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流出雑記 

困惑有機野菜

2008年09月18日 | Weblog
4時半就寝11時起床
最近妙に眠気を引きずる。
ダーリンは仕事で大学で作業するそうで起きてまもなく大学へ行った。


iPodにナンバーガールの全アルバム入れる。
先日見た塩田明彦監督の「害虫」にナンバーガールの曲が使われていて、それがとてもよかったので聞きたくなった。

平日の昼間の空、学校に行かない女子中学生、さらさらの髪、制服、足が最もきれいに見えない長さの白い靴下、廃墟、高い所、河川敷、親、ともだち、恋ではないもの、無垢の悪、隠し事、疾走、失踪、 ラストシーンに流れる「I don't know」はそういうものの破片がクラッシュしながら音楽になっているようだった。

同じ監督の「カナリア」という映画も見たが、こっちの方が印象には残っている。

私のパソコンはCDを読み込むのに時間がかかる。
その間に晩ご飯を作っておく。
今晩は香水の学校関係の食事会で大阪へ行く予定。

今季初の里芋。
小さい頃は土の味がすると言って嫌ったが、今はあのねっとりした食感が大好きだ。
土を落とし皮を剥いていく。お店ででるようなきれいな六角形を目指したがそうはなかなか。
鶏の皮を取って、切って強めの火でまず焼きめを付け、里芋を入れ煮る。
皮は細かく切ってフライパンで焼く。するとものすごい油が出て、皮自体はカリカリになる。
皮はサラダ等のトッピングに使う、残った油にごま油を少し足して熱し茄子を甘辛く炒める。
無駄が無い作業は気持ちよい。

夕方、大阪へ。
家族のように共同生活をしながら、自給自足、有機野菜の栽培と販売をしている人たちの野菜を使った料理と、生産者の方々のミニライブ というイベントが、香水の学校の先生のご友人がオーナーのオーガニックレストランで行われる。

数十人で静岡から来ているナチュラリストの面々。女性はアジア風チュニックにジーンズ、男性もアジア柄のシャツにバンダナといった風貌。キーボードとジャンベ、ギターなどの楽器で歌う。
歌はその団体のオリジナルソングで、歌詞の内容はどの曲もだいたい、地球、緑、太陽、恵み、光、繋がり、感謝、出会えて良かった…といったもの。

途中で代表の男性の話しがあった。
要約すると、今この星では食物連鎖の流れを人間が乱し、人間ばかりが癌細胞のようにはびこっている。
なぜ自然の摂理の中で生きられないのか、それは人間ひとりひとりがエゴを持っているせいである。
周りのとの調和を保てないような願いはエゴである。
そういった自分を捨て、自分以外のものの為に、すべての調和のなかに生きる事。
土を耕し光を受け、この地上ですべてのものが繋がっている事を感じながら生きる事。
それが人間の本来の生き方である。  といったようなこと。

一種の宗教のようにも見える。
それを信じている人たちはそうやって生き生きと生きているという目をしていた。
疑いなくその教えの中で平均化された毒のないような人々は端から見ると奇妙に見える。
言っている事は正しいのだろうが、全然良いと思えない。
最後には全員で手をつないで輪になろうとする人たちだ。
出席者はその団体の関係者が多かったが、香水の学校から来た先生と数十名、さらにオーナーもいささか困惑気味であった。

野菜の料理はおいしかったけど。



9月12日

2008年09月12日 | Weblog
2時就寝6時半起床。

10時から奈良の生駒で仕事なので早起き。
地下鉄から近鉄に乗り換え、片道2時間近くかかる。
南生駒という駅で降りる。何度か来ているが、駅前にコンビニなどないような所。
新しくパン屋が一軒出来ていた。

近くを流れる竜田川。
確かこの川の風景を詠んだ歌が百人一首にあった。

からくれないにみずくくるとは

という部分しか思い出せないのだが、これは竜田川の風景を詠んだものだという自信がなぜかある。
川に紅葉がたくさん流れていて赤色に染まっている絵を小学生の頃「マンガ百人一首」で見たのだ。

後で調べてみると、こんな歌だった。

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
唐紅に 水くくるとは
[在原業平朝臣]

