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流出雑記 

2013/7/26

2013年07月27日 | Weblog
朝。7時前起床。猫朝ご飯。かぼちゃにんじん牛乳砂糖シナモンミキサー。かぼちゃにんじんジュース。五月ヶ瀬。着替え。化粧。枝豆ベーグル。トースター。冷凍ご飯。電子レンジ。お昼のおにぎり。サーモマグに冷水。自転車。地下鉄。四条。缶コーヒー。ジョージアエメラルドマウンテン。ポーズ。休憩。トイレ。ポーズ。休憩。ポーズ。トイレ。休憩。ポーズ。地下鉄。

昼。京都。JR奈良線。みやこ路快速。空いてる。おにぎり。昼寝。奈良。奈良といえば吉野。吉野と言ったら葛。駅前のショッピングセンター。葛うどん750円。葛餅525円。葛切り750円。見つめる。去る。セブンイレブン。包みみたらし120円。買う。公民館。控え室(物置き)。着替え。みたらし。ポーズ。休憩。ポーズ。休憩。煎茶とクッキー。ポーズ。休憩。ポーズ。着替え。JR。京都。ジュピター。生春巻きの皮。地下鉄。四条。芸術センター。ホームスイートホーム。家キット100円。色々のペン、絵の具、色紙、金紙、銀紙、ホログラム、紙の花びら、蛍光色の綿棒、お弁当の仕切り、シール、ストロー、etc。バランの家。街のコミュニティラジオ。リクエスト。米米クラブ浪漫飛行。

夜。地下鉄。松ヶ崎。自転車。フレスコ。きゅうり。黒胡麻豆腐。帰宅。猫晩ご飯。玉ねぎ刻む。電子レンジ。かぼちゃにんじん玉ねぎ牛乳ココナツミルクパウダー少し塩コショウミキサー。オレンジフレーバーオリーブ油ひと垂らし。かぼちゃにんじんフルーティココナツスープ。きゅうり細切り。茹で鶏短冊。アボカドやや未熟薄切り。生春巻きの皮。ぬるま湯にくぐらす。一枚目。皮がひっついて失敗。二枚目。さっとくぐらす。きゅうり残ってたニラ鶏アボカド並べて巻く。4本巻く。ポン酢ゴマドレスイートチリ混ぜる。たれ。夫帰宅。空腹。獅子唐焼く。鶏甘酢煮とその煮汁焼いた獅子唐にかける。キャベツカレーコールスロー。生春巻き。


2013/7/25

2013年07月25日 | Weblog
朝。起きる。猫朝ごはん。かぼちゃにんじん牛乳砂糖シナモンミキサー。かぼちゃにんじんジュース。着替え。夫起床。五月ヶ瀬。化粧。自転車。地下鉄。阪急。長岡天神。イズミヤ。500円のサーモマグ買う。屋上。モーニングショット。ベーグル半分。お茶と菓子。ポーズ。休憩。トイレ。ポーズ。休憩。ポーズ。休憩。トイレ。ポーズ。ベーグル残り半分。

昼。電車。富田。J氏。稽古場。K氏。机端に寄せる。ダラダラする。という稽古。ダラダラ腕立て伏せ。ダラダラ立つ。ダラダラ背中で立つ。片付ける。駅前のカフェ。J氏ホットとガトーショコラアイス添え。K氏モルツ。私コーヒーフロート。阪急。成城石井。枝豆ベーグル3割引。松ヶ崎。駐輪場50円値上げ。妹にTEL。妹の悩み。13分。フレスコ。やおたみ。

夜。帰宅。水やり。猫晩ご飯。猫扇風機で涼む。玉ねぎ切る。電子レンジ。かぼちゃにんじん玉ねぎ塩こしょうミキサー。かぼちゃにんじんスープ。鶏酢酒醤油砂糖煮。胡麻豆腐。猫吐く。辺見庸。くずきり読む。ところてん食べる。くずきりの作り方調べる。

