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流出雑記 

赤い靴クロニクル/黄金町篇1

2010年03月19日 | Weblog
京都から新幹線、新横浜で降りる。そこから横浜へ、さらに京急に乗り換えて、日ノ出町という駅で降りる。夕暮れ。
この横浜市中区日ノ出町、ここに「赤い靴クロニクル」という演劇を見にきた。
演劇と言ってもこの作品は劇場内ではなく街中で、観客自身が街を巡って体験するツアー・パフォーマンスと呼ばれる形で上演される。
設定された時刻に地図にある受付場所に向かい、目印の鳥保という看板を探して歩く。鳥保の交差点の角を左、そこから通りがなんとなく薄暗くなる。高架鉄道が走っているためだった。高架沿いの道端、不法投棄のゴミが散乱しているのを横目で見ながら通り抜けると川があり、橋の向こうにコンビニの黄色い明かりが見えた。
まだ少し時間があり、お腹がすいたので、橋を渡ってコンビニで100円のバタークッキーを買う。
コンビニへ渡った橋は、こがねばしと書いてある。こがね、黄金とついているのがかえって印象に残ってしまう、すきま風の吹くような風景。
黄金橋の真ん中から川を見下ろすと、水面は遠く水音も聞こえない。水は流れているというより、巨大な溝によどんだ緑色のゼリーがたぷんと溜まっているようだった。
川沿いの道はきれいに舗装されていて、来月にはにぎやかになるであろう桜並木が続く。
この日、3月だというのに雪が降ってもおかしくないほど身の縮む冷たい風が吹いていて、冷えきった口のなかでクッキーのバター風味は広がらず、川のすぐ傍を平行して走る電車の音と、高架下の陰りを目の前に、見知らぬ土地の道端で、微妙な待ち時間を過ごす為だけにさくさく顎を動かしていた。
時刻になり、地図のとおり高架下の角にある、周囲の建物と比べると不自然に白い受付会場に入る。
受付の女性に名前を告げると、もうすぐ案内の者が参りますのでお待ちくださいと言われる。白くて狭い部屋に男性と女性がひとりずつ既に待っていた。並んで掛けて待っていると、外のドアが開いて、若い男性が3名様ご案内致しますと顔をのぞかせた。

赤い靴クロニクル/黄金町篇2

2010年03月19日 | Weblog
観客はどこに向かうのか何も知らされていない。若い男性について外に出て案内されたのはすぐ隣の建物だった。
なかには小さなバーカウンター、レトロなガラスのランプシェードがぶらさがっていて、座面の赤い丸椅子が3つ並んでいる。それ以外には何もなく、うっすら油っぽい埃のにおいがした。店内は案内の男性と客3人が入ると身動きし辛いほど狭い。
次に「根岸ツアーマップ」という地図が配られ、これからこのバーの2階に上がって20分後にまた降りて来てくださいと言われる。
客3人は特に会話することもないまま2階に上がった。
2階は1階と同じ6畳程の広さで、家具や荷物など以前の住人の面影は無く、部屋を囲むように壁に沿って7つのモニターとキャプションが並べられていて、それぞれ根岸ツアーについての解説と巡るポイントを撮影した映像が展示されている。

プロローグとして記されていた文章。

「数分間で語りつくせる着想を500ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出すことだ。」J.L.ボルヘスが『伝奇集』のプロローグで語った言葉である。この態度は、小説における以上に、ツアー・パフォーマンスのための重要な指針となるに違いない。観客に能動的な参加を要請するツアー・パフォーマンスでは、観客は作品の受容者に留まらず作り手にもなるわけで、長大な時間をかけて参加者に作品を展開してもらうことは、時間に追われることの多い現代人にとって、それこそ狂気の沙汰になりかねない。横浜が開港してからの150年を考えようという壮大な意図をもった今回の企画では、架空の根岸ツアー『赤い靴クロニクル』に関するノートを、映像と地図を用いてコンパクトに体験してもらう道を選んだ。」

