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流出雑記 

2012/3/29

2012年03月28日 | Weblog

昨日、ここ2年程通っていた彫刻家のところの仕事最終日。だというのに、飲んでいた花粉症の薬でポーズ前半は朦朧としていた。飲んで3~4時間は泥のような眠気にのまれるが薬を飲まないと延々鼻水を垂らすことになる。

最後のポーズを終えると彫刻家の奥様がアトリエにやってきて、上等なココアパウダーとこれを飲んで体質が改善して花粉症治ったよ、というまるかんの青汁を3日分いただいた。体質改善でこれが治るものならと心底思う。くしゃみのし過ぎで喉が荒れて、そこに菌が付着、なんか体がしんどいな、発熱、という春の風邪パターンに陥る気配があった。帰っていち早く休みたいが今日は夜にもう一件仕事が入っていた。ローソンで栄養ドリンクと夫がおいしいと言っていたねぎとろ増量中のねぎとろ巻きを買って仕事場へ。

悪寒というやつ。調子がよく集中力のあるときのポーズ時間はあっという間なのだが、体調がすぐれないときはやけに長く感じる。タイマーはちゃんと動いてるんだろうかと思うほど20分がなかなか終わらない。景気付けにねぎとろ巻きを休憩中食べた。確かにねぎとろか米かというほどねぎとろが多い。

どうにか仕事を終えて帰宅。とにかくすぐ風呂。しんどい時はお風呂やめといたら?と夫は言うが、花粉と化粧は落とさねばならない。

じっくり眠りたかった。1時過ぎには寝たと思う、起きたのは10時半。

粉チーズを入れたスコーンを焼く。パンより断然早くできるので最近よく作る。お昼はそれと夫がグランディールで買って来た真っ黒なチョコベーグルとイチゴとホワイトチョコベーグル。

午後家の片付けと夕飯の仕込み。

数日間赤ワインと蜂蜜、胡椒、ローリエでマリネした牛肉の表面を焼く。肉を取り出しそのフライパンで玉ねぎを炒め、肉と玉ねぎを圧力鍋に入れ赤ワインとコンソメを足して加圧20分。圧が下がったら水煮の豆としめじ、醤油を加えて煮詰める。この料理にはよくトマト缶を入れるが、そうすると米よりパンの方が合うおかずになる。米に合う牛塊肉の調理法はないかと考えて醤油だと思いついた。ほとんど水気がなくなるまで煮る。器に盛るとき上にショウガの千切りをたっぷりのせる。

4時過ぎ、耳鼻科へ。先週の木曜休みだった耳鼻科だが、今日は水曜。間違いなく開いている。

診察は4時半からだが、診察室にはもう数人いて診察も始まっていた。40分ほど待った。この耳鼻科の先生は40代後半くらいの女性。マスクをした目だけの姿しか見たことなかったが、今日は顔が全部出ていた。思いのほか派手な顔立ちでアイシャドウはブルーだった。

鼻炎用の市販薬でしのいでたのですが、しっかり効かない上にどうにも眠くなるんですと訴えると、じゃあちょっと鼻見せてな~、あ~、だいぶ鼻かんでるね~、点鼻薬使わんと辛い鼻やな~これは、喉も腫れてるね、朝起きたら喉痛いやろ~、先生とこの薬やったら眠くならへんし、これでがんばろか、うん、目は?、市販の目薬でいけてたらそれでええよ、でも点鼻薬だけは市販の使わんといてね、あれはキツいから副作用で厄介なことになることがあるんやわ~、お薬1ヶ月分出しとくし、飲み切る頃には春が来るでしょう(笑)、あ、妊娠はしてない?、大丈夫やね~、そしたら点鼻薬と飲み薬出しときます~お大事に~。

診察時間約3分。

こうして私にとっての神薬アレグラ錠を一月分得た。花粉症だったっけ?というくらい症状が治まる。ただこれも根本的に改善しているのではなく、アレルギー反応を抑制しているだけである。気長に漢方で根本治療にも経済的余裕ができたあかつきには取り組みたい。

帰りにリカマンに寄って、ラム酒とメープルシロップを買う。スコーンにメープルシロップは必須だと思った。料理用の赤と白も切れていたがそれ全部買うと重くなるので必要なときに買うことにする。

帰宅。夕食準備。

油揚げと小松菜をだしとポン酢で煮浸しに、みそ汁は野菜が見当たらなかったので麩とわかめ。昼に煮ておいた牛肉はほろほろに柔らかくなっていた。

食後はラム酒入りココア。小さじ1のラムでもちょっと火照る。

 

