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流出雑記 

2014/7/29

2014年07月31日 | Weblog
晴れ

9月に30分踊る機会があって、どう何をするか考えて最初に思いついたのは、何ていう名前かわからないシンナーのにおいのする、透明の割れないラップみたいなシャボン玉、観客に息を吹き込んでもらって、息を可視化できるものにしてそれを人質に取って踊るみたいなことを考えついた。100均に行ってなんとかバルーンを買ってきて自分で膨らまして突いて遊んでみた。
没かなと思う。

ちなみに猫はどう反応するかというと、目の前に漂わせてみたけれど、においがきついせいか見向きもしない。

昨夜は実家。母の帰りが遅くなるので、夕飯、沐浴の手伝いに行く。妹は頭痛がするらしく授乳をしては横たわり、おむつを替えては横たわりしている。鉄分不足じゃないかと思う。
下の妹がやや早く帰ってきてくれ、沐浴は腕の力が強い下の妹が手伝ってくれた。まだ4キロないくらいだけど、抱きつづけていると腕の筋肉が筋張ってくる。
赤ちゃんのことをぴよと呼んでいる。下の妹がぴよを抱いて、お湯につける前に、母である妹がスキナベーブ入れるの忘れたと言って、赤ちゃん用入浴剤を入れる30秒ほどの隙にぴよはおしっこを飛ばし、正面にいた私が浴びせられ、大笑いをした。沐浴のあとの着替えのときも同じことが起きて今度はカーペットが濡れた。タオルで吸いとってアルコールで拭いてドライヤーで乾かす。まだ胃腸を使い初めて20日ばかりの母乳しか飲まないぴよのおしっこなんて大したことないと片付けを終える。こういうことはひとりだとまた用事が増えたと思ってしまうけれど、誰かがいると笑える。

土用だった。
母から冷凍庫に国産うなぎ白焼きありますとLINEが来ていた。
確かにあったが1本で、3人でそれをどう食べるか考える必要があった。ごはんを固めに炊いて酢飯にし、キュウリを輪切りにして塩で揉む。錦糸卵を作り、白焼きを焼き直して、付属のかぼすポン酢をかけておく。酢飯に絞ったキュウリとごま、冷蔵庫にあった紅生姜と妹の姑作ちりめん山椒を混ぜ込み、大皿に盛って短冊に切ったうなぎと錦糸卵を散らす。

ぴよがうなぎを食べられる頃にまだうなぎは魚売り場にあるのかどうか。うなぎは完全養殖が難しいそうで、理由は消化器から餌が見つからないので何を食べて成長しているのか未だによくわかっていないためらしい。何を食べてあんなにおいしく成長するのだろう。事情を知った上でもうなぎを食べられなくなるのはさみしい。
味噌汁はしじみ出汁という液体味噌があったのでそれを使い、焼きなすとおろした生姜を入れる。
あとは野菜室にあったベビーリーフとトマトのサラダ。

姉妹だけで食卓を囲むことは珍しい。姉妹のいる良さは年を取るに連れて身にしみる。




2014/7/28

2014年07月29日 | Weblog

曇り

ものすごく暑かった昨日、仕事に行った奈良の大学の実習室のエアコンが不調だった。扇風機5台を稼働させても外からの容赦ない熱を蓄えた建物の室温自体はそう簡単に下がらない。もうろうとする。休憩の度に冷たいものを喉から流し込んで体内から冷やす以外に打つ手がなく、カップ自販機の氷がこんなにありがたかったことはなかった。

体温に迫り超えようかという室温にポーズを維持する集中のすべてが溶かされつつあり、描く方も指導する方も汗を拭いながら必死で、居合わせたすべての人にとって何かの修行のような夏期講習だった。帰ってからも体に溜まった熱が抜けないようで、思っているよりも疲れていた。

打って変わって今日の仕事場はしっかり冷房が効いていて、最後の方に差し掛かると寒いくらいだった。午前中にざっと雨が降ったせいもあって、午後の気温もそこまで上がらず、寝る前に部屋の温度を下げておかなくても寝苦しくない夜だった。

冷凍庫にマルセイのバターサンドがふたつある。また別の仕事先で配られて持って帰ってきた。そこでは、行ってまずピノを2粒、 途中休憩に全員分のコンビニで売っている感じのカップのプリン類が配られ、私のはティラミスで、さらにマルセイが2個。この暑さに濃いものの応酬はややつらい。マルセイは大好きだけれど、真夏には巡り会っても会釈で通り過ぎたい菓子だと思った。くばられた全部をその場で食べきれないのでマルセイは持って帰ったが炎天下の道のりで当然バターは弛んで、家に帰ってかばんから出したらへしゃげていた。でもそのまま冷凍庫に入れて、凍ったころに食べたらやっぱりおいしかった。