2013/7/23

2013年07月23日 | Weblog

朝。起きる。寝間着汗。火曜燃えるゴミ。収集車は9時50分までに来る。猫朝食。昨日届いた新しいキャットフードの封を切る。かぼちゃにんじん牛乳砂糖シナモンミキサー。湿気る前に黒砂糖ポップコーン食べきる。玉ねぎショウガ刻む。にんにくなかった。炒める。ひき肉炒める。クミンコリアンダーターメリックレッドチリカルダモン目分量。トマト缶詰。煮込む。水煮大豆。カレー粉いよかんママーレード足す。フルーティー夏キーマカレー。掃除。夫起床。

昼。キーマカレー。皿洗い。化粧。着替える服選ぶ。絵になりそうな。自転車。100均の前停める。電車。コーヒー。猫のしおり。私の横顔。反転した途中の横顔。描きかけの私。見たことない描きかけの私。ポーズ。休憩。ポーズ。休憩。頭の先から顎、顎から胸は等距離。ポーズ。高級なそうめん。つきひほしと鳴く鳥。三光鳥。電車。膀胱の限界が近い。セブンイレブン。やおたみ。新しょうが穀物酢国産にんにく。カゴに入れる。戻す。フレスコ。きび砂糖米酢にら豚バラブロック3割引。カゴに入れる。レジ。やおたみ。新しょうがキャベツ国産にんにく。カゴに入れる。レジ。自転車。帰宅。

夜。米5合洗う。15分吸水。炊飯。キャベツざく切り。フードプロセッサー。塩。豚バラ角切り。フードプロセッサー。ショウガにんにくおろす。豚バラショウガにんにく塩醤油味の素混ぜる。キャベツ絞る。ごま油。混ぜる。冷やす。猫晩ご飯。軒先に水やり。餃子包み方夫。ユーミンかける。ひこうき雲。湯湧かす。にら切る。わかめスープの素残りウェイパー冷凍しめじキムチ。スープ。新しょうがスライス。倍量の酢砂糖アールグレイ2パック。新しょうが酢ドリンクの素。包まれた餃子。焼き方夫。鉄鍋熱す。配膳。待つ。餃子。スープ。餃子。米。餃子。米。

 


2013/7/21

2013年07月23日 | Weblog
休日。
朝。洗濯、布団干す、掃除。
昼。お中元にもらった讃岐うどん、ゆで時間10分、釜玉。
午後。選挙、銀行、郵便局、買い物、帰宅、アスパラにんじんしめじ茹でる、冷ます、白和え、布団取り込む、洗った敷きパット掛ける、しばらくよこたわる、起き上がる、とり肉切る、酒砂糖塩、茄子ピーマン切る、大根おろす、とり肉片栗粉、油で焼く、茄子ピーマン炒める、だし醤油、大根おろし、みぞれ煮。
夜。選挙特番、ビデオ屋、アジア映画、007スカイフォール、悪の教典、銭湯、雲母湯。
深夜、悪の教典上映。

悪の教典。
健康的な肉体の正統派美男、伊藤英明にあまり惹かれたことはなかったが、正義感に満ち真っ直ぐでまっとうな役を演じるより、そんな容姿をまとっていながら、人としての中身が常軌を逸しているという役どころだと非常に魅力的にうつる。天才的な頭脳を持っていて、周りの人間を意のままに操り、猟奇的な欲望を遂げていく。静かに狂っているところはレクター博士を思い出す。
繰り返し流れるマックザナイフと学園祭の準備でハリボテの遊園地か歓楽街のような色とネオンの溢れる校舎に銃声と悲鳴と血しぶき。
射的の景品のように倒れていく生徒。映画のなかで、人が死ぬことを実際的な死として描くというのではなく、その描写は死にゆく者や殺す者についての内容を説明することなく、これは現実の死とはまったく別物で、つまりフィクションであり映画であるということが強く感じられる。描かれる内容にではなくて、作りものであることにリアルさがある。いい映画だと思った。


