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流出雑記 

2015/10/25

2015年10月26日 | Weblog
今年生誕100年でカントル関連の展示や上映会をやっている。
『死の教室』と『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』以外の作品は見たことがないし、翻訳付きで見られる機会はそうそうないと思うので全部見る。
『こぞの雪は今いずこ』、『くたばれ!芸術家』、そして『私は二度とここには戻らない』この作品が遺作になる。
もう一つ『今日は私の誕生日』という作品があるけれど、初演の前の最後のリハーサル後にカントルは倒れてそのまま亡くなっている。この作品だけは上映が来月だから未見。

カントルはやはりどの作品であっても舞台上にいて、舞台を見ている。『私は二度とここには戻らない』ではカントル自身がカントルとして出演し、それまでの作品の傍観している視線の役割というより、カントルの存在が劇中の軸になって時間が展開する部分が強く出ている。

カントルの声は録音で流れ本人が口を開くことはない。けれど舞台上に溢れ出てくる俳優たち(カントル作品の俳優たちは出はけするというより溢れ出てくると言いたくなる)はその声を演出家であるカントルの声と認識しているし、その姿の方を見ながら言葉を聞いている。俳優は皆記憶の様相をしている。カントル個人の、ポーランドの背負った歴史の、そしてこれまでもそういったものを扱ってきた過去のカントル作品に登場した人物たちの。そういうものが混在し混雑した舞台上は騒々しくいかがわしいもので満ちている。

『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』で出てきたカントルの母親、ベールを被った死せる花嫁を、『私は二度とここには戻らない』でカントルは私の花嫁と呼び、自然な身振りと血色を失った花嫁が半ば人形のような動きでカントルが座っているテーブルの方へ自力で歩いてくるシーンがある。それまで彼女は自発的に動くことがほぼなく、マネキンを移動させるごとく俳優たちに運ばれ、扱われる体であったのに、そこだけ意思の方向がはっきり見えるのだ。硬化した体を引きずって、劇中でありつつ関係としてはボーダーに位置するようなところを歩いて演出家の元にやってくる。
つまりこれはカントルのイメージの具現化であるのだけれど、劇中でいわゆるヒロインのような象徴的な位置にある彼女を自分の前に座らせ、面と向かって掛けているところを劇中に実現してしまうその臆面もない演出たるや惚れ惚れする。そして泣けた。

カントルはいつも一番見たいものの傍にいる。そのことを劇の構造に引き入れて生きてしまっている。観客席から観客の視線と同じ距離から劇を見、劇を作る欲望と劇中にいるカントルの視線の違い、本人が上演の傍らに居てしまっていることには必然を感じる。それは劇において本人の記憶を扱っているということに留まらず、つまりカントルには見ていることを見られる必要があるということを感じる。それは自分が見ていることを観客の視線を介して受け取り直すということだけれど、カントルはきっと自分の生の形状を、想像を孕んだ動的な部分を、観客席の座席に据えることは劇の時間において相応しくないと感じ、自身の創作の根拠である場所を、つまり自分自身の存在が介在することを作品から完全に分離できなかったのではないか。私にとって何よりそこを押し留めたり知的なやりくりをしてし消化してしまわないところがカントルのいかがわしさで、そうやって我を通し、自身の記憶を担保にポーランドの背景にある大文字の歴史を引き連れて突き抜けるイリュージョンを魅せてくれるのがカントル作品の魅力だと思った。
この劇の終わりも彼女に、花嫁に委ねられている。ふいに席を立って舞台奥に帰っていく彼女についてカントルも去って上演は終わる。『私は二度とここには戻らない』は『死の教室』や『ヴィエロポーレヴィエロポーレ』に比べると劇そのものの時間が持つ強度としては弱いかも知れない。それに過去の作品を見た上で立て続けに上映を見たことによる感慨や個人的思い入れが多分にあることは承知の上で『私は二度とここには戻らない』には他の作品にない感動があった。

