figromage

流出雑記 

ーーーー続き

2008年04月26日 | Weblog
視覚は、描かれたもの、撮られたもの、彫られたもの  そのように生み出された作品、つまり、ある痕跡 を見る。
視覚はその時焦点を合わせ、そこに表われているものや込められたものを捉えようとする。

ところが、前回書いたような徐々に気化して展示中に消えて無くなる作品の場合はどうか。
その場で消えつつあるものに焦点を合わせる事はできる。
しかし、1時間後にはその時焦点を合わせたものは既にこの世のどこにもないかも知れない。
刻々と変わる形を「見た」といっても、その「見た」はどうもピンぼけしたようなものに思える。
だとしたら視覚は、痕跡ではなく消えつつあるものの軌跡と呼ぶべきものを見た事になる。

跡を「見た」のではなく進行形の時間そのものに「立ち会った」 ということ。

「見る」ことは当然身体的な行為であるが、「立ち会う」ことは「見る」とは少し異なったニュアンスを含んでいる。
つまり「見る」鑑賞者の位置からそこで起こっていることそのものに巻き込まれるということ。
見ているつもりだったものに実は体ごと巻き込まれ、そこでの進行形の時間に強制的に参加せざるを得ないという事態が起こる。
物質として痕跡の残らない、再現不可能な一回性の時間に立ち会う事を要求する作品は、視覚だけでは捉えられないところへ鑑賞者を引っ張り込み、視覚の体験が、それだけではどうにも不十分でさらに体、感覚をもってそこに立つより仕方のない鑑賞者自身の体に跳ね返ってくる。

消失に立ち会う事で焦点を失いひっくり返った眼球は はたとそこに 私自身を みた

痕跡を残さない、消え行く現象自体の作品は、自己表現、主張から遠ざかる事で鑑賞者にそんな体感を誘発する力を持っているように思う。 
 


 

残す残らない残ってしまう

2008年04月24日 | Weblog
生き物の中には種の保存、 残す という欲望がある。
残す の前提に 無くなる ということがある。

「私」は永続するものではない。なので動植物はそれぞれの方法で種を残す。
「私」を受け継いだものを残す本能。
生前使用したシャツや茶碗、枕、日記やCDやその他のあらゆる荷物も残る。
残したくないようなものも生前処分しない限り残ってしまう。

で、骨は残れど、やはり生きた、生体の「私」は残らない。
残すもの残ってしまうもの残らないもの
残すものと残ってしまうものの分別は意思のあるかなしかだが、それは死後に生きる人々によって判断されているような気もする。

考えたいのは、自己表現、芸術の分野に於いて、残らないものを作るとはどういうことかということ。
無くなる 消えるということを扱う表現について。

主題としてそれを扱う絵画や映画や彫刻、その他の表現分野にも無数にあるだろう。
残るものとして表現された消失 がある。
画面に描かれた跡や、紡がれたフィルムを映写することによって、それを表現することが可能になる。
映画には上映の時間が必要だが、絵画などにも鑑賞の時間が必要なので、現物が残るという点で同じ枠に入れた。
とはいえ、残すもの、残ってしまうもの、残らないもの というカテゴライズは 憶測の届く範囲の「私」なき世界でのことで、もっと遠ざかれば、形あるものはいつかすべて跡形もなく消えるのだろう。
今私の後ろで唸っている冷蔵庫も掛けている椅子も足元の畳も。この貸家も。金閣寺も。万里の長城も。ラスコーの壁画も。東京ミッドタウンも。チェルノブイリ原発も。何千何万年、何億年先には、比叡山もナイル川も太平洋も。


そんなふうに思うと立ちくらみのする爽快感があるが、私自身には残すも残さないも老いる隙もないような、もう、ふっと現れて右向いて左向いたら私なんぞもう居ないといったもののようだ。