近くのスーパーでめずらしく白なすが売っていた。それも超巨大でひとつ100円。数年前に農業をしている彫刻家のところに仕事に行っていたときはじめて白なすをもらった。普通のなすより火を通すととろとろになるそうで、焼きなすにしてそのおいしさに驚いた。巨大な白なすは半分はラタトュイユにしてもう半分は電子レンジで加熱して、コチュジャンと味噌、みじん切りのミョウガときゅうりと一緒に和えた。ラタトュイユはたくさん作って冷蔵庫に入れておくと夏場には便利がいい。トマトとキウイを一緒に食べてみたらおいしかった。バナナジュースを作るときにレモンバームの葉を数枚入れてみたらレモンの香りがトップに来てなかなかよかった。ミントでもいい。夏の食べ物。

 

 

 


2014/7/25

2014年07月25日 | Weblog

今月のはじめに妹の産んだまだ肺呼吸をはじめて17日目の人は、母乳を吸うための顔の筋肉が発達したのか輪郭がちょっとシャープになり、目も大きく開くようになってきた。妹はどんどん母乳を作ることができるようになり、その量は日々増えて出産直後は滲む程度だったのが今は湧いて出る感じになって、副乳まで張っているらしい。牛みたいと妹は言う。

その子はとても好ましいにおいを持っていて、近くにいると安心する。初めて病院で見た産まれて半日くらいのときは、まだしなかった人の肌のにおいがするようになった。頭から妹と同じにおいがしている。

まだ自分がどんな姿をしているのか知らないんだと思いながらうごめいている姿を見ている。目はまだぼやけて、こっちを見ているようなときも、髪の毛の色が濃いことくらいは識別できる程度にしか見えていないそうで、自分に接する生き物の形状も、自分がいる場所がどんなふうなのかもわからないのでは、お腹がすいているとかおむつが気持ち悪いとかの欲求以外に泣く理由も大いにあるだろう。

触れてくる者を全面的に受け入れるという状態にまず置かれるところから生き物は生き始めることを改めて知る。それ以外にどうしようもないとは言っても、それはあり方として30年ばかり生きてきた地点から見ればいきなり難易度が高いし、過酷だと思える。でもそれが当然のはじまりだった。体はものすごく投げ出されている。生きることは身を投げる姿勢から始まるのだと。

覚えていないけれど自分も経てきた過程を、もう生きなおすことは出来ないけれど、なぜこんなに新生児を見ていたくなるのかは掛け値なしの可愛さもありながら、この世界に投げ込まれたばかりのまだ何も身に付けていない人を見ていたいからだった。


2014/7/24

2014年07月25日 | Weblog
修学旅行で中国の超巨大高層ホテルに泊まっている。たぶんそれほどいいホテルではなくて、さまざまな国からやってくる修学旅行などの団体客をごそっと泊められるような宿泊施設らしかった。フロアではいろんな制服と人種の高校生とすれ違う。

部屋は3人部屋で、ベッドが3つ横並びになっていて、あとは人ひとり通れる程度の通路しかない。私は一番入り口に近いベッドだった。館内は深い赤を基調としていて、いかにも中国という雰囲気の内装になっている。でも高級感はない。
宿泊人数が多い分エレベーターも大きい。一度に50人くらい乗れる。エレベーターは空気圧を変えることで昇降する仕組みで、ロープ等で吊られずに浮いているので、乗るとふわふわして怖い。そして移動速度が速いときと遅いときの差がものすごい。

チェックアウトの日、集合時間が近付いて、近場で最後の外出をしていた相部屋のふたりにそろそろ荷造りしないと間に合わないと言ったらふたりとも、もう出来てると言う。いつの間にと思いながら急いで部屋に戻って、スーツケースに衣類をくるくる丸めて入れていく。相部屋のふたりはスーツケースに入りきらなかったらしいものをかなり部屋に置き去っていて、どう考えても持って帰りようのない背丈ほどあるオブジェみたいなものや、1房に20本くらいついているとても立派なバナナ2房がその他ゴミと一緒に玄関付近にまとめてあった。持って帰れないのになんでこんなにバナナを買ったのか、あるいは旅のおやつとして持ってきたのかも知れないけど、どっちにしても多すぎるし、どっちにしても粗末にするなよと思いながら荷造りを急いでいると、先生らしき人が、もう空港行きのバス出るから!と部屋まで呼びに来て、忘れ物チェックをする間も無く荷物をスーツケースに詰め込んで、焦りと苛立ちに絡んでくるバナナの甘いにおいのする部屋を走って出た。
エレベーターを待つが、こんなときに限ってなかなか来ない。25階のあたりから全然登って来ない。部屋は73階とかだった。
帰れないかも知れないと思った夢。

