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流出雑記 

2010/08/27

2010年08月27日 | Weblog
8月が終わろうとしている。

この夏は連日、道ゆく人をつかまえてインタビューをする、ということをやっていた。
ある舞台作品のなかで使われるものだが、とにかく量が必要で、200人以上を目標に、数人の撮影クルーで毎日同じ場所に通い詰め、ひたすら撮っていた。
見ず知らずの人間に、わかりやすいとは言えない企画の趣旨をごく短時間で説明し、一体どれ程応じてくれるものかと、撮影が始まる前は一日10人も撮れないんじゃないかと思っていた。しかし、いざ始まってみると、案外足を留めてくれる人はいるもので、10人を下回る日はなく、むしろ20人に届くほど、越える日さえあった。
もちろん声をかけても、急いでますと行ってしまう人が過半数の中。
歩き方、表情、その人のもっている雰囲気で、おもしろい回答を聞けそうか、応じてくれるか否か、薄っすら期待しつつ声をかける。
邪険に断わられることはないが、断り方も様々で、人によっては、しばらく立ち話しするほど打ちとけても、カメラとなると恥ずかしいと去ってしまったり、声をかけても目も合わさず去る人もいる。
人が捕まらないことが続くと気持ちに乳酸が溜まっていく。そうして精神が疲弊し、足取りが重いときに、なんとかひとりくらいと意気込んで声をかけても、人は捕まらないらしい。同じように振舞っているつもりでもやはりこちらが消耗した状態だと相手に届き辛くなる。
きっと微妙に表情や態度に焦りや疲労が出ているのだろう。
様々な人と対面しつつ、自分はどのような顔をして立ち振る舞い、何が露出しているのか、この張り付いた表面の把握できなさに、改めてこわさを感じる。
まずもって共通項のない他者にぶつかっていくのはやはり怖い。流れていく人を前に体がすくむ。昔から苦手分野だ。そういえば結構な歳になるまで人に道を聞けなかった。
何人かでやっているが、私はうまくないだろうなとも思う。
いい歳して情けないくらい臆病なところが、もうこれは子供の頃から少しも変わっていない。言ってしまえば最も苦手で、且つ避けてきたことをやっている。そういうことを懸命にやるべき機会が訪れていることがまことに不思議だ。神が与えたもうた試練ですかい?これは、という感じ。

インタビューの質問内容はもう何度も口にして、覚えているはずなのに、足を留めてくれた人にマイクを向けてやりとりしていると、質問が出てこなくなることがよくある。相手の答えがどうくるかわからないこと、間合い、あらかじめ予定されたものではないので、相手からもたらされるものの影響を受けて、ある程度構築しておいたインタビュアーの形式がほつれて、むしろ自分の生っぽが漏れるのを顕著に感じたり。インタビュアーとしてはだめなんだろうけど。あからさまに台詞が出てこないようなことがなくても、相手によって声の大きさもトーンもニュアンスも微妙に変化してしまう。均一さを念頭においたとしてもそうなる。

そんなことを日々やり、合間には仕事をしていた。外で動き回って言葉を多用する時間と、あまり喋らず、ほとんど動かない仕事の時間を行き来するのは、体を端から端まで走っているようだった。
日記を書こうと、移動の電車のなかで携帯に打っていたが、載せるところまでたどり着かない8月の日々がメモの中にぱらぱら残っている。これもそれらの中から拾って書きなおしたもの。
8月いっぱいまであと少し、この日々が続く。




ぬるい桃缶

2010年08月09日 | Weblog
こう毎日日差しが強いと何か干さないと損した気になる。
昨日履いた靴は次の日には履かず一日玄関先に干している。居間のうたた寝用布団、来客用布団、普段洗わないジーンズも裏返して洗う。色落ちを防ぐために本当は洗剤を使わないほうが良いそうだが、何となく水洗いだけでは頼りないのでエマールを少し入れた。

干しはしないが小豆も洗った。
迷子でうちに来て以来のお風呂。
猫シャンプーの係はいつも夫で、私は洗い上がったのを受け取り、タオルで拭いて乾かす係だが、今回初めて洗ってみた。小梅のときは風呂場からずっと小梅のヤーヤーーという声が聞こえ、かなり暴れる。小豆は逃げたそうにはしたが半分諦めていて、引っ掻いたりもせず洗わせてくれた。毛が濡れると小豆はダックスフンドみたいになった。猫用シャンプーはリンスインなので乾かすとふわふわになる。洗わなくても猫は温いよいにおいがするが、洗ってから数日はほのかにバラのにおいをさせている。近くに来るとついつい嗅いでしまう。何か嗅ぎ覚えのある、と思ったらエマールでウールを洗った時のにおいに似ていた。
洗われた小豆は怒ってその日は一緒に寝てくれないかなと思ったが、ベッドにのせると夫の腕枕で横になった。小梅はいつもベッドの足元の椅子の上で寝ている。
昨日の寝しなに夫と小学生の頃の変わった友達のことを話していた。その時は思い出さなかったが、今日仕事に向かう電車のなかで思い出した友達のこと。