2015/10/25

2015年10月24日 | Weblog
三番勝負

町内の事故物件は三角形
寝転ぶ三毛猫の額ほど
今は三台の軽が停まる
三日月であっても月極と
再三申し上げたように
三白眼を塗りつぶすと
どこを見ているのかわからなくなって尚更怖い
三角巾を着けてお三度の仕度と死に支度を同時にやって
三途の河では石積む傍で水を切り
三のつくところで努めてアホに
賽は投げるまでもなく三
三振しても一歩も退かず
三銃士さえ打ち負かし
三味線になった三毛猫の
三つ子の魂百までも
何を弾いてもニャーと鳴る
合わせて歌う三口の
三位一体を聞きつけて
東方からの三賢者が
金と乳香と没薬を
投げ銭箱に
三軒茶屋で一服した後
三宝に帰することを
決めたのだった

2015/10/20

2015年10月20日 | Weblog

もう10月が終わるし今年もあと2ヶ月で終わるのだなあと夏用の寝具を洗う洗濯機の音を聞きながら、シリアルを食べていた。ここ数日ずっと晴れている。いつ洗濯しても裏切られない。朝夕の1階の冷えはホットカーペットでまかなえる。

秋のばら。ディオレサンスのたぶん今年最後かと思う大きめの花、ほころび始めたところで完璧な鮮度のある香りを放っている。特に秀でて香るシトロネロールのフレッシュさとゲラニオールの甘さのバランスをずっと嗅いでいたいと思った。モーブの色合いも秋に似合う。活きがいいのはクロードモネ。春に劣らないボリュームの花を一度に2、3輪咲かせる体力がある。

最近近所の大きな石垣のある2件の家がそれぞれ取り壊されて急に広大な更地が2カ所あらわれた。石垣のあるようなお屋敷だから敷地自体も広い。石垣が取り払われて急に地表面が同じ高さになり均されて地続きで、それまで見えなかったその奥の風景が急に丸見えになった。きっとその辺りの家々の日当りも随分変わったことだろう。庭木を切り、家の解体が始まり、途中段階では家の内側の壁面、ドアやタイルの柄などが露出して、家の内側に保存されていた生活の時間の蓄積が全部放たれていくようだった。家の形がなくなると、木材は木材、コンクリート片はコンクリート片でまとめられトラックで運び出されて行く。内側のものがなくなってから最後に石垣が取り壊された。壊すというか積み上げられていたものを降ろして石垣を石に戻して行く。しがみつかなければ覆えないくらいひとつひとつの石は大きく、それぞれに苔むしていた。苔のむすまで住まれた家だった。柿もたわわに実っていた。見事な椿と梅の木があった。そこを通るとき3月は馥郁たる梅の良い香りだった。

母校の高校、クロッキーの仕事。10分から1分までいろいろなポーズ。いつものように後輩達への思い入れによって形も雰囲気も出来る限りのバリエーションを出す。私も十代の頃に描いた裸婦のモデルさんは今も忘れられない。つまらないポーズを描かせたくない。数少ない裸婦の実習だから出来るだけのものを持って帰ってもらいたい。今年は12月まで洋画の固定ポーズにも入れることになってうれしい。この仕事がやはり好きだ。でも3年以内にやめる。


2015/10/17

2015年10月17日 | Weblog
花咲く背に立つ瀬のない
背負った背徳のさらに背後に
伸びた影を見つめて10秒
まばたき止めて空に送れば
返信の有無に関わらず
気持ちは晴れて秋の空
背縫いを引っ張り
背中合わせであることを
思い知ったところで合わせる顔は
持ち合わせていないのだから
ただ肩甲骨の羽根が当たる
羽ばたくには頼りなく
尾骶骨には尾の名残り
喜びをあらわすには短すぎ
24個の連なりに背中を預け
鈴なりの柿の熟れどきに
気を取られていれば
季節は自然に移り変わり
背骨がやがて
立たなくなるまで



2015/10/15

2015年10月15日 | Weblog
片詩体を解剖してみると
臓器に癒着した詩片は
ほぼ全身にくまなく転移しており
目を凝らすと肝臓には薄っすら明朝体となって表れている箇所さえ見つかった
それは滅多に見られないものだと
切除されホルマリンに漬けられた
片詩体にはどの道もう手の施しようはなかった
末期には毎日バケツいっぱいの詩を吐き出し
食べる隙もないほど
それを詩篇にまとめることすら侭ならず
そうして痩せ細り
詩によって死に至らしめられた訳であるが
片詩体はこの世に一冊の詩集も残すことなく詩に溢れ
詩に侵されていた
だから片詩体のことを
詩人と呼ぶ人はいなかった
片詩体は自分を名乗る術を知らないまま死んだけれど
その顔は青空の如く美貌だった