2014/7/21

2014年07月22日 | Weblog

晴れ 海の日

梅雨があけた。暑いのにクロードモネがよく咲いている。ふたりとも休みで午後から映画を見に行くことにしていた。

お昼、冷蔵庫にあった使いかけの玉ねぎとにんじんをみじん切りにし、ソーセージ3本輪切り、野菜を炒めてカレーパウダーとソーセージを入れてカレーのかおりが立ったら、といでざるにあげておいた米2合を入れて全体がカレー色になるまで炒め、コンソメと塩を溶かした400ccのスープをそそぎ沸騰したらふたをして弱火で12分、蒸らし10分。この炊き込みピラフの作り方はいろんな応用がきく。先日、福井の所詮缶詰と侮ってはいけないレベルの鯖煮が詰まった鯖缶を使って鯖ごはんを炊いてみた。缶から汁を取って、和風だしとしょゆう等と合わせて400ccにする。このときのスープはラーメンの汁くらいの濃度にするといい。ショウガとにんじんを千切りにし、ごま油で炒め、米、スープを注ぎ最後に鯖の身を乗せて炊く。調理としては炒飯より汗をかかずに済む。

食べて食器を片付けてから久々になんとなく着てみる気持ちになった黒いワンピースを着てバイクで家を出る。四条烏丸付近までくると、浴衣の人がちらほらいたり、祝日だから人が多いのかと思っていたら、祇園祭の鉾がまだあって思わぬところが通行止めになっていたり、そういえば今年は後祭というのが50年ぶりに復活して巡行が2回あるのだった。祇園祭の形式を正確に後世に引き継ぐことが意図らしいが、祭りの期間を引き延ばすことで増えるであろう観光客も目論みのうちだろうかと勘ぐってしまう。

これは見逃すまいと思っていたワン ビンの「収容病棟」。中国の精神病院で撮影されたドキュメンタリー。4時間くらいあって前編後編に分けて上映される。海の日に好き好んでこういう映画を見に来る人がどのくらいいるものかと思っていたら、案外人がいた。と言ってもそもそも客席数の少ない京都シネマでの案外だから普通に考えたらとても少ない。

ワン ビンの作品は初めて見る。夫は以前『鉄西区』という9時間のドキュメンタリーを見たことがあるらしい。

予告が終わって中国語のタイトル『瘋愛』と出た。どういう意味なのかわからなかったけれど『収容病棟』とはずいぶん雰囲気が違うように思った。映画にはナレーションも音楽も、病院側のインタビューのようなものも一切入らない。ただ回廊のようになっている廊下と3~5床のベッドが並ぶ鉄の扉の部屋で暮らす収容者の日々の繰り返しが映される。主に3階の男性しかいない病棟が撮られていて、映画のなかのいちばん大きな変化というのは、中庭に面した廊下から鉄格子ごしに入ってくる一日のうちに変化する陽の光だった。日中は廊下に出されたベンチに座って患者たちがぼんやり日光を浴びていたり、時には雪が降ったり、正月を迎えた夜には花火の音が響き渡ったり、夕方には西日が入ってオレンジの光が部屋に射していたり、夜は白熱灯の色が部屋から点々と漏れ、テレビの部屋からだけ蛍光灯の白い明かりがついている、夜になっても完全に人の声や物音が止むことはないけれど、暗さだけは中庭から回廊に満ちていて重たくて長い夜に感じる。寒いところのようだったけれど、夜中に素っ裸で廊下に出て水を浴びたり、裸で寝ている人もいる。全編を通して水の音のよくする映画だった。薬を飲むのにコップを持って列になり、白衣の医師がヤカンからコップに水をつぐ、廊下にある蛇口で足を洗う音、水をはる音、階下か階上からの水音、それぞれのベッドの傍に置かれたタライに向かって放たれる放尿の音、廊下のコンクリートを打つ放尿の音。規則的に同じことを毎日毎日繰り返し、起きているか寝ているか食べているか以外にすべきことは何もない。けれどこの建物も体も水をとおしている。循環している。

病院とは言っても、治療のためにそこにいるというよりは、ほとんど外に出ないように収容されている状況で、衛生面しにしても良いとは言えず、立ったまま丼ひとつの食事をかきこんでいる様子、着ているものをみれば、ここにいる人たちは決して裕福ではないことはわかる。10年以上そこで暮らしている人もいれば、まだ入れられて日が浅く、ここでの環境を受けつけていない人もいる。ずっと施設内を撮っているけれど、一度だけ退院した男性を追って外に出るシーンがあった。けれど、男性が帰った家というのも廃墟に間借りしたような貧しい住まいに年老いた両親がいて、帰って来た息子と会話することもほとんどなかった。彼はセーターを一枚施設の誰かにあげてきたらしい。母親は人にものをあげるような身分でもないのにと言う。

ここにいる人たちは自発的に入院を選択したのではないらしい。家族間、住民とのトラブル等で収容された人たちだから、そのことを不当を思っていて、でももうそこにいることを体得してしまったような人たちと、まだ出たいという意思を表に出す人もいる。施設には約200人が収容されていて、病状は様々、中には精神疾患ではないように見える人もいる。社会にいられては都合の悪い人たちを隔離する施設のように見える。

