figromage

流出雑記 

2015/9/26  2

2015年09月29日 | Weblog

STスポット横浜で相模くん演出の「ナビゲーションズ」を見る。

この作品は上演を見ていない人にもどういうものだったはっきりつたえることができるダンス作品だと今、打とうとしながら内容を回想しつつ先にそう思った。

舞台上にはペットボトルの3分の2くらい飲まれたコーラ、本、たばこ、ライター、サングラス等すでにいくつかのものが並べてある。上演が始まると、 演出家自身が出て来て携帯電話の電源を切らないでくれとアナウンスし、なおかつ強制ではないけれど上演中それを預からせてほしいと黒いバッグが回され、観 客はその袋に携帯を入れていく。携帯も集まれば思ったより重量がある。そしてその袋は上手奥のワイヤーに地面と接触したくらいの位置に吊るされる。続いて なんでもいいから持ち物をひとつ貸してほしいと言われ、観客は各々カードケース、口紅、本、シャツ、爪切り、折りたたみ傘、キットカットなどのものを出しそれらは演出家によって舞台上に散りばめられる。印刷されたドアの取ってを舞台奥の板で閉ざしてある出入り口に貼付けると、その板をどけて中からダンサーの佐藤さんが出てくる。黒いサテンでスパンコールの装飾付いた衣装を着ていて、ズボンの裾がやや長い。佐藤さんはポケットから携帯を取り出して携帯のマイクのところを口元に持って来て、舞台上にあるものの名前をひとつひとつ吹き込んでいく。それが終わるとそれぞれのものの前に立ち実際には触れずそれを触る 時の動作をする。あるものを触って次のものに行くときに次のものに触れる動作をするまでその前に触ったもののフォルムを手の中に残していて、それを変形させながら次のモチーフに移っていく。

それが一通り終わっていくつかのものに実際に触れる。その触り方は例えばダンサーがものと関わろうとするときに発揮しようとする創意工夫をしないで、そのもののかたちが意図しないふうには触らない。シャツだったら袖を通す、本だったら開く。観客はそれぞれ自分が出したものがどう扱われるだろうということを、意識のどこかに持ちながら見ている。各々自分のかばんを開けて絶対触られたり壊されたりしたくないもの以外の何か、どうしようかと考えて何かを出した。 私はこの日の昼と夜、2回上演を見たのだけれど、1回目は口紅を出そうとしたら先に出されていて咄嗟に本に替えた。しかもこの本は図書館で借りた本だったから借り物を貸している又貸し状態だった。2回目は香水のアトマイザーにした。本だと読まれることはあるかも知れないけれど、それ以外の使われる可能性の あるもの、特に肌に接する可能性があるものに触れるときはやはり緊張感が少し変わる。口紅なんかは実際にダンサーが唇に塗るということも起こりうるけれど、普通に見ず知らずの人に自分の口紅を直接塗られることには抵抗感がある。見ているなかでは実際使ったりすることはなく、ティッシュを一枚取り出して鼻をかむことやキットカットを食べてしまうことはあったけれど、口紅を塗ってしまうとかカードケースの名刺を撒くとかはしなかった。そういう間合いというか、良心というかは、舞台上にいる人の判断力や状態が何か観客には得体の知れないものなのではなくて、とても普通な状態なのだと分かる。ものとダンサーとの関係以前に、ものとその持ち主との関係というのもある。捨ててもいいようなものから身につけるもの、そのものとの親密さもさまざまで、今回は何でもいいということだったからそういういろんなものが並んだけれど、ものを借りるときに何か言葉を付け加えると場に並ぶものは変わってくるのだろうし、出されるものをある程度誘導することも可能で、上演のバリエーションを作ることも出来るのかも知れない。でも今回この作品で観客が何を出すかに期待しているわけではないのはわかる。けれどなまじものから動きが抽出されてくるわけだから関与する割合は大きいことは連続して見て少し思った。2回見たうちの夜の方が上演としていいと思えたことに、出されたものの影響がなかったとは言い切れない感じがあった。