 

 

 

 

 


2012/03/22

2012年03月24日 | Weblog

止まらないくしゃみととめどなく湧いてくる鼻水によって春の到来を知らされる。

この時期の耳鼻科はいつ行っても混んでいるのはわかっているので市販薬でしのいでいた。去年はそれでなんとかなったはずだが、今年は飛散量が多いのか市販薬ではごまかせない。喉の奥から血のにおいがし、鼻の粘膜が日々傷んでいくのがわかる。ほっておくとポーズ中いきなり鼻血を垂らすこともあり得る。そんな心の底から絵にならない時間を提供してしまうおそれがある。

久々に予定のない休日の午前を耳鼻科の待ち時間にあてるべきか否かと考えるふりをしたみたが選択の余地はない。流血デッサン会及びティッシュペーパーの花がゴミ箱で満開になる春を過ごすよりは診察室で待つことを選ぶ。
それで朝から耳鼻科に向かった。近くまで来て嫌な予感がした。病院の前に自転車が一台も止まってない。案の定入り口には休診の札がぶらさがっている。診察券には木曜午前の外来は丸がついているが、一年来ない間に変更されたらしい。

予定を変更して出町方面へ自転車を走らせる。ニックで小梅のかりかりフードを買う。小梅は膀胱炎になりやすいので、泌尿器ケアのマグネシウムの低いものを選ぶ。

あと保湿ティッシュとマスク。

園芸コーナーでにおいすみれを探した。八重咲きのものはうちにもあるが、モデルに行っている彫刻のアトリエに濃い紫のにおいすみれが群生していて今ちょうど一斉に咲き、とても良いかおりがしている。それをみてほしくなった。香料でイメージするとイリス(ニオイショウブの根)などのイメージに使われるメチルイオノンを薄くしてヘリオトロープの合成香料であるパウダリーなヘリオトロピンを少し足しパチュリのような土っぽいかおりをごく少量という感じ。すみれの花そのものから香料はたしか作られていない。あまりにも抽出できる量が少ないのが理由だったと思う。

帰りにスーパーに寄り、小松菜、キャベツ、甘夏、蒸し豚を作りたかったのでももの塊、豚切り落とし、カレー用の牛すね肉、なくなりかけのマヨネーズ。
家についてまもなく夫もお昼を食べに戻ってきた。青い眼鏡屋の袋を持っている。新調した眼鏡ができたらしい。フレームはべっ甲柄だった。
黒、茶、が混ざりはっきりした柄にならない毛並みの猫はサビ柄と呼ばれるが、サビとは錆から来ていて、赤錆がでたように見えることからこう命名されたそうで、あまり良いイメージではないがこのサビ柄、べっ甲柄とも言うらしい。酸化鉄から鼈甲、一気に上等になる。去年死んだ小豆はサビ柄だった。小豆のせいでサビ猫は特にかわいくみえる色眼鏡を生涯外すことができなくなってしまった。一度飼ったことのある猫の柄は特別な模様として刻まれるのだ。

お昼はフライパンで二枚分の量を一気に焼いたお好み焼き大。

気球?

夫再び仕事へ。
豚ももに酒と蜂蜜を馴染ませる。塩は身が締まるのではないかと思ったのでやめてみた。
圧力鍋で8分蒸して火を止めそのまま冷ます。味噌と粉のとうがらし、にんにく、オイスターソース、酢、醤油などを混ぜて蒸し豚用のタレを適当に作る。隠し味きなこ。
その間に明日のパンを作る。レーズンとくるみを入れた全粒粉のパンを丸々大きく焼く。発酵させつつ絵を描く。

完全に圧力鍋が冷めた頃、肉を取り出し切ってみた。生っぽさはないが、真ん中に切り進むに従って断面の赤みが増していく。これは大丈夫なのかどうなのか判別がつかなかった。豚肉なので万が一のことを考えてもう一度短時間蒸し直したが、そうすると思っていたより火が通り過ぎた感じになってしまい、冷めるまでじっくり待った分悔やむ。

 


小梅捜索27時

2012年03月18日 | Weblog

「まさかこのチラシを作る日が来るとは…」 紙媒体のデザインが本業の夫。

16日夜、風呂からあがり髪を乾かしながら、大概この時間帯はデロンギのヒーターの前で丸まっている小梅の姿がなく、コタツの中にもいないので、家のなかのいくつかの定位置を見てまわるがいない。仕事部屋で作業していた夫に小梅がいないと告げ、それから押入れ、クローゼットから入る筈のない戸棚から家中開け放って探したがいない。

