっと構えたけど、食べるとレバーみたいな風味は全然ない。だからより正体は不明だった。

細い米の麺でスープは透明の赤味が強い醤油色。上にはパラっとパクチーがかかっている。おいしい。30バーツ。120円くらい。だいたい屋台で米とおかずを買っても50バーツ以内で収まる。一食それくらいで済んで豊富に選べるから、タイにいたら自炊しなくなるだろう。タイでは台所のない家があるのも普通だというのが頷ける。揚げ油なんて出してられない。
食べ物が身近で、気軽。目の前で調理され、作った人が売っている。
コンビニもあるにはあるけど、間違いなく屋台の食べ物の方がうまいから、コンビニの出現によって屋台文化が廃れるようなことはまずなさそう。
タイのコンビニは、日本で使うみたいにお昼ごはんとか食べ物を買うというより、日用品とか袋菓子の買える便利な商店のような雰囲気がある。洗剤なんかはすごく品揃えがいい。それに比べて明らかに食べ物には気合いが入っていない。
でも一応おにぎりをひとつ試してみた。スパイシーなんとかサーモンと書いてあり、三角の形状は同じだけれど、ごはんは軽く酢飯だった。具はタイの炒め物によくある味。これ日本で売ってても買うなと思う。


2015/2/19

2015年02月19日 | Weblog
時々ホワイトバックのところで仕事する。部屋の角が丸くなっていてかつ白いからどこが行き止まりかわからない。ホワイトバックとブラックボックス。どっちも非日常の設えで人を見るための場所だけど欲望の矛先とフィクションの発生地点が違う。
白いスタジオにいると、明るさにいろんなものが飛ばされる感じがする。漂白、脱臭。抽出したいイメージ以外の生にまつわる諸要素をむしろフィクションとするように、形状として光にパッケージングされる感じ。粘膜や体液は関係なく、強制的なポジティブさに満ちていて、光は全面に反射し陰る隙がない。

こないだKAATのホールで見たインドネシアのダンス「Cry Jailolo」。
冒頭、暗転しているところから足踏みの音だけがまず聞こえてくる。結構音だけの時間があった後、ゆっくり上からの明かりが入り、音の発信源が浮かび上がってくる。
なにもない舞台の真ん中で客席の方を向き足踏みしている上半身裸で赤いズボンのひとりの男性の姿が見えてくる。たったひとりの動きが作り出す音と振動だけで1300席の大劇場が満ちている時間はとても良かった。
例えばこの作品を野外で見たとしたらまた違った感想を持つだろう。踏みしめる大地とのつながりとかを見てとってしまいそう。舞台上で、ひとりで足踏みする人を外界から切り離してひとりだけにして見る時間、劇をするための場所になんの役もまとわずに立って孤独に足踏みするさまが良かった。
ピチェの「Black&White」もKAATで見た。この作品のリハをバンコクのピチェの野外スタジオで一度見ていた。衣装も着けず、照明もない状態で外のいろんな音がするし風も吹く。いい時間だった。劇場で改めて見て、生演奏も照明による効果もあり輝く衣装をまとっている。硬質で隙のない作品。だからこそ野外で見るのがよかったのかも知れない。
劇場でしか作り出すことの出来ない時間と劇場では作り出せない時間がある。どちらがいいというものではなくて、特性がある。

2015/2/3

2015年02月03日 | Weblog

連日稽古。火曜だけ稽古場がないので休みになるけれど仕事。

稽古のあと家に帰って夕食を済ませたら、もうコタツから出るのが億劫で、どうしても入りたい風呂にだけは入るけれどその他のことをする余力がない。それで日記も滞っている。

昨日は稽古後ケットちゃんのウィークリーの近くにある吉田神社の節分祭に行った。日本の祭り、夜店体験は楽しいんじゃないかと思った。しかしものすごい人混みで、出店で焼きそばなど少し食べたけれどどっちかというと疲れたかも知れない。もち入りの大判焼きは不発だった様子。ケットちゃんは携帯で射的や金魚すくいの写真を撮ったり、ピカチュウの飴細工を見ていた。ピカチュウ4hundredと言ったら買わなかった。

吉田神社の節分祭、今年は3日の火炉祭では火を焚かないそうで、その理由が燃やした後の灰の処理方法で市ともめたことによるらしい。例年トラックの荷台に灰を積んでゴミ処理場まで運んでいたのを灰が舞うという理由で市が灰をゴミ袋に詰めて出すように要請した。けれど、神社のほうではそのための人手と予算を確保できないということで今年は辞めになったらしい。どちらかの努力でどうにかなりそうなのにどうにもならなかったんだろうか。そのニュースは先月、ちょうどタイから帰国した日の早朝にツイッターで知った。同じタイムライン上にほんやら堂が火事で全焼したというニュースを目にした。燃えるべきところに火は届かず、燃えてはならないところが燃えてしまっていると思った。

