早めに梅雨が明けて日中の陽射しが肌に刺さる。
照明研究会番外編という企画に参加するため2日続けて新長田に通っていた。阪急で三ノ宮まで出てそこからJR。新長田は各駅しか止まらないのを忘れて快速で須磨まで行ってしまった。間違いに気付いて降りると磯のにおいがした。でも目指しているのは海でなくブラックボックスだった。劇場内で感じる季節感と言えば室温くらい。先日立誠小学校で公演だったが、上演中も冷房を切れないほどの暑さだった。上演中に使っていた炊飯器の音を聞かせたかったが、冷房の音と重なって稽古場で聞いていたほどの存在感がない。音響さんに無理を言って炊飯器に小さなマイクをつけて音を拾ってもらったが、やはり静かなところで聞かせたい音だということがわかった。
照明研究会では7分程度の振りを作って、照明家がそのための照明を考え、上演するということをした。「所 、」という作品を作った。ところてんと読む。
この研究会が終わってようやくひと息ついた。ほったらかしていた前髪を切ったりマニキュアを塗ったりする。人との作業中にはできなかったことに時間を使いたくなる。絵や言葉をかくことをしたい。大学の図書館で1ヶ月延滞していた西田幾多郎の行為的直感について書いている本(心の支え)を返却に行ったついでに画集コーナーでなんとなくアーシル・ゴーキーの画集を開いた。知ってはいたが特別好きというのでもなく、じっくり見たことがなかったように思う。画風は年代によってどんどん変化しているが、さまざまな作家に強い影響を受けているように見える。変化していくどの絵も他の誰かの絵を想起させる。スポンジのようというか、核のないこの人は一体誰なのかと思わせる。この人の「描く」はひたすら融解を待っているようだ。自分にかかった疑いの深い人なのではないかと勝手に思った。でもとにかく見ていて絵を描きたくなる絵だった。
そのあと戯曲のコーナーでベケットの「いざ最悪の方へ」を読んでいたら私にとっての要人から突如電話がかかってきて焦った。
今日は昼から大学に「庭みたいなもの 瓜生山版」を見に行った。床を上げて組まれた舞台の下を通って客席に上がっていく。地階スペースにはモノが雑然と置かれている。
最初は平台を組んだだけの何もない舞台上。そこに人がモノを持ってどんどん上がってくる。モノのことを相手に伝えようとする。用途や名前でなくて、そのモノの形質を言葉を使わずに伝えようとする身振りが重ねられる。何かのケースや傘やフロッピー、ビデオテープ、テレビ、電気ポット、ドラム缶、畳、自転車などなど。一度この世が終わったあと新たに発生した人類が遺物を発見しているように見えるときもあれば、モノで遊んだり感情をぶつける若い体に見えるときもあった。何よりそこに立っている人の知覚のみずみずしさ。それぞれがちゃんと自分の言葉でしゃべろうとしている。それがモノローグでなく、伝えようとする意思を持っていて、拙かろうが勢いで押し切ろうがとにかく向かっていく姿に気持ちの良いものを感じた。人にはその年齢のときにしか出来ないことが、どうしてもあると30年ばかり生きて思う。時の花というと美しすぎるけど、たとえばダンサーとしてやっていくとなって、身につけなければならない技術や知識や人としての立ち振る舞いを自分のなかで組織化する必要を感じるようになる。そうやって整えられる前の放牧状態、あどけなさ、さまざまな未満の体がこの作品では価値と感じられ、それがよかった。この公演の稽古の結果なのか痣だらけの足で踊る女の子たち。人の体を作品のなかに回収するのではない演出/振付の手つきに共感を覚える。
終わってから友人たちと元アナベルリーでお茶して夕方仕事へ。
仕事帰り、昼のソーメンをとっくに消化して空腹の頂上にいた。みたらし団子が仕事中どうしても食べたくなって100円ローソンに寄った。ここならぜったいあると踏んだのに和菓子コーナーにみたらしがない。念のため洋菓子のところも見たけどない。がっかりしてわかめスープでも買って帰ろうとしたとき、関係のない乾物の棚に置き去られたみたらし団子を見つけてしまった。普段なら何かしらの理由で誰かが一度手に取って戻した、と思うと購買意欲を削がれるが、今日はもう誰かが残していってくれたとしか思えず買って帰る。
麻婆豆腐の材料があるので夫に作ってと頼んでおいた。帰ると下準備を終えてひき肉を炒めていた。よこの湯を張ったフライパンには切った豆腐が温められている。パソコンに出ている手順を読む係をする。ひき肉の次に味噌、ネギ、スープ、醤油、で豆腐、水溶き片栗。麻婆系統は花椒で一気に株があがる。 今夜の麻婆豆腐は売れると思った。