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流出雑記 

かたちあるものは

2010年05月28日 | Weblog
小学校のとき、同じクラスだったカヨちゃんは勉強ができて活発で面倒見の良い女の子だった。
同じ町内だったこともあって転校生で友達のいなかった私の世話を焼いてくれ、新たな環境を前に自家中毒を起こしていた私は彼女を窓口にして学校に馴染むことができた。
あるとき、夜店の金魚すくいで取った金魚のことを話していた。
夜店の金魚は時々長生きすることもあるが、弱っていたり病気を持っていることのほうが多く、特に出目金は弱くて一週間もせずに死んでしまうことがよくあった。カヨちゃんがすくった出目金も片目が潰れてしまい、傾いて水槽を泳いでいた。それを見たカヨちゃんのお父さんは、このままほっておいても治らないのに苦しんで生きるのは可哀想だと、出目金を水槽から出してティッシュに包み、安楽死といって手のひらで握り潰した。
カヨちゃんは少し誇らしげにその話しを私に話して聞かせた。
潰れた出目金の染み込む黒いティッシュが頭に浮かび、そんなことはおかしいと思うのに、そう言うことはカヨちゃんのお父さんが間違ったことをしていると指摘することになるので言えなかった。それにそういう考え方があるということを理解出来ない訳ではなかった。私よりずっと賢いカヨちゃんのお父さんがそうやったのだ。でもまったく良いこととは思えないし、自分の親がそんなことをする人だったら本当に嫌だと思いながらぼかして受け答えをしたので、そのときの心地悪さが鮮明に残っている。
白点病にかかった金魚を塩水のバケツに浸けているとき、5月祭りや夏祭りの出店で金魚すくいを見る度に出目金のことを思い出す。


最近観た映画、『カッコーの巣の上で』でマクマーフィがロボトミーという脳の手術で思考することもまともに話すことも出来ない廃人のようにされてしまい、その姿を見た同じ精神病院のネイティブアメリカンの友人がマクマーフィを抱きしめ、こんな姿で置いてはいかないと枕を彼の顔に押しあて窒息させ、体から彼を連れ出した。

今月の初めに叔父が亡くなり、7年ぶりにお通夜、葬儀と人を送る儀式に参列した。火葬場で、最後のお別れを済ませたあと、少し待ち時間があった。
そのとき棺のなかの叔父を、叔母は話しかける様な視線で見ていた。何十年と見て来た夫の顔は、あと数分後にはもう見ることが出来なくなってしまう。
火葬の着火ボタンは喪主の長男が押した。
もしも私が夫を先に見送ることになって、そのときあのボタンを押せるだろうか。ボタンを押した後、火がついて温度が上がっていくあの機械的な音がたまらなく怖い。自分の動作でかたちを消してしまうことが怖い。想像すると泣いて暴れたい心境になる。

3週間程前にうちに来た猫。
来たばかりの時は口内炎で口の中が痛そうなのに、とても飢えていてごはんを食べようとし、口の周りを手で拭うようにしたり首を振ったりして、部屋の隅に丸まって痛みに耐えていた。ときどき歯茎から出血し、口からは魚の腐った臭いに血なまぐささが混ざった臭いがした。ずっと首を垂れていたので顔もじっくり見られなかった。
口内炎というと大した病気でもないように思うが、人と違って猫の場合、一度悪化すると完治するのが難しく、酷くなると食事もできなくなり衰弱死してしまう、命取りになる病気である。
この子の口内炎は常に痛みを伴っているくらい酷いことになっていると獣医さんから言われた。腎臓も良くないので、痛み止めや抗生物質などの薬をこの猫は飲み続けなければならない。自然の摂理からするともう生きられないということになるが、薬が効いて痛みが治まり体調が良くなると、明らかに表情が変わるのだ。
日に日に体つきもしっかりとし、ヒゲものびて、毛繕いをしたり、伸びをするようになった。飢えていた期間が長かったようで、たっぷり食べてもごはんをねだり、私が台所に立つ度に後をついて来て、何かくださーーいと肺活量全開で鳴く。
膝の上にいるときの重みや温度、お世辞にもきれいとは言えないさび柄の毛並みを撫でると喉を鳴らすがまだ背骨がこつこつ指に触る。ベッドに入って来て腕枕で寝ようとする。一緒にねむる。


車内クロッキー(近鉄 大和西大寺~京都行)

2010年05月20日 | Weblog
奈良で仕事を終えて帰りの近鉄。
乗換駅の大和西大寺は学校帰りの学生で混んでいる上に、今日は曇りで湿度が異様に高く、ホームに立っていると酸欠の心地で息苦しい。