あ という間 とはよく出来た言葉だと思う。

展示中に消えてなくなる彫刻作品があるという話を聞いた。
詳しくは知らないのだが、氷像なら溶けて水が残るがその作品は気化する物質で出来ているそうで跡形もなく消えるらしい。
消えるという現象自体を作品としているなら、展示期間中徐々に消えていくのを、ある人は半分くらい残ったもの、またある人は欠片のようなもを、見ることになるだろうし、何も無いものを見る人もいるだろう。予備知識無く見た場合消えていく作品だと聞かない限りそうだとわからない。
後々記録で見たとしても知識として入る以外にあまり意味がない。

現物が消える、消滅するもの、その現象を扱う創作は何を残そうと、もしくは残すまいとするのか。

いつか居なくなる運命を持つものが、消える様を見る為にやってくる。
刻々と消えているという事を知らずにあるフォルムと遭遇する。 
いずれにしても鑑賞者と作品の双方が再現不可能な時間を孕みつつ起こる偶発的な出会いに、ある親密な関係を結ぶような印象がある。
 
この作品が作品となるには、立ち会う人がいる ということが欠かせない。
残らないものの中に残らないものが残る。
消える、無くなる、残らないことが跡を残す。
それはとても自然で強制的な力を持っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー続く 


ぱらぱらしない

2008年04月23日 | Weblog
昨夜は先日の『ゆきゆきて神軍』から原一男監督シリーズで『極私的エロス・恋歌1974』を見た。
原一男のもとを子供を連れて去った女性を追ったドキュメンタリー。
冒頭、「もうカメラを向ける事でしか彼女と接する事は出来ない」というような監督自身のナレーションが入る。
原一男との子はもうけたが結婚はせず、カメラに向かって彼女は「原君」と呼ぶ。その呼び方に時代を感じる。

突発的母性本能行動派と呼びたくなるような女の人で何にも縛られず自由に在ることへの頑固なこだわりと、縛られない為に選んでいる方法に無理無謀が付いて回り、おそらく本人も何がしたいということでなく、とにかく身の置き所を危うくして生きていることを際立たせて生きているという印象。
東京から突如沖縄に移り住み、アメリカ兵との間に子を身ごもるが暮らしはすぐにうまく行かなくなり1年もしない内に身重のまま東京に戻り、原一男のアパートで助産婦なしで床に新聞紙とビニールを敷いて自力で出産する。混血の女の子。その出産の一部始終が原一男の「でたっでたっ」という声などと共に興奮によりややピンぼけで記録されている。
父親が誰でどうこうはさして問題ではなく、とにかく産んだ子供を育てるという事が結局彼女の生きる方法のようになっていったようだ。
子供に依存しているのではなく、彼女の口調で書けば「このガキども生かしてやらにゃあ」という感じ。

 
今日は11時頃から彫刻の仕事。
日中はコートなしで自転車で走れるようになった。
2時間で終わり家に帰る。
片道30分ほど。帰りのきつい上り坂は少しの気温の上昇で寒かった頃よりはっきりわかるほど体力を奪う。
二時間といえど立ちポーズの後はなおさら疲労感。

お昼がまだなのでお腹も空いて帰るや否や料理。
ダーリンは家にいた。
私は仕事帰りの彼に料理などさせたことはないと思うと、多少腹立つ。
生活費も折半なら家事も折半だろう。
腹立ちながら作ったチャーハンはぱらぱらにならなかった。 

生活全般に対して私の方が気がつくことが多いようなので、そんな苛立も時にはある。
黙ってふつふつ苛立つタイプなのでたいそうやな感じであろうと思う。

そんなこともあるが昼寝でもすれば冷めて晩ご飯はベトナム料理献立にした。

夕食後ヨーグルトが食べたいと思ったが、うちにはなく、あきらめて食器をかたづけていたらノックの音がした。
一人暮らしをしているとなりのおばあちゃんだった。
時々ひとりで食べきれなかった3こパックのプリンとかおはぎとか知り合いがくれるが多くて困ると言う野菜をいただく。
今日は苺とブルーベリーのヨーグルトだった。
有り難や。