業平は男前の人だったと思う。


仕事は2時間、普段着、4ポーズ
あっという間に終わる。

1時半からもう一件、奈良の生涯学習センターで仕事。
新しく出来たパン屋に入ってみた。アンパンマンのテーマが流れている。アレルギーの子供向けのパンなどやさしい品揃え。
発芽米入り米粉アンパン というのを買って電車を待つ間に食べた。もちっとしておいしい。
南生駒からJR奈良まで30分くらい。
奈良の地理はよくわからない。なんとなく乗った電車は逆方向で焦ったが時間に少し余裕があったので無事間に合う。

3時間固定6ポーズ

さっき南生駒で描かれていた方がひとりみえていた。
よくお会いしますねえと笑う。

日焼けの肌色の差をかなりしっかり描いている方があった。
めずらしい。

仕事終え京都に戻り、買い物して帰宅。
晩ご飯は昨日のシチュー。それと豚肉とらっきょうを炒めてケチャップ等で味付けしたら酢豚味になった。

ドッペルゲンガー牛乳

2008年09月11日 | Weblog
4時就寝10時起床。

洗濯。
読書。
最近本を読む日々で、足繁く大学の図書館に通っている。こんな素敵な施設が近所にあって良かった。
哲学と思想の本棚の前を行き来して興味のある思想家の本を漁る。
今は脊椎を支える言葉を集めている。 

12時半ダーリン起床。
もらったそうめんがまだまだある。
今年の夏なぜか思ったよりそうめんを食べなかった。

薬味がなかったのでそうめんチャンプルにする。
麺が少々ごねっとした仕上がりになってしまった。

片付けて、よく仕事に行くデッサン会に描きに来られている方の個展を見に自転車で三条の方へ。
日傘装着チャリだが、斜めから入ってくる日差しで頬骨がじりじりする、

会場に着く。
100号の油絵と3つと小さい作品が数点。
仏教色が強いが、どの絵にも同じ顔の女がどこかしらに描かれていて、一様にあまり表情はなく正面を向き、人と神仏の間のような存在に見える。
そして男性である作者にほんのり似ている。

私が来てしばらくしてからひとりの男性がふらっと入って来た。
スーツにウエストポーチ、スニーカー、ビジネスバッグ、サングラス。
金持ち何だかそうでもないのか芸術系なのかよくわからない。
画家の方も知り合いではなさそう。
「この絵、先生が描かはったん?これはナントカ菩薩ですか?私仏教系の、こういうのん好きなんですわ。」と酒焼けしたような声でいろいろ質問を始めた。
絵を買うのが好きらしく、しばらくはそこにある絵の話題であったが、他に居合わせた私を含め3人と画家と座ってお茶をいただきはじめると話題は、自分の知っている画家の話しや新幹線で岡本太郎と乗り合わせた話し、ゴッホの絵は生前1枚しか売れずしかも値段は8000円程度だったという話し、「私いくつにみえます?」などと言い出し「んー、45くらいですかね」と画家が言うと、「来年還暦なんですよ。これでも。」と誇らしげに答えた。
同席していた糸のような神経をしてそうな白い絵描きの青年にも「あなたも芸術家ですか」と話し振られ
「ええ…まあ」
「油絵ですか」
「いや、アクリルとか岩彩なんかを使ってます…」青年伏し目がち

「へえ…、あなたは?」
やはり私にも。
芸大で舞台を専攻していたと答えると、男は舞踏家に知り合いがあると言って、私のお世話になった先生の名前がでてそういうことでまた話しが延び、
「で、今はなにをしてるんですか」と聞かれモデルだというと、
「時給はどれくらいなんですか。着衣とヌードはまた違うんですか。」
時給ではないといい詳細に答えずごまかしておく。
「着衣で私の写真のモデルになってくれたら一日50万って言ったらどうします?」

やらないですねと答える。

お茶と阿闍梨餅に似た和菓子をいただきながら退席するタイミングをはかれずしばらく謎の男の話しに皆付き合うはめになった。
画廊で売っていた画家が所属する団体の図録1000円を買って、画家にサインさせ、30分ほど喋り続けて用事があると言って男は帰って行った。
去ったあと画家も「あの人なんやったんやろう…」ともらしていた。

家で仕事のダーリンから着信があったのでかけ返すと、
家の近くのやる気のない商店から、私の名前で注文があったと牛乳が届いたが注文したかと聞く。
その商店の品物、特に生ものは怪しい。私は去年の秋にどうしてもおやつにさつまいもが食べたくなって買いに行った以来そこで買い物はしていないので牛乳の注文などしていない。
牛乳を届けたのは牛乳屋の業者で、代金はもうもらっているからと牛乳を置いて行ったと言う。

