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流出雑記 

2011/3/29

2011年03月29日 | Weblog

カレンダーでは3月もあと2日。この1ヶ月はとても長く感じたし、3月はまだ続くような気がする。

ニュースは原発での作業は汚染水に阻まれ難航と伝える。昨日は敷地内の土壌からプルトニウム検出。それは前からわかっていたとかいないとか。報道されることは事実をどこまで伝えているのか、それを正解に知ることができなくても、あきらかにされないことも含めてすべては時間が経つごとに否が応でも現実としてあらわれ、その様相からようやくこの事態の全貌が見えてくるのだろうと思う。

外に出て、今日はいい天気だなあとただ思い、ただ息をすることもかなわない、土も水もだめになる。快適な生活の代償に一歩間違えば誰の手にも負えないものが関わっていることを全く知らないわけではなかった。ただ何事も起こらず滞りない日々がずっと続くものだと思いたいのでそう思い込んでいた。万が一は万が一なのだからその「一」に気を取られるより他に毎日やることも考えることもあった。

今は出来る限りはやく事態の収束への目処がたつこと、被害が可能な限り最小限に抑えられること、作業にあたる人たちが先の見えない地獄から解放されることを願わない日はないが、事態がすぐに良い方向へ向かわないらしいことは嫌でもわかる。楽観的にいられるはずはないが、ひたすら思い煩っても仕方がない。

来月の今頃、桜が散った頃、福島はどうなっているだろうか。


2010/3/16

2011年03月16日 | Weblog

昨夜静岡付近でも震度6の強い地震があった。1月号のDAYSというフォトジャーナリズム誌で特集していた静岡の浜岡原発の危険を訴える記事を思い出し、一日に何度も会見のひらかれる福島原発の危機的状況と共に、そのうち最も望まれない状況というものが現実になる可能性があるということをようやく身をもって知る思いでいる。DAYSでは数十年の内に起こる予測の東海地震の際に想定される浜岡原発の事故の規模についてこのように書いていた。

 地震によって原子炉のウランが融け落ちるメルトダウンと呼ばれる事故が起きれば、放出される放射能の雲は、毎秒2メートルのそよ風でも、3日間で500 キロ進むのだから、日本の中枢部は、即刻全滅することが分かっている。いや、一週間のうちに、北海道の最北端から沖縄の最南端まで、日本列島が、放射能雲 にすっぽり包みこまれるのだから、逃げる場所はどこにもない。ケタ違いのダイオキシンと、アスベストと、農薬と、除草剤をまとめて日本全土の空から豪雪の ように降り積もらせたより、はるかに深刻な猛毒物に包まれた国になる。室内にこもっても、空気と水と食べ物がすべて汚染されるのだから、日本人は、その先、どうやって生きられよう。本当に日本が破滅するのだろうか?みな、そのような悲劇的事態を想像しないで生きているだけなのだ。国民がその日を想像しないのは当然である。無自覚な新聞とテレビの記者が、その危険性をまったく国民に知らせないからである。(p.20) 

耐震構造に不安があること、想定される揺れではなく想定外の揺れが起こる可能性が高いことなどを挙げ、早期停止を求めるということだった。文面からはかなり脅される感じを受けるが、そのように語らねばならないほどこれは起こりうる危機なのかとその後数日怖さは尾を引いた。即時停止に踏み切れないのは電力会社や原発を誘致した地域にとってみれば多額の損失を生む結果になるなどの事情があるようだが、昨日の地震のあとも浜岡原発は稼動している。福島原発でいま昼夜とわず命がけの作業にあたっている方々がいて、停止後の原発でまだ手の施しようのある状態ですらこの事態。いつ起こるかわからないからこそこのまま浜岡原発を放置するべきではないという思いにどうしても行き着く。停止することで電力不足の問題も出てくるだろう。それをカバーするための別の発電についてもDAYSには書かれていた。すぐに、ということは難しいのかも知れない。でもそんなこと言ってられないじゃないかという思いの方が高まってしまう。いま起こっていることから考えて、浜岡原発停止に関する要望書に署名することにした。

