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流出雑記 

2016/5/30

2016年05月31日 | Weblog
曇り

通っていた母校の高校の彫刻科、首の仕事が終わる。

詩が変わってきた。いくらでも人の影響を受けられるという何もない強み。意味や韻にとらわれないけれど、一遍である非統合のまとまりを組織したい。去年の夏頃からここに詩のようなものが混ざり始めて、しばらくほっておいたけれど、わけたくなり、詩を書く私をわけてその私に名前をつけてそっちで書いてもらうことにした。
http://mikakosaga.tumblr.com/

毎日あほみたいに写真を撮ってしまうのでメモリがない。パソコンにうつすやり方がわからないので、もういらなそうなアプリを消したり、過去の写真のいらなそうなのを消したり焼け石。

晩ご飯に作っておいたチキンカレーはヨーグルトを水切りしたときに出た乳清を使って作ったからかおいしい。

2016/5/29

2016年05月29日 | Weblog
午後から雨らしいのに朝は完ぺきに晴れ。

最初のばらがいったん咲きはらして、インターバルに入った。そのすきにあじさいが咲く。気掛かりは発育不良なジュードジオブスキュアとブルドゥパルファム。まだ蕾をつける気配すらない。日照の問題かも知れないので鉢ポジションを変える。

感覚の過活動と伴う一種の冴えがある。しばらく書けなかった詩が書けるし、あらゆるものに詩的知の要素を見出せる。たぶんそういう時期なんだと思う。

久々8ポーズ固定で一点を見続けたら脳が溶けそうになったけど、その間に写真のコンセプトが3つほど浮かんで、休憩中はそれを言語化する。だいたいのことを予め決めるのが嫌いなのに、写真の場合は予め決めないと目を向ける先がわからない。

2016/5/28

2016年05月28日 | Weblog
曇り小雨。

たぶん撮りながら作られていく目というものがあるらしく、意識的に撮るという行為を課したら、さまざまなものの形と形、並列にフックを見つけてしまうようになる。動機付けさえあれば、構図を切り取る理由ができる。周りのすべてが自分に関わりをもってくるようでちょっと目がまわる。ああこれはまるでイングレスやっているときと同じだと思った。ただイングレスの場合すでにポータルという布石はあるのだから、そういう仕掛けのないところでシャッターを切るのとは違うけれど、街との関係が何もしないときより密になる感覚が似ている。

作品に携わり劇場のなかでしか考えられないことと、劇場の外で野放しのままの手足でしか考えられないことがある。どっちかでなくどっちもいる。

2016/5/26

2016年05月26日 | Weblog
雨の予報だったのに案外降らず、夜になってようやく降り出した。

午前中、掃除してから画材屋へ、白の不透明ペンを探しに。ついでに葉書サイズよりちょっと大きい画用紙。
生クリームとイチゴジャム買って道々目についたものを撮る。

帰ってココアを濃く溶いたものとイチゴジャムを合わせたアイスクリームを作る。

白のペンは30分と経たないうちに先が潰れた。久々に水彩を使ってみる。
滲んだ色の良さとなんだか簡単に雰囲気ができてしまうことの良くなさ。ペンで描くことの線の重なり絡まって絵ができることへの親密さと、けれど手の痕跡のうるささ。消したり描き足したり、行きつく先はどこか。

夜、タイで買ったスパイシーチキンライスのシーズニングで鶏と米を炊いた。カレーピラフみたいな感じで蒸し暑い日にあっていた。アイスはイチゴジャムの存在感が薄いがおいしかった。

2016/5/25

2016年05月25日 | Weblog
久々に曇り
敷布団の上に敷いているのと、うたた寝用毛布洗う。
ディスタントドラムスがはじめて3輪まとまって咲いた。日差しに弱く直射日光を浴びると一気に退色するので開花した日が曇りでよかった。茶色を感じるオレンジピンクが花びらの外に行くほどワイン色になる。この微妙な色合いのグラデーションは心底好み。香りは強くないけれどよくよく嗅ぐとクローブの香りがあった。

