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流出雑記 

20126/29

2012年06月30日 | Weblog

29日 29歳。
夫は休みを合わせてくれ、一日をどう過ごすか考えた。普段行きたいと思いながら、微妙に距離があって行けないところへ行こうと思った。

宇治の黄檗という超ローカルなところに、なぜと思うくらい有名なたま木亭というパン屋がある。
母たちの住む木幡からは近いので、何度か買ってきてもらって食べたことはあった。そのときに食べた博多という明太フランスが、今まで明太フランスというものにほぼ無関心だったことを後悔するくらいおいしかった。
それ以来近所のパン屋で明太ナントカを見かけると買ってみるようになったが、明太ならなんでもおいしいという訳ではなく、あれが特別だった、ということが徐々に明らかになった。だったら他のものもそうなのだろうかと、バイクで黄檗まで行ってみることにした。
どうせ宇治まで行くなら平等院まで足をのばし鳳凰堂を見る、という予定も入れる。
この日は梅雨にも関わらず見事な快晴。気温は30度近くまで上がり、肌の露出部がじりじりする陽気だった。
北白川から蹴上、山科、外環状線を走って宇治方面へ。
黄檗の駅から少し離れたところ、住宅街の並びにまた木亭はある。噂どおりの狭い店内に昼時なのもあって人がひしめいている。そこへどんどん焼きたてのパンが運ばれてきてその度に、クリームパン焼きあがりました~とか言われる。どれもおいしそうに見えるので右往左往してついついトレイに乗せてしまう。滅多に来ないし誕生日だし、と気になるパンを網羅してレジに行ったら1700円分買い込んでいた。

どこか公園ないかなとしばらく走り回ったが、日陰のないカンカン照りの小さな公園しかなかった。夫が地図で見つけた古墳の公園に向かった。
古墳のまわりのお堀には、抹茶緑の水が淀んでいて、よく見ると小魚がたくさんいる。亀も浮いている。
たま木亭のパンは惣菜パンの具が豪勢。明太フランスも福砂やの明太子をしっかり使っているし、ジャガイモとベーコンのパンは、ブロックベーコンの角切りがゴロゴロ入っている。ソーセージパンもソーセージ自体がうまい。もちろんそれぞれのパンに合わせたパン生地もおいしい。このパンならこれくらいやるべきだというところまでコンセプトがしっかり反映されていて、どれも際立っている。ただ、どこから漏れてくるのかという量の油分で紙袋がぺかぺかになり、手がべたべたするのだけがなんとかなればいいのにと思う。

それから平等院。
入り口から入場券売り場は近代美術館のような雰囲気になっていて、併設の博物館もモダンな建築。境内のあちこちに蓮の鉢があって近くで蓮の花を見られる。

実は平等院、初めて訪れた。鳳凰堂は想像していたより経年劣化している。建立当時はお堂の中も外も極彩色だったらしい。お堂の壁面に掛けてある、雲に乗って楽器を演奏したり踊ったりしている雲中供養菩薩たちがいい。阿弥陀如来の台座と天蓋は平成になってから改修されている。そのとき黒ずんでいた阿弥陀如来の顔も金ぴかになり過ぎないよう頬のあたりの金箔が張りなおされたそうだ。文化財の改修というのは、当時の姿を復元するのではないし、色が褪せたり剥落したりという現在形の様を維持、保存するということだと思うが、現状維持と言ったときの現状というものを基準にした劣化度合いを今後も引き継いでいくのなら、それもなんだか妙な感じがする。かといって建立当時の姿に着彩しようものなら、テーマパーク化してしまいそうだ。自然な姿とはどういう状態なのだろう。9月から2年間くらい鳳凰堂の屋根の葺き替え工事がはじまるらしい。

順路を巡り外へ出て宇治に来たしと抹茶ソフトを食べて、わりと近くにあった天ケ瀬ダムにも行ってみる。

あまりダムを見たことがなかった気がする。そういう人間から見た天ケ瀬ダムはまさかと思う程の規模だった。くらくらする高さ。どうやってこんな巨大な壁こしらえたのか。

放水はしていなかった。職員の人に放水は定期的にするのですかと訪ねると、雨が降って琵琶湖の水位が上がったらします。ちょうど今は梅雨やからね、昨日まで放水してたんですが、一日遅かったですね。と言われほんとうに残念だと思った。

ダムいいね、日本でいちばん大きいのが見たい、黒部ダムかな、黒部ダムってどこにある? ナイアガラの滝も見たい、でも自然物と人工物の違いは…云々言いながらはしゃいでいた。