職務を遂行する意思をもち守らねばならない人たちのことを思って高濃度の放射能を浴びる現場に踏みとどまっている作業員の足だって、本当なら逃げ出して家族のもとに帰りたいはずではないか。志願して福島原発の作業に向かう他県の原発で働く作業員の方もあるという。そのような人たちに守られていることにとても感謝をするが、その前にこれは望まれた状況ではないのだ、ということを思う。


2011年3月11日からの日々

2011年03月11日 | Weblog

11日午後、夕方から仕事だったのでそれまでにこまごまとした家事を片付け、夕飯の支度を早めにしておく。豚もも肉を焼いてじゃがいもとにんにく、コンソメでさっと煮ておく。

4時頃自転車で家を出て出町柳まで。淀屋橋行の京阪のホームでお昼以降見ていなかったツイッターを開くと、ゆれてる、に始まり現時刻に近づくにつれてタイムラインが地震のツイートに染まっていく。ただ事ではないことが徐々に浮き彫りになってくる。関西も少し揺れたようだが、まったく気付かなかった。京阪は何か地震の影響があったらしく数分遅れが出ている。

クロッキー会の会場でも地震の話題。まだ地震があったことすら知らない人もいる。描きにきている人はいつもより少ない。
帰りの電車でも常にツイッターが気になる。東北の被害を情報として受け取った人々からもたらされる情報、混乱している東京にいる友人のつぶやき。京阪の車内はいつもと何ら変わりなく、隣の女の子はジョジョを読んでいる。

電車は線路に沿っていつも通りのリズムで走り出町柳へ向かう。そこから自転車、どの道を通るか意識しなくてもなんとなくペダルをこいでいると帰れるほど馴染んだアスファルトの敷かれた導線を辿って家に帰りつく。窓から漏れる灯りの安心。普段意識的にならないことがカギ括弧付きで浮上する心境。

ニュースを見ていた夫が東北が大変なことになってるの知ってる?と、そこでようやくニュース映像で地震がもたらした各地の状況を目の当たりにした。

岩手にひとり友人がいた。学生時代によく即興セッションをし音楽をやったり絵を描いたりしていた彼は実家が岩手だ。

メールを送ってしばらく待っていると携帯がふるえた。彼からの返信。母と弟と車で自宅に向かっている途中に地震にあい、そのあと信号が機能しない道をなんとか帰宅。家族全員揃っていたことは幸い。内陸なので津波の被害はなく家も無事とのこと。停電、電話は不通で携帯もバッテリーが切れると返信出来ないがとにかく無事であるとのメールを受け取り、とりあえずほっとする。

東京に移り住み、街のど真ん中で働く一人暮らしの友人たちのことも気になってメールをすると返信があった。

それからはテレビに釘付けにならざるをえなかった。時間が経つごとにあきらかになる壊滅した街の様相、阪神大震災を超えるであろう増えてゆく死者の数。各地の沿岸部で撮影された津波が押し寄せ、街をさらっていく映像。

その3日前、急にレイトショーの映画に行くことにして、たまたまその時間帯に上映していた『ヒア アフター』を観たところだった。この映画は主人公が津波に飲み込まれ臨死するところから始まる。内容は最近まで読んでいたシャーリー・マクレーンの『アウト オンア リム』にかさなるところがあって奇遇だなと思っていたのだが、スクリーンの奥から迫ってくる水に息苦しさを感じるくらいの迫力で描かれていたその津波が、映画どころではない恐ろしさで、身近な現実として起こるなどとは思ってもみなかった。映画のなかの津波は青い水で描かれていたが、現実の津波というものには透明感はなく、茶色い。

テレビはどこも地震の特番、絶え間ない余震と緊急地震速報の音、地図に散らばる3 4 5 6 という数字。

日ごとに報道はズームになっていく。繰り返される津波の映像、水に浸かった街、避難所の様子、津波に飲まれて命からがら助かった人のインタビュー、はぐれた家族をさがす人、炊き出しのおにぎりを分けて食べる家族。

 