買い物に行ってドラッグストアでクエン酸とオリブ油、どうしてそんなに安いのか38円の豆腐。スーパーで玉ねぎ、どうしてそんなに安いのか48円のエリンギは2パック、舞茸、にんじん、ピーマン。玉子、米。

しばらく写真を撮ることを習慣化してみようと思う。風景を前に何にシャッターを切るか。

母からもらった大袋の煮干を使うため煮干で出汁をとって味噌汁を作ったらおいしかった。出汁がらは猫が食べる。

雨に当ててしまって開かなくなった粉粧楼の蕾を切った。花びらが薄く特に雨に弱い品種なのに濡らしたらいけない時期に雨が続いた。
切ってしまったので蕾の中がどうなっているか、ためしに真ん中から真っ二つに切って断面を見てみた。粉粧楼は白で中央だけ少し桃色が入る。その花びらの凝縮された状態、目の詰まった冬のキャベツみたいな。中は少し湿っているというか、油気がある。香りはしない。


2016/5/24

2016年05月24日 | Weblog

連日30度、夏日の晴れ続く。そのあいだにコート、ストール、毛布等片付ける。

先週末に終わったKYOTOGRAPHIE、全会場はまれなかったけれど、気になったものについて。

アントニー ケーンズ LA-LV  撮られているのは都市の風景、コロタイププリント、アルミ板にプリントされた色のないの写真。写真の工程、技法のアナログと撮られている風景の現在、実際像となってあらわれたものの近未来的な印象、その混ざり方のバランスがいい。技巧的なものへのこだわりや懐古趣味ではなく、都市風景の蛍光灯的陰翳の魅力や、ビルや標識、街灯の等間隔な並列、道路が作る図形の構図の魅力、徹底して無人のそういった風景、人のにおいや体温の気配が視覚的に介在しない冷感の心地よさがあった。

チェン ハイフェン The Green Train  中国のもっとも料金の安い列車に乗る人々を8年間撮影し続けた写真。大荷物と人でごった返した車内、床の果物やナッツや食べ物のゴミの散らかりよう、ペットボトルのフタで酒を酌み交わす乗り合い客、出掛ける装いにも貧しさが滲んでいるよそゆき、やたらビビッドでデザインの妙に凝った服を着ている女性や子供、下半身のない男性、各々持ち込んだ毛布に包まって座席で眠る、そういった車内の様相を作家自身もバックパッカーをしながら撮っている。作家の創意というより被写体への親近感のある視線によって切り取られた車内に漂う雰囲気、被写体のありよう。

クリスチャン サルデ PLANKTON この作家は海洋生物学者だそうで、顕微鏡写真で写された微生物の様態の数々。肉眼で捉えられないミクロの生きものの奇妙な幻惑の形状。こうなると写真どうこうではなくて、写真のおかげでこういうものを大きくみることができるのだけれど、とにかくもう微生物だった。義務教育の生物の時間に覗いた顕微鏡でボルボックスを初めて見たときの感動などを思い出す。映像と音楽のインスタレーションには必然を感じられない。

ティエリー ブリット うまれて1時間のぼくたち タイトルのとおり新生児の顔のアップだけを白バックで撮っている。白い円形の空間の壁面にいくつもの生まれたての顔。目を開けている子もいる。「持って生まれた○○」という言い回しがあるけれど、生まれたてでもすでに何かを持っているというか知っているのだろうと思わざるを得ないくらい各々の「顔」がある。体外受精専門の病院で撮影されたらしい。この誕生に人の技術が介在しているということはもちろんわからない。

サラ ムーン Time Stands Still 展示会場が重森三玲の旧主部屋で、内装に気を取られながら、和紙にプリントされ部屋の隅に吊るされるかたちで展示されているプラチナプリントの風景写真。ほの暗い部屋の隅にぼうっと浮かぶ風景。サラムーンの写真の静けさと美意識が場所に貫かれたそれと照応している。