根岸ツアーは、1根岸外国人墓地、2根岸住宅街、3根岸森林公園、4米軍基地、5根岸競馬場一等観覧席
の5つのポイントを巡るよう構成されている。
それぞれのポイントに関する解説と映像を見ながら手渡された地図を見て、文字と像と図を組み合わせて架空のツアーの体感を想像する。
根岸外国人墓地には、観光地にもなっている山手外国人墓地のような賑わいはなく、この墓地のどこかにGIベイビーと呼ばれた嬰児の遺体が900体ほど眠っているという。米兵と日本人娼婦のあいだに出来た混血児は、育てられずに遺棄されることが多かった。以前は木でできた白い十字架が30cmおきに立ち並んでいたらしいが、朽ち果ててしまった、らしい。
根岸住宅街は、この辺りは急な台地にたくさんの家を貼り付けたような地区で、狭い階段がいたるところにある。上に行けば行くほど家も庭も車も立派になり、戸数100戸足らずの半農半漁の寒村がたった150年で日本第二の巨大都市になった。その急成長が根岸住宅街の急な階段と結びつけられる、ようなところ、らしい。
そういった客観的、断片的な情報はもたらされるが、その為に自分の体が現地に立っていないことばかりが体感され、同時に私の立っているここはどこなのかという問いが並走する。
母にも歴史にも置き去られ痕跡すら朽ちた墓地の地面、急な坂の勾配と立ち並ぶ家の表情、米軍施設のフェンス、アメリカと日本の縫い目、ツアー終着点の高台から一望する横浜はどのようにうつるだろう。
そういうことを思いめぐらせていると、最後に次のようなエピローグが記されている。

「架空の根岸ツアー『赤い靴クロニクル』をどこにどう展示すればよいか。いろいろ考えた末、黄金町の「ちょんの間」、つまり今あなたのいるこの場所を選んだ。「ちょんの間」とはある種の売春宿のことで、一階にあるバーで一杯飲みながら値段の交渉などを済ませ、上にあがって売買春行為を行う。かなり広く感じられると思うが、天井の梁などを見れば分かるように、実際は3つあった「ちょんの間」を一つにしてこの大きさである。昔は飲み屋の風情もあったそうだが、アジア系を中心とする外国人のセックスワーカーが流れてくるようになってからは性交渉だけの場となり、最盛期には250ほどの店舗がひしめき合っていたそうである。客のほとんどは日本人であったと聞く。2005年1月11日、神奈川県警による「バイバイ作戦」が発動し、町はもぬけの殻となった。」

根岸に思いを巡らせていた矢先、今いるところに突然引きずりおろされる。
この土地についてまったく無知だった私は、ここでやっとこの地域がどういうところであったかを知った。
静かに毛羽立った心境で天井の梁を見上げる。
同じことをしている他2名の観客。
目で線を引いて6畳の部屋を3つに分割すると1部屋2畳ほど。
ここを行き来した人たちが戻ってくることはもうなく、かわりにまったく違う目的で演劇の観客がちょんの間に上がりこむという事態が起こり、個人的に足を踏み入れることはまずなかったであろう場所に、私は「観客」となり立っていた。
エピローグの横のモニターはこの部屋に上がって来た階段を、2階から見下ろすアングルでリアルタイムに映しだしている。階段を降りる時にちょうど対面するところに時計があり、音もマイクで拾われているのか、秒針の音が真夜中のように部屋にひびく。今ここに立っていることを助長するかのように。
20分後、1階のバーに降り、ちょうど3人掛けられるカウンターに観客は並んで座り、案内の男性を待っていたが、玄関ドアがあいて、あらわれたのは60代くらいの女性だった。

