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流出雑記 

2015/4/25

2015年04月26日 | Weblog
右の後頭部の付け根から肩につながるあたりの筋が、寝違えのきついやつみたいな感じで痛いのが一週間以上治らなず一昨日踊って悪化した。アンメルツで誤魔化してたけどだめらしい。
振り向く、俯く、反るの首の動きの可動率が正常時の20%くらいで、特に朝起き上がる時が痛い。
上体、頭を持ち上げるのにこんなに首の筋力が関与してたのかと気付く。首が座るっていうのはつまりこのあたりの筋力の発達によって可能になるのだなと最近つかまり立ちが出来るようになったマイラバー甥を思い出す。

高原さんが泊まりに来ていた。
照明の色彩と感覚についての実験をしてうちで夕食。ヤムウンセン、トムカーガイ、ガイヤーン、アボカド豆腐ナムプリック和え、新ジャガ揚げ、コメツブツメクサおひたし、小松菜と厚揚げはチリインオイルで炒めるつもりだったけれど、タイ色が強すぎるのでだし醤油で和風にした。前の日に材料の買い物でスーパー3件くらいめぐってもパクチーが売り切れていた。暑くなって需要が高まっているのか。結局夫がイカリで見つけてきてくれた。
いろんな国のビールを味比べしながら飲み、明け方寝て昼前に起きた。
大学でダンス公演を観る予定だったので、大学の前のグランディールでベーグルなどを買って瓜生山登山し、在学中はなかった中腹の憩いの場でパンを食べて公演を観た。「今晩は荒れ模様」というダンス公演。作品性振付どうこうというか性別という要素の大きさを感じた。
高原さんはそのまま山口に帰り、その日の夜は公演を観に来ていた齋藤さんと白河で飲んだ。

夜にNHKで熊本の慈恵病院のドキュメンタリーをやっていた。赤ちゃんポストを設置した病院として有名だけど、養子縁組の取り組みも積極的に行なわれている。
いろんな事情で育てられない子供を妊娠して間も無く出産する女性の赤ちゃんを不妊治療を長年したけれど子供を授からなかった夫婦が養子に迎えるまでをナビゲートするその方法が興味深かった。

まず養子に迎える夫婦も予定日に産婦人科で待つ。出産する女性と顔を合わすことなはく、カーテン越しに産声の聞こえる距離で待つ。育ての母になる女性は出産する女性と同じようにマタニティパジャマを着る。

女性は難産で、長時間に渡るお産で胎児の心音が弱まったため帝王切開することになった。夫婦は祈りながら待っている。赤ちゃんが取り出されがすぐに産声が上がらず、一瞬分娩室がしんとしたあとすぐに産声が聞こえた。安堵する夫婦のもとに産まれたての男の子が看護婦さんに抱かれて来る。ふたりは交互に赤ちゃんを抱き、特に母になる女性は今まで生きてきたなかで一番うれしいと言って泣いた。
その感情を理解しつつも驚きだったのは、遺伝子的にもつながりはなく見ず知らずの女性のお腹から産まれた子供を「私たちの」というふうに受け取れる感受性の在り方だった。
自分の子供ということを想像するとき、そこにつきまとう偏愛の理由は自分と愛する人との間に発生した生命の続きであり、誰でもその物語を固有のものとして強く思いたいはずだということ。最近の読めないまでに変わった名前を子供につける背景には、他の誰とも違う、私たちの、という強い握力を感じる。
もちろん長いあいだ不妊治療をしてきた夫婦にはいくら望んでも叶えられない、それでも尚、という思いがある上で養子縁組という方法で子供を授かることを選ぶ他なかった抜き差しならない事情がある。でもそこから個の体の外にある体からもたらされたものを分け隔てなく受け取るさまを見ながら、個の体で完結しない大きな体がイメージされた。
どうしても子供がほしいというのはこの夫婦の私的な欲望と言えるけれど、手を伸ばした先に個の体を突破したものに触れている、そのことが感動的だった。