小学校に入ってすぐの頃、5、6年生というのはとても大きくてずいぶん大人びて見えた。私に年上の兄弟がいなかったせいもあるかも知れない。
転校してきた小学校は各学年1クラスしかなかったので、学年が違ってもだいたいの生徒は把握出来たし、高学年の生徒は面倒見がよく、その中に私が転校生だというので気にかけてくれるお姉さんがいた。もう名前も顔もはっきりと思い出せないのだが、どういう流れだったのか、一度お姉さんの家に連れて行ってもらったことがあった。話しかけてくれたりするのは学校のなかのことで、放課後
に遊ぶ約束をしたりすることはそれまでに一度もなかった。
約束をしたのか、外でたまたま会ってそうなったのかはわからない。
ただなんとなくあまり行きたくない気持ちではあった。余程の仲良しでないと家に行くのは緊張するたちで、それも高学年のひとだからと躊躇したが、気が弱いのでおそらく誘われて断れなかったのだと思う。
季節は夏だった。夏休みだったのかも知れない。
お姉さんの家は私の家から歩いてすぐの市営住宅の2階だった。
ドアをあけるとお母さんが掃除機を掛けていたのをよく覚えている。お母さんはうれしそうにいらっしゃいと迎えてくれたが、人の家に行って掃除機を掛けているところに出くわすのは初めてだったので、まだ来てはいけなかったんじゃないかとますます緊張した。
玄関を上がって居間にでるまでの通路の棚の上に白黒の写真が一枚、黒いふちの写真立てに入れて飾られていた。軍隊の制服で帽子を被った男の人の写真だった。
うちのおじいちゃんに見せてもらった兵隊に行った頃の写真は、もっと茶色くなっていて何十年も前に撮られたものと一見してわかる写りだったが、その写真立ての白黒は古い感じがしなかった。だからとっさに私はその写真はこの家のお父さんで、亡くなったのだと思い込んだ。
家のなかの様子はよく覚えていないが、ベランダからは西日が入って部屋はまぶしいくらいカンと明るかった。居間の丸い机の前に座った。お姉さんには弟がいて、その子も座った。お姉さんは台所から小皿と小さいフォークと缶づめと缶切りを持ってきて座って缶詰を開け始めた。私はそのころまだ缶切りを使えなかったのですごいなと思いながら見ていた。
お姉さんは缶をあけて中身を小皿に取り分けて、中の汁も少し小皿に注いだ。
缶詰は桃缶だった。
私は桃缶の桃をそのまま食べたことがなかった。我が家はなんの変哲もない中流家庭だが、桃缶はフルーツポンチのなかに入れるもので、そのまま食べるというよりは「具」的なものだと思っていた。
桃はものすごく甘かった。甘さが強く記憶に残っているのはその桃缶が冷えていなかったからだ。子供だったのでその甘さを甘ったるいとは思わず、ただぬるいなと思いながら食べていた。
私の父は桃が好きで夏になると食後によく桃がでた。母は冷やした桃を丁寧に剥いてガラスの器に氷と一緒に盛って出していた。だから桃はいつもよく冷えているものだった。
お姉さんの家では桃はこうなのか、その日家にあったおやつは桃缶だったのか。
ただ子供ながらに暮らしぶりがあまり豊かでない印象はあった。
お父さんが亡くなってきっと大変なのだと、実際のところは聞くことも出来ないまま勝手に思い込んで、桃缶を食べたことを勝手に申し訳なく思った。
缶に残った汁は弟が飲んだ。
食べたあともあまり長居せず、何かしら理由をつけて家に帰ったと思う。

今思えばあの写真の白い制服は海上自衛隊のものだった。
それはお父さんだったのか、亡くなったのか、結局わからないまま今に至る。
お父さんがいないというのはきっと生活が大変だと小学生の私は思ったが、お父さんが自衛隊だったとして、また亡くなっていたとしても遺族年金が出るはずだし、実際暮らしが厳しかったのかどうか、そのあたりは全て私が繋ぎ合わせて思い込んだことだったかも知れない。