2015/10/12

2015年10月13日 | Weblog
祖父母、母、妹1、甥のぴよ(1歳ちょっと)、妹2と雄琴温泉。雄琴は昔関西随一の歓楽温泉街で、普通の温泉客は足を踏み入れられないようなところだったらしい。城崎のような雰囲気のあるところじゃないけれど、今は年配の旅行客や家族連れが来れる温泉街としてイメージアップされている。
祖父母はどちらも認知症が徐々に進行していて、これが最後の旅行になるだろうと言われていた。
普段離れて暮らしているので、今祖父母がどんな状況なのかよくわかっていなかったのだけれど、宿に着き、温泉に入った祖父はものの5分で風呂を出てまったく知らない人の下着とパジャマを着て出てくるという事件が起こり、そうか、と思う。
そして30分おきくらいにトイレに立ち10分くらい出てこない。宿のなかの料理屋の個室から出てトイレの場所がわからないし自力で帰ってこれないのでひとり付き添いが必要。
祖母はそんな祖父にあたる。昔祖父の金銭的な失敗で夜逃げし、祖母は相当苦労した。さらにわりと街中で育った祖母が閉鎖的な田舎の村の祖父のところに嫁ぎ、そこでの生活は異文化というくらい勝手の違うことが多くあって姑にはこれやから街から来た嫁は、と散々いびられ使用人のような扱いを受けてきたのに一度たりとも祖父は祖母をかばったり手助けをすることがなかったと積年の恨みつらみを煮詰めたものを夕食の席でループし、祖父は延々それを聞こえないふりをして、一度だけお前はちょっとうるさいと怒った。そんな中で私と妹1、2は祖母の止まらない回想を適当に順番に浴びせられる役を引き受けつつ土瓶蒸しをすすったりしていた。さらにひと時もじっとしていられないぴよがそこを走り回っては食器や床の間の花や障子に手をかけようとするのを阻止しなければならない。固形燃料の上で近江牛が煮える。
祖母が喋り出すとやっかいなのはかなり前からで、認知症が出始めてから拍車がかかり、言葉の荒い祖母はいよいよ祖父の人としての尊厳を踏みにじる勢いだったので、見兼ねた母は介護付きの高齢者住宅を見つけて来てそこに祖父を住まわせた。祖母はそれまでふたりで暮らしていた府営住宅に残った。それで祖父母は数ヶ月前から別居している。祖母は目の前から苛立つ要素がなくなり、祖父は3度の食事付きの新築の個室に守られ心安らかに暮らしている。
母は態度には出さないようにしているけれど祖父母に疲労している。温泉に浸かって癒えるような疲労じゃなく心底の疲れが時々表情に垣間見える。けれど旅行に連れて来たかった母の思いを汲んで娘たちは円満な旅行にしてみせる努力をする。
ただ祖母の話しはおもしろいところがあるので、聞き甲斐もあってそういう部分を拡張するようにさらに聞き出す。聞いてられない祖父への罵倒は聞き流す。そしておいしいものを美味しいと言いながらことさら味わって食べた。

宿は普通だけれど温泉は良かった。
やっぱり肌がすべすべする。露天に妹2と浸かりながら、これがほんとに最後の旅行だろうなと話していた。来年の今頃祖父母は生きているような気がする。きっと。でも今より認知症は進んで体は弱っているだろうと想像し、死んでいくことは大変だと口に出してしまって、それを聞いた妹2は、人間も死んでいくときは水分が抜けて枯れて死ぬ、川島なお美の痩せ細って死んでいった姿は自然な治療の末だったという話しをした。妹2は教員をしている。露天のふちに腰掛けていた私と妹2のふとももはまだ水分をたたえて張っている。膝から下の湯に沈んでゆらゆらしているのを見ていた。

2015/10/11

2015年10月12日 | Weblog
先週DX東寺にストリップを見に行った。数年前から機を逃し続けていた。この前はなもとゆか×マツキモエのダンス公演に出ていたストリッパーの葵マコちゃんが終演後外に出てストリップ劇場存続の危機を訴えているのにちょっと打たれたことと、ちょうど今月頭から東寺にマコちゃんが出るというので友人でダンサーの大谷さんを誘って行くことにした。
その前夜、当初出るはずだったマコちゃんは予定が変わって他府県の劇場に出ていると本人のツイッターで知ったけれどもう行く気でいたので決行した。
マコちゃんのことはストリッパーになる前から知っていて、彼女を入り口にストリップに足を運んだ友人知人は数多いと思う。行った人は軒並み良かったと言うのでなにが良いのか知りたかった。