2015/4/24

2015年04月26日 | Weblog
まだ見てなかったキム ギドクの「ブレス」見た。
死刑囚役のチャン チェンが鬼のようにかっこよかった。そもそも相当男前だから何やってもまずかっこよくはあるけど、「役」によって何を差し引けばこの俳優が最も魅力的に見えるかを監督はほんとによくわかってるのだと思った。少なくとも物語を説明するための要員として役に従属させている印象を受けない。だからこの映画でチャン チェンのあり方はもちろん物語の範疇に居ながら語ることに追われない分姿というか、とにかくそこに居るということを十全にやれていて、かつ死刑囚で数日中にもその姿を消す可能性をずっと引きずっている設定がそれにバイアスをかけ、結果より強くなっているように思えた。

キム ギドク「悪い男」はヤクザが惚れた女子大生を自分の触れ得るところまで貶めて売春婦にしてしまうけれど、彼女を手中に収めるというよりは、彼女をマジックミラー越しに眺めて暮らす。忘れられないのが「弓」で、老人の少女への切実な想いが最終的に一回転してコメディになる寸前だった。キム ギドクの愛は間接的超直球。


近くの空き地にわんさか生えている小さな萩のような葉で黄色い花を咲かせる植物が生えていて、見たところカラスノエンドウなどに近く、黄色い花はシロツメクサなどの咲き方に似ている。食べられそうだと思って調べたら、やはりマメ科でコメツブツメクサかコメツブウマゴヤシのどちらだった。
若芽をたくさん摘んで洗ってさっと茹で水にさらす。細く切ったにんじんとおひたしにした。くせもなくしゃきっとした食感でおいしい。
カラスノエンドウ、スズメノエンドウは空き地などどこにでもわさわさ生えているし、地表から離れたところにツルが伸びるので取りやすい。しばらく我が家の青物はこれらマメ科の草々に頼ろうか。取り放題無農薬野草。一昨日生駒に仕事に行ったとき、道端にカラスノエンドウに似ているけれど、花が房咲きで豪華なのを見つけた。近くでは見たことがなく、調べたらクサフジというやつのようだった。雑草と呼ばれるのが惜しいような花だった。

あと近所で3カ所目のミント群生地隊を見つけた。ミントはほっておくと交雑してしまうから野生化しているのは何の品種かわからないのもあるけど、葉の形と表面に毛が生えているからアップルミントかと思う。ビニール袋いっぱい摘めるほど生えていた。しかも育ち盛りを摘芯したことになるので、ひと月後くらいには脇芽が育って葉は倍になる。摘んだミントはシロップにする。フレッシュハーブの場合まず一度湯通しして青臭さを抜く。それからハーブが浸るくらいの沸騰したお湯を静かにさせて2分程火にかけて10分蒸らす。ハーブを濾してお湯の重さを計り、同量の砂糖と加減を見ながらクエン酸を溶かす。レモン汁でもいい。

出来たシロップを炭酸割りで飲んでみたら、ミントのメントールはそれほど強くなく、りんごの風味があった。やっぱりアップルミントだった。

2015/4/23

2015年04月23日 | Weblog
雨続きの日が過ぎた。
花粉症は4月半ばを過ぎるとほとんど出なくなる。それでようやく布団を干せるようになった。冬用敷き毛布と電気敷き毛布は洗う。

最初のモッコウバラが咲いた。他のばらの生育は、最初につぼみをつけたのは粉粧楼、次がディオレサンス。勢いがあるのはクロードモネ。勢いがあんまりないブルドゥパルファム。
だいたい毎年一年でなくなっていたレモンバームとペパーミントとパセリが今年は冬を越えている。

朝、子供を産みたいか産みたくないかではなくそのどちらとも言えない心境の結婚して数年経つけど子供のいない三十代、つまり私のような女性のブログが何かしらでシェアされてタイムラインに出てきたのをざっくり読んだ。
結婚すると周り、特に目上の女性に多いが、悪気なく子供はとか早い方がいいよということを言われたりする。そう言われることを特にプレッシャーに思ったことはないし、そういうものだろうくらいにしか私は感じていなかった。