日付は変わって17日午前1時半頃、小梅がうちの中にいないことが判明。

この日の夜は来客があった。誰も気付かなかったが、隙をみて玄関ドアから出てしまったらしい。外は雨が降り出し、雨足は次第に強まっていた。我が家の前の道は車一台ぎりぎり通れるくらいの露路で住民以外は通らない。小梅は完全室内飼いだが、天気の良い日はリードを付けて玄関先で日向ぼっこしたりする。その程度にしか外の世界を知らない。縁あって吉野の山奥の家で生まれ仔猫のときにもらってきたので、野良の経験もない。そういう猫は慣れない外に警戒してあまり動かず、そう遠くには行けない。夫は懐中電灯片手にずぶ濡れになりながら近辺の車の下やバイクのカバーの中、物陰を覗きまわり、私は玄関を全開にして小梅を待った。何かが光るたび猫の目かと思って見るが、自転車の金具についた雫の反射だった。雨でにおいが消えて帰り道がわからなくなることを心配した。

猫 脱走 見つけ方 と検索すると猫探しの掲示板が出てくる。掲示した翌日に家の近所で確保という場合もあれば、数日後にやせ細って帰ってくる例、数ヶ月後思いも寄らない遠くで発見される例、1年経っても戻ってこないけれど些細な目撃情報でもお待ちしていますという例。すぐできる対処法として、いなくなってすぐならとにかく近所をしつこく探すこと、家の前に猫砂をまくというのがあったので、すぐに砂を撒いた。猫は自分のにおいのする場所に戻ってくるからだ。待っているのも落ち着かないのでレインブーツを履いて呼びながら近くを探した。4時頃、小雨になってきたが、小梅は見つからず帰っても来なかった。

その夜、玄関は開けたまま外の方を向いてコタツに潜りうたた寝した。その間に見た夢。警官に確認してほしいと交通事故にあった猫の写真を見せられた。道路に横たわる首から血を流した猫は間違いなく小梅だった。

夫は徹夜で例のチラシを作り、こんなときに運悪くプリンタが壊れているので、近くのセブンイレブンまで行き「猫をさがしています」を50枚刷ってきた。夫コタツで仮眠、私は起きて身支度をし、チラシを近所に配り歩いた。町内の家にはチャイムを押して手渡しする。近所の野良の世話をしている家があり、まずそこに伺うと親身に聞いてくださり、警察と保健所へ連絡するように言われる。半径30メートルくらいの近隣に限られた枚数のチラシをどう配ると効果的か考えた。

一昨年、国勢調査員をやるはめになり、ここ一帯の家々にどのような人が住んでいるかを大体把握していたことがここにきて役立った。外を出歩く機会が多い子供のいる家、猫、動物を飼っている家、活動的で人のよさそうな応対だった記憶のある家など、チラシと直筆の短い手紙を添えてポストに入れた。

それからかかりつけの動物病院へ。昔からある街の獣医さんという感じで、先生と病院を継がれている娘さんが主に看てくださる。小豆が腎不全末期のときは通いつめてお世話になった。そのときも、どんな治療をするのがこの子にとって最善かを考えましょうと薬や治療法について偏りのない考え方で選択肢を提示し、丁寧に説明してくださった信頼のおける先生である。

病院に入ると土曜の午前には珍しく待合室には誰もいなかった。診察室から先生が出てきて、事情を説明しようと、小梅が と言いかけて先生の顔を見ると気が緩んで涙がたらたら出た。

家猫の女の子は自分からそう遠くに行かないはずだが、家の周辺を縄張りにしている野良に追い立てられて闇雲に逃げて帰れなくなること、うっかりトラックの荷台などに隠れ、思いもよらぬ場所に運ばれてしまう、喧嘩して怪我、交通事故、という可能性があるので、近所を探すことと、警察、保健所への連絡をするよう言われる。チラシを病院の中と外に貼ってくださった。

家に戻りながらうちからは少し離れているがよく猫を散歩している家にもチラシを入れたおいた。

午後から仕事。途中でダンスの稽古へ向かう友達にばったり会い、小梅のことを漏らして心配させてしまった。

仕事場。制作している5人中猫を飼ったことのある人が3人いて、うちも脱走したけど帰ってきた、たぶん近くに隠れてるよと勇気づけられる。頭像のモデルで椅子に座っているのだが、昨夜の疲労と寝不足でどうがんばってもまぶたが落ちる。小梅のことを考えて意識を覚醒させようとするが意識がすぐにとぶ。顔を作られているのに申し訳ないこと甚だしかった。それをみて濃いめのコーヒーを淹れてくださった。20分ポーズ8回、その間の7回の休憩のたびに「小梅見つかりました!」とか「梅無事帰宅」というメールが来てないかと携帯を見たが、待ち受け画面の欠伸する小梅の画像が出るばかりだった。