赤い靴クロニクル/黄金町篇3

2010年03月19日 | Weblog
ここからはその女性に案内されることになる。
上品な顔立ちの女性は、この地域の住人で黄金町のかつての様子も知っていると言う。
似たようなアルミサッシのドアの狭小住宅が続く高架下の通りを歩く。エアコンの室外機が異様に多いので、ただでさえ狭い建坪のなかで、布団の敷ける最低限のスペースの部屋がいくつもあることは想像できる。
250件くらいあった店は、今はもぬけの殻だが、昔はこの辺り一帯、昼間でも女性は通れなかったし、子供にも絶対に入ってはいけないと教えていた、と言う。
250件分の、ここでの仕事を生業としていた人々はどこに消えたのか。
いや、人々は消えたのではない、体がそう簡単に消えるはずがない。地域浄化という名の下に消えたように見せる力がはたらいているということだ。消えたように見せる力。それは暗転ではなく。
そんな言葉を巡らせながら廃墟の街を眺めていると、だんだんこの演劇の為に設置されたもののように見え、今も24時間交番の前に立っているという警察官、犬の散歩中の人、地元ヤンキーも皆出演者で、さっきのコンビニも含めこの辺り一帯全部作り事なのではないかと思えてくる。
もちろんその傍らで、そんな訳はないという意識もあるのだが、このツアーが演劇であるという下敷きが、通常疑う余地のない地面に揺さぶりをかける。
ここは一体どこなのか。
女性に歩調を合わせながら、解説の合間に頷く回数や首の傾き角度、どれくらいの頻度で感心をあらわす自然な、へー、とか、ふーん、という相づちを入れるか、また他2人の観客の相づちの入れ具合との兼ね合い…とこのように、話しを聞きながら私は、自分の一挙一動に意識的になっていた。
この一挙一動に意識的な状態は役者として舞台に立っているときに近い。
歩くうちに現実と、もうひとつの時間の並走が体に作用し始めているのを感じた。
10分程歩いて、廃墟のなかに一件だけ明かりのついている「黄金町語学学院」という建物の前まで来る。女性の案内はここまでらしい。
見上げると窓のピンクのカーテン越しに人影、表には満室の札がかかっている。しばらく前で待つ。この高架下の路地にさらされた妙な待ち時間、通行人もほとんどないのだが、寒さも手伝って堪え難くなってきた頃やっとドアがあき、男性が札を空室に返し、どうぞと声をかけた。

赤い靴クロニクル/黄金町篇4

2010年03月19日 | Weblog
笑顔をたやさない男性は階段を上がると4つの部屋があるから好きな部屋を1室選んで入ってくださいと言う。
1階は受付や勘定以外に何に使うことも出来ないくらい狭かったので、その上に4つも部屋があるとは思えなかったが、上がってみる正面からの印象以上に奥行きがあり、途中で階段が2手に別れるとても奇妙な間取りになっていて、確かに4つの部屋があった。いずれも2畳ほどの小部屋で、どの部屋にもひとりずつ東南アジア系の顔立ちの女性が座っていた。
そのなかの一室に入り、小学校の木の机をはさんで対面して座る。
このツアーが始まってからそういえば、まだ誰とも会話をしていない。他2名の観客に話しかけることも、さっきの案内の女性に何か質問することも出来たが、特に積極的になれなかった。そこへきて急に異国の人を目の前にどうやら何か話さなければならない状況に置かれる。机の上にはタイマーが置かれていて、彼女がそれをセットし、それと同時に私も発話スイッチをオンにした。
彼女は日本語で名前を聞いた。日本語で問題なく会話出来るとわかり少し安心して、それぞれの自己紹介をする。
彼女は十数年前に家族でタイから日本にやって来て、今は横浜でタイ料理屋をしているという。私と同い年だった。
その他には京料理がどんなものか、普段どんな料理をつくるのか、ナンプラーは万能調味料だ、といった料理の話題。彼女の屈託なく明るい人柄もあって会話は途切れることなく続きすぐに時間はきたが、いつにない積極性をもって言葉でこの時間を埋め尽くすべく、テンポよく楽しく会話する私を、私はやっていた。そのことに後ろめたさを感じた。
彼女は机の中から紙を一枚取り出した。それは「赤い靴」の歌詞で、この歌を知っていますか、歌えますかと聞かれる。
子供の頃、NHKのみんなのうたでも流れていたし、何度も聞いたことはある。
音量をおさえてぼそぼそ歌ってみた。

赤い靴はいてた女の子
異人さんに連れられて行っちゃった

横浜のはとばから船に乗って
異人さんに連れられて行っちゃった

今では青い目になっちゃって 
異人さんのお国にいるんだろう

赤い靴見るたび考える 
異人さんにあうたび考える

歌った後、頭をよぎったのは

「開港を迫られる恐怖のなか、当初予定されていた神奈川港では江戸に近すぎて危険という理由で、改めて選びなおされたのが横浜港だった。横浜は、生け贄に差し出された少女のようなものだったのではないか。少女は身を開き、欧米諸国を受け入れ、立派な娘になった。」