けれど、そういう状況を映しだしているにも関わらず、倫理的な問題ばかりが押しつけられることはなく、陽の光や水のことが印象に残るようなところがこの映画にはあった。人々のふるまい、素朴な日常の身振り。この施設を出れば常軌を逸したと言われるようなこともここでは奇行とされない。誰もそういう区別をしない状況があり、見るものをその場所にいるかのように引き入れるカメラの目を通して映画を見ることが、そのことを映画の時間の中で体感させてくれる。だから切り取られたシーンから美しい瞬間や表情を発見することができる。それはこの映画が単に事実を告発するようなドキュメンタリーではなく、映画としての時間が創造されたものであり、上映時間を観客が生きることのできる「作品」であるからで、それが可能であるのは、映しだされるものが生きているということなのだと思う。ドキュメンタリーであってもフィクションであってもいい映画からはそれを感じる。

 


2014/7/18

2014年07月18日 | Weblog

晴れ

2階で寝るとあまりの暑さに起きた瞬間にものすごい汗をかいて体力を消耗している、そのせいで夏バテしそうな気がする、暑がりの夫、不調を訴える。2階のエアコンはリモコンが効かなくなって、本体のふたをあけて手動でスイッチのオンオフをしなければならず、タイマー設定ができない。けれど一晩中エアコンを入れておくのは喉を痛めるし電気代が恐ろしい。じゃあふとんを持って降りて1階で寝ようということになった。1階は2階に比べて断然涼しいし確かに快眠できた。ただ布団の上げ下げが結構めんどう。

朝のニュース、イスラエル軍ガザ地上侵攻、マレーシア航空機がウクライナ上空で撃墜。いいニュースを探すと京都 亀岡で天然記念物アユモドキ30匹発見。

昨夜、照明家のYさんがうちに来てくれた。春ごろにも何ということなくごはんを食べてテレビを見ながら喋る会をしていて、今回は夏なので、茄子と万願寺の南蛮漬け、タイ風ポテトサラダ、トマトとアボカドとレモンバームハーブソルト和え、きゅうりの辛みそ漬け、鶏の塩レモンソテー。お客さんの時はだいたい前日に作っておけるものを用意する。当日は盛りつけるだけ、焼くだけくらいにしておくと、慌てないし失敗が無い。

Yさんに頼まれていた香水を仕上げて渡した。ラベンダーとばらが好きと聞いて、Yさんのイメージで香りを組み立てた。ローズオイルをメインにジャスミン、ミュゲの要素を足して、ラベンダーの印象とナチュラルさを引き出す素材をトップに持ってくる。ベースはそれを消し去らないように、重くなりすぎない程度に効かせ、少し癖のあるセクシーな素材を隠し味に入れる。初めて使った素材だったけれど、この要素は結果的にばらを引き立てるのにも一役買っていた。香りをあて書きするのはおもしろい。

 

燃えるゴミを出し、かけ布団カバーを洗う前に徹底的にコロコロテープをかけて猫の毛を取る。洗濯機を回して、敷き布団と掛け布団を干し、昨夜の食器類を片付ける。夫のお昼は昨日の茄子南蛮の出汁を少し濃くしてそうめんにかけることにする。自分の食事、特に朝昼は全然手間をかけたくないので、相変わらず牛乳かけるだけで済むグラノーラを食べている。暑いので猫も食欲がない。


2014/7/16

2014年07月17日 | Weblog

今年はエルニーニョ現象の影響で、季節の進みがゆっくりになるから梅雨明けも遅いらしいけれど、エルニーニョがどういう現象なのか全然知らないので調べてみたら、太平洋の真ん中あたり赤道付近、ペルーくらいまでの海面温度が上がると起きる異常気象のことらしい。陸にいて、それも盆地だと海のことを忘れがちで、圧倒的な量の海水とか深さとか、この陸地もひとつの島であることとか。久しぶりに水族館に行くと海の生き物の大きさや姿がこわい。大水槽の前に近づくのに心の準備がいるし、あの水槽ににはまったら発狂するといつも思う。京都市水族館にはまだ行っていない。

5時起き奈良の仕事は一日も寝坊すること無く晴れて終わり、自然に目が覚めるまで眠ることの幸せを数日かみしめている。自然にと言っても2階の寝室は日が昇ると東の窓からどんどん熱が入って来て暑くて寝ていられなくなる。最終日の仕事を終えた勢いで浴衣を着て数年ぶりに宵宵山に出掛け、歩行者天国に溢れる人と出店からのいろんなにおいに引っかかりながら流されて歩いていると、いくつかの鉾にたどり着く。街の美化に異様な力が入っていて、青いtシャツの人にイカ焼きの串やらたこ焼きのトレーやらを渡すと分別して捨ててくれる。歩行者を一通にしている路地では警察官が拡声器でここから先は一方通行ですとアナウンスしている。そのなかにひとり、地下鉄の自動案内のような人工的な口調で ここからは 入れません と言っている警察官がいておかしかったので、しばらく傍でチョコバナナをかじりながら観察した。雪のように細かくかいた氷がおいしかった。