仕事を終え、見つかりますようにと送り出され、すぐに夫に電話したがやはり進展はなかった。

6時前帰宅。夫は日中電柱にチラシを貼り、近所をひたすら探し歩いていた。夫もほとんど寝ないまま、ひとりだといつ帰ってくるかも知れないので眠れずにいたらしく、少し話すとすぐに眠った。

ご飯をあげる時間帯に器や袋の音を立てながら名前を呼ぶと出てくる可能性が高いそうなので、ちょうどその時間帯に小梅の白い琺瑯ボウルをカンカン鳴らし、めーちゃんめーちゃんと町内を探し歩いた。生け垣と広い庭のある古いお屋敷が町内にあり、いるとしたら庭の奥に見えるお屋敷の暗い縁の下などが怪しいような気がした。そこには誰も住んでいないが、持ち主の方はその隣の敷地を住居にしていた。お屋敷の奥は山につながっている。そっちまで迷い込んでいないことを祈りながら山の裾からも声をかけたが出てくる気配なし。

お腹がすいていた。朝、数日前に焼いたシフォンケーキの残りを食べたくらいだった。

開けっ放しの玄関に向かってテーブルにつき、冷蔵庫にあったカボチャサラダをタッパーから食べた。それで冷えたので湯を沸かし、ウェイパーを溶かしてキムチと水菜を入れた汁を飲み、冷やご飯をチンして卵かけごはんにしてかき込み空腹を満たした。夫には起きてから何か作る。

猫が行動的になるのは深夜らしい。もう少し遅くなってから捜索にでることにして、手持ち無沙汰なので、もやしのひげ根を取りながら帰ってこいと念じつつ玄関の方を見ていた。

鈴の音がした。黒が玄関から覗いていた。
黒は小梅を玄関に出しているときによく現れるオスの黒猫だった。威嚇したり手を出したりするでもなく、少し離れたところから見ていたり、鼻先を付き合わせてすんすんしたりする顔見知り猫だった。野良のようだったが、最近鈴がついた。餌付けをしている町内の人から春になる前に去勢と予防接種、ノミ取りをしたのだと聞いた。
黒に、小梅見たら帰ってくるように言ってくれんかなと頼んだ。

夫目覚める。彼もまたシフォンケーキのみで今日を生きていた。冷凍庫のバターライスにしたタイ米を解凍し、玉ねぎとソーセージを刻んで炒めて器に盛る。卵2個とミルクで半熟オムレツを作りその上にのせ、ソース程度にした残っていなかった牛肩ロースの塊を赤ワインとトマトで煮たのを熱くしてオムレツの上にかけた。それと水菜のサラダ。

飼い主のにおいのする風呂の残り湯を家のあたりに撒くのも良いらしいので、昨日風呂に入っていない夫からは濃い出汁がでるであろうと食後、落ち着いた頃に湯をはって夫のにおいを抽出。風呂からあがってすぐ自ら玄関に湯を撒いていた。

11時頃ふたりで夜の捜索に出た。もう無人でも玄関は開けっぱなしだった。よく考えたら雀の涙程の通帳以外金目のものも盗られるようなものも然程ない。

夫は昨夜と今日の日中、車の下を覗くのにグランプリエを繰り返した為に下半身筋肉痛で階段の昇降すら辛そう。
近所を歩き、猫が通りそうなところを覗き込み、器の音を鳴らしながらうめ~と呼ぶが現れず。
家に戻ってきて、小梅帰ってないかとコタツを覗くがいない。

ふと思い付いて玄関先で煮干しをかじってみた。丸一日何も食べていないからお腹をすかせているはずである。煮干しおいしいなぁ、うまいにゃあと 言いながらパリパリ煮干しをかじり、袋の音をさせてみた。お腹が空いているときに誰かが食べているのを見るとやたらうまそうに見える原理を利用したこの作戦だが功を奏することはなかった。