夜は家の近所のレストランを予約していたので左京区に戻る。バイクの後ろで必死で眠気と戦う。

一旦家に戻り、汗を掻いたので着替えて、ついでにアクセサリーもかえた。

ビストロパザパという最寄りのフレンチレストラン。

コースの料理前菜、スープ、メイン、選択肢が多いので悩んだ。全体的に凝りすぎない正統派フレンチ。いちばんおいしかったのは夫の頼んだオマール海老のビスク。

食事を終えてから、秋に結婚式を挙げる妹の招待状デザインを夫がすることになったので打ち合わせのため実家へ。妹の旦那がホールのチーズケーキを買って来てくれていた。そういえばずっとチーズケーキが食べたいとパパジョンンズの前を通る度に思っていた。それもあってかこのチーズケーキは今まで食べたなかでいちばんおいしいと感じた。

でもなによりサプライズだったのは父が1ヶ月前に煙草をやめていたことだった。もう一生やめられないだろうと思っていたのに、さては健康診断で何かあったかと聞くと、そうでもなくて、単に風邪をひいて煙草を吸うのが嫌になるくらい喉が痛くて吸わなかったらそのままやめられたそうだ。30年来の悪癖でもあっけなく縁を切れるものなんだと驚く。煙草代が浮いてよかったねと言いつつ、父のことだからそれもゴルフや服やパチンコに消えるのだろう。昔、向かいの煙草屋に、キャビンマイルドボックス一箱下さいて言ってきて、とおつかいに出されたことやニコレットが発売されてすぐ父の日か何かにあげてみて、一切開封しなかったことを思い出し、なんだかとんでもなく懐かしく思った。

 


2012/6/28

2012年06月28日 | Weblog

6月28日、28歳最後の日、というほどの感慨深さもないけれど、20代が終わりに近づいている。

前にテレビでちらと見た眞鍋かおりが、自分が20代前半のとき30代の人に、女は30代になるともっと楽しいよ、というようなことを言われ、その頃はそれを聞いて内心、負け犬じゃん、と思っていたそうだが、実際30代になってみてその楽しいの意味がわかったそうだ。30代は楽しいらしい。いろんな無駄な力を抜くことができるんだろうか。物事や自分に対しての許容範囲が広がるとか。 そうなればいいと思う。

明日の夜行くレストランに予約を入れる。近所のフレンチレストラン、ビストロパザパという店。

数日前脱走し、翌日連れ戻された小麦はそののち落ち着いている。外に出ていたせいか干した布団みたいな日向くさい良いにおいがする。

花が終わったディオレサンスに追肥。花の後の追肥をお礼肥というが確かにそういう気持ちになる。

ホームベーカリーでパンを焼くとどうしても全面耳の端っこが2枚できる。そこは薄く切り落とすが、この耳を案外楽しみにしている。イスラエルのひよこ豆ペースト、フムスを真似た大豆のフムスをかりかりにトーストした耳にぬって食べるとおいしい。そういう端っこや、カレーやシチューの最後の鍋、煮物の汁、しゃもじについたごはん、お菓子を作ったあと甘い生地の付いているボウルなどが大きな声では言えない好物で、そういうものは誰にも見られず邪魔されず、台所でこそこそ食べる。

午後から稽古。

毎回好きな曲を1曲ずつかけて踊る「リズムに差し込む」というワークで今日の選曲、私デヴィッド・ボウイのstarman、野渕さんのは日本のアーティストで、歌というかメロディにあわせて敏腕音楽プロデューサーがその人生を語るみたいな、初めて聞く歌だった。

オランジーナというオレンジの炭酸がお互いの最近のヒット。

踊る。 9月までじっくり踊りこんでいくことができるのがうれしい。

夕方解散。帰宅して米炊く。

晩ご飯、ちくわにキュウリ突っ込む、小松菜と油揚げの煮浸し、鶏むね肉甘酢。月末食費が尽きてくるとむね肉の出番が増える。うまくしてやらないとパサパサだったり淡白すぎてつまらなかったりする。それを回避する技をいくつか習得した。1買っていきなり使わずに、少しの砂糖と塩をして一晩は置いておく。2下味をしっかりつける。3片栗粉をまぶし多めの油で焼く。4火を通しすぎない。5いろいろまぜてつくね的なものにしてやる。

食べながらついていたテレビ、日体大女子の集団行動というのを密着取材した番組がやっていた。集団行動とは、前にならえ、進め、とまれを超複雑にし、マスゲームみたいにびしっと合わせて全員で動くものらしい。全然揃わなかったところからコーチに散々怒られ怒鳴られ、チーム内の人間関係に紆余曲折あり、大丈夫なのかという状態で本番を迎えた。本番前の最後のリハーサルでもいちばん難易度の高い動きがぶつかってうまくいかなかった。もし舞台の本番前のゲネプロで、あんなふうだったら本番までどうにも不安で生きた心地しないので、祈るような気持ちで見ていたら、本番奇跡的に見事に決まった。泣く。


