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流出雑記 

2014/8/30

2014年08月30日 | Weblog

8月終わりつつある。朝から天気がよかったのではりきって洗濯物を干し、押入れの湿気を払おうと開け放って中に置いていた藤のカゴも干し、玄関の靴も陽にあてて、とやっていたら昼前に急に曇ってすべて急いで撤収。それから2時頃までけっこう降った。雨の多い夏だった。記憶にあるなかでは一番。

昨夜夫は「ほんとに普通のカレールーの箱に書いてあるとおりのカレーを作りたい」とじゃがいもやにんじんを買いに行って作った。夫がスライスする玉ねぎは厚さ1センチくらいなので、存在感のある玉ねぎが浮いているようすを見ていると小学校の遠足とかでキャンプ場で作るカレーを思い出した。ああいうときに作るカレーはだいたいしゃばしゃばだった。ちゃんと水の量をはかったりしないからか。そして飯ごうで炊いたごはんはだいたい硬かった。焦げのにおいの硬い米としゃばしゃばのカレー。

夫作のカレーは紛れもないカレーだった。今日の昼はその2日目で、じゃがいもはほぼ溶け去って昨夜は存在感のあった玉ねぎも溶けつつあった。

午後稽古。『森【mori】』というタイトルの30分程の作品。

帰る途中で公共料金、家賃支払い。

夕飯作り置きのかぼちゃと豚肉とししとうの焼き浸し。薄切りの豚肉でも片栗粉をまぶして多めの油で焼くと少しボリュームが出る。かぼちゃはお盆に福井に帰省する途中で寄ったマキノの道の駅で買ったものだったけれど、ラグビーボール型でオレンジ色をしている。たぶんロロンという品種の交雑種だと思う。見たことがないかぼちゃは買ってみることにしている。皮はそんなに硬くないので包丁を入れる苦労はなかったけれど、味は全然甘みがなく粘質。もしかするともう少し置いておいた方が良かったのかも知れない。かぼちゃは収穫後、糖化を待つ熟成期間が必要らしい。

3本入りのにんじんを買うとよく作る、ピーラーで1本分ひらひらにして浸かるくらいの湯で再沸騰するまで茹で、ザルにあげたら熱いうちに酢、粗熱がとれたらごま油、砂糖、醤油、胡麻で和えたもの。いただきものの胡麻豆腐。おくらとしめじ、残っていたキムチ、たまごスープ。初めて炊いた塩昆布、私は気に入っているけれど、もっと醤油辛い方がいいらしい。祖母のはそうだ。

シマシマという漫画を借りて読んでいる。働く女性、アロマ、不眠、美男子、添い寝屋の話し。ヒーリングと愛。


2014/8/25

2014年08月25日 | Weblog

2月頃から続いていたマイグラノーラブームがようやく終わりを迎えたもよう。いろいろ食べ比べた。しかし常食するにはやや高いので、最終的には好みのものを自作するに至り、大量買いしたオートミールがまだ半分くらいあるけれど保存が効くし、オートミールとして食べるなら秋冬の朝食に向くに違いない。でグラノーラの次はトーストブームが来ている。

同じものを食べ続けてしまう癖がある。一人暮らしのときには抑止力がなかったので、それを続けて痩せ細ったりしていたけれど、一緒に食べる人に食事を作るようになってからは、毎日同じというわけにもいかないので、手を替え品を替え献立を考えるようになった。食べる人がいればこそ下処理のいる肉のかたまりを料理する気概も起こる。そういうことを思ってみれば、人生に幅を持たせること、多様なもののさまやそれに準じる動作なりを知るにはノイズが必要なことが分かる。自分ひとりだとノイズが入り込む余地がなかなかない。というか積極的に切る方向に走りがちで、ノイズを取り込むのが下手な質というのもあるのかも知れない。
そんなふうに思うところがあるので、東浩紀氏の『弱いつながり』を読んで旅に出るススメとノイズを取り込むこと、検索ワードを探すというのはおもしろかったし、頷けるところがあった。