2013/7/17

2013年07月21日 | Weblog

念願の爪とぎケースが届いた。猫が舐めても大丈夫で部屋にあっても許せるミツロウ仕上げ木製のケースにした。なぜケースがいるかというと、段ボールでできた爪とぎはものすごく段ボール屑が出るので、受け皿としてケースが欲しかった。固定されて研ぎやすくもなったようで2匹もお気に召している。

久々に7時に起きのプレッシャー。大阪で仕事。地下鉄に乗り、四条で阪急に乗り換えるので降りたら、山鉾巡行を見る人のラッシュにぶつかってホームの階段をなかなか上がれない。
梅田行きの阪急はいつも通り。座った途端に深い眠りに落ち気付いたら梅田だった。
仕事先はカルチャーセンターだが、真新しいビジネスビルのなかにあり、エントランスを入ると一度に50人くらい乗れそうな大きなエレベーターが4台ある。最上階が何階か見てなかったが、15階で大きなエレベーターから高さごとに分岐した普通サイズのエレベーターに乗り換える。いろんなところが広々としている。近未来オフィスと思った。

濱口竜介という映画監督の作品を関西のいろんな映画館で数日続けて上映していた。
映画を撮っている友人Eくんが勧めていたのと、よく知っているダンサーの方が映画に出演していたこともあって、気になって見に行った。
『不気味なものの肌に触れる』と『親密さ』と短編の3本を見た。『不気味…』の方はストーリーのなかにダンスが出てきて、『親密さ』は4時間を越える長編だが、演劇を作っていく稽古過程がストーリーの主軸にあり、後半の2時間はほぼ演劇の上演を撮っているという構成になっている。
どちらにも共通しているのは、スクリーンの中で演じる人の演じる状態が多重構造になっていることだった。それは例えば、撮影クルーが映るとか、構造的に物語の外側がバラされるやり方でなく、また単に劇中劇ということだけでもない。

『親密さ』のなかに出かてくる演劇の実際の演出を劇中の演出家がしていたり、同じく脚本を書く役の俳優が実際、劇の中の言葉を書いていたりする。

演技の質が明らかに変化するところがある。書かれた台詞を喋っているシーンがほとんどだが、突如書かれたのではない言葉、つまり普段その俳優が話している言葉で喋っていると思われるところを撮っているシーンが挿入される。実際そのシーンは即興でやってもらって撮っているそうだ。奇妙な感覚になるけれど、それらはそのまま物語のなかに回収されていて、観客としては役を演じる俳優を見ながら、この人は誰かという問いを想起させられる。演じられる内容と平行して、演じるということそのものへの批評性が含まれている。
演じることの豊かさはひとりの人が重層的にあるということだと思う。それは病的な意味ではなく、「私」とは常に問いであり問われるものという本質に触れることである。
誰かしらとして巧みに演じられ、描かれるものを観客がただただ享受するという関係を超えて、ある瞬間、映画の表皮の一枚が剥がされ血が通っていることを知らされるような、映画として危うくなる瞬間、でもそれがとても映画的で、虚構というものを必要とする意味を実感を伴って感じられた。これは後々まで残る鑑賞体験だと思う。


2013/7/16

2013年07月17日 | Weblog

約ひと月の間悩まされていた懸案事項が解決された。確定申告の書き方にミスがあり、破産しそうな額の税金、国保料等の納付通知が来ていた。はたらけどはたらけど、じっと手を見る心境になり、これを払うために別の仕事をしなくてはと考えたり、今年度は強節制を心に決めたり、税金に殺される…と話していたが、それが全部杞憂となった。贅沢はできなくてもささやかな喜びのある暮らしをするくらいの余裕は今までどおりにできることがわかった。

休日。燃えるゴミを出し、洗濯機を回し、薄手のコート類を片付け、掃除。昼はここ2日急な仕事を終わらせた夫と食べに出る。
ピザとかパスタという意見が一致した。税務署に向かうのに自転車で北白川を南下し、夫がバイクで走っているときに石窯を見たという店まで行ってみたら、有名なDa Yukiだった。ただし休み。それからしばらくイタリア料理店難民になり、4年前くらいに一度行ったことのある、東一条通りのルチアーノに賭けた。連休明けの火曜で休んでいる店が多かったのだ。ルチアーノはあいていた。前菜とスープかパン、ピザのランチを注文した。
お腹が空いていた夫は前菜を秒殺してしまったので、パンが運ばれてきたときに前菜はもう何もなかった。熱くて持てないくらい温められた皿に乗ったほかほかのパン。