2012/6/25

2012年06月26日 | Weblog

昨夜、夕飯を終えて食器も洗い終え、紅茶を入れ、何枚かのCDをパソコンに読み込ませながら居間の座椅子でうたた寝をしていたら台所の方からガタガタッと大きな物音が聞こえて振り返った。暗い台所をよくよく見ると、コンロの正面にある窓の外の格子に何か大きいものがへばりついていた。何かというか絶対猫だ。格子の上部の10センチの隙間から既に体の半分外に出ている。慌てて台所に走り、待てこむぎぃとぎりぎりのところでしっぽを掴んだ。出たい小麦と離したくないこちらのこう着状態がしばしあったが、無理に引っ張るとしっぽが折れるか怪我をさせそうだ。押すことも引くことも出来ず、もう離さざるをえかった。

野良だった小麦は、やはりずっと外に出たそうにしていたのはわかっていたし、常々家の中の外に通じるところを見ていたり、開けようと試みたりしていた。実際、私が片手で結構重いと感じる押入れの戸なんかも小麦は腕と全身をうまく使って開けることができる。おもしろいのはどうも猫にも利き手があるようで、小麦は左らしい。小梅は右。でも網戸しか開けられない。

しかしまさか台所の窓からは出れないだろうとふんでいたので虚をつかれ、そんなに出たかったのかと思うと少しさみしくなって力が抜け、虚脱というのはこういうことかと、がっくりした。

その一部始終を小梅が後ろで見ていた。すぐに近所を探したが、まずすぐには出て来ないだろうと思った。落ち着いてお腹が空くまでは恐らく姿を見せない。すると出てくる可能性があるのは明日夕方。

念のため翌朝も昼も見て回ったが出てこない。近所で小麦が潜んでいる場所はだいたいわかっているし、野良を心得ている小麦に関しては、小梅が脱走したときよりずっと冷静だった。

この日の夜は久しぶりに旧友に会う予定があり、出来れば夕方までにうちに連れ戻し、心置きなく外出したかった。

夕飯はカレー。前にテレビで、主婦4人にいつも家で作るルーを使ったカレーを作ってもらい、どれがいちばんおいしいかアンケートをとるというのをやっていた。ベテラン主婦たちは隠し味をいろいろ入れたり、なんだかんだ創意工夫したカレーを作ったが、なかにひとり新婚で料理があまり得意でないという主婦がいて、その主婦はとにかくルーの箱に書いてある通りに作った。そして試食の結果、いちばん票数を獲得したのは新婚主婦のカレーだった。カレールーというのは、それ単体で味覚のバランスがとれた状態になっているので、そこに余計なものを入れるとそのバランスが崩れるらしい。人により好みはあるが、平均的おいしさのバランスを保っているのは、バランスを損なわない箱通りのカレーだったのだ。ベテラン主婦たちはちょっとショックだったに違いない。私も隠し味を入れるともっとおいしくなるような気がして、醤油とかココアとかいつもいろんなものを加えていた。具材を切って煮てルーを入れるだけじゃなんとなく味気なくて何かしようとしてしまうが、その味付けは蛇足だったのかと思うと悔しい。箱通りに作ったらカレーはどんなものだったかと、余計なことをしないカレーを作ってみた。ただし玉ねぎだけは飴色になるまで炒めた。

結果、そのカレーは確かにおいしかった。ジャワカレーの実力。

夜7時をまわって日が落ちた頃、小麦がいると思われる近所の庭に向かってごはんの器をカンカンさせながら呼びかけた。

するとしばらくして小麦の鳴き声が聞こえた。やはりそこにいたのだ。おそるおそる茂みから姿をあらわし、ごはんをあげると出会った頃のようにまた警戒しながら食べ始めた。触ろうとすると避けるが、隙を見て夫が確保。小麦は無事家に戻った。

小梅は小麦が来てすぐのときのようにまたシャーといって怒る。でもとにかく戻って来てよかった。

夜は京都駅で待ち合わせをしていた。

最近大阪に転勤してきたリナちゃんと仕事終わりで新幹線で東京からやってきたかおりん。

駅の近くの鶏居酒屋に入る。それぞれの最近のことなどなど。会ったとき携帯で写真でも撮っておこうと思うのにまた撮りそびれた。数日後誕生日だったのでプレゼントをもらった。白いナイティ。今年の熱帯夜、我がものなりと思うほど素敵だった。