最近は積極的に欲しいとも欲しくないとも思っていない。なるにまかせる。この感覚はブログの女性とほぼ同じだと思う。
と言いつつ今のところ自分の体に他人を育む余裕はないんじゃないかと感じているのが正直な言い方かも知れない。それは生活その他自分が身を置く状況に対応してそう思う。
体の持っていき方の問題、ひとつ前に書いた葬儀について、どう生きて死ぬかについて思うときに、子供がいるかいないかでは違う展開があるという想像はつく。単に自分の面倒を見る人がいるかいないかではなくて。いたとしても面倒を見てくれるかどうかはわからないけれど。
そういう為ではなくて、自分の生きている限りがきたときに、その先にまだ続いて行くものが残るか残らないかの違い。それは私ではないけれどある部分私の要素を持っていて、私の見ることの出来ない世界を見、私の考えないことを考える。そういう他者を残すこと、未知へ開けた可能性を残すということ自体は、この先の世界がどんな状況になろうと関係なく肯定すべきことだと思う。それはわかる。わかるのだけど、そのことのみに必死になれない。往生際が悪い。いや逆か。子孫を残す=終わらない=往生際が悪いということか。じゃあ子孫を残さないのは往生際がいいということになるが、それもなんか違う気がする。つまりは往生際の際に居続け、そこで何かやりたいことがあるのか。

2015/4/20

2015年04月20日 | Weblog

最近葬儀、葬送について調べていた。
高齢化、独居、経済的事情、宗教への無関心、地域とのつながりが薄くなったこと、などの理由から、この頃は通夜、葬儀を省いた直葬の需要が高まっているという。高齢になって働いていた頃の同僚とも縁遠くなり、地域のコミュニティにそれほど関わりがない場合、参列するのは親族くらいになる。さらに子供がなく、親戚とも付き合いをしていないとなると、必然的に参列者が少なく、式をする必要がなくなってくる。また大金を使って自分の葬式をあげないでほしいという人も多いそう。

時代のニーズ、経済事情と効率化を優先することによって死者を送る儀式が簡素になる事情の致し方なさはわかる。でも葬儀自体を単なる手間とすっとばしてしまうことには引っかかる。

今まで親族や友人のいくつかの葬儀に参列した。特に自宅で亡くなった祖母の時は、死亡確認をして、葬儀屋が来て打合せをする一連の流れを見ていた。
祭壇にも棺桶にも花にもランクがあり、葬儀の規模によってカタログを見ながら選んでいく。
葬祭場では動きにも言葉の端々にも喪の色を着色したような職員がいて、形式ばって段取りが見え、会場もスケジュールで動いているし、そういうサービス業だから仕方ないとわかった上でもはりぼて感は否めなかった。これには葬儀に関わる人々が信仰をほとんど欠いているのにその形式だけを採用していることも原因だと思う。
きっと誰しもそういう葬儀の一連を垣間見れば、本来的な葬儀の意味を汲み取る以前に形だけの胡散臭さに、これは無駄ではないかと思うに至る。私の時こういうことは必要ないと言いたくなる。

ほんとうに重要なことは、故人の死をまっとうに悼み、死した人に対面することでやがて自分にも訪れる死について思う時間を過ごすこと、つまりそれは生きているということを鑑みる機会になるはずで、そういう機会が省略されていくということ、つまり死について考えなくなる社会になっていくというのは素朴にまずいと思う。

死に様は生き様だという言葉を聞いたことがある。確かにどういう場所に身を置き、どれくらいの人と関わったかによって葬儀の様相も変わってくる。何も多くの人々に悼まれ盛大な葬式を挙げることだけが立派だとは思わないけれど、誰にも惜しまれず、知られずに孤独に死ぬことは侘しい。どうしたっていずれ死ななければならないわけで、死んだ後自力ではどう頑張っても墓穴に入れない。そんな死んだ後のことまで考えてられるか、あとは野となれ山となれ、というふうに自然に消滅できないから、この体は誰かにどうにかして葬ってもらわなければならない。