 

出産後2日目に黄疸が出て、治療のためのブルーの光が出るベッドにアイマスクをされて裸で寝かされていた妹の子供。お腹の中でやや育ち過ぎたため血の量も多過ぎるとかで、血を薄めるために母乳にプラスして粉ミルクも飲まなければならなかった。哺乳瓶でミルクをあげたら、一生懸命吸い付いているようすは問答無用にかわいい。

退院してきて実家で養生している妹のところに時間のある時は手伝いにいく。母は2日かかった妹のお産に立ち会っている間に仕事が山積し、今月は必死でそれをさばかないといけないらしく、朝家を出ると8時すぎまで帰らない。そうすると里帰りしていても妹はひとりで家にいるのとあまり変わらないので、私も仕事のないときにごはんの支度、洗濯、掃除、オムツがえや沐浴アシスタントに帰る。妹は相変わらずやや青白い顔で目の下にクマをつくって、母乳がどんどん湧いてくるようになってからはお腹をすかせるようになった。出産後のお腹がいつ元通りになるのか心配している。

赤ちゃんをおくるみできっちり巻くおひなまきというのをやってみた。赤ちゃんは狭いところの方が安心するそうで、確かに布団の真ん中にぽつんと置いて手足がばたばたできる状態だとどうしたらいいのかわからないらしく落ち着かなさそうに見える。巻いてみると天むすみたいになってちょっとおもしろい。自分に置き換えると窮屈で仕方ない体勢だけど、本当に落ち着くらしい。その夜は一度も泣かないまま過ごしてくれた。

青い革のかばんに青い革用クリームを買って色を補充した。野球のグローブを作るときに出る端切れを繋ぎ合わせて作ったかばんで、グローブに使える革だからしっかりしているので手入れのし甲斐がある。1パーツごとに微妙に色が違っていて、クリームを表面に伸ばしていくと、違ったまま、それぞれの色味が深く濃くなり艶がでる。取っ手がちぎれるか底が抜けるかでもしない限り使い続ける。


2014/7/11

2014年07月11日 | Weblog

晴れ

数十年に一度と言われた台風はコースがそれたようで、ほとんど台風らしい雨風の脅威をみることのないまま通り過ぎた。休講になるかも知れないと、補講の日取りまで相談していたけれどそんな心配も無用だった。

昨夜金縛りにあった。金縛りになるといろんな声や音が立体的に聞こえてものすごくうるさい。抵抗してかなり大きな声で叫んだけれど、寝室の隣の部屋で編集作業を徹夜でしていた夫が何も言わないので、この声は肉声になっていないらしい。音だけでなくて体に触られたり、肩のへんを掴まれて布団から引きずり出される感覚を実際起こっているように感じることもあったけれど、解けて目を開けたときにはもちろん誰もいないし移動もしていない。霊感はないけれど慣れなかった頃は怖かった。慣れてからは金縛られている状態を観察するくらいの余裕ができた。動こうとするのにその意思が全然体に反映されない、体のスイッチがオフになっているときに、眼球の奥、両耳の中間点くらいのところだけ一点集中して起きているような感じ。

初日に買った回数カードの裏の印字がもういっぱいになっている。奈良に通うのも、毎日お昼に買っていた柚子こしょう塩バターパンもあと2日。

行きの電車を降りて学校まで10分ほどの道のりはいつも眠気に浸った雑巾のような体を引きずって歩いていた。休憩時間には副手の方が補充してくれるクッキーを食べたりしながら、コーヒーで眠気をごまかして、最後の方にはお尻が平らになりそうなポーズを6ポーズ終える。帰りに通る畑の横に売っている一袋100円で売っている野菜をどこかのタイミングで買ってみたいと思っていた。何度かすれ違いながら、並んでいるものが既にうちにあったりして諦めていたけれど、今日はちょうどきゅうりもししとうも無い。お金入れとかいてあるボックスに200円入れた。

帰り道、先日ベトナムから舞台の研修に来ているアーティストの成果発表に立ち会う機会があって、なんとなくベトナムのことを思っていた。アルファベット表記だから全然聞き取れないけれど、タイ語より読解できそうな気になったり、バインミーとかバインフランとか、フランス領だった名残のある料理。

ベトナム戦争のときに撒かれた枯れ葉剤のあと、今は植物が育っているのだろうかと気になって調べたら、ベトちゃんドクちゃんでけではないたくさんの奇形で生まれた人の写真を見ることになって、その影響は今もあり、ダイオキシンのホットスポットが残ったままになっている場所があることを知った。枯れ葉剤を扱ったアメリカ兵にも帰還後に健康被害が出ている。枯れた森にはマングローブが植林されて、元通りではないけれど緑が戻っているところもあるようだ。