終電で帰る。明かりの消えた京都タワーを見ながら駅まで歩いた。


2012/6/24

2012年06月24日 | Weblog

起きる。
昨夜、家の裏から縁の下に入って引きこもっていた小麦。朝には定位置の夫の作業場のイスの上にいた。起きて一階に降りると朝ごはんと知っている小麦は、ごは---んと鳴く。小豆を思い出す。小梅はそれを見ている。小麦が来てそろそろひと月になる。

 

アイホールが開く時間に電話をかけて、月の岬の当日券があるか問い合わせると、あるということだったので、久々に伊丹に行くことにする。

鶏そぼろとかつぶし昆布おにぎりを作り、しょっちゅう仕事先からもらってくるダースが現在2箱、冷蔵庫で冷えているので、それを使ってチョコチャンクスコーン焼く。

焼いてる間に身支度、伊丹へ向かう。

松ヶ崎から地下鉄、四条から阪急、十三で乗り換えて塚口、また乗り換えて伊丹。十三から塚口までの電車の中、ドア付近に立って外を見ていたら、豚肉と玉ねぎのにおいがしてきた。肉まん、と思って振り返るとドアの反対側に寄っかかり551の紙袋をさげた金髪ギャルが肉まんにかぶりついていた。十三のホームの中に蓬莱の店があるので、そこで買ったと思われる。背中がほとんど丸見えのヒョウ柄のタンクトップとジーンズのショートパンツが辛うじてむっちりした体を覆っている。腕にハスのタトゥーを入れ、黒でまぶたを塗りつぶしまつ毛を貼り付け、カバンの中をちょっと探ろうものならポロポロ取れそうなプラスチックの飾りですべての爪がデコレーションされている。
電車のなかで他人が飲食するもののにおいに酔いそうになることはよくあるが、このギャルが肉まんを頬張る姿とそのにおいはそれほど不快にならず、むしろ旺盛に肉まんを食べる様子が痛快で、そうだよな、肉まん食べるよな、と同意させてしまう意味不明の力すら感じた。

伊丹に着く。
しばらく来ないうちにアイホールに向かう酒造通りには、沖縄料理やバル風の居酒屋などが出来て賑やかになっている。
当日券を買って、道のパン屋で買った明太子とジャガイモ入りフォッカチオをかじって会場を待つ。

月の岬、学生の頃、授業発表公演でひとつ上の回生がやっているのを見た。随分前のことなので、方言と四角い卓袱台と喪服のイメージが残っているくらいで、戯曲の細かな内容はもう忘れてしまっていた。

冒頭、黒留に割烹着姿の内田淳子さんあらわれる。
内田さんがお膳を上げ下げする所作を見ているのがおもしろい。映画でも舞台でも小説でも食事風景というのが好きだ。

月の岬は長崎の離島で暮らす一族の物語。

正装が暑苦しい真夏の結婚式、よく冷えた麦茶、蚊取り線香の渦、姉弟、姉妹、夫婦、男女の事情が交差して緩く首の絞まっていくようだった居間に誰もいなくなったときの風鈴の音が心地よい。縁側の開け放たれた風通しのよい家、だけどムラ社会的閉塞感がずっと傍らにある。逃れたいもの、逃れ難いもの。居場所。居場所から消え去る者。抜けたところを満たす者。生まれたり死んだり生まれなかったり。

アフターパフォーマンスで内田さんによる太宰治の「皮膚と心」のリーディングがあった。
たまたま数日前に野渕さんとの稽古中話題にあがり、目を通したテキストだった。 

『ぷつッと、ひとつ小豆粒に似た吹出物が、左の乳房の下に見つかり、よく見ると、その吹出物のまわりにも、ぱらぱら小さい赤い吹出物が霧を噴きかけられたように一面に散点していて…』と始まる、ある女の体に発疹ができる話し。
太宰治が女の目線でものを書くときの、なぜそれがわかるのかと驚いてしまう描写の中には、時々ほんとうに突かれたくない図星を突いてくるところがあって、そのときこの人は男だ、と思い、うっすら腹が立つ。

リーディングが終わり、京都に戻る。

少し買い物して帰宅。朝のスコーン4つもあったのに甘党の胃に難なく収まっていた。

夕飯は米を炊いてなかったのでパスタ。

鶏肉と壬生菜のにんにくバター醤油。バターは、バタと表記するほうがおいしそうに感じる。牛酪ならパンに薄くのばしたい贅沢な感じがする。

パスタは私より夫の方がうまく作る。久々に私が作ったので、どうでしょうと出したら、最初にパスタを一本食べて固さを確認して、ふん、と通の役で言った。食べながら何かスパイス的なものが足りない気がするが、七味でも山椒でも胡椒でもない、なんだろうと相談したら、わさびはどうかと言われ、そうめんのわさび麺薬味というのがあったのでそれをふりかけたら、物足りなさが見事解消された。