京都行きの急行、やはり座れず。
私から見て右端のドア際の席には、ピンクのシャツに茶色いズボン、シルバーのメガネを掛けた色黒サラリーマン風男、その左隣にくたびれた服におろしたてのまっ白なナイキのスニーカー、CASIOの腕時計の日雇い労働者風おっさんが座っている前に立ち、左手で吊り革を掴み、読みかけの大塚英志氏と東浩紀氏の対談を開いた。
しばらくして、おっさんが服と同じような灰紺色のかばんからコンビニの袋を出した。
おっさんは袋を探り、パンを引っ張り出してパリと袋を開けて黒コロネという菓子パンを食べはじめる。パンからチョコクリームがはみ出している。
色黒の男は横目でちらと見て読んでいた文庫本に視線を戻す。私も読んでいたリアルのゆくえに視線を戻す。

1歳半くらいの子供を抱いた母親とその母親がその車両に乗ってきた。
色黒の男はすぐさま席を立ち笑顔で親子に席を譲る。
良いですか、ありがとうございますと言って母親はドア際のその席に子供を膝に乗せて座る。
母親の母親は私の右側に立ち、私はおっさんの正面に立つ。
おっさんは一連のやりとりを横目で見つつ、自分のどうしようもなさを黒コロネと共に咀嚼し飲み込んでいるように、若干遠慮がちにはなっている。おっさんは菓子パンの詰まった胃袋とそんな自らを抱えてそこに座っていることが落ち着かないのか、開き直ったのか、堪え難い空腹だったのか、さらにマヨネーズパンを取出し袋を破る。
子供がそれに注目する。
コンビニの総菜パンを開けたとき特有のパン臭とマヨネーズのクリーミーな甘酸っぱさが湿気の中に漂う。
温和でごく常識的そうな母親と母親の母親は露骨に嫌な顔はせず世間話を続けているが、なんとなくおっさんの無遠慮さに距離をとりたい空気を共有している。

そんな中、子供がアーアーと言いながらおっさんのマヨネーズパンに手を伸ばした。
母親は恥ずかしそうにコラと子供の手を引き戻す。
子供はおっさんのマヨネーズパンがどうやらおいしそうに見えているらしい。
おっさんは子供が自分のマヨネーズパンを欲しがっていることに気付いているが視界には入れず、反応しない。
席を立ってすぐ横のドアの前に立っていた色黒の男の携帯が鳴る。
男は3コールで電話に出た。
子供が注目する。
電話は仕事関係のようだった。
子供は左手を耳に当て電話の真似をしている。
子供は自分が電話の真似していることを母親たちにアピールする。
母親達は子供に笑いかける。

おっさんはマヨネーズパンを食べ終えた。

色黒の男は電話を切った。

子供はぐずりはじめる。
子供は母親が持っているフェンディのバッグの持ち手を齧っている。

おっさんがかばん中からコンビニの袋に包まれた黄色い缶のジュースを取出して飲む。
南国のにおいが湿気た車内に一瞬漂った。 パイナップル。

小豆

2010年05月18日 | Weblog
金曜の深夜、煙草を買いに出た夫が猫を拾って帰ってきた。
黒と茶色、まだらの子猫。鼻にかかったようなしゃがれ声でびゃーと鳴く。鈴の付いた首輪をしていたが痩せ細ってぶかぶかだった。うちには小梅がいるので家に上げる前に一旦洗おうと、夫と猫は風呂場に直行。
外で見かける猫を呼んでもほとんど寄ってこないが、夫がこの子を見つけて呼んだときはすり寄って来たそうだ。家猫は脱走すると家の場所が分からなくなって帰ってこれなくなるケースが多いと聞く。
ひとりになってどうやって生きていたのか、ただでさえ痩せているのに毛が濡れると骨格があらわになる。ドライヤーで毛を乾かしながら、ごつごつのあばら骨に触れて、食べられるものを必死で探す姿が浮かんだ。
ドライヤーを嫌がって逃げようとするが、逃げ足にも力がない。
一先ず今夜は夫の仕事部屋を隔離し、段ボールの家とトイレ、水とごはんを置いて寝る。
次の日私が仕事で出ている間、夫が動物病院に連れて行ってくれた。
検査の結果、痩せて脱水気味ではあるが、一番心配していた感染症はなく、点滴を打ってもらってその日のうちに戻って来れた。
雌で年齢は5歳以上ということは確かだが10歳なのか6歳なのか、正確には獣医さんにも分からなかったらしい。あんまり小さかったので子猫だと思っていたが立派な成猫だった。
しばらくはケージに入れて、先住猫と双方新たな環境に慣れさせていった方が良いそう。