普段ガスコンロで使う火をこれが家を丸ごと焼き尽くす力のあるものとして見ていない。炒めたり煮たりするための道具のように扱っている。自力で火種は起こせないのに。制御できない火を見ること、改めて火のことを思うのに裸火を見るのは重要なのではないかと思う。でもそれは火事でないほうがいい。だから。

 

今日の仕事は大阪八尾。去年から通っている絵描きのアトリエ。広い庭には大きなザクロの木が植わっていて、秋には行く度にザクロをもらった。最初は物珍しさでうれしかったけれど、ザクロは剥くのが大変なことがわかってきて後半は遠慮したい気持ちになるくらいだった。他にも柚やレモンや小さいみかん。実っているものをいつも、持って帰るか?と聞いてくれる。ありがたく頂戴しては持ち帰って砂糖や塩に漬け瓶に詰めて並べている。画家の奥さんもずっと絵を描いてきた人。東京藝大だったからうまい。たぶん画家よりうまい。クロッキー帳を見せてもらったら、裸婦クロッキーとこのうちにいる小さい白犬のクロッキーがとてもよい線で残されていた。画家の家とアトリエの真横の建物が解体中で、窓際に肘をかけてポーズをしているあいだ、外の解体作業を眺めている。掘削機の働きぶり、太い鉄の芯が入ったコンクリート片を少しずつ崩して鉄だけまとめて集めている。埃がたたないように時々散水する人がいる。3時前に工事の音がぴたっと止む。休憩なのだろう。

去年韓国の女性アーティストの油圧ヴァイブレーターという作品を見た。掘削機に恋をしたという話しから展開するパフォーマンス。その時はなんでそんなことが作品のモチベーションになるに至ったのか不可思議と思っていたけれど、2時間ばかり掘削機を眺めて、鉄筋を砕く力を持ちながらどこか不器用そうに動き、人の操作の手つきが垣間見えながら時に動物のようで時にただただ機械的。こいつはなかなか魅力的であることに気付いた。

八尾、河内山本のあたりは造園業が多いようで、歩いていると民家の間にきちんと剪定された立派な松が、異様な密度で植わっていたりする。なるほど、庭の注文があってから松を育てていたのでは間に合わないからこうしてストックしているのだ。でもその仮植えの状態が風景になってしまっているのがおもしろい。木の一本は格好よく剪定されデザインされているのに、植え方は並べているだけだから密度は過剰で、意図と都合の奇妙なバランスの風景が出来上がっている。

 

今日は2月3日、帰りに寄ったスーパーは店頭で鰯を焼き、太巻きを山積みにしているけれど、5日後に家を一週間ばかりあける我が家には使うべき食材が待っているので全部スルー。節分とはまったく関わりのないトムカーガイというスープ、ひき肉とくずし豆腐のキムチ煮の夕食。

トムカーガイはレモンの酸味が効いた鶏とココナッツミルクのスープ。水にレモングラスやショウガ、とうがらしで出汁を引くように香りと辛味を引く。ほんとはショウガじゃなくてカーというショウガに似たものと、パイマクルーの葉を使うけれどないので代用省略。そこに玉ねぎと鶏肉ときのこを入れて煮えたらナンプラー、ココナッツミルクを入れてレモンを搾る。最後にバランスをみて砂糖、塩。タイでは食べないスパイスもスープのなかにそのまま浮いている。誤ってトムヤムクンに浮いている激辛のとうがらしを食べてしまったことがある。そんな罠にかからないためと食べるとき避けるのがめんどうなので、うちで作る時は香りを取るための材料は出汁パックに入れて別個に取り出せるようにしている。

その後豚肉の塊を煮る。明後日ケットちゃんたちをうちに招待する。ケットちゃんは日本に来たことのある友達から角煮を勧められたらしい。しっかりした味のおかずと米を食べるのが好きそうだから角煮は好みの味覚だろう。卵も一緒に煮る。角煮は2日くらい置いた方がおいしい。あとは粕汁、かぼちゃとブロッコリーの味噌マヨチーズ焼き、トマトと玉ねぎのポン酢マリネ、という和風とも言い難い日本のご家庭の味献立で。