諦めて風呂に入る。
あがって髪を乾かし終えたあたりで、タバコついでに外を見ていた夫が小梅いた!という。
暗闇にチラッと見えた歩き方が小梅やったと言う。急いで厚着して外に出た。
やはりお屋敷の庭だった。黒の鈴の音も近くでしている。
生垣から庭を覗き、うめ~うめ~と呼びながら、この機を逃すまいと、小梅の好物をすべて持って来てあけた。
苔の細かい先端に小さな水滴があちこちで光っている。その奥の茂みの陰にふたつある青い発光体がどうやら小梅らしかった。
光は強くなったりかげったりする。呼ぶとこっちを見ているようだった。
青い光に向かってふたりでしつこく呼び続け、夫は駐車場から庭に侵入しようとしたが、その音で光は消えてしまう。
粘って待ってみても向こうから来てはくれないようだった。

家で待機することにした。夫は風呂の残り湯を生け垣からうちへの導線に撒いた。帰ってこなくても一先ず居場所がわかっただけで気持ちは随分楽だった。

玄関を開けたままにしていることに慣れてきた。私はコタツでうたた寝し、夫はノートパソコンをひらいていた。

3時過ぎ、にゃ、と子猫のような鳴き声が聞こえた。ぱっと目覚めてすぐ夢でないことを祈ったが、夫の顔を見てそれが夢でないことがわかった。斜め上に目をやると小梅がそこにいた。

夫が脅かさないようにそっとドアを閉めた。

家を出てから約27時間後、小梅は何事もなかった様子で帰宅したのだった。

足の裏を拭いてやり、お腹すいてる?と聞くとにゃーと返事し、猫缶を開けると一気に平らげ、口のまわりをぺろぺろ舐めてトイレに行き、いつものデロンギの前で眠った。

一時はもう会えない可能性もあると思ったけれど、またお腹をみせて無防備に眠る姿が傍に戻ってきた。

 

 


2012年 詩人の会

2012年03月13日 | Weblog

3年に一度、詩人の会という集まりがある。
2月11日の予定だったが、その日は都合がつかず一ヶ月先の3月11日に集まることになった。
大学を卒業する年に3年に一度集まろうという約束をした4人で。

3年前の日記を残していた。2009年2月11日

あの頃は28歳ならもう子連れの人もあるかと話していたが、それはまだ誰も。

詩人の会はそもそも自作の詩を読む会だったが、今は詩に代わる何かしらを持参し、それを披露したりする。
昼過ぎに3年前と同じ王将の前で待ち合わせ、そこに王将があるのでとりあえず入り、餃子とビール。

そのあとN崎氏の新居にお邪魔する。途中スーパーに寄ってワイン、チーズ、クラッカー、ベビーシュー、抹茶のキットカットなどを買う。

日曜なので休日のN崎氏の恋人もご在宅。彼女はぬいぐるみを作っている。くまちゃんとかうさぎちゃんという呼び方のできない摩訶不思議な動物たち。マグマちゃんという黒い顔の子など。

引越して間もないふたりの家にはまだダンボールが積まれ、業者がエアコンを取り付けに来たり、新生活のはじまる春という雰囲気。

新婚さんのN野氏、新しい仕事の話しを聞く。お昼は愛妻弁当。今秋に式を挙げる。
音楽をやっているT氏からは2枚目のアルバムをいただく。もうすぐアメリカに旅行するそうだ。

N野氏が2006年の詩人の会の映像を持ってきてくれた。そんなものが残っているとはまったく知らず、再生されるのが若干おそろしい代物だった。

当時、ラーメン屋の上に住んでいたN崎氏の部屋がうつる。ひとり暮らしの他の皆の家よりも広くてよく人が集まった。何かを話しているがよく聞き取れない。22、3歳の顔は怖いもの知らずでまだあどけないように見える。これはなかなか正視に耐えないと思っていたがその苦行は3分ほどで終わった。

私は今回絵を見てもらった。震災以降に描いたこの1年の絵。

N崎氏、T氏は1曲ずつ歌ってくれた。

気づくと時間が過ぎている。昼に会ったのにすっかり夜だった。N崎家の2匹の猫に触りたかったが、人見知りで彼女の部屋のクローゼットに引きこもったまま最後まで出て来てくれず。

この日、3月11日、寒の戻り、外はよく冷えていた。次の3年後はどのようになっているだろうと思いながら自転車で帰る。

帰り道、夫に甘いもののお土産を買って帰る。

 

 