生まれてこのかた京都に住んでいるけれどDX東寺がどこにあるのかよく知らなかった。でもその名前だけは子供の頃から知っていて、なぜかというと新聞の映画館の上演スケジュールが載っている欄に並んでいたからだった。演目を見ると映画館じゃないし、足を踏み入れることのないであろう場所という認識だけはあった。DX東寺の横にはDX伏見というのも載っていたけれど伏見の方は今はもうないらしい。

DX東寺は京都駅八条口から歩いて行ける。劇場の外観は想像していた感じのギラギラした雰囲気じゃなくて銭湯みたいなどっしりした造りだった。表に立っていたお兄さんにお金を払う。女の人は3千円。

劇場内の壁面は黒で上手と下手の壁面は鏡になっている。一番奥に袖のあるステージがあって、そこから手前に小と大のふたつの盆が並んでいる。年季の入った劇場の褪せた雰囲気にいろんな色の照明が点滅しているうら寂しさ。でもその感じがいい。映画館のような折りたたみの座席もビロードの布張りが擦り切れ、折りたたみの金具が傷んで所々座席が降りたままになっている。座席に座布団が置いてあるところがあったけれど、あれは席をキープしているという意味だったのか。
行ったのが平日2時の回だったのでお客は店の人なのか客なのかわからないおっちゃんが2、3人ちらほらいるくらいで好きな席に座れた。多分大きな盆の真正面がいちばん良い席だと思ったけれど、初心者なので遠慮して下手に座る。1公演に5人の踊り子さんが出て、そのうち2、4番目は「素人」と書いてあって、素人とはどういうことなのか、プロと素人を分ける何かしらの歴然とした差があるのだろうかと思っていたら暗転しそれは謎のまま開演した。

最初の女の子はオペラレッドのドレスに明るい色の長い髪で体は豊満だけどちょっとあどけない顔に今風の強いアイメイクをしている。奥の舞台で最初にしばらく踊ってそれから徐々に前の方に出てくる。その間に着ているものは薄くなっていく。下手の頭上にスモークの機材が仕込んであってそれが時々音を立てて煙を噴出する。
女の子は盆の上で踊り寝転がったり開脚したりしながら、時々盗んで欠伸をしたり鼻の横を掻いたりちょっとめんどくさそうにやっているのが可笑しい。そのとき客席には私たちの他におっちゃんひとりだったのでテンション上がらないのか思ったけれど、そんなふてぶてしい感じが似合う。笑うとかわいいので笑いかけられると笑い返してしまう。ポラロイドを撮る時間がある。千円払うと好きに撮っていいらしく、おっちゃんは好きなポーズをしてもらって撮っていた。

次の人が出てくる前にやっぱり正面で見ようと席を移動した。
それで次に素人の踊り子さんが出て来た。素人なので衣装が地味とかあきらかに不慣れみたいな差は見たところない。たださっきよりも踊り全体の構成が短いのでプロと素人は出演時間の差なのかと思っていたらそうではなかった。おっちゃんがそうしているのを見てどうもそういう流れだとわかったのだけれど、おっぱいに触らせてくれる時間があるらしかった。たぶん混んでいる時は客のなかの数人が触れる感じになるのだろう。気付くとおっちゃんがもうひとり増えていた。それでもいかんせん客は4人なので私たちも触れる時間の余裕があり、おねえさんにどうぞと言ってもらったので触らせてもらう。この状況で遠慮するのはここでの振舞いに通じていない者からしてもどう考えても野暮だったし遠慮するは選択肢にない感覚になっていて、別にいやでもなかった。
見知らぬ女の人の胸に触るのは、というか見知っている人の胸にも直に触ったことなんかない。手が冷たいのですみませんと言うと、いや動いて暑いからちょうどいいですよ、1日4ステって10日間って大変ですね、女性のお客さんいるって途中から気付いてあーもっと気合い入れた選曲にしたら良かったなー、女性客がいるとやり辛いですか、そんなことないけど反応が気になります、みたいなことをおっぱいに手をやった状態で数分話す。素人というのは他府県の劇場には出ずこの小屋だけに出る踊り子さんのことで、素人の場合だけタッチの時間があるのだと教えてくれた。大きな盆の一周は2分半だったか2分45秒だったか、だ、ということも教えてくれた。

