思わぬ東京一泊の朝。夜は廊下と部屋の壁あたりから時々聞こえる パキ という音が耳についてしまってなかなか寝付けなかった。音を聞かないためにテレビのスリープタイマーをかけてしゃべっていてもらった。
チェックアウトの10時に宿を出て近くのドトールでサンドイッチを食べながら、19時半の上演までどう過ごすか考えた。まず夏にモデルをさせてもらった写真の展覧会がちょうど今週末までだったのでそれを見に行く事にした。彫刻家と写真家のコラボレーションで、彫刻家は私の顔をもとにした仏像の面をつくり、私がそれをつけて写真家が撮るというもの。ギャラリーの最寄りは春日という駅だった。新宿からそれほど遠くない。乗り換えを一度間違い、たどり着く。地上に上がって見えた白いもこもこしたものは東京ドームだった。ギャラリーは歩いて数分。仕上がった写真はデータで見せてもらっていたけれど、実際大判でプリントされたものを見ることが出来た。
時間は12時前、資生堂ギャラリーでアラーキーの写真を見るのもいいなと思っていたところに映画を作っている遠藤くんが連絡をくれた。夕方横浜で相手してもらえることになった。それまでの時間、展覧会巡りもいいけれど、映画を見る事を思いついた。ちょうど見たいと思っていたデヴィッド フィンチャーの『ゴーンガール』がやっている。横浜に移動して、13時半の上映を見て遠藤くんに会うのが時間的にもちょうどよかった。
109シネマズという映画館、平日だけど席はわりと埋まっている。失踪、不在をテーマにしていたアイザックの稽古中にもこの映画のことは話題にあがったけれど、結局見にいく余裕はなかった。行方不明熱が温かいうちに見たいと思っていた。デヴィッド フィンチャーは、ベンジャミンバトン、ドラゴンタトゥー、ソーシャルネットワークなど見たけれど、そこまで掴まれなかった。
が、しかし、ゴーンガールはクリティカルヒットだった。
ある夫婦の話しで、5年目の結婚記念日に妻が失踪する。5年目というところはうちと同じと思いながら見ていた。
公開中なので内容には触れないけれど、物語の途中に織込まれたひとつのエピソードがスクリーンのなかの都合で完結せずに観客席、現実の方につながる打撃として届いてくる感覚があった。もちろん物語は物語として語られながら。
舞台のことを思った。客席と舞台上がつながる可能性があるとしたら、例えば観客を意図的に巻き込む、参加型といわれるようなやり方でなく、このようにあるべきだと思った。あくまでも映画であれば映画として、物語を遂行しながら尚かつ風穴をあける。そこから観客が自発的に何かを感受することがない限り、見たものによって意識に変革がもたらされることは難しい。手を差し伸べられたり教訓的に振舞うものに違和感を受け取る質だから特にそう思うのかも知れないが。
横浜から馬車道に移動して駅前で遠藤くんに会う。連れて行ってくれた近くのサモアールという紅茶専門店。レトロな佇まいで、店内は昭和の喫茶店に洋食レストランの白いテーブルクロスの雰囲気を混ぜた感じ。ロイヤルミルクティーとオムライスがおいしいと聞き、そのふたつを頼む。見て来たばかりのゴーンガールの話しなど。
7時前に別れて馬車道から歩いてKAATへ。2年ぶり。受付にはナナさんがいた。
『スーパープレミアムソフトWリッチバニラ』。コンビニの話し。
ゆるい体と言われるのをよく聞くけれど、そのゆるさはもはやゆるいと見ることが出来ない強固な縁取りを得てしまっている。それはきっとある意味よいことだけれど、たぶんそうでないところもある。音楽も言葉も動きも上演時間のなかにびっしりと書き込まれている。見ながら何かを察する必要がないくらいに劇の端々まで手渡される。わからないことが、全然ない。
いつの間にか街の風景の当然で、多くの人にとって店内の導線もほとんど身体化されたコンビニのあって当たり前、均質なサービスを提供し維持するためのしわ寄せと狂いを巻き込みながら、悲の観点が作家の言葉に翻訳され、俳優に体に落とし込まれて客の観点に届く頃にそれは笑いに反転している。あるいはほんとうにとりとめのないことに言葉と体を尽くして時間にたるみを作る。コンビニにまつわるエピソードがいくつも並ぶけれど、そうして出来た途切れて波打つ時間の流れをコンビニの店内音楽のように流れ続ける音楽が巻き取っていく。
売れないものは容赦なく消え、次から次に出される新製品の入れ替えスピードとか、システマティックに調理されデータによって並ぶおにぎりとか、それをひとつ手に取ってレジにいけばデータの一部として数値化される私とか。コンビニに限らず商品と名のつくものは、手に取る以前からすべて選択されたものだということを思うと、好きなものを選んでいるように見えて実は操作の上であることにはたと直面し、でもそれがなければそもそも選ぶこともできない。時々その導線から外れたものを求めたくなる。罠にはまりたいときもある。誰も握ってないおにぎりでむしろいい時もある。
帰りの夜行はわりと眠れた。5時半に京都に着くともう雪もなかった。