そのあとお姉さんの家に行くことはなかった。お姉さんは中学に上がってその後はもう会わなくなってしまった。



2010/08/04

2010年08月05日 | Weblog
9時前になると2階の寝室は暑くなって寝てられないので、自動的に目が覚める。ちょうどそのくらいに小豆も朝ごはんを所望する。

東京に行っていた夫は明日帰るはずだったが、予定がはやまり一日はやく帰てくることになった。その日の夜は友人Kが来て、3人の夕食となる。
茄子と玉ねぎを揚げ焼きしてだしに一晩漬けたものにトマトを混ぜた思いつき料理、最近好きな牛肉のショウガ煮、上手くなりたい酢の物、確実に旨いじゃがバター醤油。
食後、お土産に持って来てくれたghostのケーキをいただいた。見た目も美しく、個性的だけど均整のとれたハイレベルなデザートが普通の夕食を彩ってくれた。
彼女が最近旅行したインドの写真を見せてもらいながら、カレーのことなどを聞いているうちに終電の時刻が過ぎてしまった。彼女は我が家に一泊し、朝の恒例、ニャーニャー祭りを体験し、お勤めに間に合うように夫がバイクで送る。

小豆は獣医さんにも、正直なところ一時はもうダメかと思いましたと言われる状態から驚異的な快復をみせ、今まで薬を使うたびに下していたお腹も、突発的におこる痙攣もこのところはおさまって、何より、いくら食べてもガリガリだったのが急にしっかりした体になった。一段一段慎重に登っていた階段を駆け上がり、毛艶も良くなって、時々知らないうちに入れ替わったよく似た違う猫なのではと思うほど。
彼女は小豆のサビ柄をほめてくれた。ほめられたのは初めてだった。

来週から9月初旬まで休みという休みがない。会いたい人はまだ幾人かいるのに。

2010/08/03

2010年08月03日 | Weblog
よく眠った。一度8時頃に小豆に起こされて、2匹の朝ごはんを用意したあと、今日で薬がなくなるので小豆を病院に連れていかないと、と思いながらベッドに倒れて目覚めたら12時過ぎだった。それも小豆が起こしてくれた。
しかし診療時間も燃えるゴミの回収も過ぎたあと。逃した分取り返すように布団をベランダに干して日にあてて、シーツも洗う。
胡瓜とミョウガを刻んでだしにつけて置いたのを素麺にかけてキムチとネギ、食べるラー油をのせて冷麺風にして食べる。
夫は昨日から東京に行っている。今秋東京でやる演劇祭の記者発表に出るため。11月に去年やった『DRAMATHOROGY』の再演をさせてもらえることになった。
人前に出るし、少し早い誕生日プレゼントとして贈ったギャルソンのシャツを着て行った。
多少張り込んででも自分のかたちを支えてくれる力のある服が必要な時がある。戦闘服として。戦いは外だけでなく皮膚と布地のあいだでも起こっている。その摩擦が輪郭を浮かび上がらせるように。

今日の仕事は夕方からで日中家の細々したことを片付ける。気がつくと8月。のんきでいられるのは最初だけで、その先今年の夏は過密スケジュールに突入する。
仕事に出る前にほこほこになっている布団を入れて、2匹の晩ご飯をおいて出る。
出町柳まで自転車、京阪で東福寺へ。電車に乗ると10分程度で着いてしまう。よく寝たはずなのに、その10分でうたた寝して危なく乗り過ごすところだった。
6時ポーズ開始。
アトリエのすぐ脇に小川があり、草木も多いので蚊が多い。蚊取り線香がモデル台の下と休憩中に座っているソファの傍に置いてあるので、アトリエにいるあいだ全身に蚊取り線香を薫きしめられている。なのに蚊に刺される。餌食だ。
休憩の時にスイカを出してくださった。別の曜日に製作されている方の畑で出来たものらしい。そういえば今年最初のスイカだった。我が家の冷蔵庫は未だに単身者用の小さいもので野菜室がなく、かさ張る野菜などは買い辛い。それもあってなんとなく買わなかったが、久々に食べてみると、こんなにみずみずしいものだったか。焼け付きそうな炎天下でこんなに水を湛えたものができることが不思議に思える。
半玉あってその半分切ってくださった。私含め5人のメンバーでそのうちひとりは小さい頃スイカにあたって以来トラウマで食べられないと言われる。
いっぱいあるのでどんどん食べてくださいと言われるのを良いことに、2切れいただいた。

仕事を終えて帰る。明日の夕飯の仕込みをして風呂に入り小豆と寝る。