視覚は、描かれたもの、撮られたもの、彫られたもの そのように生み出された作品、つまり、ある痕跡 を見る。
視覚はその時焦点を合わせ、そこに表われているものや込められたものを捉えようとする。
ところが、前回書いたような徐々に気化して展示中に消えて無くなる作品の場合はどうか。
その場で消えつつあるものに焦点を合わせる事はできる。
しかし、1時間後にはその時焦点を合わせたものは既にこの世のどこにもないかも知れない。
刻々と変わる形を「見た」といっても、その「見た」はどうもピンぼけしたようなものに思える。
だとしたら視覚は、痕跡ではなく消えつつあるものの軌跡と呼ぶべきものを見た事になる。
跡を「見た」のではなく進行形の時間そのものに「立ち会った」 ということ。
「見る」ことは当然身体的な行為であるが、「立ち会う」ことは「見る」とは少し異なったニュアンスを含んでいる。
つまり「見る」鑑賞者の位置からそこで起こっていることそのものに巻き込まれるということ。
見ているつもりだったものに実は体ごと巻き込まれ、そこでの進行形の時間に強制的に参加せざるを得ないという事態が起こる。
物質として痕跡の残らない、再現不可能な一回性の時間に立ち会う事を要求する作品は、視覚だけでは捉えられないところへ鑑賞者を引っ張り込み、視覚の体験が、それだけではどうにも不十分でさらに体、感覚をもってそこに立つより仕方のない鑑賞者自身の体に跳ね返ってくる。
消失に立ち会う事で焦点を失いひっくり返った眼球は はたとそこに 私自身を みた
痕跡を残さない、消え行く現象自体の作品は、自己表現、主張から遠ざかる事で鑑賞者にそんな体感を誘発する力を持っているように思う。
視覚はその時焦点を合わせ、そこに表われているものや込められたものを捉えようとする。
ところが、前回書いたような徐々に気化して展示中に消えて無くなる作品の場合はどうか。
その場で消えつつあるものに焦点を合わせる事はできる。
しかし、1時間後にはその時焦点を合わせたものは既にこの世のどこにもないかも知れない。
刻々と変わる形を「見た」といっても、その「見た」はどうもピンぼけしたようなものに思える。
だとしたら視覚は、痕跡ではなく消えつつあるものの軌跡と呼ぶべきものを見た事になる。
跡を「見た」のではなく進行形の時間そのものに「立ち会った」 ということ。
「見る」ことは当然身体的な行為であるが、「立ち会う」ことは「見る」とは少し異なったニュアンスを含んでいる。
つまり「見る」鑑賞者の位置からそこで起こっていることそのものに巻き込まれるということ。
見ているつもりだったものに実は体ごと巻き込まれ、そこでの進行形の時間に強制的に参加せざるを得ないという事態が起こる。
物質として痕跡の残らない、再現不可能な一回性の時間に立ち会う事を要求する作品は、視覚だけでは捉えられないところへ鑑賞者を引っ張り込み、視覚の体験が、それだけではどうにも不十分でさらに体、感覚をもってそこに立つより仕方のない鑑賞者自身の体に跳ね返ってくる。
消失に立ち会う事で焦点を失いひっくり返った眼球は はたとそこに 私自身を みた
痕跡を残さない、消え行く現象自体の作品は、自己表現、主張から遠ざかる事で鑑賞者にそんな体感を誘発する力を持っているように思う。