マミー50

2008年04月20日 | Weblog
花と重いスーパーの袋をさげて京阪に乗り実家に帰る。
19日は母の誕生日だった。
五十になる。
二十四で私を、その後さらに二人の娘を産んで、末の妹は来年成人する。
末の妹は体育大学でサッカー部でキーパー。まだ春先だというのに夏休みの小学生のような褐色の肌で化粧気もないかっこいい奴。
誕生日を祝う為に練習の後大阪から帰って来た。
真ん中の妹はパティシエで、激務の日々。このほど退職届けを出したが受理されず。人手不足らしい。
お祝い事のときはケーキを持って帰ってくる。
ロスになったケーキの恩恵を賜る事もある。

三姉妹、下に行くほど発育が良く、私や真ん中の妹が成人式に着た振袖が末の妹にはどう頑張っても寸足らずという事態が起こり来年振袖をレンタルするか買うか と母。

仕事終わりの妹と部活帰りの妹が夜10時前に帰宅し、遅めのご飯をそろって食べる。
ご飯の係は私。
アボカドねぎとろ丼
かぼちゃと獅子唐のオイスターマヨネーズ炒め
生春巻き
もやしとかにかまの梅ニンニク和え
揚げ大豆ボールの酢豚風

ケーキは苺のシフォン。
シフォンは軽いのでぺろっと食べられる。

プレゼントした洋服も似合っていた。

その後は雑誌を見ながら今年はショートカットが流行だとかそれはカエラ効果かとかストリートスナップの着こなしでどれが一番いいかとかそんなことをしつつ風呂に入り疲れている妹たちから寝に入る。私と母は4時頃まで起きていた。

翌朝早くまた部活のある妹は私の寝ている間に帰って行った。
昨夜たくさん食べたのに朝から母の作ったサンドイッチを5つほどぺろっと平らげ出たそう。かっこいい。
真ん中の妹は休みだが高校のときから続けているバレーボールの同好会の試合で10時頃出掛け、休みの母と私で遅い朝昼兼用ご飯を食べながら母の仕事である介護の現場の問題や、最近私が観た原一男監督の『ゆきゆきて神軍』のことを話す。

普段は行き届かない所までふたりで掃除し、一段落してから近所の大型ショッピングセンターに行く。
日曜日なので賑わい、買い物がてらぶらぶらする。
夕方駅前で別れ、電車を待つ間、母の年齢に十足しさらに十足し、   これからの時間は今までの二十数年よりおそらく早く過ぎていくだろう。 と思い 電車に乗り 自転車に乗り  思う。 

ソメイヨシノが散ってから、丁度母の誕生日の頃に咲く八重桜。
小学校の時、公園に咲いていた八重桜がきれいなので母にプレゼントしようと何輪か摘んだ所を他所の学校の子に「折ったらあかんにゃでーいいつけたろー」とか言われて泣いて、一緒に居た幼なじみと近所の男の子に連れられて逃げたのを毎年思い出す。 八重桜は好きだが見ると今でもなんか悲しくなる。






鼻迷惑

2008年04月16日 | Weblog
今日から母校の美術高校で彫刻の固定ポーズの仕事が始まる。
6月中頃まで週3~4日、学生の時分はバス通学でしたが今はチャリ通で。

彫刻科の教室は絶えず粉塵がまっており、どこに腰掛けても白くなる。研究室から更衣室の中までそんな有様。

初回の今日は針金で出来たおよそ等身大の体の芯に粘土で肉付けし胴体を作ってゆく。
手足はまだ針金で、胴体を作るのに邪魔な腕は上にあげられ踊っているふうになっておもしろい。
落ちていた粘土のかけらで休憩中に猫を作った。

授業は二時間なので4ポーズで終わり。
昼過ぎ、学食からのにおいに後ろ髪ひかれつつ、今日は帰ることにする。

花の終わった川端通りの桜並木を走る。
日差しが強く暑いくらい。
走りながら、スパイシーなローズメインの香水レシピをイメージする。
バラの品種は何千とあり、香りは全て違う。
中にはレモンなどの柑橘系が強く香るものもあれば、胡椒のようなスパイシーな香りをもつバラもある。
バラと香辛料のクローブ(丁字)は相性が良く、バラの香りに強さを持たせるのに料理と同じような感覚でスパイスとしてクローブを使うことはよくあるが、スパイシーさをもっと前に出したようなものを考えていた。

