『死の教室』と『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』以外の作品は見たことがないし、翻訳付きで見られる機会はそうそうないと思うので全部見る。
『こぞの雪は今いずこ』、『くたばれ!芸術家』、そして『私は二度とここには戻らない』この作品が遺作になる。
もう一つ『今日は私の誕生日』という作品があるけれど、初演の前の最後のリハーサル後にカントルは倒れてそのまま亡くなっている。この作品だけは上映が来月だから未見。
カントルはやはりどの作品であっても舞台上にいて、舞台を見ている。『私は二度とここには戻らない』ではカントル自身がカントルとして出演し、それまでの作品の傍観している視線の役割というより、カントルの存在が劇中の軸になって時間が展開する部分が強く出ている。
カントルの声は録音で流れ本人が口を開くことはない。けれど舞台上に溢れ出てくる俳優たち(カントル作品の俳優たちは出はけするというより溢れ出てくると言いたくなる)はその声を演出家であるカントルの声と認識しているし、その姿の方を見ながら言葉を聞いている。俳優は皆記憶の様相をしている。カントル個人の、ポーランドの背負った歴史の、そしてこれまでもそういったものを扱ってきた過去のカントル作品に登場した人物たちの。そういうものが混在し混雑した舞台上は騒々しくいかがわしいもので満ちている。
『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』で出てきたカントルの母親、ベールを被った死せる花嫁を、『私は二度とここには戻らない』でカントルは私の花嫁と呼び、自然な身振りと血色を失った花嫁が半ば人形のような動きでカントルが座っているテーブルの方へ自力で歩いてくるシーンがある。それまで彼女は自発的に動くことがほぼなく、マネキンを移動させるごとく俳優たちに運ばれ、扱われる体であったのに、そこだけ意思の方向がはっきり見えるのだ。硬化した体を引きずって、劇中でありつつ関係としてはボーダーに位置するようなところを歩いて演出家の元にやってくる。
つまりこれはカントルのイメージの具現化であるのだけれど、劇中でいわゆるヒロインのような象徴的な位置にある彼女を自分の前に座らせ、面と向かって掛けているところを劇中に実現してしまうその臆面もない演出たるや惚れ惚れする。そして泣けた。
カントルはいつも一番見たいものの傍にいる。そのことを劇の構造に引き入れて生きてしまっている。観客席から観客の視線と同じ距離から劇を見、劇を作る欲望と劇中にいるカントルの視線の違い、本人が上演の傍らに居てしまっていることには必然を感じる。それは劇において本人の記憶を扱っているということに留まらず、つまりカントルには見ていることを見られる必要があるということを感じる。それは自分が見ていることを観客の視線を介して受け取り直すということだけれど、カントルはきっと自分の生の形状を、想像を孕んだ動的な部分を、観客席の座席に据えることは劇の時間において相応しくないと感じ、自身の創作の根拠である場所を、つまり自分自身の存在が介在することを作品から完全に分離できなかったのではないか。私にとって何よりそこを押し留めたり知的なやりくりをしてし消化してしまわないところがカントルのいかがわしさで、そうやって我を通し、自身の記憶を担保にポーランドの背景にある大文字の歴史を引き連れて突き抜けるイリュージョンを魅せてくれるのがカントル作品の魅力だと思った。
この劇の終わりも彼女に、花嫁に委ねられている。ふいに席を立って舞台奥に帰っていく彼女についてカントルも去って上演は終わる。『私は二度とここには戻らない』は『死の教室』や『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』に比べると劇そのものの時間が持つ強度としては弱いかも知れない。それに過去の作品を見た上で立て続けに上映を見たことによる感慨や個人的思い入れが多分にあることは承知の上で『私は二度とここには戻らない』には他の作品にない感動があった。