スーパーで見かける安いわらびもち、時々50円くらいで売っている。私は毎日でもいいくらい好きだが夫にとってわらびもちは然程テンションの上がらない菓子に区分されるらしい。あまり安くされると見る度に買ってしまうので困る、と毎年思う。

小梅、目にゴミか何か入ったらしく、右目をしばしばしている。そんな様子をはじめてみた。あんなに大きな目をして今までそうならなかったことも不思議だった。目を近くで見ても異物は確認できないが、気になるらしく手で目のところをくるくる触ろうとしたり首を振ったりしていた。しばらくすると取れたらしい。

 

 

 


2012/6/23

2012年06月23日 | Weblog

朝起きたら少し喉に痛み。
2日前、怪しかったのをルル3錠で撃退したと思っていたが、まだ潜伏していたらしい。昨日の夜、やけに眠かったのは、治癒に専念しようとする強制シャットダウンだったのかも知れない。

夜にセットしておいた食パンが朝焼けている。また過発酵ぎみ。温かくなってきたせいか、上蓋にぶつかるほど膨らんで、焼き上がりがいびつになっている。焼き立てをスライスして半分そのまま食べて、半分トーストしてバターを塗る。焼き立ての至福とトーストした場合の本領を味わえる。
午後から大阪で仕事。午前の仕事から帰宅した夫と入れ違いで出る。マクドナルドを買って、ブルーのコークグラスをもらっていた。

自転車で出町柳。京阪に乗ってツイッターを見ていた。紫陽花革命と銘打たれた大飯原発再稼動抗議デモのことが多く流れてくる。あと、これも人様のFacebookに上がっていた新聞から拝借した知識だが、高濃度核廃棄物の最終処理施設を日本の地中に建設するのは不安定でムリだというのと、その廃棄物の側にいると12秒で人は死ぬそうだ。12秒で死ぬとはどういうことだろう。細胞、体組織が瞬時に生きていられないほど壊滅的に壊されるということだろうか。12秒後にぷつりと糸が切れる如くこと切れるのか、12秒間悶絶しながら紫色になって死に至るのか。いずれにせよとにかくそれの側では人は12秒で壊れてしまうらしい。
刹那的な利便性と局所的な利潤のために処理しようのないゴミをこれ以上作りだすことは、どう考えても愚行だし、末代のために今を生きているわけではないにしても、厄介でしかない廃棄物を山積することが命の連綿の中で為す行いとして正しいとも思えない。これ以上国土に立ち入れないような土地を作る可能性のあるものを稼働させるべきではなく、一度痛手を負ったからこそ改める機会だと認識すべきではないか。小学生の頃、原発というものの存在を知り、地図帳で原発のマークを探し、その数の多さに驚いた。しかも自分の住んでいる京都からも近い福井の海岸沿いに密集している。どうしてそんな危険なものを作ることを大人たちが許してきたのか疑問だったし、しばらく地図帳を見るのが怖かった。

デモ、運動というもの。それに参加しようという積極性が起こってくるかどうか、どうなんだいと自問していたが、やはり体が賛同しない。そんな悠長なことを言ってる場合かと言われる方もあるだろうが、デモとはそれに熱意をもって賛同していない体を義務的に引き連れて行くようなものではまずないだろう。ツイッター上でデモの呼びかけ拡散を促されても、まず自分が行けないのではなく行かないのに拡散するだけしておくというのが無責任に思えて出来なかった。再稼働について、あるいは瓦礫の受け入れについて、意見はもちろん持っている。しかし思っていることを行為として表さない限りそれは何も動かさない。表したからと言ってそれが現状を覆すには遠くおよばない微々たるものだとしても、ただ思っている、ということは何もしないこととやはりかわらない。それも無頓着で怠惰だと自分に釘を刺す。

次のデモのときには友達を一人連れてこよう、そうすれば倍の規模になる。関西の方わかってますか? といった呼びかけに反作用(反対ではない)的反応を示してしまう人間はまた別のやりようを考える他なく、そうなると抗議電話をかけるとか手紙を送るとか署名するとか個人で出来ることになってくる。

とにかく何かしないではいられなくなって首相と福井県知事に宛て再稼働について抗議の手紙を書いた。そういった手紙がおそらく日々届いていることだろう。本人ではないにしても目を通され、ちゃんと読まれるだろうか。でもこれだけの抗議の手紙が寄せられたという数の一通にはなるかも知れない。その山の一通に。

こうして言葉のかたちにしながら、自分にもまっとうな怒りがあるということにようやく気付ける。矛盾だと感じることに対して怒りが起こらないほど何かに慣らされているのだろうかと実のところ不安だった。何もしないでいることに抵抗感を感じたのは、人々の行動を受けたものだとしたら、私も動かされ、微力ながら動いたのだと思う。