アウシュビッツのことが書かれていて、大学生の頃にワルシャワ学生演劇祭の招待で『小町風伝』の上演でポーランドに行く機会があって、そのときにアウシュビッツを訪れたことを思い出した。
収容棟は博物館のようになっていて、中に大量の靴など遺品の山や写真が展示されていた。中にはミュージアムショップ的なものもあり、ポスターなどのグッズも販売している。観光地化している想像をしていなかったからだ。ツアーで来ているらしき団体も見かけた。サンドイッチなんかも売っている。

その前日の夕方、果物を売っている露天で生のラズベリーを見つけて日本では見ないのでもの珍しさに買った。小春日和の陽気の下、一日路上で売られていたラズベリーはどうやら中に痛んだものがあったようで、食べながらどことなく不安な気配はあったのだけれど、案の定夜になってお腹を壊し、朝食は食べられなかった。
アウシュビッツに着いたのは昼で、そういう事情で何も食べていないのを知って気遣ってくれた恩師が、中のショップで売っていたサンドイッチをふたつ買ってくれた。ハムとチーズが挟まっていた気がする。最初こんな場所でものを買って食べる人もいるのかと思っていたけれど思わず自分が食べることになった。でも手渡されたら、お腹が空いている気がしてきて、その場でふたつとも胃に収めた。
遺品の圧倒的な物量や焼却施設、ガス室には確かにそこで行われたことのどうしようもない名残り、拭い去れない嫌な感じのこびりつきが空気に漂っているのを感じ去るを得なかった。
季節的には春だったので、地面は若い緑に覆われて、日本では見ないきつねの顔に似たかたちの黄色い小さな花が咲いたりしていた。順路を外れると原っぱが広がって誰もいない場所に出た。アウシュビッツにはそこで起こった悲劇の蓄積だけでなく、何事もなかったかのような長閑さや広大な土地に吹き抜けるいい風もあった。
ここに根を張る草花は、かつてのこの地面に同じように咲いていたことがあったのだろうかと、この同じ地面踏んだ足の行方を思ったとき、妙にリアルな恐怖が迫ってひとりでいるのが怖くなり、人のいるところに走って戻った。
こういうことは現地に行かなければ感じることのなかったもので、その体感は確かに忘れ難いものになっている。
でも『弱いつながり』を読んでいて引っかかった部分もあった。 痕跡について書かれたところで、例えに出されていた虐待されていると訴える子供がいたとして、その子がきれいな服を着て傷一つなかったら、虚言ではないかと思ってしまうけれど、その子がボロボロの服を着て、アザだらけなら、これはなんとかしなければと信じてしまう。というような動かぬ証拠としての痕跡のこと。言葉で証言されることの信憑性に限界があるということ。
痕跡を目にすること、視覚の絶対的優位性はあるとしても、見ることの出来ないものをいかに信じるか、イメージするかという問題がある。この手のつけようのなさをどうすればいいか。


あることを信じるか信じないかによって世界の様相はかわる。そのことを思うときネオアトラスというゲームを思い出す。航路をひらいて世界地図を作りながら貿易をするゲームで、途中、ある土地に関する噂というのが出てくる。あの大陸にはナントカという奇妙な石碑があるらしい、調査団を派遣するor信じない のどちらかを選択する。調査した場合、それが発見されれば、地図にあらわれ、信じなければ消えてしまう。そこには何もなかったことになる。その消えることがなんだか怖かった。


見えないものを信じることはリスキーに思えるところがある。同時にそれくらい私は見えること対する信頼があり、疑っていないことに気付く。


先日、京都造形大のスタジオ21で『パブリックアドレス』という作品の上演があった。この作品は、舞台上に俳優が出てくるのではなくて、配置されたスピーカーから録音された音声が流れるという方法で上演される。まず音響作家でこの作品の録音/構成をしている荒木優光氏がスピーカーを舞台上に設置し、六畳くらいの部屋と思われるアウトラインを角材を置いてざっくりあらわす。その部屋の中に箱馬に乗せた人の顔くらいの大きさのスピーカーが二台置かれ、そこから荒木氏がインタビューする会話が流れてくる。
インタビューされる横田さんは27歳のA型で長崎出身の京都在住で生まれつき全盲の男性だった。インタビューは横田さんの一人暮らしのアパートの部屋に訪れるところからはじまる。僕の文化では電気を付けないんですよといいながら、電灯の付くパチという音がする。横田さんは気さくで話し上手で生まれつき全盲であるということの興味と共に聴き手を引き込む。音声だけでもちろん本人の姿はそこにない。
話しの中で横田さんはトカゲがどういうものか知らないけど、恐竜に近い感じなんじゃないかと言った。そのときイメージをつなぎとめる言葉と記憶のあり方が私とはまったく違う様相をしていることに気付かされた。けれどそのように縁取られた横田さんの世界はリアル以外の何ものでもない。 自分目で確かめられないものは信じない、証拠がなければ信じない、ということはどうしても視覚を中心に据えたものの捉え方になる。それが何かずっとひっかかっている。

