日々偶然に起こる様々なことに対処しているうちに我々は自分の流儀のようなものを身につけ、そうして偶然を起源にもちながら必然的にここにいる ような顔つきの者になっていく。
しかしその必然のような面持ちも偶発的な日々に処している姿に過ぎない。
昨夜寝る前に開いた、太田省吾さんの「プロセス」にそんなようなことが書いてあり、それについて仕事帰りの電車の中考えていた。
車内には帰宅中の40~50代サラリーマン。
そういえばこのおじさま方も偶然に産まれてどうにか生きてこういう働くお父さんの顔になったのだ。
毎日スーツに袖を通し、ラッシュアワーの電車に乗り込み会社に通う体、そういう人の顔。
そういう役割を生きている顔。
そこに偶然の最中の存在感は見えにくくなっている。
しかしそれは日常を生きる私も含めた全ての人にも言えることだ。
ポートレイトという言葉が浮かんできた。
肖像。
私たちの姿は本質的には、写真に撮られたようなはっきりとしたものではないように思える。
むしろ常にブレている、ブレそのもの、振動の合間にあるもののように感じる。
フランシス・ベーコンの肖像画を見て、そうだそうだ と頷く心地。
絶え間ない 今 への対処 そんなふうに言うと息が詰まりそうだが、それを毎日今この瞬間も皆やってのけている。
不確定、不安定な自分自身は、日常生活に於いて望まれることではない。
何処かしらの場所に属し、外枠の力によって名を名乗る輪郭をもつ。
いちいち偶然を感じたりすることのない日々を生きながら、必然らしきものになりすましてみても、やはり私たちの存在は定まらないものを背負っているのではないか。
それは可能性であり、不安でもある。
ある日の朝、洗面台でふと顔を見て、「俺はこんな顔をしていたのか」とどこかそぐわなさを感じた46歳サラリーマンAは脱サラし、蕎麦やを始めてみたり
隣の席でイビキをかいて爆睡するおじさんはどんな夢をみてるのだろう。
しかしその必然のような面持ちも偶発的な日々に処している姿に過ぎない。
昨夜寝る前に開いた、太田省吾さんの「プロセス」にそんなようなことが書いてあり、それについて仕事帰りの電車の中考えていた。
車内には帰宅中の40~50代サラリーマン。
そういえばこのおじさま方も偶然に産まれてどうにか生きてこういう働くお父さんの顔になったのだ。
毎日スーツに袖を通し、ラッシュアワーの電車に乗り込み会社に通う体、そういう人の顔。
そういう役割を生きている顔。
そこに偶然の最中の存在感は見えにくくなっている。
しかしそれは日常を生きる私も含めた全ての人にも言えることだ。
ポートレイトという言葉が浮かんできた。
肖像。
私たちの姿は本質的には、写真に撮られたようなはっきりとしたものではないように思える。
むしろ常にブレている、ブレそのもの、振動の合間にあるもののように感じる。
フランシス・ベーコンの肖像画を見て、そうだそうだ と頷く心地。
絶え間ない 今 への対処 そんなふうに言うと息が詰まりそうだが、それを毎日今この瞬間も皆やってのけている。
不確定、不安定な自分自身は、日常生活に於いて望まれることではない。
何処かしらの場所に属し、外枠の力によって名を名乗る輪郭をもつ。
いちいち偶然を感じたりすることのない日々を生きながら、必然らしきものになりすましてみても、やはり私たちの存在は定まらないものを背負っているのではないか。
それは可能性であり、不安でもある。
ある日の朝、洗面台でふと顔を見て、「俺はこんな顔をしていたのか」とどこかそぐわなさを感じた46歳サラリーマンAは脱サラし、蕎麦やを始めてみたり
隣の席でイビキをかいて爆睡するおじさんはどんな夢をみてるのだろう。