朝から空が重たいのはわかっていたが、今日洗濯しておかないと洗濯物のサイクルがうまくいかない。カゴいっぱいの洗濯物を提げて物干にでたときにはもう降り始めていた。物干にはトタン屋根がついているので濡れない範囲になんとか全部干した。
夕方、本降りの雨のなか京都芸術センターへマレビトの会、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』観劇。
タイトルに展覧会とあるとおり、舞台上に役者がいて進行する劇を観客席に座って観るのでなく、ひとつの空間に役者が点在していて、観客はそのなかを歩きながら自由に見る形式で上演される。
ハプチョンという韓国の都市と広島をつなぐキーワードは被爆者。
当時ハプチョンから広島に移り住んでいた人が大勢いたそうで、その人たちは広島で被爆した。戦後故郷に戻った被爆者が多く住んでいることからハプチョンは「もうひとつのヒロシマ」と呼ばれ、市内には高齢になった被爆者が過ごす施設もあるらしい。
この作品では出演者が実際に広島やハプチョンに行って自ら見聞きしたものを「報告する」というかたちのパフォーマンスが行われる。
内容それ自体が個々の出演者の体験から立ち上がったものであるということ。
空間に点在する13人はそれぞれ番号のふられた立ち位置に展示されており、頭上にはそこを照らす明かりと小さなモニターがある。モニターには訪れた場所の風景やインタビュー映像、出演者自身の名前などが映し出されている。音声は消されていて映像はその下に立つ体を説明する一種のキャプションのように機能している。
日によって3時間から5時間上演されていて、観客はその間出入り自由。一定の台詞や動作がループされているときと、出演者が立ち位置を動いて、別の出演者と何かのシーンを時々始めたりもする。
順路はないので観客は空間を好きに歩き回り、同じ人をずっと見ている人もあれば隅に座って全体を眺めている人もあった。
席に座って芝居の時間を眺めるのではなく、観客自身が設えられた空間に訪れたその時間、体の動きを伴った能動的意思をもって演劇を見る。
歩き回るにせよ茫洋と眺めるにせよ観客それぞれが固有の観劇時間を過ごすことになる。
観劇において一定時間の着席を要求しない選択は、そのぶん観客の知覚の幅を広くとり、それぞれの立つ場所、選ぶ順路、観劇時間の違いによって体験は人により異なり、その場に足を運んだ者の固有の体験としての濃度は高まる。
展示されている出演者は、それぞれに赴いて体験した記憶から言葉や動きを抽出し、内容は具体的であったり、体験のなかで強く残ったものが抽象化されていたり方法は各々違っている。
あちこちで同時多発的にそれが行われているので、観客は何かを見ている時には何かを見逃している。見る傍らに、常に見逃しているという意識が挟まっていた。あとで見逃したものも見ればいいのだが、例えループしていたとしてもさっきのものはやはり見逃している。人によるだろうが私はそのことにうっすら急き立てられ、ならば全体を見てみようと見渡せる位置に立ってみたり出演者に近づいたりしながら、常に何かを見逃しているということにかえって見るということを思った。
さらに見ながら見られる者にもなりうる。客電のおちた客席に座っているときにはない意識の立った状態でいる。そのため私は観客であるが「観客の役」と感じられるところもある。この場に訪れた人物であるということを縁取られるような気分がある。
出演者と観客は同じ床の上にいるが、その間には見えない領域がうまれていた。出演者は観客の目の前にさらされていて、触れようと思えば簡単に触れられるところにいるが、なんとなく出演者を照らしている明かりの中に入らない程度の距離を保って見る。中には出演者にものすごく近寄ったり触れたりする人もあっただろうが、おそらく大多数の観客は暗黙のうちに設定された観客の見る距離に自然に立つもので、自分も含めそうだった。見る者の足場というものがあると。
ドキュメントされた内容を引き入れたフィクショナルな空間のしつらえによって、どのような体感が観客である私自身にあぶり出されるのかを待っていた。
これは広島やハプチョンでの「報告」であり、実際そこにいる出演者はそれぞれの都市の市民でも被爆者でもない。当事者ではない者の体が「報告」という方法で映し出せるものはなんだろうか。
それはおそらく距離のようなものではないかと思う。今ここにあるものとは隔たったところにあるものの存在にピントがあってしまうような、俳優の体を通じて距離を含めた存在の「在る」ことを知らしめられるような。
私に残った体感は焦点が合わずそういう予感をはらんだものだった。
焦点の合う体感をあぶり出すための仕掛け、導線のようなものが必要なのだろうか。それともこの焦点の合わなさがリアルであるのか。
実感を伴った距離の地図のような痕跡、それによって思考が動く道筋が体に残ることを望んでしまった。これはあくまで私の欲求なのだが、観劇後そういう欲求をもったことはあまりない。そのようにありたいと。それもこういった観劇の形式によって導き出された能動性なのだろうか。