「日本と合衆国を縫い合わせているものを、参加者は傷のような痛みをもって、あるいは憧れをもって感じるかもしれない。行き着いた先にはバスケットボール・コートが二面ある。米兵と思しき屈強なアメリカ人と日本人がプレイしている。日本人がバスケットボールをやっているという皮肉たっぷりのイメージ。今時の国際交流のスタイル。それもいいが、A面ではアメリカと北朝鮮が、B面ではアメリカと北ベトナムが、血みどろの試合をしているということだって十分にありうる。横浜はアジアの血を吸って大きくなった町である、というシーン。」

そして外国人墓地に置き去られた混血児たち。
さっき読んだ根岸ツアーの解説。

赤い靴の赤から、どうも血のにおいがしてくる。
 
最後に、宿題ですと紙を1枚手渡された。

赤い靴クロニクル/黄金町篇5

2010年03月19日 | Weblog
「Repeat after me」と書かれた紙には、ここから先の指示が書かれている。

1 わたしは出口から外に出ます。
彼女に挨拶をして、裏口から外へ出る。日が暮れて街が紺色に変わっていた。
他2名の観客はもう出た後だったのか、姿が見えない。
ここからはひとりで歩く。
2 わたしは右に進みます。
3 産婦人科は子供を産むための病院です。
外観の様子から最近出来たものではないと思われる産婦人科、ここで産まれた子供と産まれなかった子供の数は他の場所にある病院とはおそらく違うのだろう。
橋を渡って対岸を歩く。
7 川の向こう側に、わたしたちの語学学院が見えますか?
暗い周囲の建物のなかで1件、光に透けるピンクのカーテン。
8 街は川の流れによって浄化されます。
9 わたしは桜並木を歩くのが好きです。
そうしてしばらく歩いていくと外側に囲いのない電話ボックスが3つ並んでいて、紙にはそのひとつをあけてくださいとある。
電話ボックスに置かれているのは電話ではなく、木の箱だった。
秘密に足を踏み入れ、何処かの扉の鍵を手に入れる物語の主人公になった高揚感。
箱をひらく。
出て来たのはメロディーとマッチ箱くらいの赤い箱。
オルゴールの奏でる赤い靴と赤い靴チョコレート。
12 ランドマークタワーは日本で一番高いビルです。
視線を上げると前方にビルの街の夜景がこうこうと輝いている。
13 わたしは小さい女の子を連れていきます。
チョコレートの箱を取り出し、オルゴールを閉じた。

赤い靴の女の子のパッケージ 赤から滲む血のにおい 中から出てくるchocolate その安息 その甘味 味わう それは 一体なにか その時、自転車で通りがかった男が、電話ボックスをのぞき込むように身を乗り出しながら話しかけてきた。「これ電話ボックスですか、違いますよね、なんですかこれ」
急に話しかけられたことと、パキパキした関東弁に驚いて後頭部がかたまる。
ツアー・パフォーマンスという言葉がよぎったが、そこからこの電話ボックスの説明に至る道筋を組み立てられず、違います、とだけ言ってそのあとは言葉が出て来ない。男はいぶかしげに覗いていたが、すぐにまた自転車で走っていった。その男がこの作品の出演者なのか、本当にただの通行人なのか、わからない。
「観客」は現実と虚構の間に出現した街を歩いている。虚構でゆるんだ地盤から、足の裏を通じて思考がぶらされる。

紙に従って歩いて行くと、最後にCafe Akaikutu にたどり着く。
中に入ると他2名の観客は既に座ってコーヒーを飲んでいた。
物販コーナーには連れてきたのと同じ赤い靴チョコレートが積まれており、赤い靴靴下、キーホルダーなど赤い靴グッズの増殖を見る。
外を歩いて冷えきった体を温かい紅茶でゆるめ、ほっとしながら同時にこのカフェに座っている体がどうも落ち着かない。体は止まっているが、ここでこのツアーは終わりと言われても、終わっていない、と思われた。
はっきりと自覚できる「やじるし」が体に残っていた。
それは強制的なものではなく、この作品を経て私のなかに結びついたものであり、こういう感覚が生まれることは今までにない経験だった。
「やじるし」は根岸を指している。
この作品を巡った後、架空の根岸ツアーの部分だけが、強い印象を残しながら、そこだけ実際に歩いていない分、際立って平面的で、その為にツアーの他の体験と異質な磁力を帯びていた。私は「観客」となって街を歩きながら、それと引き合う磁力を帯電したようで、立体的に経験されていないことがあまりに不自然に思える程、まっとうに引き寄せられていた。根岸に、体を連れて行くしかない。