2012/6/22

2012年06月22日 | Weblog

一日降り続けた昨日とは打って変わって晴天。梅雨の晴れ間を逃すまいと洗濯機を2回転。

毎日朝は同じ物を一種類食べないと落ち着かない癖がある。今はそれがかぼちゃジュース。

クルミのスコーンを食べ、鶏そぼろと塩昆布のおにぎりを作っておいて昼過ぎ稽古場へ。

稽古場の窓を開けて換気をしていた。ツバメがたくさん飛んでるねと見ていたら、窓から部屋にすいーと飛び込んで来た。びっくりしていたらそれを追いかけてもう一羽入って来た。2周程部屋を旋回して一羽はまたすいーと出て行ったが、後から来た方は閉まっている窓に一度当たりひやっとしたが、無事外へ飛び去って行った。

30分ほど話しながらストレッチをし、そのあとそれぞれ知っているボディワークをシェアする。毎回やっている「リズムに刺し込む」というワークではいつもそれぞれ好きな音楽を1曲ずつかける。今日のチョイスは私take on me、野渕さんブルーハーツのタイトルを忘れたが、ナビゲーターは魂だ、という歌詞の曲。それがなんかとても良かった。

それから本編稽古。

夕方、帰り道、どこの紫陽花も咲ききってお辞儀している。

スーパーに寄り、卵、ピーマン、南瓜、春雨、豚肉、海苔。

帰宅。炊飯。残っていた豆腐と合わせてハンバーグか春雨と炒めてチャプチェと想定していた使いかけの合い挽きから、どうも怪しいにおいがした。買ってからそんなに日を置いていなかったのになぜか。とにかく怪しいのでそれは使わず、明日使う予定だった豚肉をジャガイモと玉ねぎ、ピーマンを、ウェイパー、ケチャップ、醤油、等を混ぜたタレで炒めた。チンジャオロースに近い味になる。

南瓜は朝のジュース用に蒸し茹で。ニュージーランド産のやや大きめの南瓜。切るとカブトムシのにおいがしてどういことだろうと思ったが、火を通すとカブト臭は消えた。南瓜自体は甘みの強いあたりの手だった。

小梅と小麦はお互いに猫パンチをしてみたり、追いかけ合ったりしているが、隣同士の椅子で寝ていたり、相性は悪くなかった模様。19日は小梅の誕生日だったので、キャットタワーをプレゼントしてみたが、相変わらずお気に入りの椅子で寝ている。キャットタワーの存在に慣れたら登ってくれるだろうか、というかせっかく買ったんだから是非使ってよ。

食後眠気の波に飲まれる。

 


梅雨梅雨

2012年06月21日 | Weblog

朝からずっと雨。

吊るしてあったバナナ一本むしり取って潰し、タイカレー用に買い置きしていたココナッツミルクパウダーを入れたココナッツマフィンにする。

掃除。発見される猫の毛、爪、時折ヒゲ。寝たのが明け方だったので昼過ぎ眠くなって昼寝したら中学生の頃の友達がたくさん出て来る夢をみた。話している内容は近況で、フェイスブックで知り得た情報を当時の姿でお互いに話している。

30分程で目が覚めた。酢と醤油と味醂で煮ようと思っていた鶏を夫がどうやら食べたいらしかった唐揚げに変更し、にんにくとショウがすって醤油で下味つけておく。キャベツとにんじんはスライサーでサラダにして冷やす。

揚げ始めるまでの時間アイソレーション。もっとバラバラになれ。もっとバラバラになれ。

あと自主練。何のかというと、9月のはじめに野渕さんとやるデュオの。 タイトルは『Waltwo』。

「多発意思」というなかなかいい練習法を思いついたので、明日稽古場で試そうと思う。

好きな曲を流して踊る。Killer Queen、シェリーに口づけ、Another Day、夢のカリフォルニア、take on me など。何度聞いても踊りたくなる曲。

中華鍋に油を熱し、鶏に片栗粉をまぶして揚げる。コンロに面した窓を開ける。さわさわ音をたてて鶏が揚がっていく。

揚げ物はあまり得意でない。煮る、焼く、炒めると比べて圧倒的に経験値が低い。というのも油の処理等を考えると億劫で避けていた為。いつかはじめて作った天ぷらはどういう訳かもちもちだった。

みそ汁はオクラ。学生の頃、公演の為高知に滞在していたときに食べた、山芋をすりおろしたのとオクラを入れたみそ汁がおいしかった。山芋は、よく見る長芋よりもっと粘りの強いもので、それ単体で入れてもゆるいすいとんのように固まる。長芋で真似る時はすった芋に少し片栗粉を加える。