帰宅後試しにやってみる。手探り というか鼻探りで調合し大体最初は失敗する。
とにかく足し算で作っていくので、どこかで余計なものまで入れてしまう。
それでミスったレシピを見直して、何が出過ぎでいらないものかと引き算でやり直す。そうすると余計なものに阻まれていた引き出したかった香りが立ってきてよしよし となる
といいんですけどね。

三時間ほど嗅ぎ続けて、部屋ににおいが充満しダーリンが頭痛を訴える。

パソコンを使いすぎると目が疲労するのと同じように嗅ぎすぎると鼻は疲れる。香水をつけすぎた人の近くにいると気持ちが悪くなるように、気怠くなるのだ。
慣れると数時間平気だが、巻き添えは申し訳ありません。

そんなんで今日は夕飯も作れず、おいしい蕎麦が食べたかったのに蕎麦屋は開いておらず。
あっさりしたものを求めてナチュラリストが集う店で焼きビーフンを頼んでみましたが、あまりに、あまりにも薄味。
あっさりを求めて来たが、あっさりじゃない。薄い。
テーブルに塩、醤油など調味料は一切なく、なんだか、ください とも言い辛くそのまま食べた。
食べたけど全然お腹が空いたまま帰宅後それぞれにまた食べる、という卑しい結果になってしまった。

生クリームを飲み干す衝動

2008年04月11日 | Weblog
昼間、思い切って拠り所であったコタツを片付け、部屋はすっきりして見えるが足元のスカスカする。慣れるまでに数日かかりそう。
コタツ布団をなんとか洗濯機に突っ込む。入ったはいいが重すぎてほとんど回らない。せめて洗濯粉だけでも溶かそうと洗濯層の中で手洗いする。
夕飯の為の手羽元と大根をちゃっちゃと煮て夕方、大学の図書館へ行こうと思っていた。
途中ビデオ屋に寄り昨夜観た吉田喜重監督の『嵐ヶ丘』を返却。
主演は松田優作と田中裕子で、鎌倉時代が舞台の映画なのだが、これがものすごく良かった。
暗い家屋敷の蝋燭灯りの陰影の中から滲み出す田中裕子の肌や真水のようで毒のにおいのする色気、皮膚の下にたぎる血を宿した松田優作演じる鬼丸。ふたりの叶わない愛によって周りの何もかもが狂い壊れていく様が描かれる。
観た後になかなか離れていかない映画だ。
それで原作のエミリ・ブロンテの『嵐ヶ丘』はどんなものかと、コラージュの素材集めも兼ねて図書館を訪れた。
図書館の中にトイレはないので入る前に行こうと思い、車椅子用のバリアフリートイレに入る。
広いし、荷物が置きやすく鏡もひとりで使えるので空いているとよく使う。
電気を付けて中に入ると、まだ前にいた人の気配がした。
甘いにおいがある。

隅の方に99ショップの大きな袋が置き去られているのに気が付いた。
透けて見える中身はゴミなのだが、クッキーの箱や菓子パンなどの袋がいっぱいに詰め込まれていた。

あ と思う。

同じようなものを駅などのトイレで何度か見たことはある。
それを残していった人はおそらく食べて、吐いたのだろう。

ただ今日のゴミの中に今までになかったものを見付けてしまった。

生クリームのパック。

そのゴミは外で、しかもトイレで見かけるものではない。

誰だかわからない彼女はそれを飲み干したのだろうか。
牛乳でなく生クリームだ。クリームパンやバタークッキーやチョコレートではなく。
それには、病的なものを感じ、喉から手を伸ばすように脂肪分をほしがる彼女の体を想像した。
脂肪分に含まれる、最近悪者扱いのコレステロールは女性ホルモンの材料になるもので、生理の前にやけに食欲がわいたり、甘いものやクリーム系のものが食べたくなるのはそれだけのエネルギーを必要としているということで理に適った欲求であると何かで読んだことがある。

枯渇しかけた彼女の 女 が彼女自身を踏み倒し凌駕してでも生きようとしているように思え、その衝動にエロティシズムを感じた。
悶々と思考しながら図書館を歩き回る。
嵐ヶ丘を見付けることはできず、コラージュに使う裸婦のポーズ写真集をひたすらコピーしながら、皮下脂肪のおっぱいを眺めつつ生クリームのことばかり考えてしまった。