というふうに中盤まではそういうダンサーとものの関係のバリエーションが展開され、サングラスを取ったときに次の展開が起こる。最初ダンサーはサングラスを自分でかけるのだけれど、それから外してサングラスの正面を自分の目の高さに合わせて向けた。するとそのサングラスによってそれを使っている見えない他者がいるということが示され、そこでshall we danceが流れる。ここまで来てなぜこの衣装が選ばれたのか納得がいく。そこからはもの自体ではなくものを介してそれを使う他者を想定した動き、透明な 他者によるものの使用をサポートするかたちでダンサーは自分の体勢を探し、shall we danceが流れる。音楽はひとつのものとの数十秒のダンスが終わるたびにカットアウトされ、ダンサーは次のものを手に取り、体勢が整うと「はい」と音出 しの合図を送る。けれど時々音が流れず、ダンサーは体勢を少し変えてもう一度合図を出すと流れる、といったやりとりもある。

音楽が止んでダンサーは着替え、そのあいだに演出家が出て来て舞台上に散らかったものを円になるように並べ、その円のなかにダンサーは戻って、最初に携帯で録音したものの名前を読んでいるのを再生し、それに身振りを重ねていき、トーキング ヘッズが流れて来て身振りは加速し、ものにナビゲートされて出て来た動きがダンスのムーブメントに展開していくという流れの80分だった。

つまり観客はダンスの生成過程をくまなく見、なにがどうなってこうなったという、抽象化されたムーブメントに至るところまでを上演時間に体感するので見ること自体に迷うことが無い、その道筋に観客の私物も関与する作品になっている。

ひたすら手の内を明かされている上で、ものに触れる所作が徐々にダンスを帯びてくる、ダンスを帯びるというのも変な言い方だけれど、ダンサーがものからダンスを受け取っていくこと、所作をダンスにする動力自体には説明のつかない働きがあり、そういうことの起こりに焦点が合う。だから上演時間の大半は そこに至るまでの滑走状態に充てられているけれど、そのなかの階調の変化を見ていられる。そういえば飛行機は何故飛ぶことができるのか、その理由は未だにわからないというのを聞いたことがあるけれど、その話しは実際謎なわけではなく、私には皆目分からない航空力学やなんとかの定理で説明可能なんだそうだけど、それにしたってあんなに荷物や人を乗せた鉄の塊が空を飛ぶことには、たぶん説明が理解出来てもそれが実際空を飛ぶこと自体については説明つかないものを心に残す。

中盤、たばこを飲みかけのコーラのペットボトルの中に捨てるところがあって、そうするとコーラはもう飲めなくなった。ダンサーはそのコーラのラベルだけ剥がしてコーラの部分を、つまりラベルだけ持っていった。そのシーンがとても面白かった。たばこを入れられたコーラは瞬時にもう飲めない飲み物、飲み物ではないものになってラベルを剥奪された。この部分にある種の暴力的なものを感じた。

作品の明確な構造に感心しながら、この作品に留まらずダンスというものを考えたときにひっかかったことは、ここまで丁寧にナビゲートされないと観客はダンスに、抽象的身振りに納得できないだろうか、ダンスに必然性を見いだせないだろうかということだった。説明されなくても踊る体に感動したことはあるけれど、その問答無用さは希有なことで、それをやりきる確証のない確信に身を投げることが出来ないところで淡い期待をもって動いてしまったら最後、おもしろいものは多分生まれない。ある状態がそこに体現されていることに対する観客の納得とか、その必然性をきちんと提示することの重要性はもちろんある。けれど、じゃあ私は明確な構造に支えられたダンスを見た反動でどういうものを見たいと思ってしまったのか。それを例えるちょうどいい言葉が山本直樹の漫画にあった。