どうにも身に覚えの無いことなので、誰かが毒でも盛ろうとしているのか神様からの贈り物かはたまた私のドッペルゲンガーが現れたかとぶつぶつ考えながら帰宅。

冷蔵庫にはレジ袋に入ったままの明治の無調整牛乳が確かに入っていた。

よくわからない牛乳を飲む気はしないのでふたりで商店に牛乳を返しに行った。

愛想の良くないパンチパーマのご主人に牛乳が届いたが…と説明しようとすると
「あ~。手違いやってん。わざわざ持って来てくれたん。ありがとう。」
パンチのご主人が笑った。

牛乳事件は呆気なく解決。


晩ご飯は秋鮭とカボチャの和風クリームシチュー
白葱としめじとにんじんも入っており、コンソメベースだが少し白味噌が入っているので和風。
それを作るのにうちにあった牛乳を使い切ってしまった。
さっきの牛乳、買い取れば良かった。

今日の献立は完全に今日私の食べたかったもの、明日にもちこせるもの(明日は仕事が二件あり帰ってくると気力がなさそうなので)という条件のもと決定した。
クリームシチューとごはんはあまり合わない。
ごはんが進む甘辛系のおかずが好きなダーリンはシチュー部分をもくもくと先に食べて鮭だけを残してそれをおかずにご飯を食べていた。
テレビの焼き肉のたれのCMで肉でごはんを包んで食べるシーンが何度か映ったのを彼は見つめていた。

密度の蜜 改

2008年09月06日 | Weblog
私たちは日々,私たちの生の持続の中で、無数に散らばっている瞬間の中から、選択するということが間に合わないほど瞬時に、反射的に、あるひとつの瞬間を知覚している。
その連続の中を生きている。
この生の持続の中で私たちは大まかな流れを選び、方向性を与え、それまでの体験、知識から場面場面での自分の身の置き方を規範に沿って選択つつ様々な事の起こりを渡ってゆく。
自分のあり方は、居合わせた人々やその場によって、つまり自分の意志と置かれた状況との間でその都度選択される。
そこでのバランスを取る事。それが、社会的に関係を持ち生きるということである。

企業などの団体に属する場合、明確な目的を伴いそこへの何かしらの貢献が評価となり、その評価が自らにとってのやりがい、価値となり、社会的自己の位置を明確にすることとなる。
今言ったようにその場に対して懸命になれない場合でも、働いているという時間と安定した収入と消費、余暇を得ることでこの持続を渡る人も居るだろう。

しかし、そこにはおそらく誰もが知った上で徹底的に無視されているものがある。

社会的自己の確立の為のルールに乗っ取った知覚と行為の範囲はごく限られたものだ。
そこには我慢ならない閉塞感がある。

「知覚とは自我と環境とのそのつど一度きりの出会いである」ヴァイツゼッカー

この言葉にあるような広がりを知覚する事の中に感じられないことはとても貧しいように思われる。
知覚における一回性、その偶然の関係の間に創造的なものを見いだしてゆく事を私は生の喜びと呼びたい。

時間は流れている。
私たちは持続、時間、それ自体とも言える。

日常の中では捕り逃し続けている「今」がある。
そんなふうに思う事がある。

舞台の上演とは、役者にも観客にとっても予定された「フィクショナルな出来事」の知覚の時間である。
創られた、造られる時間。
日常の中ではひたすらに過ぎてしまう時間、私たち、一瞬一瞬。

流れの中にある私たちは「今」を捕獲することが出来ない。
が、それは常に「今」のただ中にある為に自覚できず触れられないという事かもしれない。

あらかじめ予定された筋道において既に選択された瞬間を、進行の中で知覚し、発語、動作し上演を行う、「いま・ここ」で内容を産出する舞台表現は「今」に触れようとする欲望を孕んでいる。
社会的自己における知覚の範囲では封じられる知覚を、非日常である劇の場をしつらえ、その枷を外さざるを得ないところへ拡張させる場所である。
それは目を向ける間もなく、社会的自己の知覚においては取り落としたものをもう一度手に取るように、あるひとつの行為について考える契機であり、この考える事こそが「今」である自らと対峙する思う方法では無いかと思う。