公演の終わったあと、観客でなくなった私に、演劇から地続きに世界へひらかれた道があった。


赤い靴クロニクル/根岸篇1

2010年03月18日 | Weblog
翌日、昼前に根岸に向かう。
日ノ出町駅前のドトールでサンドイッチを食べてから京急で横浜へ、そこから根岸線に乗り換え山手駅で降りる。
気温は昨日よりさらに低い上に時雨。
500円のビニール傘とホッカイロを買って、腰にはる。
山手駅から根岸ツアーマップに従い坂道を上がって行く。 駅周辺は住宅地のようで、平日の昼間は人も疎ら。
最初にたどり着くのは根岸外国人墓地。 小さな門をくぐって中に入ることができる。
ローマ字で名前の刻まれた墓石は、妙な間隔でぽつぽつ立っていて、墓石のない空間の方が目立つ。隅の方に木製の白い十字架が倒れていたり、朽ちた白い破片が転がったりしている。
ここには一般の埋葬者の他に、戦後間もない頃、駐留軍兵士と日本人女性の間に生まれた、混血の「GIベイビー」が埋葬されている。娼婦として働く女性たちには、育てることのできなかった赤ちゃんが、毎夜のように山手外国人墓地に置き去られ、その死体を墓守がこの根岸の墓地に埋葬したそうだ。その数はおよそ900体と言われ、かつてこの墓地には白い十字架がびっしりと立っていたらしい。戦後しばらくの間、この墓地は管理する者もなく放置されていたが後に整備され、そのとき十字架は抜かれてこのような空白の墓地になったという。
時雨のせいで土はぬかるまない程度に水を含み、その上を踏む足を少し沈ませる。
黄水仙に囲まれた墓石があった。墓の主の家族が植えたのだろうか。球根が勝手に増えて、墓石から離れたところにも黄色の群れが点々とある。墓地の石と土と草木の色彩のなかでこの黄色は際立って鮮やかにうつる。黄水仙のことを、ジョンキルというが、この言葉の響きとこの場所が、私のなかで勝手に結びつき、一歩あるく毎に、ジョンキル、と耳打ちのように内側で鳴る。そういう回路が体に繋がってしまったので、今後どこで黄水仙を見てもそうなり、同時にこの場所を思い出すことになるだろう。

赤い靴クロニクル/根岸篇2

2010年03月18日 | Weblog
根岸外国人墓地を出て住宅街に入っていく。
おそらく自転車で登ってはこられないと思われる急勾配。上にゆくほど建物が立派になり、登りきると高級住宅街がひらけてくる。タイルの並べ方が波のようなデザインになっている家など、それぞれの好みを反映させて建てられた家々を見ながら経済的余裕を感じる。
クリオレミントンハウスという舌を噛みそうな名前のマンションを通過する。マンションと呼んでいいのか住居らしからぬ門構えで、門の横には管理人が常駐している様子。
そこからすぐ近くに根岸森林公園がある。
背の高い木立に芝生が広がり、一瞬、日本ではないところに来た気分になる。
ここは第二次世界大戦までは競馬場だったらしい。見渡した先に古城のような建造物がある。それは根岸競馬場一等観覧席。
そこへ向かって歩くと、途中アメリカ軍施設のフェンスを横切る。ちょうど車が一台、ゲートの前にとまった。セキュリティーチェックされ、金髪の兵士に敬礼で見送られながら中に入っていく。見慣れないので、ただのそういうやりとりにも注目してしまう。
フェンスのそばにバスケットコートがあるが、雨なので誰もいない。黒い制服の男の子がひとり手ぶらで濡れながら芝生の道を歩いていた。
一等観覧席の高台。そこから見る観覧席は、スタンドの裏側。
スタンド側には米軍施設があるのと、老朽化もあって施設中は立ち入り禁止になっている。昭和5年(1930年)にアメリカ人建築家によって設計されたこの観覧席。明治天皇や政府の要人が頻繁に競馬場を訪れ、各国外交官や居留外国人との交流の場でもあったらしい。3つの塔、丸窓、アーチ型の窓枠、石造りの重厚な建物は中も豪華な造りだったようだが、今は割れたガラスの代わりに板がはめ込まれ、外壁はびっしりと蔦に覆われている。
振り返ると高台から横浜の街が見渡せる。
丘の上の方には、芝生の上に一軒一軒ゆったりと建っている米軍の住居。下るほど家は密集しモザイクのようになっている。視線を左から右へスライドさせていくと、ちょうど首の止まる右端の方にランドマークタワーが見えるのだが、この日、空は分厚い雲に覆われ、遠くの風景は雨で霞み、ランドマークタワーは、真ん中辺りから霧のグラデーションがかかって、上半分消えていた。
日本一高いこの街のシンボルは、ここから見ると蜃気楼のようで、振り返るとそれとは対照的に、一等観覧席に絡み付く蔦はこの街の中を這いこの街を作り上げた、表立っては見えない歴史の血管が露出しているように見える。そのイメージに赤い靴の赤が呼び起こされる。