2014/8/19

2014年08月21日 | Weblog
一乗寺のラーメン通りを少し入ったところにそば鶴というそば屋がある。お昼にそばを食べに行ったとき、旬の魚や野菜を使った夜の創作一品料理のお品書きがとても充実していて気になっていた。それで、夫の誕生日のお祝いにふたりで出掛けた。
日曜でお客は入れ替わり立ち替わり、でもだいたい席は埋まっている。
そばももちろんあるけれど、煮物、焼き物、油物、タコのカルパッチョサラダとか、自家製プリンまである。カルパッチョにはタコが惜しみなく乗っている。夏野菜の冷製煮物はゼリー寄せで茄子や冬瓜、マイクロトマトが青い切子の器に入っている。散らしてあるピンクペッパーの意外なアクセント。キスの天ぷら、煮あなごと茄子の蒸し物、スズキの塩焼、どれもおいしく、そば味噌というそばの実入りの甘い味噌を舐めながら日本酒を飲んでほろ酔って最後にざるというシメは素晴らしかった。今回甘いのはプリンじゃなく白玉小豆というのにした。温かい白玉に自家製小豆、そばの実がかかっている。
あとこのお店は接客がとても気持ちいい。皿を下げたり水をついだりするちょっとした動作のタイミング、言う前に察してくれる目配りがゆき届いている。

誕生日をそば屋で祝うことが選択肢に入る年齢になった。
32歳になった夫はシャープな眼鏡を手に入れた。この調子で素敵なおっさんになってもらいたい。




2014/8/18

2014年08月19日 | Weblog

お盆明け最初の仕事が朝からでプレッシャーだったけれどさすがにちゃんと目は覚める。岡崎にあるアトリエまで自転車で約20分。朝の御守りモーニングショットを買う。今日から6日間固定の立ちポーズ。休憩中「さいごの色街、飛田」を読む。
午後からもう1件。良い天気で、午前中の仕事を終えて正午過ぎに自転車で移動するときの暑さは、久々の日光とここ数日の車移動で油断している体に堪えた。
出町柳に自転車を止めて、京阪、東福寺で乗り換えてJRで京都に一度出てそこから一駅。短距離の乗り換えが多い。2件目に行く道は徒歩10分日陰なし。体内から温度を下げようと駅前のセブンイレブンであんまり買ったことのないガリガリくんを買う。グレープフルーツ味に惹かれたため。溶けてくるのと戦いながらかじりながら歩く。2件目は彫刻で頭像を作られているので主に顔を見られているけれど、疲れた顔をしていたに違いない。本日2本目の缶コーヒー。ここの仕事は本当は次回が最終回だったけれど、引き続き20日間ほど通うことになった。

仕事を終えて出町柳に戻り自転車。夕飯の買い物にスーパーに寄ったら茄子もきゅうりもオクラもお盆休みに入る前の倍以上の値段になっていた。帰り道には数件のスーパーがあるけれど、3件寄ってみたらどこもそんな感じだった。ししとうだけは安かった。お盆の豪雨のせいだろうか。