すみれ強迫のちアップルタルトの午後

2008年04月09日 | Weblog
10時からの仕事のはずだった。
事務所からの依頼のメールにもそうあったし、クライアントに確認の電話したときも10時からと言ったのにも関わらず、電車で移動中に電話が鳴り、嫌な予感…
「9時からなのですが、今どちらですか」
的中。

のお

40分遅刻し到着。
遅れた上に薄紫で黒水玉の変なフラメンコの衣裳で登場。

遅れた場合ポーズの間の10分休憩を5分に削って出来る限り予定終了時刻に合わせる努力をする。
6ポーズの間に5回の休憩がある訳で、5分削ることで25分は繰り上がる。
さして疲れないポーズなら5分休憩でもたいした事ないが、今日は正直辛かった。
立ちポーズで、引力にひっぱられる衣裳は重い。
フラメンコの衣裳は裾の襞が綺麗なので重い裾を持ち上げたポーズで、しかもハイヒール、そして不眠である。
衣裳が衣裳なのでナチュラルなポーズが合わないのは昨夜鏡の前で検証済み。首を傾けたり肩をあげたり不自然なポーズをし、余計に疲労度合いを高める。
1ポーズ目は体力があるのでまだ余裕があり、そういやこの水玉衣裳はまるで草間弥生の世界じゃありませんか。
すみれ強迫というクサマヨの本がある。この服、すみれ色でぴったり とそんなことを考える隙もあったが、つらいのはその後、まともに体のしんどさに耐えた。
ヒールで足の土踏まずの裏が伸び切って痛い。
常に体重を微妙に移動させていないどこかが痛くなる。
腰への負担を軽減すべく腹筋と背筋で上体を引き上げる。
そのへんの筋力には自信があったが、最後のポーズに近づくにつれていろんな部署が音をあげる。
20分が異様に長い。
タイマーをちゃんとセットできたかどうか不安になる。
神様早急にピピピピを聞かせてください。

それでもやがて終わりは来ました。
「5分休憩でよくやったね」描かれている方々からほめてもらう。

長かったようだがまだ12時過ぎ。
達成感とギャラを得て、今日はその後妹と会う約束があった。

2時頃に三条で落ち合い、さらさというカフェで女子ランチ。
会った目的は母の誕生日が近いのでプレゼント探し。
服にしようと決めていたがいざ探すと何が良いのか悩む。
新風館、藤井大丸、高島屋など巡って歩き疲れて高島屋の屋上で一休み。
一昔前は遊園地のように楽しくてしょうがなかったデパートの屋上が今や閑散として、100円で動く乗り物のくぐもった音の歌やら元気な声が響いてやたらとさみしい。
なんか陰のある親子が一組だけ、エアホッケーをしている。

パティシエの妹に一度食べてほしかったミディアプレミディのタルトを途中で買っていた。
自販機でコーヒーも買って誰もいない屋上で齧りつく。
やはり完成度の高さに感動。
林檎のタルトがいちばんおいしい。