蔦は壁面から建物の隙間に食い込み、長い時間をかけて深く根を張り、壁を壊すこともあるというが、このまま取り壊さずおかれるなら、蔦はいずれこの一等観覧席を壊してしまうかも知れない。約80年前に建てられたこの建物の、蔦の絡んだ姿を見ながら、高台から見える家々やランドマークタワー、傍の米軍施設、根岸外国人墓地、そして黄金町の街並は80年後どんな姿になっているのだろうと想像する。蔦を這わせてみたりしたが、具体的な像を結ばない。私はその風景を実際に見ることはないのだとふと思う。傘を差す手に視線が戻って来た。

ここで地図にそって歩く根岸ツアーは終わる。


赤い靴クロニクル/根岸篇3

2010年03月18日 | Weblog
そのあとバスに乗り、伊勢佐木町へ向かった。
映画『ヨコハマメリー』でメリーさんが歩いていた、イセザキモール。昭和の名残を感じる街並に若者向けのカフェや衣料品店が入り交じる。その中のサンマルクカフェで休む。
茶色い革靴の先に雨が染みて黒くなっている。冷えきった足を休ませながら、あつあつのチョコクロにかじりつく。右手中指の霜焼けが腫れている。あたたまると痒い。雨は止む気配なし。
京都に帰るまで、まだ時間があったので、さっき高台から見た、消えつつあるランドマークタワーまで行ってみることにする。
イセザキモールをぬけて桜木町方面へ。これまで見てきた場所から一転、港街横浜観光スポットの様相。帆船、ファッションビル、行列のできるドーナツ屋、車体側面に大きく「あかいくつ」書いたレトロ調の赤い靴バスが走っている。
動く歩道に運ばれて、ランドマークタワーの中に入ってみた。
展望台の見晴らしを知らせる電光掲示盤には、「ただいまの視界:雲の中」という文字が流れ、入場料は雨の日半額&ワンドリンクサービス中。せっかく来たので登ってみることにする。
受付で半額の料金を払うとエレベーターに案内される。
この日本最速のエレベーターは最高分速750m、40秒で地上273m日本一の高さを誇る69階展望室に到達します、と40秒間きっちり使ってエレベーターガールは、ボタンの方を向いたまま黙々と説明してくれる。
エレベーターが開いてまず、一面真っ白なガラスが目に飛び込んで来た。視界は見事に雲の中で、窓際に近寄って真下をじっと見ると、うっすら車が走っているのは見えるけれど、前方の風景はほとんどまったくと言って良いほどただ白い。
誰もいないのではないかと思っていたが、カップルや年配の夫婦が数組。皆窓に面した2人掛けの椅子に座っている。席の前の小さなテーブルにはそれぞれ、イミテーションの銀メッキだが、枝つきの蝋台なんかが置かれているので、真っ白な風景に向かって座っているその状況は、奇妙な儀式に見えなくもない。
同じように窓に向かって座り、ドリンクチケットで引き換えた湯のようなホットの紅茶を飲む。
誰の意図でもないところで最後に用意されていたのが、横浜のシンボルであるランドマークタワーの展望台からこの街は見えない、というのは少々出来過ぎたエンディングだと思いながらも、その筋道を渡ってきた体はまだ燻っていた。
帰り際に覗いたお土産コーナーに、赤い靴チョコレートが「混ざり込んで」いるのを見る。