サラ ムーン Late Fall   ギャラリー内は作品が見えるぎりぎりまで照明を落としている暗さで、日中の外の明るさに慣れた目で急に中に入ると見えない。しばらく中にいると目が慣れてきて、そうすると作品が浮かび上がってくるように、見えてくる。大きく引き延ばされた写真は植物標本や剥製の鳥を撮ったもの。写真と言われなければ絵画に見える。何が写っているかは認識できる程度に輪郭は不鮮明。だけれど、サラムーンが採用するブレには求心的なものを芯に感じる。モチーフとなっている標本や剥製はすでに生きてはいないものだけれど、撮られることでさらにその上から死のイメージを重ねられているように感じる。生の姿を留めた死に死の姿を与えている。そういう息吹を吹き込むことがこの人は写真でできるのだと思う。ファッション写真にしても風景にしても静物にしても、綿のような終わりが画面に重なって滲んでいる。私はたぶんサラムーンのそういうところが好きなのだと思う。

クリス ジョーダン+ヨーガンレール 環流からのメッセージ 晩年石垣島で暮らしたデザイナーのヨーガンレールが浜辺で集めたプラスチックで制作したランプとクリスジョーダンのプラスチックを大量に飲み込んで死んでしまって流れ着いた海鳥の死骸を撮った写真。ほとんど骨と羽だけになった鳥の死骸の真ん中にペットボトルのキャップ、ライター、発泡スチロール、などの色とりどりのプラスチック片がまるで構成されたように置かれているけれど、それは鳥が飲み込んでお腹に溜まっていたもので、同じような状態の死骸の写真が何枚もあったので、それが稀に見られるもの、という訳ではないらしいことがわかる。そしてヨーガンレールの浜辺に打ち上げられた何かの容器や部品や蓋であったプラスチックを色分けして作られたポップな色合いのランプ。現実に目を向ける、ということの、生(き)のままの酷さを写すこととと創作物を媒介として伝えるという二通りの筋道。同じ問題に対しての異なるアプローチが混在していること、双方あることの必要性を感じた。

現実へのアプローチということでいうと、福島菊治郎の写真は本人が生前自作した解説付きのパネルで展示されていた。多くの人の目から遠ざけられているもの、隠されて見えないもの、目を背けたくなるもの。そこに写るもののためにカメラを携え、過酷さに足を踏み入れ魂を疲弊させながら晩年まで撮り続けたまっとうな怒りを宿している人の痕跡、アートの地平から離れたそういう写真に浮かぶあばら骨やケロイドからしか受け取れないものが確かにある。そういうものも自分の鉛として飲もうとすることが人の振舞いのなかに沈思の痕跡を残すのだと思う。

写真、人の目によって見られたものを見るとき、私がここにいることで私は他のあらゆる場所で起こることを見逃し続けるのだと気付く。私の目のなかのものは誰も見ていない。中平卓馬は肉眼レフと言ったけれど、私は何に目をむけているだろうか。


2016/5/19

2016年05月20日 | Weblog
昨日野獣死すべしを見ながら松田優作、演技というより、大柄な人の骨格の、特に長い指のあいだとか、股下とか、そのまわりの空間のありようが他の人と違って見えるせいか、異様で優雅で持て余しているような空間がにあってそれが怖くていい。

毎日ばらが次々咲く。バリエガータボローニャは花数と花びらの数が多くてわりとはやく散るので散る前に切っては家に引き入れるのが忙しい。

今週末で終わるKYOTOGRAPHIEを隙を見つけては巡っている。
まだ全部見れてないけれど、知らない写真家の写真をまとまって見る機会はあまりないので行事にしている。今年の主要アーティストはサラムーンで、何必館で展覧会があるのと、他2会場で展示がある。
高校生のとき何必館でサラムーンの展覧会をやっていたのを見に行って、図録というものを自発的に初めて買った。