もし次に猫が家にやってきたら付ける名前の候補が既にあり、この子は小豆という名になった。
誕生日は家に来た5月15日とする。
小豆は人の足音が聞こえるとびゃーと鳴いて呼び、ケージを開けると出て来て膝の上に乗って甘える。
今はかりかりのフードをお湯でふやかし、おじやのようにしたごはんを食べているが、目の前に置いた瞬間、脇目もふらず一粒も残さず平らげ銀のボウルを返してくれる。懸命に食べている様子を見ながらはやく栄養が体の隅々に行き渡るようにと思う。
小豆が家に来て3日程経ったが、小梅はまだ警戒してとシャーと言ったり、小豆を触った手で触ると怒る。
仲良く昼寝しているところを見るにはもう少し時間がかかりそうだ。






2010/5/10

2010年05月10日 | Weblog
冷蔵庫から出した卵は必ず常温にもどすこと。
鍋に卵が浸かるくらいの湯を沸かし、沸騰したら塩をひとつまみ入れる。
卵の殻のお尻を画鋲などで突いて穴をあけておく。
卵はM寸なら6分、L寸なら7分、夏場はそこからマイナス1分、時々鍋の中で転がしながら茹でる。
別の鍋に水500cc、醤油100cc(ヤマギク醤油推薦)、だしの素小さじ半、昆布5㎝角沸騰手前で火を止めて冷ましておく。
ボウルに冷水を用意し、茹でた卵を水につけて冷まし、水の中で剥く。
剥けた卵をタッパーに入れ出汁を注ぎ、冷蔵庫で2~3日味を染み込ませる。

半熟煮卵の作り方

その他に、和えても炒めてもおいしい中華ダレの作りかた、そのタレによく合うワンタンの作り方、これらは福井に住む叔父から教わったもの。父の弟にあたるひと。
叔父はおいしいものを人に薦めるのが好きで、今年の正月も挨拶に伺ったとき、自家製スモークチーズを振る舞ってくださり、それがおいしいので遠慮なくいただいていたらお土産に塊でふたつも持たせてくださった。このスモークチーズは正月の恒例だそうで、毎年楽しみにしている人が結構いるらしく、元日もなお台所には桜チップと薫製機が置かれ、チーズが燻されているところだった。
スモークチーズなんて言うと相当な凝り性の料理好きなのかと思うがそうではなく、テレビで見てふと気になったレシピをメモしておいて試しに作っておいしければまた作る、というような凝りすぎる嫌みのない料理好きである。
正月があけて数日後、叔父から醤油や蕎麦、鯖のへしこ、小鯛の笹漬け、五月ヶ瀬、水羊羹など福井のおいしいもの詰め合わせが届いた。それぞれの品物に直筆の付箋がついていて、おいしい食べ方などが解説されている。醤油は1ℓボトルが6本も入っていて驚いたが、私の実家への分もと書かれていた。

その叔父が先月ホスピスに入られたと聞いてから、ずっと気がかりだった。昨年11月の結婚式や正月の印象を思い返しても、その頃既に体の中ではガンがかなり進行していたとは思えず、叔父が付箋に書いてくれたレシピが我が家の台所に貼ってあるので、それが目に入る度に頭を過っていた。

ゴールデンウィークの前に煮卵を作った。
叔父からこの方法を教わるまでは、私の茹で卵は思ったより茹で過ぎでボコボコなのが常だった。なのでどうしても必要でなければ作らなかったが、ほとんどミス無く殻を剥けるようになってから茹で卵を作る作業が好きになった。

傷ひとつない完璧な煮卵を作って写真を撮り、それを手紙に添えて送ろうと考えた。
教わった手順で卵を4つ茹でる。きっちりタイマーで6分。水に浸けて粗熱が取れたら慎重に殻を剥く。ひとつめ。ふたつめ、みっつめ。最後のひとつは先の3つと比べると若干大きい卵だった。殻にヒビを入れた瞬間、感触が他よりかなりやわらかい。微妙な大きさや温度の違いで茹で上がりに結構差がでる。
3分の2まで剥けた、あとは帽子のように残っている卵の尖っている方の殻を剥がせばというところ、それをそのままつるんと剥がしたいと思って、薄皮と卵の間に爪を入れ、殻を浮かそうとした。殻を上に、卵を下に引っ張るようにして少し力をかけたときに、いちばん柔らかい真ん中の白身の部分がぱっくり口を開けた。中の黄色い半熟が見える。慌てて割れた部分を閉じた。
そのまま手で押さえていると割れているようには見えないが、手を離すとどうしても口が開く。
しばらく押さえたり離したりしながら、冷やしておいたら収縮して口が閉じることがあるかもと思うことにして急いで出汁につけ込み冷蔵庫のドアを閉める。
しかしどうも気持ちは沈む。卵の殻剥きが一種の祈りのようになってしまっていたので、失敗したことに妙な罪悪感があったのだ。
翌朝、冷蔵庫を覗いてみたが、卵は昨夜と変わらず口を開けたままだった。
その日の夕飯、中華風肉みそを作りごはんに乗せ、その上に煮卵を添えた。本当は2日くらい経った方がおいしいのだが、なんだかもうはやく食べてしまいたかった。
きれいに仕上がった煮卵は丸のまま出したくなるが、今回はひとつの失敗をなかったことにするため最初からふたつに切って出すことにする。口が開いている卵を割れ目に沿って切り私の器に盛る。
いただきますを言ってすぐ、子供がカレーを食べるときのように器の中で渾然一体にして卵の型をなくした。それを見て夫が何気なく、あーなるほど卵も全部混ぜて食べるんかと言ったのに、こうするとまろやかになるよと答えつつ水面化でぎくっとした。