夕方、本降りの雨のなか京都芸術センターへマレビトの会、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』観劇。
タイトルに展覧会とあるとおり、舞台上に役者がいて進行する劇を観客席に座って観るのでなく、ひとつの空間に役者が点在していて、観客はそのなかを歩きながら自由に見る形式で上演される。
ハプチョンという韓国の都市と広島をつなぐキーワードは被爆者。
当時ハプチョンから広島に移り住んでいた人が大勢いたそうで、その人たちは広島で被爆した。戦後故郷に戻った被爆者が多く住んでいることからハプチョンは「もうひとつのヒロシマ」と呼ばれ、市内には高齢になった被爆者が過ごす施設もあるらしい。
この作品では出演者が実際に広島やハプチョンに行って自ら見聞きしたものを「報告する」というかたちのパフォーマンスが行われる。
内容それ自体が個々の出演者の体験から立ち上がったものであるということ。
空間に点在する13人はそれぞれ番号のふられた立ち位置に展示されており、頭上にはそこを照らす明かりと小さなモニターがある。モニターには訪れた場所の風景やインタビュー映像、出演者自身の名前などが映し出されている。音声は消されていて映像はその下に立つ体を説明する一種のキャプションのように機能している。
日によって3時間から5時間上演されていて、観客はその間出入り自由。一定の台詞や動作がループされているときと、出演者が立ち位置を動いて、別の出演者と何かのシーンを時々始めたりもする。
順路はないので観客は空間を好きに歩き回り、同じ人をずっと見ている人もあれば隅に座って全体を眺めている人もあった。
席に座って芝居の時間を眺めるのではなく、観客自身が設えられた空間に訪れたその時間、体の動きを伴った能動的意思をもって演劇を見る。
歩き回るにせよ茫洋と眺めるにせよ観客それぞれが固有の観劇時間を過ごすことになる。
観劇において一定時間の着席を要求しない選択は、そのぶん観客の知覚の幅を広くとり、それぞれの立つ場所、選ぶ順路、観劇時間の違いによって体験は人により異なり、その場に足を運んだ者の固有の体験としての濃度は高まる。
展示されている出演者は、それぞれに赴いて体験した記憶から言葉や動きを抽出し、内容は具体的であったり、体験のなかで強く残ったものが抽象化されていたり方法は各々違っている。
あちこちで同時多発的にそれが行われているので、観客は何かを見ている時には何かを見逃している。見る傍らに、常に見逃しているという意識が挟まっていた。あとで見逃したものも見ればいいのだが、例えループしていたとしてもさっきのものはやはり見逃している。人によるだろうが私はそのことにうっすら急き立てられ、ならば全体を見てみようと見渡せる位置に立ってみたり出演者に近づいたりしながら、常に何かを見逃しているということにかえって見るということを思った。
さらに見ながら見られる者にもなりうる。客電のおちた客席に座っているときにはない意識の立った状態でいる。そのため私は観客であるが「観客の役」と感じられるところもある。この場に訪れた人物であるということを縁取られるような気分がある。
出演者と観客は同じ床の上にいるが、その間には見えない領域がうまれていた。出演者は観客の目の前にさらされていて、触れようと思えば簡単に触れられるところにいるが、なんとなく出演者を照らしている明かりの中に入らない程度の距離を保って見る。中には出演者にものすごく近寄ったり触れたりする人もあっただろうが、おそらく大多数の観客は暗黙のうちに設定された観客の見る距離に自然に立つもので、自分も含めそうだった。見る者の足場というものがあると。
ドキュメントされた内容を引き入れたフィクショナルな空間のしつらえによって、どのような体感が観客である私自身にあぶり出されるのかを待っていた。
これは広島やハプチョンでの「報告」であり、実際そこにいる出演者はそれぞれの都市の市民でも被爆者でもない。当事者ではない者の体が「報告」という方法で映し出せるものはなんだろうか。
それはおそらく距離のようなものではないかと思う。今ここにあるものとは隔たったところにあるものの存在にピントがあってしまうような、俳優の体を通じて距離を含めた存在の「在る」ことを知らしめられるような。
私に残った体感は焦点が合わずそういう予感をはらんだものだった。
焦点の合う体感をあぶり出すための仕掛け、導線のようなものが必要なのだろうか。それともこの焦点の合わなさがリアルであるのか。
実感を伴った距離の地図のような痕跡、それによって思考が動く道筋が体に残ることを望んでしまった。これはあくまで私の欲求なのだが、観劇後そういう欲求をもったことはあまりない。そのようにありたいと。それもこういった観劇の形式によって導き出された能動性なのだろうか。