今日はイタリアンなので関係ないが、フランス料理のマナーでは付け合わせより先にメインに手を付けるのが正しいらしい。レストランに行ってメインが出たら夫はまず付け合わせの野菜からやっつける。そして余計なものを差し挟むことなく肉と対峙している。

スープはかぼちゃとにんじんのポタージュにオレンジ風味のオリーブオイルがアクセントになっている。
クアトロフォルマッジオとマルゲリータ。今日はピザ欲を諦めないでよかったと思った。
税務署に行って帰る途中、一乗寺のモンブランという町のケーキ屋さんでソフトクリームを食べた。
店内はやたらと広くショウケースは3台あるが、2台は贈答用の焼き菓子の見本などが入っている。
ここでケーキを買ったことはない。今日作られたケーキの雰囲気も昭和で時がとまっている。夏になるとソフトクリームを食べに何度かくる。店内の端に小さい机と赤のビロード張りの小さい椅子が2脚おいてある。そこに座って食べるのがいい。つめたい麦茶も出てもらえる。

家に帰り夕方、3日間福井出張の夫見送る。
うとうとして起きると7時過ぎだった。
茄子の皮を向いてラップで巻き、3分レンジで簡単に焼き茄子などを作る。
にんにく、玉ねぎ、茄子、トマト缶、ピーマン、パプリカでラタトゥイユをたくさん作って冷やす。暑い時期のひとりのときはこういうのを作っておいて食べつなぐ。火を使う回数と品数用意するのをさぼれるくらい彩りがあるしおいしい。


2013/7/15

2013年07月15日 | Weblog

早く起きなくていい日が続くと寝る時間が遅くなっていく。寝室の横の窓から鳥とセミの鳴き声が入ってくる。明け方のセミの鳴き声はさわやかで細かい。
起きたのがわかると朝ごはんの催促に来る小麦。2匹に猫飯、朝からパソコンに向かう夫にバナナジュース。
小麦はボール紙で出来た爪研ぎをすぐにズタボロにする。掃除しても掃除しても屑が散る。爪研ぎケースというのが売っている。最近いちばんほしいものは爪研ぎケースかも知れない。

仕事の移動中ずっと戸川純の動画から歌を探して聞いていた。yapoosの「ヒステリア」というとても好きな曲がある。それをテレビで歌っているのを見つけた。CDの演奏はストリングスが入ったり壮大な感じがするけれど、スタジオではアコースティックギターの伴奏だけで歌っている。神妙に聞いているしかない人と戸川純の熱量の奇妙さ、虚構ともそのものとも真面目とも不真面目とも言えない。でもなにより声に説得力を感じ取ってしまう。

Yapoos - ヒステリヤ

 

 

京阪、祇園四条では浴衣の人をたくさん見る。宵山。

買い物して帰る。巨大じゃがいもが1個74円だった。安いのかどうなのかわからない。卵、豚肉、豆乳。

なくなりかけていた石けんはジャスミンとオレンジフラワーのかおりにしてみた。

喉がかわいて買ったシュウエップスのブラッドオレンジ味は、小児科でもらっていた水薬の味がした。

にんじんを千切りピーラーで細切りにしてごまドレッシングとポン酢とネギで合える。ジャガイモはイチョウ切りにしてレンジ、玉ねぎは薄切り。フライパンにバターで玉ねぎと半分火の通ったジャガイモを炒めて塩こしょうし、卵を3つ溶いたのを流し入れ弱火。底がこげる前に一度皿にうつしてひっくり返して反対側を焼く。スパニッシュオムレツ。ピーマン、油で炒めて冷凍してあった茄子、豚肉をスイートチリとナンプラーで炒める。配膳まで30分かからない。

 

 


