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流出雑記 

2016/6/28

2016年06月29日 | Weblog
曇り

曇りの方がいい写真が撮れる気がする。
いい動きや構図を持っているものが、毎日通る見飽きた道にも実は見つかる見ようとすれば。何にもないようなものが踊っている。踊っていないようなものがむしろ。そのように世界を見るときに私は踊らされる。




2016/6/21

2016年06月21日 | Weblog
午後は雨だと思っていたら降らなかった。おかげで洗濯物が乾いた。湿度が高い。

皆いわゆるまっとうな善人では全然ないんだけれど、言動にいやなところがなく、けど言うことがおもしろい。大人で、だけど一見あほみたいなことを全力でやり、どんな屑みたいなことからも何かを拾いあげてくる。一緒にいたいと思う人たち。それぞれ違う部分に独特の緩さがあって、ああ人びとはこういう隙に惹かれるんだなと思う。人格の熟することを思う。自分の青さに気付く。私には舞台芸術界の先輩方でもある。という3人と稽古する。具体的に教わることのできないようなスキルにならない技術が散らかっているような時間。

2016/6/19

2016年06月19日 | Weblog


朝から三ノ宮で仕事だったので5時台に起きないといけなかった。こわごわ眠り、目覚ましより5分はやく目覚めた。

朝からやっぱりまだ気分が曇っている。体調ではなくて。
人の死に際してその訃報が内々の段階で、直接的にそのことを言っているのでなくても、内情をある程度把握している者にとって察しのつくようなことをSNSに投稿するふるまいに対していい気分がしない。如何に個人的な恩や思いがあったとしても。こういうことを先んじてする人にどうしても共感できない。
情報が漏れだしたとたんその真偽を知ろうとする人は検索するだろう。けれど公にされていない段階では正確なことは出てこない。仄めかされたものだけが宙に浮き、検索させる。口走るべきではない。なぜ待つことが出来ないのか。

2016/6/18

2016年06月19日 | Weblog
晴れ

どこの家もここぞと洗濯物を干している。朝から半分以上残ってたカフェオレを机とカーペットにこぼす。おかげでホットカーペットを片付ける気力がわいた。
仕事に行って帰り西日のなか白川丸太町から下鴨のビデオ屋に返却に行って帰ると小一時間のサイクリングだった。途中写真を撮ったりしていたせいもある。

訃報を聞いたとき、しばらくは黙していたいと思う。少なくとも情報として知ったことを受け取って言葉が熟すまでは。今は故人と最も苦楽を共にした人たちの静けさを聴き取り、黙された時間に渡すべきだ。然るべき人によってそれが公にされるまでは。私は訃報に対して情弱でいることを選ぶ。弔いを自身のふるまいに転化させたくない。

2016/6/17

2016年06月18日 | Weblog
午前中曇り午後晴れたと思って、用事のあった郵便局と図書館とビデオ屋に行く。
図書館でぱらぱらめくった本に出てきた安西冬衛という詩人の「再び誕生日」という詩がよかった。図書館を出ると雲行きが怪しく道半ばで雨にあう。ビデオ屋にはたどり着けないと思い、バス停で雨宿りをした。通り雨で空は明るかったが雨足は強い。小降りになったの見計らいそのまま帰ったけど濡れた。
帰ったらお腹が空いてまだ5時過ぎだったがもう晩ご飯にした。

書かなきゃいけないものは書いては寝かせ、つまり一度視界と意識から離しまた書く。絵も同じ方法で描く。思ったより時間が過ぎてしまい見ようと思っていた映画が見れなかった。

2016/6/16

2016年06月17日 | Weblog
1日雨

だいたい絵を描いていた。
ヤン ティルセンを久々に聞いたらやっぱりよかった。高校生の頃アメリを見て、映画のことはほとんど覚えていないけれど、音楽がよかったのでサントラを買った。その音楽がヤン ティルセンだった。シンフォニックさとアコーディオンとかトイピアノが混ざる。

夜 ジャジャンクーの四川のうたを見た。
大規模国営工事が衰退して売られるそのまさに過渡期の風景とそこに生きる人々を撮っている。実際の老いた工員の表情、その子供、解体される工場。語るのは俳優で登場人物は虚実入り乱れているけれど、映画は中国の移り変わりをそこで生きて暮らした人々の、映画のために作られたのではない顔と、俳優との作業によって作られた時間のあわいにより鮮明に映し出されている。
何かが終わっていくところが好きだと思った。

2016/6/15

2016年06月15日 | Weblog
晴れ

遅ればせながらジュードジオブスキュアが活気づいてきた。ブルドゥパルファムも蕾が見えた。
ディクロアもよく咲いている。

授業で豊橋。いまだに新幹線はうれしい。

早く行って学内の写真を撮る。広い敷地を歩いているとちょっとどうしたのという感じの黒松の大木があったり、校舎と校舎のあいだのゆったりした感じ、野球部の部室近くは散らかっていておもしろい。

