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流出雑記 

28歳

2011年06月29日 | Weblog
6月29日。28歳になる。
まだ梅雨は明けていないはずだが、真夏日。2階の部屋は朝日が入って室温が上がり、暑さで目が覚める。
起きて太陽礼拝。酸素を送りこんで眠気でとろとろしている血を起こす。詰まっている体の部分隅々を伸ばしていく。まぶしいので部屋の電気は消したまま、汗をかくので夏場はパンツ一丁の日もあり、グールドをかける日課。
小梅がヨガマットの上を通過すると肉球がぺたぺた言う。猫は猫のポーズをしている。

昨日28歳最初の朝食はかぼちゃがいいなと思って昨日のうちに茹でておいた。冷やしトマトとかぼちゃサラダをのせたトースト。

いただきものの奈良漬けが流しの下の収納から出て来てしまった。あることをすっかり忘れていた。賞味期限が迫っていたので開封。私も夫も奈良漬けはあまり得意でないのだが、開けないまま悪くするのもなあと思ってとりあえず開けた。食べてみたがやはり甘すぎる。ごはんと一緒に食べる気がしないので、冷蔵庫で冷やしておいてお腹が空いたときに甘味としてつまみ、どうにか少しづつ減らす作戦をたてる。漬物というより甘納豆的な位置付けで。

午後、京都駅付近で仕事。
それが終わったあとにフィゲラスに寄る。ここにはヴァチュールという店のタルトタタンを置いている。2つ買う。

いったん帰宅し、からからに乾いている植木鉢に水をやり、汗を拭って新しいワンピースに着替え、化粧をなおしてお気に入りの靴を出す。夫も家着のかめTシャツからギャルソンのシャツに着替えた。

夜はずっと行きたかった一乗寺のアルザス。
予約しないと入れないので半月前に予約を入れておいた。

店に入ると6席ほどのテーブルにはすべて予約の札が立っている。
若い男性のシェフがひとりで調理から接客まですべてこなしているようだった。
はじめて来たので迷いながら前菜盛り合わせを注文すると、好き嫌いや量、前菜メニューのなかのどれを食べたいかを聞いてくれた。人数や品数に合わせてそういう調整をしてくれる丁寧さにまずとても好感を持った。

まもなくパンが運ばれてきた。熱くて持てないほど焼きたてで、外はかりっとして中はきめ細かい柔らかい生地のこのパンがとにかくおいしい。

ホワイトアスパラとたけのこを足して割ったような食感のココヤシサラダ、くたっとしてとろけるポロ葱サラダ、パテやハムが乗った前菜盛合せ。どれもおいしい。特にパテの適度な塩気と油脂がパンとよく合う。

山盛りのザワークラウトに豚塊肉、太いソーセージ、塊ベーコン、鴨の骨付きもも肉が乗っかったシュークルート。料理が運ばれてくると、ついおいしそうと言ってしまう。そう言わせてしまう料理だからだ。シェフはそれに毎回ありがとうございますと返してくれる。それでああこの人がちゃんと作ってるんだなと思う。

ナイフとフォークで行儀よくじゃなく、肉にかじりつく。ひと口ひと口満ち足りていく。

よく食べる夫もお腹がいっぱいになって、ふたりで6500円。私がアルコールを飲まないからというのもあるが、料理のボリューム、この胃の満ち足りかたを考えるととても良心的な値段と言える。
味も値段も人気店になる理由を兼ね備えた店だが、何よりこの店と料理を作っているシェフの人柄が一乗寺のアクセスも微妙な立地にぽつんとあるこの店に客足が絶えない秘けつであろう。

さあ帰ろうと店先に停めた自転車のロックを外そうとした矢先、鍵を家に置いて来たことに気付いた。
夫に近くのコンビニの駐車場まで自転車を引きずってもらい、明日取りにくる事にして置いて帰る。
ごちそうの詰まったお腹を揺らして並んで歩いて帰る。

途中の坂で何かぬるっとしたものを踏んだ。ぜったい生き物だと思った。鳥のヒナだろうかと戻ってみると蛙だった。轢かれた蛙を踏んだのだった。暗くて詳細には見えなかったのが救い。履いているのがお気に入りの靴であることなどは誕生日なのであまり考えないことにした。