現在のタイムラインを見ていると、イスラエル軍のパレスチナへの空爆のニュースが流れている。いくつもの白い尾をひいて落ちていく光は白リン弾というらしい。被弾するとその部分を焼き尽くすまで消えないので、焼かれた部分は丸くえぐられている。子供の死体。報復としてパレスチナ側から原子力施設に向かって砲撃があったが迎撃ミサイルで撃ち落とされたという。

民族同士の根深い問題がずっと燻っているところに、どういう理由でなのか誰かが煽って火をつけ、やったりやりかえしたりで、そのいざこざに直接関わっていない、ただそこで家族と日々生活している人が犠牲になることにものすごく腹が立つ。どうしても消化できない嫌なものを口にいれなければならないような、これが現実なのかと思わせられることが多すぎる。3日前にこの世に生まれた妹の子供はまだ自分のかたちも世界がどんなかたちをしているかも知らない。


2014/7/9

2014年07月09日 | Weblog

晴れ

早朝奈良の仕事、残りあと4日。
5時半に目が覚めるくせはついたけれど、休みを挟んだりして寝る時間が2時過ぎると、ポーズ中泥のように眠い。
目覚ましテレビ、点けたらワールドカップのニュースの終わりがけで、どういう試合展開なのかわからなかったが、とにかくブラジルサポーターが愕然としているようすが映っていた。
巨大台風が近付いている。朝のニュースの沖縄、街路樹が風に折られて、葉のついた折れた幹がさらに風に飛ばされていたり、家が横倒しになってばらけていたりしていた。
明後日くらい休講になる気がする。

7月7日の朝、妹の陣痛が始まったから病院にいくと母から連絡があった。それ以来気になって仕方なく、7日はずっと新長田のダンスボックスにいたけれど、合間合間に携帯を見ては産まれたの連絡を待っていた。15時頃一度母にメールしてみると、陣痛が弱いので一旦家に帰されたということがわかった。
予定日の7日をまたいで、8日の朝また母にメールすると、もうでそう 昼過ぎくらいかなと返信があった。そのときの もうでそう がどんな状況だったのかわからないけれど、私のイメージではもう分娩室で、今にもという像が描かれていた。昼過ぎということは遅くとも15時には産まれているはずと待った。でも待っても待っても連絡はなく、2件目の仕事を終えて夕方、輸入食品店でナンプラーを買って、6時頃帰宅し、台風の前にやっておこうと洗濯機をまわし、掃除機をかけしていたら夜になってしまった。
さすがにもしかしたら何かあったのだろうかと不安も過る。携帯のアラームをセットしようとしたときに写真が届いた。結局産まれたのはもう9日になる手前の時刻だった。

今日の奈良の仕事を終えてから病院に行くことにしていたので、いつもより殊更仕事が早く終わることを念じた。

橿原神宮の駅までの道にあるデイケア施設の前を通るのはいつもちょうど昼時で、昨日は流しそうめんをしていたけれど、今日もまた流しそうめんをしている。
いつもの駅のパン屋で柚子こしょう塩バターパンを買う。
妹に何かほしいものはあるか聞いたら、ちょっとしたお菓子とジュースだった。道中にコンビニしかないので、好きそうなものを何種類か買って、病院に向かった。
駅を降りて川を渡り、いい雰囲気の商店街を抜けてしばらくいくと大きな総合病院がある。妹は3階の産科の病室。ノックをして入ると白黒のギンガムチェックのマタニティーワンピースを着た妹が白いタオルに包まれた赤ちゃんを抱いていた。ふたり部屋だったけれど片方は空いていた。赤ちゃんは口を一文字に閉じて赤い顔をしていて、妹は元気そうにしているが、丸二日掛かりの不眠不休で顔がちょっとやつれて隈ができていた。

難産だったらしい。お腹の中で思ったよりも大きく育っていて、さらにあかちゃんが間違えた方向から出ようとしていたらしく、もう産まれると言われてから出産までに12時間かかり、体力が尽きて痛みで失神するかも知れませんと告げられた妹の旦那と母は妹の叫びを聞きながら数時間待っていたそうだ。
あまりの痛さに帝王切開に切り替える人もいるらしいけれど、耐え抜いた妹はいろんな人に褒められたという。

抱かせてもらった。重さも身長も猫に近い。髪もしっかり生えている。この世に出て来て肺呼吸をはじめてまだ12時間とは思えない。時々目をあけるけれど、寝ているのか起きているのかわからないような状態でいて、時々火のついたように泣く。理由がわからないけれどものすごい声量で泣くのは、赤ちゃんからすると急にわけのわからない場所に出て来たわけだから、このままでは死ぬ~という不安の訴えなのだと助産婦さんから聞いたらしい。手が何か掴もうとしているように動いたりするので妹が夢見てるのかもという。まだ何も見たことのない人はどんな夢をみるのだろう。

