8月が終わろうとしている。
この夏は連日、道ゆく人をつかまえてインタビューをする、ということをやっていた。
ある舞台作品のなかで使われるものだが、とにかく量が必要で、200人以上を目標に、数人の撮影クルーで毎日同じ場所に通い詰め、ひたすら撮っていた。
見ず知らずの人間に、わかりやすいとは言えない企画の趣旨をごく短時間で説明し、一体どれ程応じてくれるものかと、撮影が始まる前は一日10人も撮れないんじゃないかと思っていた。しかし、いざ始まってみると、案外足を留めてくれる人はいるもので、10人を下回る日はなく、むしろ20人に届くほど、越える日さえあった。
もちろん声をかけても、急いでますと行ってしまう人が過半数の中。
歩き方、表情、その人のもっている雰囲気で、おもしろい回答を聞けそうか、応じてくれるか否か、薄っすら期待しつつ声をかける。
邪険に断わられることはないが、断り方も様々で、人によっては、しばらく立ち話しするほど打ちとけても、カメラとなると恥ずかしいと去ってしまったり、声をかけても目も合わさず去る人もいる。
人が捕まらないことが続くと気持ちに乳酸が溜まっていく。そうして精神が疲弊し、足取りが重いときに、なんとかひとりくらいと意気込んで声をかけても、人は捕まらないらしい。同じように振舞っているつもりでもやはりこちらが消耗した状態だと相手に届き辛くなる。
きっと微妙に表情や態度に焦りや疲労が出ているのだろう。
様々な人と対面しつつ、自分はどのような顔をして立ち振る舞い、何が露出しているのか、この張り付いた表面の把握できなさに、改めてこわさを感じる。
まずもって共通項のない他者にぶつかっていくのはやはり怖い。流れていく人を前に体がすくむ。昔から苦手分野だ。そういえば結構な歳になるまで人に道を聞けなかった。
何人かでやっているが、私はうまくないだろうなとも思う。
いい歳して情けないくらい臆病なところが、もうこれは子供の頃から少しも変わっていない。言ってしまえば最も苦手で、且つ避けてきたことをやっている。そういうことを懸命にやるべき機会が訪れていることがまことに不思議だ。神が与えたもうた試練ですかい?これは、という感じ。
インタビューの質問内容はもう何度も口にして、覚えているはずなのに、足を留めてくれた人にマイクを向けてやりとりしていると、質問が出てこなくなることがよくある。相手の答えがどうくるかわからないこと、間合い、あらかじめ予定されたものではないので、相手からもたらされるものの影響を受けて、ある程度構築しておいたインタビュアーの形式がほつれて、むしろ自分の生っぽが漏れるのを顕著に感じたり。インタビュアーとしてはだめなんだろうけど。あからさまに台詞が出てこないようなことがなくても、相手によって声の大きさもトーンもニュアンスも微妙に変化してしまう。均一さを念頭においたとしてもそうなる。
そんなことを日々やり、合間には仕事をしていた。外で動き回って言葉を多用する時間と、あまり喋らず、ほとんど動かない仕事の時間を行き来するのは、体を端から端まで走っているようだった。
日記を書こうと、移動の電車のなかで携帯に打っていたが、載せるところまでたどり着かない8月の日々がメモの中にぱらぱら残っている。これもそれらの中から拾って書きなおしたもの。
8月いっぱいまであと少し、この日々が続く。
この夏は連日、道ゆく人をつかまえてインタビューをする、ということをやっていた。
ある舞台作品のなかで使われるものだが、とにかく量が必要で、200人以上を目標に、数人の撮影クルーで毎日同じ場所に通い詰め、ひたすら撮っていた。
見ず知らずの人間に、わかりやすいとは言えない企画の趣旨をごく短時間で説明し、一体どれ程応じてくれるものかと、撮影が始まる前は一日10人も撮れないんじゃないかと思っていた。しかし、いざ始まってみると、案外足を留めてくれる人はいるもので、10人を下回る日はなく、むしろ20人に届くほど、越える日さえあった。
もちろん声をかけても、急いでますと行ってしまう人が過半数の中。
歩き方、表情、その人のもっている雰囲気で、おもしろい回答を聞けそうか、応じてくれるか否か、薄っすら期待しつつ声をかける。
邪険に断わられることはないが、断り方も様々で、人によっては、しばらく立ち話しするほど打ちとけても、カメラとなると恥ずかしいと去ってしまったり、声をかけても目も合わさず去る人もいる。
人が捕まらないことが続くと気持ちに乳酸が溜まっていく。そうして精神が疲弊し、足取りが重いときに、なんとかひとりくらいと意気込んで声をかけても、人は捕まらないらしい。同じように振舞っているつもりでもやはりこちらが消耗した状態だと相手に届き辛くなる。
きっと微妙に表情や態度に焦りや疲労が出ているのだろう。
様々な人と対面しつつ、自分はどのような顔をして立ち振る舞い、何が露出しているのか、この張り付いた表面の把握できなさに、改めてこわさを感じる。
まずもって共通項のない他者にぶつかっていくのはやはり怖い。流れていく人を前に体がすくむ。昔から苦手分野だ。そういえば結構な歳になるまで人に道を聞けなかった。
何人かでやっているが、私はうまくないだろうなとも思う。
いい歳して情けないくらい臆病なところが、もうこれは子供の頃から少しも変わっていない。言ってしまえば最も苦手で、且つ避けてきたことをやっている。そういうことを懸命にやるべき機会が訪れていることがまことに不思議だ。神が与えたもうた試練ですかい?これは、という感じ。
インタビューの質問内容はもう何度も口にして、覚えているはずなのに、足を留めてくれた人にマイクを向けてやりとりしていると、質問が出てこなくなることがよくある。相手の答えがどうくるかわからないこと、間合い、あらかじめ予定されたものではないので、相手からもたらされるものの影響を受けて、ある程度構築しておいたインタビュアーの形式がほつれて、むしろ自分の生っぽが漏れるのを顕著に感じたり。インタビュアーとしてはだめなんだろうけど。あからさまに台詞が出てこないようなことがなくても、相手によって声の大きさもトーンもニュアンスも微妙に変化してしまう。均一さを念頭においたとしてもそうなる。
そんなことを日々やり、合間には仕事をしていた。外で動き回って言葉を多用する時間と、あまり喋らず、ほとんど動かない仕事の時間を行き来するのは、体を端から端まで走っているようだった。
日記を書こうと、移動の電車のなかで携帯に打っていたが、載せるところまでたどり着かない8月の日々がメモの中にぱらぱら残っている。これもそれらの中から拾って書きなおしたもの。
8月いっぱいまであと少し、この日々が続く。