帰ってタルトタタン。
店で頼むと温めて出してくれるが今日は冷やして、ヨーグルトをかけて食べてみた。冷えていてももちろんおいしい。ヴァチュールのタルトタタンは火を入れたりんごの最終形態であると断言できる。

28歳を生きる栄養をたっぷり充填した1日、すなわち誕生日であった。

2011/6/25

2011年06月25日 | Weblog
お隣さんが軒先に咲いているのを切ってくれたアジサイ。

もんじゅの手術はどうやら無事済んだらしい。

冷たいものを食べないと日中体に溜まった熱が取れないような暑さ。
小梅もだらんと寝転んでいる。年中毛皮は気の毒に思えてくる。水に氷を浮かべてやる。

暑くなるとキューリをよく買う。
火を使わなくても出来るちくわにキューリを突っ込んだあの一品。
キューリとミョウガや生姜と刻んで麺つゆに漬けこみ、それで素麺を食べるのがいつの間にか我が家流。
夫は自分用に浅漬けの素でキューリの1本漬けを仕込んでいる。
私は自分用に梅サワーを仕込もうかと思案中。

昨夜八瀬に蛍を見に行った。
池の茂みにぽつぽつ発光体。街灯を全部消せばもっとよく見えそうなので惜しい。
漂うようなあの飛び方が蛍というものに似つかわしいなと毎年感心する。
レモン味の炭酸飲料が蛍見物によく合っていた。

大原にもたくさんいるらしいと夫がいうので、足を延ばしてみた。山道をバイクで走る。後にも先にも反対車線にも車はなく、山は夜に沈んで黒いシルエットになっている。その黒さはずっしり怖い。

大原。沢はあったが蛍は思ったほどいない。そのかわり鹿に2度遭遇した。
夫はよく鹿を見る。家の近くの路上でたまたま鹿に出くわしてから鹿に魅せられ、よく鹿を探している。
鹿を見たいと思っているから引き寄せられるのか、鹿感というべきものが身についてしまっている。

先日父の日に実家に集まった。
父、母、真ん中の妹、その彼氏、下の妹、夫と私。
真ん中の妹と彼氏があらたまって父母に何話そうとしている。
ふたりで一緒に暮らしたいという報告だった。彼は緊張している。
お堅い家ではないので、父は生活というのは大変やけどふたりで頑張れよといったふう。母はうなずいている感じだったが、実家を出たことのない真ん中の妹の家事能力値を気にしているのと、ちょっとさびしそうな、そんなふうに見えた。私も姉妹の巣立ちはうれしい反面ちょっとさびしい感じがする。うちは女ばかりだからそのうちみんな違う名字になるのか。


福井の父に誕生日何がほしいと夫が電話で尋ねると孫と返ってきたらしい。
それは今すぐ難しいと答えると、じゃパンツでということだった。




来年の今頃これを読んでどう思うだろう

2011年06月18日 | Weblog
梅雨の朝、今年最初の時計草。

引っ越して来た年に買ってきたのだから今年で4年目の株。
その隣、今年の5月に植えたディルは急成長し1メートルほどに達したところで黄色い花火のような花を咲かせた。
半夏生は目下成育中。毎年秋になると枯れて初夏にまた育つ。だから毎年同じ丈。
猫草は種を植えてすぐ芽を出す。20日ばかりで枯れる。
猫草は大麦若葉らしい。
体にいいものだからどんどん食べなさいと思ったが、猫の消化器官は植物を消化して栄養をとることができないらしい。そういえば猫はトラと同じ肉食動物なのだ。それでも草を食べたがるのは繊維質をとるためとか、嗜好品として楽しんでいるとか。
小梅は6月19日で4歳に、私は29日で28歳になる。

最近鍋でごはんを炊いている。
1合につき水は200cc。といでザルにあげて30分、強火にかけて沸騰したら火を弱め13分、火を消して20分蒸らす。吸水せず熱湯から炊く方法もある。それなら炊飯器の早炊きと変わらないくらいで炊ける。結婚祝いにもらったオレンジのルクルーゼが米炊き鍋として活躍している。鍋で炊くと米粒がしゃきっと炊きあがる。
炊きたてごはん、みそ汁、納豆、漬け物、海苔。みそ汁の具は油揚げとワカメとネギがいちばんだと思う。