名前は生まれる前から決まっていて、それに似合う男の子だった。今のところ父親似に見えるけれど、まだ顔が浮腫んでいるので、数日経つと顔が変わってくるらしい。

どれくらい大変だったかを聞くと、痛みは想像を絶し、切られるとか縫われるとかそういうのは大した事なく、とにかく陣痛が辛かったという。テレビ台の横にガーゼに乗せた乾燥中のへその緒が置いてあった。まだ生で焼く前のホルモンみたいだった。

赤ちゃんの呼吸を感知して、ちいさな音が出る計器がついていて、その音を聞きながら赤ちゃんが静まっているうちに妹といちごのブールドネージュとジャガビーを一緒に食べた。


2014/7/4

2014年07月05日 | Weblog

曇り

昨日は久しぶりに梅雨らしい雨があった。先月は時々夕立のような雨が降る以外はほとんど降らず、6月の京都の降水量は85年ぶりに最低値を更新したらしい。水を好く紫陽花は予想外なヒマワリ向きの陽射しをうけてうなだれていた。だから雨が降るのは有り難いことだったが、4日の夜に雨天中止の野外公演を豊橋で観るつもりでいたので、ぜひとも晴れてもらいたかった。

豊橋までは京都から新幹線なら1時間程で着くけれど、公演は19時45分からで朝に奈良の橿原へ行く仕事は午前中で終わる。鈍行を使うと3時間かかるけれど交通費は半額で済む。特に急ぐ必要がないので鈍行で向かうことにした。

橿原から京都駅に戻ると14時前なので、それくらいに夫と京都駅のJR改札で待ち合わせて琵琶湖線に乗ってまず米原まで。旅気分の演出にポッキー1箱買ってきていた。最近毎日橿原の仕事のあとに、駅構内にあるパン屋で柚子こしょう塩バターパンというのをひとつ買って食べる。とてもおいしいと思うので夫にも買ってきたが、夫はお腹の調子があまりよくないうえに、食べてもそれほどピンと来ていない様子だった。 米原で大垣行きに乗り換える。この大垣行きの途中には関ヶ原があり、窓から景色を見ていると、集落のなかの小さい山のようになっているところがあって、関ヶ原合戦跡と記してあるのが見える。駅前には、東軍、西軍の武将の名前が書いてある看板もある。いつか降りてみたい。食事をできるところもなさそうなところだけど、蕎麦屋の一軒くらいはあるだろうかと話しながら関ヶ原をすぎた。

大垣で豊橋行きに乗り換え。大垣ー豊橋間の乗車時間がいちばん長くて1時間半くらい。朝が早かったので眠くなりうとうとしている間に豊橋着。17時過ぎ。この日たまたま今愛知大で授業を持っている大学時代の恩師が授業で来ていて、恩師の宿泊先の駅前ホテルで落ち合い、開演までの間食事に行く。それほどよくは知らない豊橋駅前に出て、チェーン店のようなところが全然似合わない恩師とどういう店に入るべきかと視界に入るいろんな看板を見回していたら、駅前の信号を渡った角の地下にROTIという店を見つけてそこに入った。

この店の名物は鶏の丸焼きだった。せっかくだからとそれを注文したら、焼けるのに50分かかるという。開場時間に間に合うかどうか調べてなんとかなるとわかり鶏を一羽注文する。

鶏以外のものを食べながら舞台のことを話して鶏が運ばれてくるのを待っていた。

鶏が運ばれて来た。丸ごとを焼いたのに出くわすのは小学校の頃、家族と中華料理屋で食べた北京ダック以来だった。皮に包んで食べる作法がうれしくて、結構食べたのかも知れない。次の朝、人生はじめての胸焼けを経験した。

鶏は4頭分に切られていて、つまり骨付きもも肉が2人分、手羽先とそれに続く部分が2人分。男性ふたりにもも肉は譲る。手羽先をかじっていくとその先には手羽元があって、捕捉できなかったが手羽中もあったはずで、それからささみとかむね肉の部分に到達する。そのあたりで鶏の丸焼きは人生2度目でなく3度目だったことを思い出した。一昨年の正月に、その頃義母が凝っていたブラジル食材店で売っている丸焼きが正月料理のなかに参戦していたのだった。テーブルは正月とクリスマスが同時に来たようになっていた。食べたあとたくさん骨が出るので、母はそれを煮て白湯スープを取り、翌朝雑炊にしていた。

鶏のおかげでおなかをいっぱいにして上演会場の愛知大へ向かった。昨日も上演予定だったが雨天中止になり、そのぶん今日に振り替えた観客も来ているため、開場を待つ人でごったがえしていた。会うとは思っていなかった京都から来ていた友人の演出家も来ていた。野外公演のため気配りで用意された虫除けスプレーが観客の間で回されて、夏祭りのような雰囲気になっていた。校舎の跡地なのか広い空き地があって、正面の白い校舎の壁全面に映像が投影されている。客席が並んでいるところまで歩く道も雨で粘土のようになっていてピンヒールの人は地面にめり込んでいた。