夜、最近とても好きになったラリプナの曲を集め、読みかけの「行為の哲学」を読む。


梅雨台風 

2012年06月21日 | Weblog

取り立てて書かなくてもいいようなことを書く、というか打つ、こともやってなければやらなくていいことになっていく。日々を文字にする積極性をもって過ごさなければ、記せるかたちをとらないまま過ぎていく。それでも一向に構わないし誰も困らないけど。

どれくらいの規模の台風がどのあたりに来ているのかよく知らないまま、予定通り朝仕事に出た。久々に午前中、しかも神戸方面での仕事だったので、気合いを入れて早起きし、雨なので1本早い電車に乗れるよう家を出た。

地下鉄からJRに乗り換え、新快速に乗って京都を出てしばらく経った頃携帯が鳴った。仕事先からの着信。電車の中で取り辛く、次の停車駅、高槻に着くあたりでドアの前に移動してかけ直した。この時間帯に連絡があるということはと思っていたが、やはり警報が出て休講だった。そのまま高槻で降りて京都に引き返す。京都も雨は降っているが、たいしたことはなかったので、警報の出ている神戸がどれほどのものか想像しにくいが、とにかく、神戸の仕事は昼までだったので、仕事が終わったらサンドイッチでも食べて近くのファッション美術館に行って、展示が面白ければ覗き、その後併設の図書館でギャルソンのショウのビデオを見ようと予定していた一日の導線は急遽京都へのUターン矢印に変更。9時半前、まだ地下街も閉まっている詰まらない京都駅に舞い戻る。10時過ぎれば伊勢丹も開店するけど、久しぶりの早起きで頭に薄く霧がかかったようにぼーっとしていたので、そのまま帰ることにした。松ヶ崎まで戻って外に出ると、行きしなより雨風が強くなっている。帰り道のスーパーで買い物を済ませて帰宅。ディオレサンスを家の中に移動させる。雨にあたると病気が広がりやすいのと、風が怖いので。お隣で満開になっているピンクの手鞠紫陽花をふたつ切ってくださった。毎年もらっている。紫陽花は茎のところを火で焙って炭化させて水に浸すと水が揚がる、というのを数年前働いた花屋で習ったのでそうする。誰がこんな方法を考えついたのか、不思議でならない。

時間があったのでスコーンを焼いた。クルミ入り。材料全部ナイロン袋に入れて揉む、最も洗い物が少なくて済むクックパッド主婦の知恵。

昼過ぎ少し眠り目覚めて宿題のテキスト作りと声の録音をして、夕飯の支度。もらいものの丸ナス2個をどうするか。今日1個使って明日もう1個を別の料理に使う。だったら今日は迷わず田楽、と真半分に切る。あとは冷蔵庫にあった胸肉と少し残っていたキャベツとキムチを全部フードプロセッサーで混ぜ合わせ、つくねみたいなものにする。あとは小松菜と揚げの汁物。気がつくと小松菜か水菜をよく揚げと煮浸しにしている。ナスはこの翌日ナスラザニアになった。大急ぎで作った目分量ミートソースとホワイトソースが好評だった。次回再現するにはつまり、急げばいいということか。

と、和洋折衷、毎日いろんな味のものを、いろんな調味料を使って調理し食べているが、その度に思い出すのが今月の最初に観た『ニーチェの馬』という映画の食事風景だ。ニーチェが鞭打たないでくれと言ったその馬を飼っている貧しい親子の生活を撮った映画。起きて、井戸で水を汲み、着替え、働き、食べ、着替え、眠る。

娘が台所の大きな鍋でジャガイモを2つ、丸ごと茹で、それをそのまま皿に盛って父親に「食事よ」と声をかける。ふたりは木のテーブルに向かい合って座り、お祈りも無く、ジャガイモを食べ始める。片手が不自由な父親は熱々のイモの皮を片手で剥き、そのついでに潰しながらぼろぼろにしたものを口に運ぶ。娘は両手で坦々と食べる。テーブルの上には塩らしきものが置いてある以外に味をつけるものはなく、ふたりとも無言のまま食べ進め、食べる音だけがしている。半分くらい食べ残したまま食事を終える。ふたりの生活6日間を撮った映画だったが、食事はどの日もこのジャガイモだった。3日目あたりで今日はマッシュポテトにならないかと思ったが、ならなかった。卵と油とビネガーがあったらマヨネーズが作れる、あるいは油があるなら揚げればフライドポテトになるが、この家には塩とイモ以外何もないらしかった。食事はたのしみでもなく生きる為の栄養摂取という積極性をも欠いて、たんなる習慣のように口に運ばれる。そんななのにそのイモがなぜかおいしそうに見えて、映画を見たその日の晩ご飯は、ジャガイモを丸ごと蒸した。