おねえさんは、みんな形は違うけど私のは結構変わってて剃ってるからわかりやすいと思うけどでも外から見えないからなかなか比べられないですけどね、というふうに性器の形について普通に話した。それはこの劇場の中で解放されている要素によって起こり得ていることなのだけれど、そういう会話が成立していた。
ろくでなし子のことを思い出した。作品に惹かれないので騒動のことをなんとなくしか追ってなかったけれど、社会的にはたぶんこの隠れた場所にあってしまう、あってないものみたいにしておかなければならない、そのせいで呼ぶこともなんとなくはばかられる、あらわになるとわいせつ物と扱われるこの極端さはどう考えてももう少し認識を改めるべきだと間抜けなタイミングで憤るに至った。と言いながら自分にとってもなかなか外れない錠がかかっているし、そう簡単に認識は覆らない自覚がある。
美術モデルの仕事をもう十年以上やっているけれど、体の形状の話題が性器に及んだことはなく、なっても困るしそもそも見せるポーズをあえてはやらないし、下手に晒さない技術らしきものさえ身に付いている。描かれる場の裸には暗黙の了解がある。もちろん描くために見るのとショウを見ることの目的が異なるのでそれでいいのだけれど、ストリップ劇場という場所はそういう意味でハードルを飛び越えている公共の場として貴重なのではないかと思った。
体の隠された場所を体で開いてくれる踊り子さんたちがいてそれを公の場で共有して客は見る。その状態はいかがわしいというよりむしろあり方として健全だと思えた。
ストリップ劇場は「ここに来た客」であることを縁取る演出要素を劇場自体が既にもっていて、足を踏み入れた時点でそれが強くあり、上演が始まると舞台と客席のあいだには共犯関係のような感覚が生まれ、そういう力を持つ場所に足を運ぶ魅力というのもあった。
もしかするともっと過激な見世物もあるのかも知れないしストリップの世界の全貌を私は全然知らない。ただ今回見たものに関してだけ言うと、いま書いているような印象で、マコちゃんが単に集客の問題だけでなく、いろんな人にストリップを見て欲しいという意味を私なりに受けとめた。

おっちゃんがほんとうにうれしそうにおっぱいに触っている。それは別にやらしい雰囲気じゃなく普通に話しながら柔らかく良きものに触らせてもらう感じでそれを横でよかったねと思いながら眺め、同じおっぱいによって温められたいつも冷たい両手が温かった。

踊り子さんによってそれぞれに趣向を凝らした衣装や選曲があって、白無垢に狐の面をつけて手に提げた提灯明かりで出てくるとか、いろんな見せ方と隠し方があり、熱意も伝わって来た。ほのかに漂ってくる化粧品や香水のにおいも違う。特にその日のトリだった神谷エリカという人の選曲と構成がよくて、本人もかわいいし気さくに話してくれるので記念に一緒にポラ撮った。浅草ロック座の人らしい。

全部で2時間くらい。劇場を出てなんか甘いもの食べたいと思ったらちょうど劇場の並びに和菓子屋があり、無意識に選んだ餡入りわらびもちもまた柔らかく、食べながら帰った。


2015/10/7

2015年10月07日 | Weblog

股関節の脱臼も厭わない
願いごとの形状
空を飛びつつ地を這う技法
地中の晴天に目も眩む美貌を見た!
天空の穴ぐらから這い出た土竜がついに太陽を食べ尽くした!
過度の饒舌は往々にして胡散臭く
本質を見失わぬよう
口をあけて
舌を適度に乾かすことは
常々怠らなかった
その姿を馬鹿みたいだと
見放したはずの視線も
あらゆる蕊の一本も
やがて加担せずにはいられなくなる
願いごとの形状に
殺到する繊維質が
神経組織に自動接続し
そのうち正体を失って
散在するあなたやわたしは
入り組んでまとまりたわし化する
どこもかしこも
類似して且つ符合せず
各々パーツを探して延々
型合わせをくり返す