今回いろんな展示会場を巡りながら、去年と同じ場所もいくつかあるけれど、それは別に同じでもよくて、ただ、会場自体が趣きある京町家の造りの建物だったりすると、写メは許可されているため、見に来ている人はわりとカシャカシャ撮るのだ。庭や建物や写真自体を。それをInstagramにアップしようということも促している。つまりそれで話題性やイベントの盛り上がりを可視化できるのだろうけれど、展示というのはやはり空間を含めて作品を見る行為なのだから、写真単体をだけ眺めるのではないのだから、空間を含む作品をそうやってコマーシャルに取り込むというか、写真がそのように使われること自体考えるべきことがあるんじゃないだろうかと思う。
特にマグナム フォトの様々な時代の難民の、荷物を抱えて追われる人々の写真が並んでいる側でまず庭を撮る人の振る舞いを無視できなかった。場所の方が気になるということが特にこの写真では良い作用に思えない。難民の写真は大小様々な箱型のものに展示されていて、キャプションは箱の後ろ側に貼ってあるので、箱を手に取り、裏返して見る、という動作を要請する。なんとなくその要請というか振付に付与された意味を勘ぐり始めると、写真に写っているもの自体のことよりキュレーション意図がせり上がってきて、これはものの見せ方として少し押し付けがましいのではないかと思ってしまった。特に扱われている写真の題材との兼合いで気になってしまうことがマグナム フォトの展示では多かった。

またまた今朝Twitterだったかで、美術展の会場で障害(害をひらがなにするかどうかみたいなことをよぎらせられる奇妙さ)のある人が奇声を発するのが不快であると学芸員に文句を言う人があったというのを読んだ。私は美術展でそういうことは今までないけれど、電車の中などではあって、その時どう思ったかを回想すると、普通の意味で驚くし、近くにいるとちょっと怖い。それは私たちがしつけられたような公共の場での配慮というものの通用しない、かつ宛て先の読み取れない声だから。電車の中だと驚く、ちょっと怖い以外に特に何もない。
美術展だと不快だろうか。その美術展が何を展示していたのか知らないけれど、
芸術作品を鑑賞する場において奇声は不快だと言った鑑賞者はどうせ大して何も見ていないでしょと思う。この作品静かに見たいのに、ということなら理解できるところがある。でもそうだとしたら、奇声を発した人が別の展示室へ行くまで待つとか、誰も排除せず鑑賞者が鑑賞したいように自分を移動させるしかない。

誰も排除せず鑑賞者が鑑賞したいように自分を移動させるしかない。というのを今回マグナム フォトを見ながら感じたことに当てはめると、写メを撮っていた人たちが帰って行くのを待てばよかったのだろうか。
けれど写メを撮る人と不快を訴える人にはどこかものを見ることに対しての共通する盲目さを感じる。

2016/5/14

2016年05月14日 | Weblog
晴れ。もう暑い。
祖母十三回忌で久しぶりに実家。
荒れた庭にはやたらシランばかり元気。白と薄紫とピンクのタツナミソウ。

男子中学生になっていた従姉妹の子供がグレないで大きくなって坊主の野球部だった。つまらないに違いない親族行事にちゃんと参加している。私の背を抜いていた。
彼は小さかったので祖母の記憶はないし、この祖父母が暮らした家にもほとんど来たことがない。古い家が珍しいようで2階に上がってみたりしている。

実家の実家らしさ。法事用の数十客揃いの茶器がちゃんとあったり、それくらい普段は使わないようなものの数々、物量を仕舞ったり備えたりしている。
もうすぐ2才の甥のピヨは広いのがうれしいらしく走り回っている。
久々2階に上がった。ほとんどのものはもう処分してあるから微妙に残された家具があるくらい。私が小1の頃、同居に際してリノベーションされた半端な洋室部分、日に焼けて油気がなくなったかさかさしたフローリング。今は父しか住んでいないこの実家は最大時7人家族で暮らした家だった。父は2階の父の部屋と1階の生活スペースだけを使って部屋の半分以上は使われず、傷みながらただ空間として、家の仕方なしにある一部として存在している。