たまたま今朝のテレビで、どういうふうに埋葬されたいかというアンケート調査をしていた。インタビューに答えていた多くの主婦は夫と同じ墓に入りたくないと答えていた。理由は死んだ後まで一緒にいたくない、夫はともかく夫側の親族の墓に入れられるのが嫌だなど。そして今は樹木葬というのが流行っているそう。墓石を建てずに遺骨の場所に木を植える。費用は墓を買う半額以下で済み、継承者も必要ではなく、管理費もいらず、宗教にも縛られない。それに土に還るというナチュラルな印象がようやく現世のすべての煩わしさから解放されてひとりで自由になるということをイメージさせる。既存の宗教というものとは違うけれど、拠り所として自然を選んでいる。自然崇拝というと堅いけれど。選択の余地や迷いなく墓に入れる時代が過ぎたということ、つまり生き方が変わったということなのだと思う。頼るべき信仰を持たないとしたら、最期に自分がどうありたいかをイメージすることが必要になる。そこから自ずと誰と何処でどのように今、という目測がつくようになるのだと思う。


2015/4/12

2015年04月13日 | Weblog
なぜ小説を書いてみようと思ったか。

なんとなく始めたこの日記も気付いたら8年になっていた。もちろん毎日書いていたわけじゃないし、写真だけの日もあったけど、曲がりなりにも辞めずに何かしら書いていた。
書くことが嫌いじゃないのだと思う。
でも日記の言葉はいわばクロッキーのようにある1日の出来事や記憶の印象をさっと書きとる感覚で、ひとつの言葉にしつこく執着せず端的に言い得る言葉を捉えていく感じがする。
だからそうではない言葉との付き合い方をしてみたいと思った。ひとつのことを綿密にしつこく書こうとするとどういう言葉が引っ張り出されてくるのかをやってみたい。実際書いていると、言葉のあいだから見つかる埋れた言葉というのがあって、さらにそこからまた別の言葉の展開が見つかってそれが数珠繋ぎになっていく感じがある。

長年の自己観察の結果、やはり自分の嗜好性はアブストラクトなところに根付いている自覚があって、絵を描いても具体的な対象を描きたいとどうしても思えなかった。言葉を扱う場合、どうしてもそれは具体的な意味をはらんだものだから、色と形のバランスだけで画面を構成するのとは違い、余白と痕跡以外のことを考えなければならなくなる。つながった前後が構成する意味はある種の枷でもあって、そこからのつなげ方と裏切り方がある。言葉はこうして既にあるもの、だけれど、並べなければまだないとも言える。記号があった方が自分にとっていいような気がしている。

2014/4/10

2015年04月11日 | Weblog
朝、先に起きて仕事に出た夫から携帯に写真が送られてきていた。
小麦が今まで乗ったことのなかった階段の途中にある客布団置き場のところに乗っているようすだった。そこは階段の踊り場から結構思い切ってジャンプしないと届かない位置にあって、そこにいるのは小梅しか見たことがなかったから、小梅よりやや体重の重い小麦には無理なのだろうと思い込んでいた。
どういうきっかけだったのか、夜のうちに小麦はチャレンジして成功したらしい。春は猫も新しいことに挑戦したい気持ちになるのだろうか。

最近よく雨が降る。
今朝は少し陽がさしていたので洗濯をして、掃除機をかけて中の猫の毛の溜まり具合を最後に確認する。サイクロン掃除機のいいところはゴミの溜まるところが透明で見えること。この時期の掃除機はやりがいがある。
お昼の炒飯を作り置き、冬場に食べきれると思っていたのに余ってちっともなくならないオートミールを焼いてグラノーラにする。でもグラノーラは買うよりかなり安くできて毎朝それで飽きない。
晩ご飯の準備、みそ汁とサラダ、メインは昨夜のうちにカイパローを作っておいた。タイ風おでん。八角が効いた角煮のみたいな感じの甘辛い煮汁で手羽元と玉子と厚揚げを煮る。昨日は厚揚げのことをすっかり忘れていたから今日は鶏と玉子のみ。そして家を出る。

あんなに雨風にあたったのに桜はまだ枝に残っている。大半は路肩に吹き溜まっているけれど、毎年気付いたらはあの大量の花びらはどこかに消えている。

小説を書いている。というと立派に聞こえるけれど原稿用紙10枚以上のものを書いたこともない。でも書いてみたいと思った。まだ16枚くらい。