その後も悩んだあげくカットソーを一枚選んだ。
後は当日に花と、ケーキ係はもちろん妹。


しっかり疲れた今日こそは早寝して、朝と言える時間に目覚めたい。


目覚ましに効くのはやはりモーニングショット

2008年04月09日 | Weblog
夜、仕事が終わってから絵を描いている方々のお花見会に誘っていただく。
夜の円山公園。
予約席が取ってあり、赤い絨毯の上に座る。
アルコールがだめなのでホットの烏龍茶。外は結構寒いのであたたかいおでんがおいしい。
参加者は40代から80代と幅広い約10名。
80代の女性が円山公園の大きな枝垂れ桜は二代目で先代の枝垂れはさらに巨木でそれはすばらしかったと教えてくれた。
三代目もすでにどこかで育成中だそう。
普段話す年代の人たちとはまた違う話しが聞けておもしろい。
B29を五機撃ち落とした事のある絵描きの先生がいることや、60歳で肺がんで亡くなった若い頃はパン工場で働いていた絵描きがいて、当時のパン焼き釜にはアスベストが使われていて、煙草も吸わない彼の死は今思えば労災だったのではないかとか、日本人の腹の中にギョウ虫がいるのが普通だった頃のこと、寄生すると死に至る虫もいることはいるが、なんら害も無く共生することで体の中をきれいにしてくれるような虫もいて、そういう良い虫まで出してしまった為に現代っ子たちにアレルギー、花粉症といった症状が出て来たこと などなど。
二次会で先斗町の落ち着いた料理屋さんでおいしい日本酒を少しとお刺身などいただき1時頃帰宅。
明日は朝から奈良県の生駒まで行かねばならない。
久しぶりにコスチュームの仕事でフラメンコの衣装。
でも民族衣装を着るのはあまり好きでない。
去年サリーを着る仕事をしたがやはり恥ずかしかったし、一度バレリーナのチュチュ(しかもピンク)を着た事もあるが二度とやるものかと思った。
そういう仕事を受けなければいいのだがそんなワガママ言ってられん状況もある訳で。
もう一度鏡の前で試着してみたが似合わない。
衣装はモデル事務所の持ち物を借りるのだが、薄紫地にピン球大の黒水玉でカエルの卵みたいです。
嫌だ。
でもたった二時間の我慢。
風呂に入り寝る準備をするが中々寝付かれない。
最近の私の生活は、4時就寝12時起床というダメなサイクルにはまっており、朝ちゃんと起きれるかどうか不安でしょうがない。
そしてどうやらお腹が空いている。
しばらく布団のなかでもそもそしてみたが一向に眠くならないので諦めて起きていようとホットココアをいれビスケットを齧りこの文章を打っている。
しかしまだお腹がすく。
これはもう朝ご飯にしようと、冷やご飯をチンして塩昆布、コーンスープという変な組み合わせ。
現在6時。外でチュンチュン言ってる 立派な朝です。
しかしまだお腹か空く。
自家製かぼちゃアイスもどきをデザートに。
朝から胃ばかり元気。
もうすぐ本来の起床予定時刻になるが、思った通り今頃睡魔がやってきやがった。あー。カフェインー。

電車で眠りこけないよう応援して下さい。


春の北海道を満喫

2008年04月07日 | Weblog
週末よい天気が続き、ご多分に漏れず外に出たくなり、人ごみ覚悟であえての円山公園へ行ってみた。
いろんな屋台が出て賑やか。いいにおい。そして人、人、人。
公園に入る前に四条で一銭洋食を食べたので屋台に於けるソース味欲は収まっており、焼きタケノコとみたらし団子を買う。

大道芸の周りを囲んで拍手する人々、射的を外し続けて店のおっちゃんに「へたくそ~」と言われっぱなしの少年、いつもよりお洒落して桜の下に立つおばあちゃんを撮るおじいちゃん、ブルーシートの上でひとりパックのままの豆腐に醤油をかけたのをアテにビールを飲む、どこかで会った事のある女装の男性、心からやる気のなさそうなたこ焼きやの若いお姉ちゃん。

その後、招待券があったので、高島屋で千住博の展覧会を観る。
入り口の豪華なお祝いの花の中に 小沢一郎 というのがあり、わアと思う。

ブラックライトで照らしだされる滝の絵が数点。
広いスペースに一枚続きの展示にした方が迫力があるのではないかと感じる。

それより催し物会場と隣接している為騒がしく、幻想の世界から出たとたんイカ焼きのにおいにすべてぬぐい去られた。
ぬぐい去られて列を成し、そういう決まりのように皆ソフトクリームを食べている。
北海道物産展が開催中であった。
我々も誘惑に負けいきなりイカ飯を買ってしまう。
がしかしそれだけで終わらないのが北海道物産展。
サーモンやらラーメンやらチョコレートやら 
カマンベールは作り手によって味が違うんですよと試食させてくれたチーズのなかでコバンというのがとてもおいしかった。

決まりなので 牛乳だけで作ったソフトクリーム を食べて帰った。