大阪の大学に通う妹が卒業式を迎えた。証書を持った袴姿のメールが届く。

あの姿のない街のなかにも卒業式の迫った数日を過ごしていた子がいただろうか。選んだ袴も予約していた美容室も流されてしまったかも知れない。彼女や父や母や兄弟はどうしただろう。玄関にいた犬、春を待つ桜の木、おやつにとっておいたチョコパイ、使いかけの玉ねぎ、コタツ、捨てるか捨てないか迷っていた靴下、払込用紙、手紙、もう全然聴かなくなったCD、気に入っていたコーヒーカップ…数え上げるときりがない生活のまわりのかたちあるもの、生きものであれ、植物であれ、大切なもの、いらないものも問答無用にさらわれる、あたりまえであったものが無くなる、そういう信じ難いことが起こっている、見るもの触れるものから思う。言うまでもないがそれで感じる怖さや絶望感は実際の体験とは比べようがなく届かない。被災を免れた私はそのことを承知しながら、避難し生きている人たちが生きていく為に必要としているもの、必要になるもののために出来ることを、と思う。

 

 


インプロセッションの會 4月の予定

2011年03月10日 | Weblog

その日集まった人で即興セッションします。

踊る人、音の人、声を出す人、読む人、描く人…いろんな表現をする人が行き交う場になればと思っています。興味のある方、初めての方、どなたでもご参加ください。

【会場】 カフェかぜのね 多目的スペース(カフェ奥のドアの向こうにあります)

【日時】 4月10日(日) 19時~22時 ※多目的スペースは18時から使えます。ゆっくりストレッチなどしたい方はどうぞご利用ください。

【参加費】 500円

 

※自転車は駐輪所にとめてください。

 

質問等あればこちらまで!

figromage@mail.goo.ne.jp (増田)

 


インプロセッションの會 ♯2

2011年03月06日 | Weblog

インプロセッションの會 #2

前回は日曜の昼だったが今回は金曜の夜。

参加者は11人。そのうちミュージシャンが3人。前回は音楽をやる人がいなかったのでCDをかけてみたりしたが、出来上がった楽曲をかけてしまうとその音楽が瞬時に空間を占めてしまい、そのうえで踊ることになってしまう。音楽と踊るのは快なのだが、それに頼り過ぎず、まず出来るだけ要素のない所から一歩を出して空間を立ち上げ、場を展開させることが即興の目的のひとつとしてある。

踊るとき、動きに付随して出る音を頼りにすることがよくある。特にセッションを始めるとき、空間に自分の体を置くスペースを、音によって拓こうとする感じ。服の布地と腕、足の裏と畳が擦れる音、そこからリズムを作って体をのせて、それ以外の音も聞きながら動きを展開させていく。

そこへ自分以外の人が入ってくる/自分以外の人を知覚する/自分以外の人が入ってきた状態の空間を知覚する/それまで紡いでいたリズムでないものが体に反映される/相手もそれを知覚する/知覚した相手を知覚する/そのときその関係性は空間にどのように展開されているか/どのようなバランスで/次にどのような要素を加えるべきか/どのようにありたいと望むか/自分以外の人と共有されている場における自己の要求を体に反映させること/

ふと「空気を読む」という言葉がよぎる。即興の場でやっていることは場の「空気を読む」こととも言えると思ったのだが、この言葉にあまりいい印象がない。最近あまり聞かなくなったがKYという言葉をよく耳にした時期があった。KYは「空気が読めない人」。この「空気を読む」やKYには同調せよ、という加圧がある。即興の場で空気を読むことが必要とされるのは同調し凹凸を整えることを目的としていない。そのとき場に起こっていることに同調してもしなくても良いが、知覚を場に対してひらき、そこでこうありたいと思う体に従うこと、その状態で他者と関わること、繰り返すことの出来ない時間を作ると同時に渡ること。

その人しか踊れないダンス、一見ダンスでないようなものも含めて個々の体から立ち上がってきたものを肯定した先にあるものは何か。統率を避けて個々の判断、そこから決定されるフォルム、状態に委ねるということ。そのことにこだわりたいのは何故か。やりながら考えている。

正味2時間半のセッションで、いつも退出時間ぎりぎりに慌てて出ないといけないので、次回からもう少しゆとりをもってやれるように時間をとろうと思う。