授業は良いかんじに終わる。

2016/6/12

2016年06月12日 | Weblog
曇り 夕方から雨らしい

去年買ってきたディクロアが咲き始めた。あじさいの一種。

昨夜ヴィヴィアン マイヤーのドキュメンタリー映画を見た。ヴィヴィアン マイヤーという名の乳母をしていた女性の死後に偶然発見された大量のネガとフィルム。その写真のよさに気付き魅せられた若い男性が、無名の写真家の人生をたどる。
記憶や記録にある種の執着があった女性で、写真以外にも大量の新聞やレシート、細々したものまで捨てずに持っているから、大量の荷物がある。住込みで乳母をしながら転々と暮らし、そのときも自室には誰も入れたがらず頑丈な鍵を付け、窓から隣人に覗かれていると言うこともあった。
生い立ちも複雑で、生涯独身。詳細なことは不明だが男性に触れられることを極度に嫌がった。乳母としては子供を可愛がった。子供からも慕われていたが、時には子供に対する虐待と言えなくもない行為に及ぶこともあったと実際に世話をされていた人が証言する。常にカメラを首から提げている変わり者であると縁のあった人びとは言う。
ただこの人が人物を撮った写真はとてもいい。
証言や写真、本人のポートレートを見ながら、人の姿を撮り続けたこと、撮影行為及びものを捨てない溜め込み魔であったいうことについて考えていた。何かこの人からは人間に内在する表現欲求における生成りのものを感じる。手段が写真であり、彼女の体を通じて表出されるものが現実を通過するために特にあらわになっているものがある。例えばティッシーの隠し撮り写真やヘンリー ダーガーの少女たちの絵のようなフェティシズムによるものとは異なった、生きているものへのまなざしのなかに問いと答えが同時にある。毛皮を着たマダムも、路上生活者の汚れた顔も、子供から老人まで、そして自分の姿。
ヴィヴィアンは人と接することに不器用だったと乳母をしていた家々の人は証言する。
街で突然人にレンズを向けてシャッターを切るということは、了解のない相手の姿を写し取る暴力性を伴う。人を撮ることには相応の勇気が必要で、シャッターを押す本人はそのことを引き受け、現実に交差した予期せぬ遭遇に自らひとつの裂け目となる。写真家の目はそのような開口部として世界に開かれている。一般的な意味での対人が不器用であったというヴィヴィアンにとって、写真を撮ることはもっとも自分らしく誠実な方法で他者と関わる瞬間だったのではないか。病的な内向性を持っている場合でも生き物として生きてあることは体を、つまり私と外界を知覚するこの形を伴っている。
自他を峻別しを知覚する形状を予め与えられている私たちは、それが機能する瞬間に生きている理由を、~になる、とか~をする、ためにというのではない意義をその機能のするさなかに感じることができる。その一点への絶対的な信頼と孤独がこの人の写真にはあるように思う。
そうして生の痕跡が残ってゆくこと。天涯孤独であったヴィヴィアンは、居場所や自分のたどった軌跡や生きたことの蓄積を実感として欲していた部分もあるのだろう。ものを捨てられないとはそういう不安に端を発するものと思われる。

鑑賞者として多様なものの見方を身に付けることは出来るし、学ばれたものに感嘆することも、知的な読み解きにおもしろさを感じることもあるけれど、何より作品を介して表現の生粋に触れたとき喜びを感じ共鳴するものがある。作家と世界とのぎりぎりの接点に像を結ぶものに。

2016/6/10

2016年06月11日 | Weblog
夏日

朝から仕事で宇治。行く途中駅までの自転車で、あるスーパーの裏を通ったら、スーパーの建物の向かいにある商品を一時置く場所兼倉庫みたいな、色とりどりのケースが山積みで裏口から店内に野菜などを運び入れているところの、コンクリートの敷地内の空いているスペースで、移動式のステンレスの台を囲んだ東南アジア系の女性と、何かの障害があるんだろう男性と、おばさんが3人で包丁を持ち玉ねぎを処理していた。それが今日1日でいちばん覚えているシーン。

2016/6/9

2016年06月10日 | Weblog
晴れていたが昼過ぎ雨が急に降りまた晴れ

梅雨どきは特に晴れ間さえあれば洗濯をしたいので、天気予報に意識的になる。
洗濯機が洗ったりすすいだり、働く音を聞いていて、全部手洗いだった時代があったのかとシリアルを食べながら月に何度か届く市民新聞や軽く読める本を読む。

誰だったか詩人が、書きたいものを書ける訳ではなく、書けるものしか書けない。けれど読むものを選ぶ自由がある。というようなことを書いていて、確かにそうだと思った。読んだものが即自分の語彙になるわけではないけれど、言葉の選択やひとつの事柄を言うのにどれくらいの言葉を費やすか、スピード感や密度、語り口、そういうものの集積が自分の文体を構成していく。
というのは確かだと思う。
最近写真を撮っているけれど、それと同様なことが写真にもある。何に目を向けるか、視線の方向と切り取り方の多様さは人の目から教わった。昨夜、東松照明やアラーキーの写真集を改めて眺めていて、私は特にアラーキーの撮る都市や街がとても好きだと思った。いろんなものを撮る人だし、くどくてあんまり見ていられないものもあるけれど、アラーキーに撮られた都市や街の澄んでいること。そこにある音や声やにおいから切り離された、ただただ写真である像の持つ力がある。写っているもののおもしろさに加担したり助長するようにシャッターを切っているのではなくて、あるものをあるがままに撮っているのに、写真でしかできないことをやるのはこういうことだと思わせられる説得力がある。何というか、撮り手の作為が写り込んでいない。もちろんアングルから何から選び抜かれ、またその選び抜いたことさえも検証されているはずで、撮るという作為以外の何物でもないはずなのに。