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流出雑記 

年末らしい日々

2009年12月29日 | Weblog
27日、H家にて忘年会。
私が知る男性の中で最も料理上手なH氏が毎年腕をふるってくださる。
昨年はスペイン料理で、パエリアやスパニッシュオムレツなどが並んだ。
今年は事前にリクエストがあればと聞かれたので、洋風魚料理をと頼んでみた。私のレパートリーで未開拓分野なので勉強させてもらう魂胆。

その日の昼間、福井に帰っていたので京都に戻るのが少々遅くなった。
8時半に福井土産の鰯のへしこ、水羊羹などを携えふたりでお邪魔する。
H氏と奥さんのMさん、制作のOさん、いつものEくんが待っていてくれた。
乾杯し、まずマッシュルームのポタージュが出された。
マッシュルームと生クリームをミキサーにかけてコンソメでのばした濃厚なスープ。マッシュルームの薄切りとパセリを添えて、浮き実にも抜かり無し。
次にエビとニラのエスニック風炒めもの。
山盛りのパクチー、Mさんはこの風味が好きだそう。水菜のサラダの如く食べている。私はあえて買うほどではない。ダーリンはこの風味でかめ虫を思い出すらしい。普段はばりばりダンサーのMさんに剥かれ背ワタを抜かれたエビたち。
メインは塩豚の煮込みと私のリクエストに応えてブイヤベースだった。 
鯛のアラで出汁を取り、黒メバル3匹、イカ1杯、あさりまで入っておいしくない訳がない。
魚もスープも何もかも旨い。残ったスープでぜひリゾットをしたかったが、〆のご飯の為にキュウリと茗荷を刻んで醤油などをかけた山形の郷土料理「だし」が用意されていた。またそのさっぱりしたご飯がおいしい。
遅れて舞監のNさんも参加し、みんな箸もお酒すすみ忘年会らしい話題もしながら夜は更けていった。

その2日後、今度はうちで忘年会。
人を招くとき、数日前からうちの狭い台所で要領よく何をどういう手順で作るかと仕事のポーズ中などに考える。
当日午前中は宇治の実家にいたので午後、家に帰る途中に買い物して3時頃から料理にかかる。
豚バラの塊を焼いて下湯で、圧力鍋にネギ敷いて酒と醤油で煮る。
にんじんサラダ、きのこの和風マリネ、蒸し鶏の韓国風、エビとホタテとブロッコリーのクリーム煮。
それに相模の伯父作スモークチーズなど。
にんじんサラダにパセリを入れすぎたことが悔い。
この日は先輩夫婦のY田夫妻がはじめてうちに来てくれた。
奥さんとは初めて話したが言葉使いがとても丁寧。イタリア料理の勉強をされていると聞き私の料理が心配だったが、おいしいと言って食べてくれていたので一応大丈夫なようだった。
香水の話しになり、手元にある香料を簡単に説明したり嗅いでもらったりすると、みんな普段より積極的に嗅覚を使うことが新鮮で興味深いようだった。Y田さんの奥さんにローズの香水を作ってほしいと言われて嬉しくなる。
同時にダーリンが〆のお茶漬けの為にグリルで焼く鯖のへしこの香ばしいにおいが充満する。へしことは魚を生のまま糠漬けにした福井の名産品。
よくぞ生魚を糠の中に突っ込んだと思うが、これがとても旨い。こんがり焼いてお茶漬けに添えると最高。

遅れてギターを背負ったバンドマンY沢さん、昨日脱走した愛描を夕方発見し安堵の表情M川さん、いつものEくんという面子。
私以外の人はよく飲む。私は後半お湯割りの為の湯を、白湯として飲んでいた。
ビール数缶、シャンパン一本、焼酎と日本酒は一升瓶がほとんど空。

全員が帰って時計を見ると朝7時だった。

しょうらいのゆめ

2009年12月16日 | Weblog
幼稚園の卒園がせまったある日、先生に将来何になりたいかとひとりずつ聞かれたのを結構はっきり覚えている。
それは卒園アルバムに「しょうらいのゆめ」を載せるので、その為のアンケートだった。
女の子はお花屋さん、ケーキ屋さん、幼稚園の先生、男の子は野球選手、警察官、消防士など。

特にこれになりたいというものが思いつかなかったが、私の番が来たら何か言わなければならない。
当時の私はピンク色やひらひらした女の子らしいものが大好きだった。
咄嗟に将来バレリーナの衣装が着たいと思い付き、先生に「バレリーナになりたい」と答えた。すると先生は「なんでバレリーナになりたいの?」ときた。
幼稚園児なりに、ひらひらのが着たいから、という動機は浅はかだと考えたが、他に理由を見いだせなかった私は苦し紛れに「おもしろそうやし…」と答えた。
卒園アルバムには「しょうらいのゆめ」の下に「そのりゆう」も載せられていた。
私の欄には、ゆめ「バレリーナ」、そのりゆう「おもしろそうやし」  と言ったそのままの口調で記録されている。
一番仲の良かった女の子は「ケーキ屋さん」「お菓子を作りたいから」というしっかりとした理由を述べているし、「お姫様」と答えてバカだと思っていた女の子もその理由は「お城に住みたいから」という明確な欲望があった。
卒園アルバムを手にした後、70人ほどの生徒の回答をすべて読んだ結果、その中で自分が一番阿呆な回答をしているという自覚があり、苛まれた。