2014/8/14~15

2014年08月18日 | Weblog

14日 奈良の天理で仕事。仕事が午前中で終わった夫に宇治の実家に車を取りに行ってもらう。このお盆休みはどうも天気が悪そうで、毎年留守中の水やりをお隣さんにお願いするけれど、今年は頼まなかった。今夜猫たちを実家に預けて明日福井に帰る。冷蔵庫に残ったソーセージと玉ねぎと塩レモンで豆乳クリームパスタ、青みは冷凍してあったモロッコインゲン。自分たちの荷物は用意して、猫バッグをスタンバイしていたら、猫バッグ大嫌いな小麦に勘付かれて、縁の下に潜られる。ここに入ってしまうと自分から出てきてくれるまではどうしようもない。おびき寄せ作戦で呼んでみたがうんともすんとも言わない。こういうときだいたいこっちから働きかけると猫は来ない。なんにもしませんよという雰囲気を作ることが大切なのでお茶をいれてテレビをつけて1時間くらいしたらふと出てきた。もう裏からは出られないように鍵を閉め、それほど嫌がらない小梅を先に捕獲し、それから小麦。爪も昨日のうちに切っておいた。バッグには難なく入れられたけれど、車の中はやっぱりにゃーにゃー祭りだったし、おしっこももらしていた。いつもそうなのでバッグの中にはペットシーツが敷いてある。実家に着くと、来ている回数の多い小梅は早速お気に入りの冷蔵庫の上に飛び乗り、小麦は押入れに隠れた。そのまま数時間籠るかなと思っていたけれど、小麦も2年目の実家に慣れてきたのかわりとすぐに出てきて母の横でごろんごろんしていた。日付が15日になった。夫の誕生日なので3人でビールで乾杯した。

15日 いつもはサンダーバードで帰るけれど、今年は実家の車を借りて夫の運転で福井に帰る。
CDをたくさん積んで高速には乗らず下道で、鯖街道を走る。途中コンビニでコーヒーを買い、道の駅で珍しいかぼちゃと色んな色のプチトマト、マーブルの茄子を買ったり、巻き鯖寿司、ジェラートを食べたりする。天気は降ったりやんだりだったが日射しが強くないことは有難かった。京都ー滋賀ー福井、朝の8時に出て1時前に福井に着く。お昼はスーパーのお惣菜コーナーにあるパーティー用の揚げ物オードブルセット的なのとお寿司が並んでお盆らしい食卓になっていた。食べ終わって食器を運んだら休んでていいよと義母が言ってくれるのに甘えて仏間で横たわった。早起きで5時間運転した夫もソファーに沈没していた。夜は行き慣れたお寿司屋さんの座敷。おまかせでその日の美味しい魚のお造りや焼き物、握り。イカはぬめっとした食感があまり好きではないけれど、鮮度がいいイカはさくっとしていて美味しいものだった。帰宅して夜、進撃の巨人を読み始めてしまったら止められなくなって11巻が見当たらず仕方なくようやく寝ることが出来たのは朝の5時だった。起きたのは10時半だった。

 

 


2014/8/7

2014年08月08日 | Weblog

台風が近づいている影響で、天気予報にはくもりと傘マークが並んでいるけど、当日になってみると案外晴れているような日が続いている。

午後写真の仕事で大阪。天満橋のスタバで待ち合わせだった。キャラメルフラペチーノ。高校生の頃、京都に初めて出来たスタバに友達と行ってみてキャラメルフラペチーノを飲んでコーヒーってこんなに美味しかったのかと思った。それまでコーヒーという飲み物に興味がなかったし、ブラックのよさはもちろんわからず、カフェオレにしても自発的に飲むことはほぼなかった。眠気覚ましにカフェインを必要とも思わなかった。大学生になって一人暮らしを始めてからようやく、家で美味しいコーヒーを淹れるようなたしなみに憧れて、お湯の温度にこだわったり豆を挽いてみたりするようになったけれど、私のコーヒー史の入り口はやっぱりスタバで、もはやコーヒーと言っていいのかわからない甘いキャラメルフラペチーノだったということになる。
今はふだんあまりスタバに来ないしキャラメルフラペチーノも数年飲んだ記憶がない。予想通りにもうちょっと薄めてほしいくらい甘い。

スタジオへ行く。スタジオは白い角のない空間になっていて、立つと外より暑いくらいの照明に斜め頭上から照らされる。白い空間は奥行きの感覚が狂わされる。なんだかわからないSF感があり、キューブリックなどが自然と頭に浮かんでくる。ホワイトバックとブラックボックスの非日常性の違いについて思う。どちらもある場所から背景を消して人を見つめる場所だけれど「何もない」という感覚が全然違っている。まずフィクションが成立する場所が印画紙上か上演時間かという大きな違いがあるけれど、ホワイトバックの方は塩素漂白的に人を浮かび上がらせる。人の持っているにおいというかアクのようなものを抜き去って平らにする強制力があるように思った。人のとても理性的な面に作用する。ブラックボックスはどうか。短絡的かも知れないけれど、私はまず夜だと思っている。夜から引き出される人の印象、理性以外ものも体にはうごめいていて、そういうもののあること、そういうものにも大いに動かされていることを知るための下地は黒の方が適切だと思う。あまりにまわりが明るいと人はその見えすぎている状態に対しての構えを作ってしまう。暗いところからしか見えない人の姿があるのではないか。