何気ない日々、献立、梅雨がくれば雨が降る、洗濯物のスケジュールに悩む。

水は土に染みて、日がさせば植物はまた育つ。1年経てばひとつ歳をとる。

そういう自然な移りゆきに混ざり込んで残留し、それぞれの体のなかに温存し託されてきた無数の言付けが新しい体に正しく読み取られなくなる。これは種として絶望的な間違いを犯しているということくらい私でもわかる。
でも、それが人によって発見され作り出されてしまったということはどういうことなのだろう。特にプルトニウムの半減期2万4000年という数字はもう未来永劫の呪いを自らにかけたようなものに思えてしまう。漏れ出してなくても行き場の無い荷物を子々孫々にまで託そうというのだから、この問題山積の地上にこれから生きる子供を産む事がもしも私にあるとすれば、まず罪の意識を持たざるをえない。

日々のなかに無味無臭の不穏さが添加された、この状態が均されてゆくのだろうか。どれほどの危機と受けとるかは住まう場所、感受性、また家族、子供のあるなしで異なるだろう。
小学生のころ地図帳で、沿岸部の原子力発電所マークを見るのが怖かった。「はだしのゲン」を見たせいだ。原発が事故を起こすと原爆が落ちたときと同じようなことが起こる、放射能というのは消毒しても防げない、そういう知識が入ってきてから、ニュース速報の音を聞くとまさか事故では、と過敏になった。他の子にそんな話したがあまり気にしている様子もなく、じとじと怯えている自分は損に思えたが、じとじとしたところはそのままだった。

23日にもんじゅの原子炉容器に落下したままの鉄くずを引き上げる作業が行なわれるという。
失敗して、爆発、火災が起こると破滅だそうだ。破滅は困る。
でも今の生活というのは、そういうものの影が常につきまとっている。
顕在化してなかっただけで一連の事故の前だってそういう世界だったのだと今にして思う。



2011/6/4

2011年06月05日 | Weblog
朝起きて髪を触ったら、まったく油気がなくきしんだ手触りだった。
洗面所に行って鏡にうつしてみると、根元1センチの黒を残して全部金髪になっている。
金髪というか、まだらに退色して黄色っぽくなっていて、少し引っ張っただけでぼろぼろ切れる。昨日実家で使った見たことない馬油シャンプーというのが悪かったのだろうか。
髪だけ一気に老いたというか、生えながら先に死んだようになっている。
短いところにあわせるとベリーショートにするしかないくらいの長さに切れてしまって、これは相当に印象が変わるけれど仕事のときはウィッグでごまかせばどうにかなるだろうし、不自然でも事情を説明すれば仕方なしということになるだろうと山姥のような姿を見ながら考えていた。

という夢。

昔読んだ夢分析の本では髪が抜ける夢はあまり良いことを象徴するものではないとあった記憶がある。
あらためて調べてみると、一般的な意味で髪は豊穣、繁栄を意味するので、抜けるということは、地位や経済力を失うことを意味する。
白髪は老齢、知恵を表す。しかし今回の夢の髪の脱色は白髪というよりどちらかと言えば、自然の摂理以外の意図しない何かの作用でぼろぼろになっているようだった。

現実の様相と変わらない夢だったが、目覚めてから気になったのは、それなりに長く伸ばした髪が失われること自体にそれほど悲しみを感じていなかったこと。
むしろこういうこともあるよなと、異常事態を日常茶飯事のなかに均してしまおうとする心の動き。原因を追求するでも、怒り、嘆くでもなく、なんでもないことにしてしまおうとしていた。
なんでもないことであってほしい、あわよくば無かったことにという力無い希望が平坦な日々の情緒をウィッグより先に被せていた。あるいは身に降りかかった制御不能の事態にどうにか乱されまいとして、感情に平静というダミーコードを走らせてそれを自分で読み込んでいるような。
髪だけ先に老いたというか死んだような姿を前にしても何気ないこととして日々を遂行しようとする自分の姿を鏡ごしに見ている。
これはなんだか演劇的だと思った。