住職は20年以上前から知っているのに時が止まっているように老けてもいない。
おつとめのあと仏教ではものごとの「効率」ということは考えない、そして「割り切らない」という話しをした。私は数珠を忘れてきた。

お昼は泉仙の折詰でうれしかったけれど、男性がいるので足りないとあれだという母の配慮で2段だった折詰は、丁寧に煮炊きされ、作られた色とりどり種々のお惣菜の繊細さで満ちていて、うれしさで箸を進めると思いのほか量で胃を圧迫される。

妹の旦那と父が縁側で喋っているのを見てうれしい。この家はもう半分死んでいる。私はたぶんそのことがずっと悲しい。だから、束の間でもこの家に人がちゃんと居る風景を見ることがたぶんうれしい。
この家はあと数十年のうちに処分されるだろう。そしてその方がいいとも思っている。私は引き継げない。現実的にも物量としても重すぎる。けれど本当に引き受けたいものはそこにある土地でも家でも物でもたぶんない。季節とそれに即した生活のありようや、庭の風景を、覚えていようとしたことなんてないのに、美しかった些細なものやにおいを全部覚えている。
玄関に庭のシランを生けた母のことを好きだと思った。

2016/5/12

2016年05月13日 | Weblog
ようやく晴れて思うさま洗濯。

ディオレサンス2番花。すばらしい香り。コーネリアも新苗なのに花を見せてくれた。粉粧楼は明日くらいに咲きそう。クロードモネもほころぶ。

夕方西日のなかを買い物に下ったら暑い。
洗濯物がカラカラに乾いていて嬉しい気持ちがいい。蕾の粉粧楼にコガネムシが食い破って入り込んでいるのを見つけ、花の首ごと切り落としそのままビニール袋に密封してゴミ箱に捨てた。

夜は人をお招きし、ルンダン(インドネシアの牛肉を煮た料理)、ひよこ豆カレー、アチャール(インドの漬け物みたいなもの)、エリンギマリネ、アボカドと豆腐のヨーグルト味噌漬け(アボカド一晩、豆腐3日)それに昨日釣られて一夜干しの鯵のお土産が加わる。

6月に壁を登る約束をした。

2016/5/10

2016年05月11日 | Weblog
曇りのち雨 ものすごく洗濯をしたいのに。

バリエガータボローニャは一輪開いたら続々咲いてほぼ満開。
叡電の茶山~一乗寺の間の線路沿いに種が飛んで増えたのか、ニゲラの群生地を見つけた。一帯青い霧のようで目が涼しい。

大島渚「日本の夜と霧」新安保闘争で結ばれたふたりの結婚披露宴の席に逮捕状が出ている新婦の元同志の友人が突然現れ、国会前行動のあと失踪したひとりの友人について語り始め、それをきっかけにそれぞれの安保闘争について討論がはじまる。
長回しが多様されていて、討論のシーンは途切れることなくその場にいる人々が話す。俳優の台詞の言い損じが多い。なぜそうなっているのか。最初から長回しで一発しか撮らないという何かしらの決め事をしたのだろうか。それには事情があるのだということを否応なく感じる。撮影を急ぎ終わらせなければならなかった理由があるのだろうと。この映画を世に出すことが先決で、演技のどうこう以前にこの映画をひとつの行動として残すことを目指されたのではないか。映画は公開4日目に打ち切りになっている。

信州大の色白男子学生がひとり泊まりに来ていた。

午後ずっと料理。置いておく方がおいしいものをいくつかと作ってみたかったインドネシアのルンダン。たくさんのスパイスとココナッツミルクで牛肉を煮込んだ料理。誰の舌基準なのかこれが世界でいちばんおいしい料理らしい。