客席が全然足りず、立ち見がたくさん出る程の満席で、上演は始まった。保坂和志の「私という演算」から抜粋されたテキストを使った『猫は残らずいなくなる』。

飼っていた記憶のない猫が幼い自分と写真に写っていたという話しから始まるテキストを読む3人の特徴的な声の女の子たち。出演者は皆二十歳くらい。ひとりは低い陰りのある声で、ひとりはそれより高くプラスチック感のある声で、ひとりはさらに高くキャラクターのような声だった。声の感触はつるつるしていて、言葉に少し感情を込めたと受け取れるところもそこに実体のある彼女が、というより「そのキャラクターが」という感じになるのがおもしろかった。時代のなかの特徴的な発語というのがあるんだろうか。60年代に寺山修司が撮った街頭インタビューの映像作品を見たことがあったけど、当時映画のなかだけでなくて、ふつうの人々も私からするとちょっと早口で、少し鼻にかかった声というか、質感でいうとウェットで音が体から出ていることの印象が強い発語だと思った。今日聞いた女の子たちの声というのはカラっとしていて、体とやや距離があるような、いい意味でつくりもののような印象の発語、相対性理論とかPerfumeの歌声を聞くときに近いものを感じる。

彼女たちの他に出てくるのは猫耳の着ぐるみをかぶった男の子で、彼は彼でも猫でもキャラクターでもない名付け難い存在感で、実際その場にあるものに触れて動いたり、地面を掘ったり、それに同期して映像のなかにも土がかぶっていったり、映像に重なったり干渉したりしながら上演時間のなかにいる。

写真や映像で見返すことのできるものとして残っている記録と、ある出来事や場所と結びついていて例えば何かのにおいを嗅いだり、食べたりするときに思い出す記憶、いまはむかしたけとりのおきなといふものありけりとかtell told told とか強制的に覚えようとして覚えているものの記憶、何かと結びついているとも言えないけれどふいに思い出せる記憶、それは本人にとって重要なことだとわかることもあるし、まったくどうでもいいようなことだったりもする。

そして覚えていないものがある。 覚えていられないもの、例えばいま2014年7月5日の23時36分、私のいる居間の机の左側にはグリーンティーオレを飲んだコップが置いてあり、その横にある携帯にはさっき夫から阪急で人身事故があってまた電車が遅れているというメールがあり、外から近所の黒猫の鳴き声が聞こえていたことはこうして書いておくことでもしなければ、記憶に残らないと思う。 あったけれどあったという記憶を誰も担保しなくなったときに、ほとんどなかったに近くなる、けれど間違いなくあったこと。記録も墓標もないけれどあったことや生きていたものが、残っているものの比じゃないほど、というか世界のほとんどはそういうもので構成されていて、いつも必ずどこかある一箇所にしかいることのできない自分の知覚が届かないところのことはもちろん、自分が関わっているところのことにしても、細部まで描写するようには留めておけない。けれどもし、知覚したあらゆることをそのまま覚えておけるとしたらと考えてみる。

GBとかそういう容量という概念がないとして一切の編集をしないで、すべてのことを再生するかのごとく覚えておけるとしたら、そのイメージからは体が消える。 体というフィルターを通して世界を感じとることが可能であるとき、私という主体が発生し、その私は記憶しておくものの取捨選択、編集を常におこない、あるいはどうしたって他の記憶とは並列できないものとして生涯に渡って影響するようなことにも出くわしたりする。 記憶に残ってしまったものというのが、私を私たらしめる要素であり、もしもすべての記憶が並列に残っているような人がいると考えると、すべてのことを同じように感じとり、扱えるということになるから、その状態に感情というものが伴っていると想像できない。

つまり何かが心に残るという根拠を欠いている記憶とは人のものではなくて、24時間監視を続けている防犯カメラとか、飛躍するとアカシックレコードとか、機械的あるいは超人的視点を持つ記憶ではなく記録である。だから体が消える。 記憶の特徴とは身体というフィルターを通した記録であること、そこには感情や快不快という身体を通すからこそ起こる取捨選択、編集を感知したときから既におこなっているし、時とともに変容する性質のものであり、まったく留めおけないという、記憶という言葉に相反する要素を必然的に含むものである。だから写真や映像の記録というものは、そこに過去の私が写り込んでいても、記憶とはまったく異なった形式で留めおかれた過去であると言える。でもそういうものを目にしたとき、しばしばそれを頼りに記憶を構成して、私の記憶として引き入れているように思う。想起するとは常に現在において像を結ぶ。 このことについてもう少し考えられそうだけどだだ長くなりそうなので一旦終わる。 788888888888888888888888888888888888888888888888888小麦がキーボードに乗った。