あれから20年以上が経つ。
私はバレリーナにはならなかったが、今月仕事でバレエの衣装を週一で着ている。

着衣の仕事は普段着で良いときと、サリーやチャイナドレスなどの民族衣装やこういうチュチュを着るようなものもある。
着てる方から見れば、この格好の人物を描くことにどれほど意味があるのかと思う節もある。ドガのようなのを描きたいのか。
普段見慣れない衣装には描き甲斐があるらしいが、いつも妙だと思う。

冷えないようにとの配慮で強めの石油ストーブの温風をまともに顔に受け続け、頭がぼーっとする。

変則的なかたちではあるが、「しょうらいのゆめ」は一応叶っていると、ぼーっとしながら思った。

seaweed log

2009年12月16日 | Weblog
ワカメのようにゆらゆらと、まとわりついて離れない思い出。
回想

中学生
特別な男の子だったS。
Sは人に好かれる明るさとそれなりの正義感とひょうきんさを兼ね備え、クラスでリーダーシップをとれるタイプで、勉強は出来なかったが、先生たちからの信頼も厚かった。
小さい頃から彼の父親の影響でヨットをやっていて、大会で賞を取り朝礼の時に全校生徒の前で表彰されることもしばしばで、表彰状の名前が読み上げられる前に、同級生から「どうせまたSやろー」と囃されても「そやで!」 と屈託なく返すような男の子だった。

3年生の夏休み、ある夕方、私のPHSが鳴った。Sと仲の良い男の子からだった。
いつものように男子数人で誰かの家で遊んでいたら、Sが突然泣き出したと言う。
それまで普通だったのに、泣いている理由も言わず、どうすればいいのかわからないので来てほしいということだった。
私もまるで見当のつかないことで、行ってどうすれば良いのかと考えながらとにかく自転車を走らせた。
それからどこでどういうふうに対面したのか詳細に覚えていないが、次に記憶にあらわれるのは、北大路橋近く鴨川の土手にふたりで座っている風景。
日は暮れていた。

そこでSは話しはじめた。
小学生の頃、友達の家で遊んでいた。
友達がトイレに降りて行ったが、すぐに戻ってきて鍵が開かないという。そのとき友達の母親は外出していて、家にいたのはふたりと友達の父親だった。最初は父親の冗談かとふたりでトイレのドアをノックしたり、呼び掛けたりしていたが、中からは物音ひとつしないのでだんだん不安になってきた。
もしかしたら中で倒れているのかも知れないと思い、ふたりでなんとかドアを開けようとした。
しばらくしてどうにかドアをこじ開けた。
トイレの中でSの友達の父親は首を吊っていた。
Sはそのときのことを思い出すと、自分の中で収集つかなくなってしまうようだった。受け止めきれないほどのことであったことは想像できる。
そんな死の姿を目の前で、大人たちのような気構えなく対面してしまった小学生の男の子ふたり。
パッケージ外の死の姿を目の当たりにした衝撃と、首を吊った父と対面する友人の傍ら、Sに押し寄せた高圧の禁忌の体感は、おそらく残酷なほど鮮明にその時を焼き付けたのだろう。
私は病院で亡くなった祖父を棺桶からのぞいたほかは、人の死というものを実際に見たことがなかった。
聞きながら、そのときの怖さを想像し、その表面を感じ取ることは出来たが、どうしても外側からの体感しか得られない私は静かに歯痒さも感じていた。
ただこういうときに、傍にいることを許され、話しを聞いている自分に異性としての存在意義も感じた。

記憶が人の心にどうしても消えず、完全に治癒しない傷口を残すことがあるのだということ、日常の風景に突然奈落のような穴があくことがあるのだということを、現実感を伴ったものとして初めて知った。そういうものと一緒に生きて行かねばならないのだと。
私は今も時々、私の立ち合うことのなかった場所での出来事を想像する。
どれほど想像したところでSの体験したことに届きはしないのだが、今やSの関知しないところで尚も私はそのことを、恐らくずっと繰り返し想像し続けるのだろうと思う。
Sが今どうしているかは詳しく知らない。友達伝手に聞いた話しでは、同窓会には顔を出していて元気そうだという。
私が最後に見かけたのは成人式のときだ。小柄だった中学の頃から思えば、肩幅なんかしっかりとして男性の体格になっていた。
そのうちSも結婚して、父親になるかも知れない。
朝トイレに入り父親になった身で、あのことを思い出すかも知れない。
でも、もうそれを暴れさせずしっかりとした体で制し、心の奥に納め朝食を食べて家族の為に働きにでるのだろう。