「つまるところ雲ひとつない青空が気持ちよいということは、情報が少ないという気持ちよさなんですね、一方暗闇の恐ろしさというのがありまして、それはすなわち情報が少ないことから来る恐怖であると。つまり青空の気持ちよさというのは、背後に暗闇の恐怖が隠されているというのもまた」

という拮抗にある人の姿を想像した。


2015/9/26

2015年09月27日 | Weblog

夜行バスで新宿。どうせ寝られないなら出来るだけ全身の力を抜いて寝ているのに近い状態でいようと、口の中や舌まで力が抜けるよう心がけ、そうしているうちに少し意識がなくなった時間があった。新宿西口。バスの利用者が休憩や身支度に使える場所がバス停近くの雑居ビルあってそこに行こうとしてさっそく迷う。飲食店の多い裏通りはちょうど昨夜出たゴミを回収するトラックが回っている時間帯で、生ゴミのにおいの間を行ったり来たりして、マップで見ているのに2回くらい通り過ぎていた。それで遅れをとったから同じ時間帯に到着したバスの女性客でパウダールームは18人待ちとかそんなことになっていた。土曜日なので利用客が多い。でも朝早過ぎる時間に当て所無くほっつき歩くのが何より疲れるので、待つものがあるくらいの方が朝はいい。抱擁家族を読みながら30分くらい待っていたら順番がきた。30分で鳴るタイマーを渡されて空いている鏡台に座る。ストレートアイロンで髪をまっすぐにしてアイドルみたいなフレアのミニスカートをはいている女の子たちは何かのオーディションで来ているのだろうか。巻き髪を作り懸命にまつげをあげマスカラを丁寧に塗りつける、前や後ろの人のやっていることをちらちら見ながら髪をさわらなくていい私に30分は余る。

急いでいないときはマップを見ないで適当に歩けば何か見つかると過信しているので、歩く嗅覚にまかせていると地下のルノアールを見つけた。空いていて適度にもてなされる感じがあるのがいい。コーヒーを頼むと60円でトーストとゆで玉子が付いてくるところもいい。とりあえず見たかった春画展を見に行く。最寄り駅は雑司ヶ谷という全然知らない駅で、この最初の雑をざつと読んでしまって毎回ぞうしがやという本来の名前にたどり着けない。雑をぞうと読むことに不慣れだからで、ざつと読んでしまわないために最初に雑巾を思い浮かべれば苦もなくぞうしがやと読めることに今気付いた。

永青文庫という会場まで駅から徒歩20分。あまりおもしろみのない車通りをひたすらまっすぐ。街路樹には金木犀が多くまだ5分も咲いていないけれど、だいたい絶えず金木犀のにおいがしている。日本女子大学を通り過ぎ、運動公園を通り過ぎ、少し路地に入っていくと目的地は一緒だろうと思われる人の流れがあった。

そんなに広くない会場の4階から1階降りて行く順路。予想以上に混んでいる。男女比は同じくらいで50代~60代くらいの人が多いけれど20代の女の子やカップルもちらほらいて、若い女の子は、お腹でてるよね、昔の女の人太ってたんだねと話しながら見ていたり、みんなガラスケースの中のあぶな絵をほほうと真面目な顔で眺めている。私もそういう顔で見ていた。これをどうやって描いていたのかが気になっていた。遊郭に行って見ながら描いたという説もあるらしいけれど、体の大半は着物で隠れているものが多く、時々肌の色を変えてあるものがあるけれど、あまり顔以外に男女の体の描き分けがされていない、そのためか性器が誇張して描かれる傾向にあった。それで思い出したのは陰翳礼讃の、常に着物で生活していた頃の生活について書いているところで、

「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体についての記憶がない。…それで想い出すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないか。あの紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸…何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ 云う風ではなかったのであろうか。…そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣装を着けるための棒であって、それ以外の 何物でもない。…闇の中に住む女たちにとっては、ほのじろい顔ひとつあれば、胴体は必要がなかったのだ。…極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかった のだと云っていい。」