2015/10/3

2015年10月04日 | Weblog

新しいことが始まる日に天気がいい方がやっぱり幸先のいい感じがするから、目覚めて東に面した窓際で日光浴をする猫の白いお腹の毛が朝日を反射してより白いのがぼんやり見えて、まだ布団のなかで、半覚醒状態のときからちょっと嬉しくなっていた。

玄関先の粉粧楼の薄い花びらが陽で透かされて、冷えた夜から朝のあたたかさを受けて香りがたちはじめる。今一歩粉粧楼の香りの特徴を掴みきれない。スパイシーと分類されるけれど、そこまでスパイシーな要素を感じない。クラシックな印象はあったけれど、今朝嗅いだのはちょっとブルー系にあるレモンのようなシトラスが立っていて、つまりそれがトップノートだったのかも知れないが、ますますわからなくなった。

電車で大阪に向かいながらにわかに緊張してくる。初対面の人たちと稽古することが久々だった。

人の声に自分の声を重ねたり連ねたり、動きが同期することには素朴な喜びがある。新しく覚えないといけないことを口に入れてまだ噛み砕けないあいだの言うことを聞かない体。覚束ない足で右往左往する。でも型にはめ込むこと、方法があることの楽しさ。それも久々だった。


2015/10/1

2015年10月01日 | Weblog

午後から雨の予報だったので午前中に外に出る。歩いて下る途中にあるお屋敷の解体工事が先週から始まった。大きな石の生け垣に囲まれていて、外から覗ける範囲でも庭師に入ってもらわないと手入れが間に合わないくらいの立派な庭が見えた。敷地内には建物が5つあって、道路に面したところには小さい建築事務所があった。そこはお屋敷とは隣り合って建てられているように見えたけれど、建築事務所が壊されると敷地はひとつだったことがわかり、さらにその奥に表からは見えなかった家がもう一軒あらわれた。いちばん大きく立派な屋根の母屋の横には離れがあり、そのまた横には蔵がある。どうやらそのすべてを壊すらしい。解体が始まる前に庭木がすべて伐採された。椿の太い枝の断面は不用意に切られて唖然としているようにまだ生気のある赤みを帯びた色をしている。通りに面したところの鈴なりだった柿の木もなくなり、切るときに枝から落ちて轢かれた幾つもの柿で道路が汚れていた。生け垣の隙間には道路に転がるのは免れて半分傷んだのが何個か挟まっている。そのあたりは土壁の湿ったにおいがしている。いつまでも嗅いでいたいにおいがする。

川に沿って下る途中にある古いアパートの玄関先に椅子を出して老人が座っている。一階の一番手前が老人の家で、老人の目の前にはプランターが置いてあり白とピンクの日々草が咲いている。プランターの下から水が出た跡がコンクリートに残っていたので水やりをしたあとそこにそのまま座っているのかも知れない。これまでにも何度かここに座っているこの人を見たことがある。藍色のどてらに適当なジャージを着ている。少しあいた玄関から雑然とした家の中が少しだけ見えている。敷地からして六畳一間くらいの部屋だと思う。やもめ暮らしというやつだと思う。どうして花を育てているのか。自分で日々草を選んだのだろうか。

大通りに出て疎水沿いを歩くとスイフヨウが紅白に咲き乱れている。一株から二色咲いているんじゃなくて、白で咲いて徐々に赤らんでくるらしい。ずっと水芙蓉だと思っていたけれど本当は酔芙蓉だった。

近いところのスーパーでホットケーキミックスと玉子を買って来た道を戻る。新しくしたフライパンでホットケーキを焼きたかった。戻る途中によくわからない商店がある。もうだいぶ汚れた黄色いクリーニングという文字も見えるけれど、クリーニング屋をやっているようには見えず、ここに出した服が無事戻ってくるのかと心配になる。出した覚えのないものが戻ってきそうな、何ともいえないガラクタでとにかく店の前が散らかっている。店先にはそれほど広くない自分の家の畑で取れたのだろうネギとか菜っ葉の家では食べきれないぶんの野菜や畑の脇で育てるような素朴な花が売っている。ここで買い物をしたことはない。その商店の人が育てているらしい道の脇に置かれたプランターの秋桜の根元には柿の皮が撒いてあった。

老人は帰りに見ても同じところに座ったままだった。