連日30度、夏日の晴れ続く。そのあいだにコート、ストール、毛布等片付ける。
先週末に終わったKYOTOGRAPHIE、全会場はまれなかったけれど、気になったものについて。
アントニー ケーンズ LA-LV 撮られているのは都市の風景、コロタイププリント、アルミ板にプリントされた色のないの写真。写真の工程、技法のアナログと撮られている風景の現在、実際像となってあらわれたものの近未来的な印象、その混ざり方のバランスがいい。技巧的なものへのこだわりや懐古趣味ではなく、都市風景の蛍光灯的陰翳の魅力や、ビルや標識、街灯の等間隔な並列、道路が作る図形の構図の魅力、徹底して無人のそういった風景、人のにおいや体温の気配が視覚的に介在しない冷感の心地よさがあった。
チェン ハイフェン The Green Train 中国のもっとも料金の安い列車に乗る人々を8年間撮影し続けた写真。大荷物と人でごった返した車内、床の果物やナッツや食べ物のゴミの散らかりよう、ペットボトルのフタで酒を酌み交わす乗り合い客、出掛ける装いにも貧しさが滲んでいるよそゆき、やたらビビッドでデザインの妙に凝った服を着ている女性や子供、下半身のない男性、各々持ち込んだ毛布に包まって座席で眠る、そういった車内の様相を作家自身もバックパッカーをしながら撮っている。作家の創意というより被写体への親近感のある視線によって切り取られた車内に漂う雰囲気、被写体のありよう。
クリスチャン サルデ PLANKTON この作家は海洋生物学者だそうで、顕微鏡写真で写された微生物の様態の数々。肉眼で捉えられないミクロの生きものの奇妙な幻惑の形状。こうなると写真どうこうではなくて、写真のおかげでこういうものを大きくみることができるのだけれど、とにかくもう微生物だった。義務教育の生物の時間に覗いた顕微鏡でボルボックスを初めて見たときの感動などを思い出す。映像と音楽のインスタレーションには必然を感じられない。
ティエリー ブリット うまれて1時間のぼくたち タイトルのとおり新生児の顔のアップだけを白バックで撮っている。白い円形の空間の壁面にいくつもの生まれたての顔。目を開けている子もいる。「持って生まれた○○」という言い回しがあるけれど、生まれたてでもすでに何かを持っているというか知っているのだろうと思わざるを得ないくらい各々の「顔」がある。体外受精専門の病院で撮影されたらしい。この誕生に人の技術が介在しているということはもちろんわからない。
サラ ムーン Time Stands Still 展示会場が重森三玲の旧主部屋で、内装に気を取られながら、和紙にプリントされ部屋の隅に吊るされるかたちで展示されているプラチナプリントの風景写真。ほの暗い部屋の隅にぼうっと浮かぶ風景。サラムーンの写真の静けさと美意識が場所に貫かれたそれと照応している。
サラ ムーン Late Fall ギャラリー内は作品が見えるぎりぎりまで照明を落としている暗さで、日中の外の明るさに慣れた目で急に中に入ると見えない。しばらく中にいると目が慣れてきて、そうすると作品が浮かび上がってくるように、見えてくる。大きく引き延ばされた写真は植物標本や剥製の鳥を撮ったもの。写真と言われなければ絵画に見える。何が写っているかは認識できる程度に輪郭は不鮮明。だけれど、サラムーンが採用するブレには求心的なものを芯に感じる。モチーフとなっている標本や剥製はすでに生きてはいないものだけれど、撮られることでさらにその上から死のイメージを重ねられているように感じる。生の姿を留めた死に死の姿を与えている。そういう息吹を吹き込むことがこの人は写真でできるのだと思う。ファッション写真にしても風景にしても静物にしても、綿のような終わりが画面に重なって滲んでいる。私はたぶんサラムーンのそういうところが好きなのだと思う。
クリス ジョーダン+ヨーガンレール 環流からのメッセージ 晩年石垣島で暮らしたデザイナーのヨーガンレールが浜辺で集めたプラスチックで制作したランプとクリスジョーダンのプラスチックを大量に飲み込んで死んでしまって流れ着いた海鳥の死骸を撮った写真。ほとんど骨と羽だけになった鳥の死骸の真ん中にペットボトルのキャップ、ライター、発泡スチロール、などの色とりどりのプラスチック片がまるで構成されたように置かれているけれど、それは鳥が飲み込んでお腹に溜まっていたもので、同じような状態の死骸の写真が何枚もあったので、それが稀に見られるもの、という訳ではないらしいことがわかる。そしてヨーガンレールの浜辺に打ち上げられた何かの容器や部品や蓋であったプラスチックを色分けして作られたポップな色合いのランプ。現実に目を向ける、ということの、生(き)のままの酷さを写すこととと創作物を媒介として伝えるという二通りの筋道。同じ問題に対しての異なるアプローチが混在していること、双方あることの必要性を感じた。
現実へのアプローチということでいうと、福島菊治郎の写真は本人が生前自作した解説付きのパネルで展示されていた。多くの人の目から遠ざけられているもの、隠されて見えないもの、目を背けたくなるもの。そこに写るもののためにカメラを携え、過酷さに足を踏み入れ魂を疲弊させながら晩年まで撮り続けたまっとうな怒りを宿している人の痕跡、アートの地平から離れたそういう写真に浮かぶあばら骨やケロイドからしか受け取れないものが確かにある。そういうものも自分の鉛として飲もうとすることが人の振舞いのなかに沈思の痕跡を残すのだと思う。
写真、人の目によって見られたものを見るとき、私がここにいることで私は他のあらゆる場所で起こることを見逃し続けるのだと気付く。私の目のなかのものは誰も見ていない。中平卓馬は肉眼レフと言ったけれど、私は何に目をむけているだろうか。