今回の仕事で出会ったある人が、京都は狭いねということで片付かないくらい私にとってのいくつかの奇遇に絡んでいた。たとえ知りたくても独力ではどう考えても知る由のなかったことを思わぬところで二つくらいもたらされた。彼は何の使者か。

 


2014/7/31

2014年08月02日 | Weblog

晴れ 7月最後。

暑いので昼はそうめん。夜は仕事なのでタイカレーを作り置き、家を出るまでの時間に絵を描く。

バイクのストッパーが折れたとかで修理に出していた。5000円以内だろうと見込んでいた修理代がタイヤの交換もして25000円だった。

夫が誕生日にほしいと言ったものの値段が出せる範囲の倍だった。通帳残高はなんだかんだで毎月ぎりぎりになっているのだが。私だって欲しいものなんて値段を考えなかったらきりがない。それでも誕生日の月などはささやかに欲しいものを買うことくらいはしたいし、おいしいものを食べに行ったりもしたい。探して見つけて可能な範囲でお金を使う。さすがにそれくらいの余力くらいはあるけれど、出来るだけ節制し、映画や観劇の費用は確保し、付き合いでどうしても必要な飲み代は捻出し、と努めていることがむなしくなる。


2014/7/30

2014年08月02日 | Weblog

晴れ 実家で目覚める。

ぴよは夜12時からしばらくなかなか寝てくれなかった。母乳より粉ミルクの方が腹持ちがいいそうで、夜しっかり寝てもらうために妹と母は夜だけ粉ミルクにする作戦を立てていた。効果があったのかどうかわからなかったけれど、1時過ぎに寝付いてからは泣き声で起こされることもなかった。

朝、母は仕事に行く前にホットドッグを作ると言ってキャベツを切っている。母のホットドッグはカレー味で炒めたキャベツにソーセージが縦に2本並び、ケチャップがちょっとかかっている。昔からずっとそうで、母が小さかった頃に移動販売で売っていたホットドッグがこれだったらしい。

家を出るまでに時間があったので、冷蔵庫にあるものでおかずを作っておく。母が野菜室からこれもらったけどどうやって食べるのかわからんとモロッコインゲンを取り出した。
私も最近まで知らなかったけれど、形状は違っても普通のインゲンと一緒で湯がいて切って胡麻和えなどにしたらいいだけだった。食べたことないと鞘を食べるのか剥くのかわからない感じがする。
冷凍庫にみつせ鶏胡椒焼きという下味のついた鶏があったので、焼いて、玉ねぎとジャガイモとプチトマトを加えてコンソメで煮る。味噌汁には半端に残った豚肉と油あげ、しめじを入れて豚汁のようにした。

午後からよく仕事をさせてもらっている画家の展覧会を見に大阪の百貨店の美術画廊へ。画室で途中までは見ていた数点の絵が仕上がって額に入り掛かっていた。

昨年出た舞台を見に来てくださり、それをもとに描かれた絵があって、画面には水滴が降ってくるのが描かれている。公演を見て印象的だった水の音からイメージしたと伺った。

以前の仕事で着て行った服をそのまま絵のなかの衣装として採用された服の柄が、別の絵の背景の装飾になっていたりする。私の面影のある人物たち。画家は絵を仕上げる段階ではモデルを見ないで画室に籠る。画家のイメージを介して生きたものの痕跡が画面にあらわされているのを見るのは私にとって大きな喜びで、この仕事をあとどれくらい続けられるかわからないけれど、これほど私から汲み取れるものを反映させてくださる画家にはもう出会えないと思う。

横顔の肖像がある。その絵は私が年老いた数十年後にも見に行けるところに収蔵されると仰っていた。