結局煮卵を写真に撮ることも手紙を書くこともしないまま先週日曜の朝、叔父が亡くなったという知らせを聞く。
教わった料理を作っていますと伝えたかったのだ。卵が割れたことなんか関係なく、妙に思い込まずただ伝えればよかった。

2010/5/4

2010年05月04日 | Weblog
連休を使って東京から兄と近い将来姉になるであろう沖縄出身の彼女が遊びに来た。兄は夫と年子で、友人と居るくらいの感覚でいられる。
我が家に2泊し、そのうちの1日は4人で観光。京都が初めての彼女リクエストによる清水寺へ。
ゴールデンウィークに相応しい晴れ。
近くの神社のお祭りの提灯、金色のお神輿、外を歩いていると半袖でも良いくらいの陽気。修学院の駅まで歩いて、近くのスピークイージーでアメリカンな昼食をとり、叡電に乗り出町柳へ。
清水寺への道のりはただでさえ登りなのに、少し遠い京阪五条から歩くことを選択してしまった。渋滞で動かない満員バスに詰め込まれるより良いだろうと思ったのだが、徒歩は徒歩で日差しに体力を奪われる。
清水寺へ向かう人々は、思いのほか長い坂の道のりを抹茶ソフト片手に焼き物を見たりして、今日は暑いねぇと言いつつ、どうにか楽しみながら登っていく。
しかし、登り着いた清水の舞台から見る景色の新緑と風のすがすがしさにそれなりの達成感があった。重みで崩れ落ちないかと思う程、舞台の上はぎっしり人。
おろして2度目に履くサンダルで靴擦れになり、観光の場合おしゃれをしても足元はやはりスニーカーにすべき教訓、改めて身に染みる。
夫は専属カメラマンと化し、歩いてくるふたりより先まわりして写真撮影。
帰りは産寧坂を土産物等見ながら下り、駐車場近くの喫茶店で休憩する。アイスレモンティーが染み渡る。
その後、バスで祇園まで出て、甘味処へと思っていたが、徳屋も小森も並ぶ気がおきない行列で、心当たりは全滅。花見小路や高瀬川の辺り雰囲気を楽しんでいただいた。
その後兄達は錦市場散策へ、我々は母の日の贈り物を探しに雑貨屋などを巡る。
毎年この連休の時期に、福井から父が剣道の試合で京都に来ている。この日の晩は皆で食事することになっていたので、少し早いが、父に母の日プレゼントを持って帰ってもらおうと思っていた。

悩みに悩んで、からの瓶に鰹節や昆布やにんにくが入っていて、そこに醤油を注いで数日おくと出来る、にんにくだし醤油の素と、時期外れだが色のかわいい桜の塩にした。
2時間後、兄達と合流。ほうじ茶ソフトを食べたり、鴨川のカップルの列に参加したりしていたそう。
四条からタクシーで丸太町の「てらこや」という店に行く。ここの葛でゆるくかためたおぼろ豆腐がおいしい。
8時頃、父も到着。父に母からとずっしりした紙袋を受けとる。中には本や花のモチーフの指輪、環境と手にやさしい洗剤、スパム、マイケルジャクソンのDVD、花模様のガーデニング用手袋など、意表を突かれるほどバラエティに富んだラインナップ。

話題は、正月に自家製スモークチーズを分けてくれた叔父の体の具合があまり良くないこと、父の新車のこと、兄達の今後など。

ふたりは式をするなら沖縄かも知れないということで、沖縄に行ったことのない私は今から楽しみにしている。

おいしいものをいろいろいただき、連日の飲み会と試合で疲れた父はホテルへ帰り、我々はまたタクシーに乗り探偵バーへ行って飲んで帰宅。

居間に布団を敷いて、その上で彼女のおすすめちんすこうや東京土産の菓子を食べ、ワインを飲み、順番に風呂に入る合宿のような2夜だった。
翌朝10時の新幹線しか席が取れなかったそうで、翌日はもう起きてしばらくしてお見送り。

この日の晩ごはんは彼女からお土産にいただいた沖縄食材で、ゴーヤチャンプルと水菜とミミガーのサラダにした。