9月2日

2008年09月02日 | Weblog
ふたりとも休日。
国立国際美術館に、塩田千春のインスタレーションを見に行く。

出町柳から京阪で淀屋橋へ。
その間話題は「死と自体と死の周囲、記憶、記録、痕跡、舞台」。

淀屋橋で降りて、お昼時のビジネス街を歩く。
雨傘を持って来たがむしろ必要なのは日傘な天気だった。
ビジネス街の中にある喫茶店で以前ダーリンが食べてうまかったというオムライスを食べる。
自家製の甘みが強いデミグラスソースのかかったオムライス。なかなかおいしかった。

店を出て10分くらい歩いたところでダーリンがさっきの喫茶店にカメラを忘れたことに気付き、引き返し美術館まで結構な道のりを歩いた。

美術館ではモディリアニ展もやっており、それで混んでいる。

塩田千春のチケットを買い、中に入る。

大量の靴が並べられている。
すべて片方で、過去に誰かが履いていたもの。
その一足一足に赤い毛糸が繋がっており、毛糸の端はすべて天井後部の一点に繋がっていて赤い無数の放射線を描いている。
靴の何足かには紙が付いていてそこには持ち主の言葉があったが、それはどこか余計な感じがした。

履かれた靴はそれを履いていた誰かの足、記憶、痕跡。
赤い糸は運命や約束を思わせ、すべて同じ一点に繋がっている。
ある約束 「死」に「生」は繋がっている。

たくさんのベッドが並んだ部屋には天井から床まで黒い毛糸が身動き取れないほど縦横無尽に張り巡らされていた。
パソコンで描いた線の幾何学模様のようにも、虫の軌道のようにも思える。
ベッドが並ぶと病床の雰囲気になるが、真っ白な枕とシーツには不自然な清潔感があり、故意にくしゃくしゃに置かれたかけ布団には新しいもの、若いものが這い出て行った跡という感じがある。
毛糸の密度で離れてみると黒いもや掛かったような空間に綺麗すぎる寝具の白が奇妙に思われた。

塩田千春の展示と、石内都、宮本隆司の写真も観ることができた。
老人の肌、傷跡、廃墟、解体中の建物 すべてモノクロ。

皺、しみ、縫合の跡、剥がれた塗装、朽ちた建材、風化した石柱、
時間の経過の跡をたずさえたもの。
終わりを迎えるもの、終わりの予感があるもの。
終わりが気になる。
終わりの魅力。
終わりの引力。
終わりの恐怖。
経験することの出来ない私の終わり。
「私」の終わり。 
経験したことがなく、経験するということが「経験した」ということにならない。
「私の死」を語ることは出来ない。
触れられない終わりに触れようとすること。
自虐的なことでも悲観でもなく。
フィクショナルな死。

貪欲な魂の欲望。

まとまらない、言葉が。



 





9月1日

2008年09月01日 | Weblog
8時起床。
妹が泊まっている。
朝ご飯、おにぎりを作る。赤飯おにぎりの素というのが売っていて、初めて使ってみた。
赤飯色の粉で餅米のにおいがする。それを炊きたてのご飯に混ぜ込むとご飯に少し粘りが出る。ごま塩ふって完了。
後はひじきごまおにぎりと、だし巻き、油揚げと玉ねぎ人参みそ汁、残っていたハンバーグ小も温めなおして出す。

朝から日差しが強く、昨夜帰ってすぐ洗濯して干した妹の服はすっかり乾いていた。今日は友達と会ってポニョを見るらしい。
私は午後から大阪で仕事があるので10時過ぎに一緒に家を出る。
昨日、自転車を出町柳に置いて来たので歩いて15分、修学院の駅まで下る。


叡電から京阪に乗り換え妹は三条で降りた。
電車の別れ際はなんかさみしい。

天満橋で谷町線に乗り換え、一駅で下車。少し歩いてアトリエへ。
何度か呼んでもらっているパステル画の会。
いつもパンと果物屋の奥さん持参のフルーツを皆で休憩中にいただく。

5時間、着衣普段着 固定座わり9ポーズ 
途中に長い休憩があるが、体育座りを崩したような体勢だったので終わりに近づくと一番体重のかかっていたお尻が平らになりそうだった。

5時半ポーズを終えて帰宅ラッシュに紛れて京都へ帰る。