ラース・フォン・トリアー『メランコリア』

2012年03月06日 | Weblog

ラース・フォン・トリアー「メランコリア」を観に東宝シネマズ二条。外は埃程度に雪が舞って、バイクで風を切るつま先は冷えきっている。

買って食べなくてもキャラメルポップコーンの甘さが全身に満ちるシネコン。平日の夜で閑散としたロビー。レイトショー1200円。半分以上空席。閉め切る前に換気をしているようで劇場内はコートを脱ぐと寒い。

冒頭 音楽とスローモーションの映像。これから語られる物語のイメージの破片の数々は動く絵画を見ているようで、問答無用に美しい。

映画は物語の主軸となる姉妹の妹ジャスティンの結婚式からはじまる。
柔らかなオーガンジーを重ねた白いドレス、ブロンドの髪に豊満な胸元、アイラインを強く引いたメイクの似合うゴージャスな印象のジャスティン。新郎新婦はリムジンで山路を曲がれずパーティーに大遅刻して到着する。
会場は18ホールのゴルフ場にホテルのような客室付き、ジャスティンの姉夫婦の豪邸。そこでの豪華なウェディングパーティー。

しかしこの夜、彼女の母親の奇妙なスピーチからジャスティンはだんだん楽しそうに振舞わなくなり、花婿を置いてパーティーの席を立ち勝手に出歩き、傍目には奇行とうつる言動を重ねる。今後ジャスティンをきめ細やかに気遣いいたわる夫となるであろう美しい花婿、彼女を認め必要とする職場の上司、同僚、人とのつながりを彼女は全て断ち切るように振舞い、ウェディングドレスをまとって何もかもを白紙に戻してしまう。ドレスの白は産着と死装束のまざった白に見える。

その後ジャスティンはこれまでの人生で身に付いたこと、身に付けたことから遠のいて、社会で生きるための重心の取り方を欠き、憔悴しきって結婚式から数ヶ月後、姉クレアのところに療養に戻ってくる。

ジャスティンはタクシーに乗ること、風呂に入ることすら困難になっていた。今まで社会と自分をつなぎとめていたもの、私を縁取り、私たらしめていたものから切り離された糸の切れた凧のような体。名乗るべき私を手放し、ひとつの体のなかでまとまりを欠いた体。また自分の方法で立つことから獲得しなければならない体。

その頃、地球には巨大惑星メランコリアが近付いていた。
最接近した際に地球の軌道に重なり、衝突の恐れがあると噂されている。

このこと自体は映画にとって致命的ネタバレではないので書くと、メランコリアは地球に衝突する。どうやら同じ小惑星衝突SFものアルマゲドンのように人の努力によってどうにかなるレベルのものではなく、メランコリアは人類が手を尽くしてもどうにもならない大きさのどうしようもなく避けられないもののようだった。
ジャスティンには予知能力があった。彼女が結婚式の日にすべてをぶち壊したのは、この運命を知ってか知らずか、その日彼女は夜空からさそり座の赤い星、アンタレスが消えていることには気が付いていた。

混乱していたジャスティンは次第に意識の軸を取り戻す。
徐々にある方向を見据え体を立て直したようだった。間もなく世界の終わりが来る。それに対し、終わりに結びつき、その引力で体を立て直したかのように。

財力のあるクレアの夫は水や食料を備蓄したり、息子と望遠鏡を覗いたりして、衝突を案じるクレアには接近するが衝突はしないと言ってなだめた。あるいは衝突しても生き延びる可能性を捨てていないようだった。しかしいよいよ衝突が避けられず、それに対するどのような備えも避難ももはや無意味とわかり、容赦なくメランコリアが刻々と迫るなか、妻と子供をおいて薬を飲みひとり馬小屋で自殺する。
まだ小さな息子のいるクレアは動揺し、行き所のない体を右往左往させる。
ジャスティンはもはや焦りも抵抗もせずにいる。

財力、権力、或いは名刺に書くようなことが一切役に立たなくなるとき、最後に体を携えて、体、この場所でどのようにあるのか。人の力では避けることのできないメランコリアの圧力に押し出されるように、あらわになっていく人の姿。生きるということを思うとき、それには終わりがあるということがつきまとう。いつか来る終わりまでの間を過ごしている「今」であることは、終わりが明確にいつであるとわかっていてもいなくても同じであるけれど、とりあえずいつかわからないところに仮定されている終わりまで、ぼやけてはいるが確実に消えないその匂いを嗅ぎながら、嗅ぎ続けているので感じなくなりながら、日々の暮らしにまつわる様々なことに終始している隙に時間は過ぎていく。生きてあることとは何か、何に腹を決め何を手放して生きるのか。メランコリアを見てから数日、そんなことを思っている。