この映画はちょっと忘れられないものになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2012/6/14

2012年06月14日 | Weblog

ここ最近の書かなくてもいいような細々した事

どんな女になりたいのへの回答その2:山本直樹が描く髪の短い女性。

梅雨入り。ほしかった八重咲きの紫陽花、母の日に合わせて温室で咲かせて花が終わったのを半額で売っていた。連れて帰り植木鉢に植え替えて萎れかけた花を切り、葉を整理。もう新芽が脇から育って来ている。露地の紫陽花は今ちょうどあちこちで花の群れを抱えているが、この苗が花を咲かせるのは来年の梅雨なので、今年の梅雨始まったところだが来年の梅雨が待ち遠しい。この苗はピンクの花だったが、来年は青を咲かせたい。

紫陽花は土壌がアルカリ性ならピンク、酸性なら青というのは聞いたことがあったが、pHを調整するには具体的にどうすればいいのか調べると、pHによって色が決まる訳ではなく、青を咲かせるには、酸によって溶かされた土壌のアルミニウムやマグネシウムを植物に吸収されることが重要らしい。じゃあ硬水をあげたらいいのではないかと閃いた。紫陽花のためにこの夏はコントレックス箱買い。というようなことをしなくても、青い紫陽花のための肥料という優れたものがあるのだった。

うどん粉と黒星病から立ち直ったディオレサンスはあと数日で咲く気配。ようやく外側の花びらの色が見えた。

園芸店で夫が苔玉にシダがひょろひょろ生えたやつをほしそうにしている。3000円、案外高いねと言いつつ、どうもそれがほしいらしかった。もうなんだかそんなにこの玉がほしいというのはおもしろいので買ってしまった。玄関に吊るすと涼しげで良い。そういう丸いもの、前にテレビで見た、酒蔵の前に新酒ができた印に吊るす杉玉へのあこがれがあったのだ。でもさすがに杉玉は大きすぎる。

大きすぎる。数年ぶりの模様替えをし、部屋がずいぶんすっきりした。うちとけてきた小梅と小麦が走り回る。今月20日が誕生日の小梅に、キャットタワーをあげたいと夫がネットで見つけて、これカートに入れるよと言ったのは180㎝以上あり4匹でも遊べる豪華キャットタワーだった。さすがにちょっと待ってと話し合い、私の背丈くらいのタワーで決着。なんでもポンと押せばカートに入ってしまう恐ろしい昨今。

梅雨の中休み。休日の昼。等持院の近くにある讃岐うどん屋に行った。夫ぶっかけと竹輪のてんぷら、私釜玉。セルフ讃岐うどん屋もっと増えてほしい。近くまで来たしと嵐山まで走りピスタチオのジェラートを食べた。

そのあと山道を走ってたまたま行き当たった愛宕念仏寺。千二百羅漢という一般参拝者が彫ったという千二百体のいろんな表情の石仏が並ぶ。首を傾げたり、大口をあけて笑ったり、猫を抱いていたり、お酌していたり、モアイもいた。

 

道の脇にへびいちごの実を見つけた。実がなっているものを雑草の中から見つけたときの興奮は幼稚園のときからかわらないことを確認。

生まれて初めての猫カフェ。近所にあることは知っていたが、どういうタイミングで行くものなのかわからなかった。反射神経でたまたま今日になった。玄関のドア越しにもう猫が2匹待っている。客は我々だけで、色白のお兄さんがひとりと猫10匹。さすがにこれだけいるとおしっこのにおいが強い。他の店もこうなのかわからないが、飲み食いするところじゃないなとまず思う。15分200円。来て1分後に居るのもそれが限度だと感じた。猫たち。皆好きにのんびりしている。脱いだ靴の周りに3匹くらい集まって匂いを嗅いで、体を擦り付けている。猫たちは触っても怒らないが、触られるのが嫌いな子は顔を背けるのですぐわかる。あまり触ったことのない血統書付きの洋猫。シャムではないけど、似た感じのベージュで顔を足の先が茶色い子が特にかわいかった。営利目的に猫、という疑念もあったが、一先ず大切に育てられていることはわかった。もちろんそうでなければ猫カフェなんて成立しない。でも経営が立ち行かなくなったときどうするんだろうとか、思うところはいろいろある。

夕飯。京大の近くにある白水という店の餃子は、白菜が薬味を刻むレベルの細かさで、具の8割白菜くらいのくどくない餃子。それがおいしいのでどうにか近づこうと、そのために買ったフードプロセッサーを使って細かい白菜の餃子を作ったが、水分が多すぎて皮がふやけてどうもうまく焼けない。一個ずつ包んだものが焼くと大破する報われなさ。要研究。