2013/7/14

2013年07月14日 | Weblog

早めに梅雨が明けて日中の陽射しが肌に刺さる。

照明研究会番外編という企画に参加するため2日続けて新長田に通っていた。阪急で三ノ宮まで出てそこからJR。新長田は各駅しか止まらないのを忘れて快速で須磨まで行ってしまった。間違いに気付いて降りると磯のにおいがした。でも目指しているのは海でなくブラックボックスだった。劇場内で感じる季節感と言えば室温くらい。先日立誠小学校で公演だったが、上演中も冷房を切れないほどの暑さだった。上演中に使っていた炊飯器の音を聞かせたかったが、冷房の音と重なって稽古場で聞いていたほどの存在感がない。音響さんに無理を言って炊飯器に小さなマイクをつけて音を拾ってもらったが、やはり静かなところで聞かせたい音だということがわかった。

照明研究会では7分程度の振りを作って、照明家がそのための照明を考え、上演するということをした。「所 、」という作品を作った。ところてんと読む。

この研究会が終わってようやくひと息ついた。ほったらかしていた前髪を切ったりマニキュアを塗ったりする。人との作業中にはできなかったことに時間を使いたくなる。絵や言葉をかくことをしたい。大学の図書館で1ヶ月延滞していた西田幾多郎の行為的直感について書いている本(心の支え)を返却に行ったついでに画集コーナーでなんとなくアーシル・ゴーキーの画集を開いた。知ってはいたが特別好きというのでもなく、じっくり見たことがなかったように思う。画風は年代によってどんどん変化しているが、さまざまな作家に強い影響を受けているように見える。変化していくどの絵も他の誰かの絵を想起させる。スポンジのようというか、核のないこの人は一体誰なのかと思わせる。この人の「描く」はひたすら融解を待っているようだ。自分にかかった疑いの深い人なのではないかと勝手に思った。でもとにかく見ていて絵を描きたくなる絵だった。

そのあと戯曲のコーナーでベケットの「いざ最悪の方へ」を読んでいたら私にとっての要人から突如電話がかかってきて焦った。

 

今日は昼から大学に「庭みたいなもの 瓜生山版」を見に行った。床を上げて組まれた舞台の下を通って客席に上がっていく。地階スペースにはモノが雑然と置かれている。

最初は平台を組んだだけの何もない舞台上。そこに人がモノを持ってどんどん上がってくる。モノのことを相手に伝えようとする。用途や名前でなくて、そのモノの形質を言葉を使わずに伝えようとする身振りが重ねられる。何かのケースや傘やフロッピー、ビデオテープ、テレビ、電気ポット、ドラム缶、畳、自転車などなど。一度この世が終わったあと新たに発生した人類が遺物を発見しているように見えるときもあれば、モノで遊んだり感情をぶつける若い体に見えるときもあった。何よりそこに立っている人の知覚のみずみずしさ。それぞれがちゃんと自分の言葉でしゃべろうとしている。それがモノローグでなく、伝えようとする意思を持っていて、拙かろうが勢いで押し切ろうがとにかく向かっていく姿に気持ちの良いものを感じた。人にはその年齢のときにしか出来ないことが、どうしてもあると30年ばかり生きて思う。時の花というと美しすぎるけど、たとえばダンサーとしてやっていくとなって、身につけなければならない技術や知識や人としての立ち振る舞いを自分のなかで組織化する必要を感じるようになる。そうやって整えられる前の放牧状態、あどけなさ、さまざまな未満の体がこの作品では価値と感じられ、それがよかった。この公演の稽古の結果なのか痣だらけの足で踊る女の子たち。人の体を作品のなかに回収するのではない演出/振付の手つきに共感を覚える。

終わってから友人たちと元アナベルリーでお茶して夕方仕事へ。

仕事帰り、昼のソーメンをとっくに消化して空腹の頂上にいた。みたらし団子が仕事中どうしても食べたくなって100円ローソンに寄った。ここならぜったいあると踏んだのに和菓子コーナーにみたらしがない。念のため洋菓子のところも見たけどない。がっかりしてわかめスープでも買って帰ろうとしたとき、関係のない乾物の棚に置き去られたみたらし団子を見つけてしまった。普段なら何かしらの理由で誰かが一度手に取って戻した、と思うと購買意欲を削がれるが、今日はもう誰かが残していってくれたとしか思えず買って帰る。