ままごと 『わが星』

2011年06月01日 | Weblog
中央の白い円形のアクティングエリアを囲むように作られた客席は、雨にも関わらず満員で立ち見も出るほどだった。

俳優の体に宛てられたもの、つまり役柄は、体を実寸から想像を絶するサイズに引き伸ばしたり、時間も跳躍することのできるものとして仕掛けられている。
観客の目の前でビックバン以前の「何もない」ところから物語は始まり、やがて発生した人類の、現代の、我々の、なんでもないような日々を生きて死んでゆく人たちの姿が描き込まれ、やがては星すらも消えてゆく、という始まりと終わりを演じるスペクタクル。ラップ調に歌われる台詞、テンポの良さ、そういうものに乗せて比重の重い内容に手を付け多角的に切り込み重苦しくないものに仕立て、観せきった作品だと感じた。
物語は丁寧に編み込まれ、丁寧に演出され、役者は隙間なく演じる。終演後は惜しみない拍手がおこった。私もいつもより心を込めた拍手をおくりたくなった。

観客の記憶や現実を生きている我々の、地面や日々に触れる言葉が作品の随所に散りばめられているため、観客それぞれに目の前で行われていることを自身の体に引き寄せることのできるフックがある。作家の同年代のみならず、幅広い世代の琴線に触れるよう配された言葉、その手つきの器用さを感じる。

感動の求心力を生む円形の仕掛けに引っ張りこまれきれなかったところがあり、それはなぜかと考えている。
いちばん気になったのは、俳優が観客席に座っていて、そこから出てきて劇中そこに座ったり、その場で台詞を発する場面があったこと。なぜそのような演出をする必要があったのか。
物語では時空も体積も超えている人たちが観客席にやってきて、隣で息をしている。観客席に役者を座らせるということは、観客に役どころ以外の、役者のライフサイズの体を意識させ、劇の時間以外の彼らがあることを垣間見せてしまう。演出として他の意図があったとしても、そういう側面はどうしても拭えないように思う。
今回の作品に関して言うと、役者の演じている状態と同時にライフサイズを提示する意図を掴めない感じがあった。
たとえば端的に観客を劇のなかに巻き込み、あなたたちも今ここにいるこの星にいる と今回の作品の内容、つまり虚構、そして現実の間に観客の体を据える仕掛けだったとしても不十分さを感じるのだ。観客席に座っている役者の存在の仕方は舞台上にいても客席にいても変わらない脚本に沿った人物として演じられている。
そういう演じる体の状態で役者が傍に来るということが、私にとってそれは近づかれるほど遠ざかっていくものに思え、劇自体の求心力に逆らいたくなってしまったところだった。
かといって隣に来ていきなり「雨だとなんか頭がどんよりしますねえ」などと急に話しかけられても同じように遠ざかってしまうだろうが。

傍に来た、そこにある役者の体から生きて死んでいく切実さをあまり感じられないということが気になるのだ。観客席の役者のこと以外にも演じる体への抵抗感を感じるシーンがいくつかあった。
整理していうと、優れた作品ではあったけれど、役者というものの捉えかた、人の描き方になにか私が欲するところと合致しないものを感じるということ。
これは演劇に何を見ようとしているかによって意見が異なるところだし、役者に内面など必要なく機械的に演じるということに徹するのであれば良いという見方もある。そういう作品を望む人と作る人もあるだろう。
逆に内面、パーソナルなものを扱おうとしたとき、その内容は体から半径2メートルの範囲を超え出ず、他者の体まで届かないという萎縮に陥る可能性は大きい。

それを踏まえた上で役者の体に何を見たいと欲するか。
人は何を 演劇 すべきか。

私にとってその答えはとてもシンプルでひとつしかない。
これは今までも誰かに言われてきたに違いないけれど実感したのであえて言う。

死ということ。死ではなく「死ということ」。

今回の作品にも「死」「終わり」は描き込まれていた。でもそれを物語の筋でなく役者の体に見たい。なにかしらの筋や導線が必要とすればそれを体に見出すためのものでなければと思う。