春画に描かれている女性の体は棒のようではなくちゃんと肉付きは感じられたのだけれど、つまり豊満な胸とか引き締まったウエストとか丸みを帯びた腰のラインといった女性の体つきというもの自体は当時の日本ではあまり欲望を掻立てる材料にならなかったのではないかと思う(それ以前にいま書いた女性の体型の美しさも西洋基準のステレオタイプと言えるが)むしろ手足のほうがよほど色っぽく描かれていて、この展覧会を見に行ったのも永青文庫のサイトのトップに表示された鏡に写る足の絵に惹かれたからだった。手足と着物の重なった図柄や着付けと髪の乱れた様子、そのなかで体の比率より大きく誇張されて描かれる性器は醜美で言えば醜に属するというか、異様な塊が絵のなかに隆起し、露出しているように見える。体に寄生している妖怪のような、どこか不気味な見かけをしていて、実際性器の形を組み合わせて顔にした妖怪の戯画みたいなものもあった。今のような医学的な説明がなかった頃の生殖器が持つ印象は、他の体の部位とは違って明らかに硬さや形が変わったり、月々出血する、手足のコントロールとは管轄の異なる奇妙さを持った部位だったんじゃないだろうか。中世ヨーロッパでも、ヒステリーの病因は体内を子宮が動き回るためと考えられていて、患者に異臭を嗅がせて体の上部に上がってきた子宮を元の位置に戻すという治療法が冗談ではなく実際にあったと読んだことがあるけれど、そういう私とは別の意思のようなものを持った部分と捉えられていた側面があるのではないか。当時の日本人は性に対して大らかだったと言われる。確かに夫の上に妻が座りつながった状態で妻が子供を抱いてタライで水浴させようとしている絵なんかは、のほほんとさえしていた。でも発禁本と呼ばれるものであったのだから、やはり性にまつわることは本質的には秘め事で。 つまり性に対して寛容であったというのは、よくわからないもの、奇妙さを解明するのではなくそのままにしておき、そういったものとの付き合い方への大らかさであったとも言えるように思う。 見目美しいもの、整った様相のなかにグロテスクなものが垣間見えるそのバランスが官能を誘発し、絵の腕前もあるけれどそれよりこのバランス感覚が決め手だと思った。見ていていいと思うものとあんまり惹かれないものが結構はっきりあった。秀逸だったのは最後の部屋に展示されていた永青文庫収蔵の何十版も重ねた上に紙に型押しまで施された作品だった。見せ方と隠し方、一枚に込められた熱量が群を抜いていた。


2015/9/24

2015年09月24日 | Weblog
いつの間にか心臓をくまなく
覆っていた毛を丁寧に
むしり取って今一度
生なりの心に戻ったら
傷付くことも味覚のひとつと
味わえるくらいに
治癒の経過を観察し
癒えないものはそのままに
風通しよく
生傷は開け放っておいて
出入りするものを歓迎する
鼓笛隊を編成するくらいの
余裕を持って選曲にいそしみ
番茶をすする

2015/9/23

2015年09月23日 | Weblog

猫も杓子も

燗をつける素振りで
酌量の余地を残しつつ
あらたかさの粗を探しながら
絶え間ない目配せを交わす
旅情をまとった浴客A与太者B夜鷹Cは
行き過ぎた燗で
舌先三寸火傷して
台詞回しを滞らせた
旧字体の戀愛にあまねく古傷が
遍在する甘味処で
あんみつを飾る桜桃の
茎を口の中で結び
下手へゆっくり移動すると
ト書きまで口にして殴られくずおれて
散らばった骨を拾い上げ
これ見よがしに口に入れ
お前も私も骸であるところの體なのだと
台詞にないことを
喋りだした