夕方、雨は雪になっていた。

2010/3/6

2010年03月06日 | Weblog
6時半起床。昨夜から雨強く降る。 めずらしく小梅が先に起きている。何かの気配がしたのか玄関ドアの前に座っていた。
明石で仕事なので決死の早起き。
朝のテレビ、最新文具特集。コンバースのスニーカー型ペンケース、1本で3種類の線が引ける蛍光マーカー。
寝不足と雨天も手伝って頭の中が水でふやけた麸のよう。
7時半家を出る。松ケ崎まで自転車、地下鉄で京都、JR姫路行。
乗り過ごしそうで怖いので、半分目をあけて寝る。神戸を過ぎたあたりから雨で霞んだ白い海、反対側に天文台、半目で見た風景。

9時半、明石駅着。
初めての仕事場、土地勘もないので迷わずたどり着けるか不安になり、地図をひっくり返し現在地を確認しながら雨の中を競歩で歩く。

仕事場に無事到着。
目覚まし缶のコーヒーがふやけた麸の頭にしみ込む。
固定ポーズ午前午後。クラシカルな立ちポーズ。

昼休憩が1時間半と長いので、初めて訪れた明石を散策する。
駅からすぐのところに明石銀座という商店街があり、今日は何かローカルな催しもので、通りには出店が並んでいる。たこカレーの屋台が群を抜いて味覚を魅了するにおいを漂わせているが、明石に来たのだからここは明石焼、と店を探した。
明石銀座と垂直に交わっているもう一つの商店街があり、そこは魚屋が軒を連ねる魚市場といったふうで活気に溢れ、観光客で賑わっている。
すぐそばに港があるだけに新鮮な魚介が店先にどっさり並んでいる。
生魚、魚のすり身を揚げた甘い油のにおい、饅頭を蒸すぬくい湯気、その中でも甘辛い醤油のにおいが絶えず往来の隙間を漂っている。この甘辛いにおいは、うちのが一番と競うようにどこの店にも並んでいる、いかなごのくぎ煮のにおいだった。山盛りのちりめんじゃこ、京都のスーパーでは見かけない魚や貝、生蛸が発砲スチロールの箱でとろけている。
魚屋の合間に明石焼きののぼりがちらほら見える。商店街入り口付近の屋は混んでいるが、奥に進むとすぐに入れる店もあった。

明石焼きはなぜか傾斜した板に並べられ出される。
かろうじて丸い形を保っているくらい柔いたこ焼きを三つ葉入りの出汁につけて一口で食べたが、中がものすごく熱い。噛むことも飲むことも出すことも出来ないまま涙目で冷めるのを待ってなんとか飲み込む。熱いせいで喉を通って胃に落ちるまでの通過をはっきりと感じる。嚥下、というあの複雑な漢字が頭に浮かんだ。同時に先日深夜に何となく見た老人医療と介護食の特集を思い出した。ものを飲み込むときに喉を動かす筋力はどういう訳か下半身の筋力と連動しているらしく、寝たきりで流動食だった男性が、理学療法士による体を動かすリハビリを継続した後に飲み込む力を少し取り戻し、数年ぶりに口からの食事が出来るようになった。ゼリーをひとさじ、ゆっくりと口に含んで喉を動かす。かすれた声で妻に う ま い よ と笑った。

卵の生地が口の中から先に無くなり蛸を単独で味わうことになる。生地と出汁は蛸の為のイントロのように風味だけを残して消える。明石焼とはそういう食べ物なのだと思う。
商店街を歩く人を見ていると、中年夫婦が多い。今晩の食卓にのぼるであろうくぎ煮や刺身のパックをさげて歩いている。


午後のポーズを終えると雨もあがっていた。一日中頭は麩だったが、小旅行したような気持ちを持って帰る。