麻婆豆腐の材料があるので夫に作ってと頼んでおいた。帰ると下準備を終えてひき肉を炒めていた。よこの湯を張ったフライパンには切った豆腐が温められている。パソコンに出ている手順を読む係をする。ひき肉の次に味噌、ネギ、スープ、醤油、で豆腐、水溶き片栗。麻婆系統は花椒で一気に株があがる。 今夜の麻婆豆腐は売れると思った。


2013/7/8

2013年07月08日 | Weblog

『式日』の上演終わる。そこに至までのことをあまり書いてないのは書いてるほどの余裕がなかったから。

演出すること、自分が出演しないで企てた時間を生きるひとの姿を見ること。

なぜ半時間程度の上演時間のために仕事を終えては稽古場に集って何かしら非効率なことを繰り返し、虚構の枠組みに観客(外側からやってくるもの)を引き入れて見せることを必要とするのか。自分の脳内ではなしに、劇場というこの現実の世界の場での出来事とすること、現実を巻きこむこの企てを必要とすることは自分の欲望とどう結びつくのか、そのことが舞台芸術の世界を知って以来約10年間いまいちはっきりしなかった。という言い回しはすこし嘘で、自分のことに向かっている興味であるから、人の体を工作して見たいものはないので仕方がないと思っていた。しかし自分を解きほどいていくとこの場所は人の体であり、これもまた人の体から発生し、いずれ死ぬ。そのあいだに結ばれている地点に発生している状態である。それ自体は普遍的な現象であり、生まれたときから持っている約束ごとであるけれど、それがどういうことであるのか、なぜ今が自分に与えられているのか、自分がなんなのかはわからない。自分への興味というのはそのわからなさについての興味である。ただそうして自分というものにやじるしが向かっていった先に見えるものが自分ではなかった。自分の姿は自分では見ることができないからである。同じ約束のもと生きているものを見ることしかできない。自分の体ではなく、そこに発生していて見ることのできる他者を見ることになる。ということに気付いた。

この公演のためのクリエイション期間中にレオス・カラックスの久々の新作『ホーリーモーターズ』を観た。

冒頭、ひとりの男が眠りから目覚めて部屋の壁にある鍵をあけると映画館につながっていて、何かの映画がかかっている。客席は寝ているのか死んでいるのかわからないような人で満席になっている、というシーンからはじまる。

楽屋になっているリムジンで移動しながら一日のうちにいくつもの役を演じる仕事をしている男(冒頭の男ではない)の、役を演じ役を終え役を作り替え、演じるを繰り返す姿が描かれる。彼は朝出て来た家と帰る家が違っている。彼自身というものがないわけではないが、彼の所在はわからない。彼が誰なのかわからない。

カラックスは映画を作るときに観客のことより自分自身のことを考えると答えていた。私はこの映画がとても好きだと思った。

『式日』を終え自分にとって人の体から何かを見いだすことのできる可能性を知った。あるいはそれでしかできないことがあるのかも知れない。でも同時にひとりの時間を過ごすことでしか見いだせないものもある。

しばらくはゆっくり暮らす。咲いた後は消耗するものだから。

今日仕事中にラジオから流れてきたサザンの『マチルダBABY』と言う曲がものすごく良かった。

帰りに寄ったスーパーでめずらしく白なすを見つけた。火を通すと普通のなすよりとろっとする。クリーミーといってもいい。以前仕事に通っていた彫刻家が畑で作っている家用の野菜を時々わけてくれていた。変わった品種のものも作っていて、あるとき白なすをもらって帰っておいしいことを知った。そうでなければ見た目は紫のなすの方がおいしそうだからそっちを買ってしまう。もっと白なすがおいしいことをアピールして常時あったらいいのに。