2015/9/22

2015年09月22日 | Weblog

calling water

厳かにたゆたう
呼び水に誘われて
そんな月並な動機に潤んでふやかされ
購入した思う壺の値段は
当然水増し請求で
床上まで浸水する邪気湿気を祓おうと
聖水を吹きかければ吹きかけるほど
不快指数は増すばかり
結局のところ頼りになるのは
エアコンのドライ運転で
電源の行き付く先に身を任せていると
必要以上に乾ききって身を滅ぼしたが
あらゆる水と手を切った体は
循環しない自己完結型
長期保存にも耐え得る
アンチエイジングの化身となって
呼び水はもう一滴の涙さえ誘えない


2015/9/21

2015年09月21日 | Weblog
金木犀は強すぎて
想起には及ばない
既に鼻腔のうちにあって
追憶の隙を与えず
感覚に匂いを手渡しに来る
路地を吹き抜けるゆるい風に便乗し
季節の乗り換え切符ですと
くまなく手渡し手を振る隙に
釣瓶は落ちて夕闇が満ちる頃
さんまの香ばしさが勝り
家々の窓明かりが温みをもって見えるほど
外の空気があたれば
肌が粟立ち
サンダル履きは過ちだった
家に帰って小耳を喰んで
血の気を補う

2015/9/20

2015年09月21日 | Weblog
日没が早まって
帰路は夜に追い越され
塗り込められた風景の
帰り道は描き変わる
帳の降りた公園の
暗がりに立たない背骨
白いドレスの老人が
白粉花の実を摘んで
寝化粧の仕度する

2015/9/18

2015年09月18日 | Weblog

ラ抜き音階

脈々と受け継がれる静脈は青い
粛々と脈絡もなく脈打って
時に嬉々として不整を犯し
足がもつれるワルツのどさくさ
応援団が押しかけて
三拍子は三三七拍子にすり替わり
手拍子を
掌の開花を催促する
太鼓の皮のひびく音
青い山脈に連なる頸動脈を
ピアノ線できりきり切断し
連なったものたちは分かたれて
山は山
YAMAHAはYAMAHAで
正しい音階を奏でるよう
調律される
ドレミ
ファ
阻止


2015/9/17

2015年09月17日 | Weblog

なんで最近詩のような言葉を書いているかというと、言葉が生む動きというもののことを考えるところから、日記的な語り口でない言葉の編成を試す必然が出て来たため、だと思う。

日記だと一日のうちの行動や移動や、ものを見て感じたことの動きをクロッキー的にざっと描き取ることができる。小説的な書き方だとある場所やそこにあるもの、人物の感覚や動き、状態をもっと克明に書くことができるというか、言葉と言葉のあいだからもっと書くことが見つかり、そういう導線に導かれて展開する、長く書くことで出てくる動きがある。詩のような言葉の編成には言葉自体の音や並び、遊びの感覚と意味の転倒、ぶつかり合いでめまぐるしい動きが起きる。そういうことは書いてみてようやくわかってきた。

読む人のなかにどういう知覚、感覚の動きを引き起こすことができるか。この読む人は書きながら読んでいる私も含まれる。 つまりキーを叩きながら考えていることは一向にダンスのことなのだけれど。もうひとつ書くことにこだわりはじめた理由は多分、浅瀬で言葉にできないとか言葉にならないというような感覚に自分がなるとしたらそれは言葉にすることへの怠惰だと思う節があり、例えば自分がダンスを、しようとかやりたいと思うときに言葉で型取れるイメージの方が的確に言えてしまうようなところに体を据えてニュアンスをまとわせてなんとなく動くことがどうしても許せなくなってしまったので、浮かんでしまうイメージや私的なもの詩的なものはもう全部書き尽くしてそれでも尚ダンスでしかやれないものがあるとしたらそれだけをやりたい。もちろん絶対に言葉にできないものはあるという信条の上で。言葉にできない、それは何なのかというようなことを思ったため、だと思う。