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流出雑記 

にゃ~

2007年08月30日 | Weblog
我が家のニャンは 「子梅」 に決まりました。
今日でうちに来て5日目。一昨日くらいまでは借りてきた猫みたいでしたが、慣れてきたら日夜新しい遊びを開発し、飛んだり跳ねたり部屋を駆け回っております。日に日に体付きがしっかりとし、成長の早さが目に見えてわかる。
またいなくなったと思ったらカメラバックにすっぽり収まって寝ていたり、やる事為す事すべて 可愛いすぎる。ああもう

子梅ちゃんがだいすきーー

私は大声でそう叫びたい。

冷猫汗

2007年08月27日 | Weblog
昨日激かわ子猫が我が家の一員となった。落ち着く場所を探して四隅をちょろちょろしながら時々なんともか細く高い声でニーと鳴く。
灰色のとら柄の女の子で5匹の兄弟がいた。もう1匹は同じで、他3匹はベージュのような色で水色の目だった。何かのフィーリングでこの子に決まった。
そして昨夜は皆で同じ部屋で寝た。

ところが、朝起きると姿が見えない。
ベランダ、台所へのドアも襖も間違いなく閉めたし、生後2ヶ月のにゃんにゃん手であけられるはずが無い。。
朝6時、昨日よく居た場所を探しても見当たらず物音もしない。
あれ? 
寝ていた六畳の部屋に隠れるところはたいして無いし、壁に抜け穴があるほどボロ屋でもないし、他の部屋にもやっぱり居ない。
だんだん、まさかカーテンレールの上とかくずかごの中とか外に逃げてしまったかあるいは神隠しか昨日のは夢だったのかと思うほど焦り、二人とも表情がこわばってきた。
そしてはっと、CDで埋め尽くされた棚の裏にちょっとした空間があったのを思い出し、もうここ以外ないはずだとCDをがさがさひっぱり出してみると                              あ 耳の端

名前はまだついてない。写真を後日のせます。







食べながら

2007年08月20日 | Weblog
仕事場から稽古場への移動の京阪電車の中、シリアルをビスケット状に固めた便利な栄養食を空腹に負けて、遠慮しつつ噛りながら「もの食う人々」という本を読み終えた。
著者の辺見庸氏はジャーナリストで彼が旅したさまざまな国と地域で食べたものの記憶が書かれているが、この本はグルメ旅行記ではない。
バングラディシュで披露宴の残飯を集めて売る店があればそれを食う、ドイツの刑務所を訪れ囚人食を食う、旧ユーゴスラビア難民向け援助食料を、さまざまな国の軍隊の携帯食、チェルノブイリの放射能汚染されたきのこや魚を日々口にする人々の食卓、元従軍慰安婦の韓国人女性達とビビンパ・・ 中にはケバブや豆から煎ってまるで茶道のように丁寧にいれたコーヒーなどおいしそうなものもあったが、彼は事情を抱える場所に赴きそこで生きる人と共に食べる。胃袋を共にする。
テレビや文字によって私たちは情報として世界のことを知ってはいる。でもそれを受けとめる感覚がラップ越しのような、現実に起こっていることと理解しながら悲劇や恐怖、不可解さが一時心をかけめぐっても、それらが体の芯に響く手前で結局遠くの出来事だという所で落ち着いてしまうように感じる。ブラウン管の中では、ニュースを見ていてもチャンネルを変えればお笑いや映画、ドラマ、コマーシャルが同じ画面から流出しさっき見ていたテロ事件のことはいつ間にか流れ去る。
事実は体の周囲で見えない電波となって様々なレベルのノイズに紛れて飛びかい、リアルもフィクションもごっちゃになり届けられる中で、何をどう選びとり、自らに引き付けるのか。自分の存在する世界のリアリティを溢れる情報から選び出し想像力で補い輪郭を与えている。同じ土地に生きていても認識している世界の広さやかたちがかなり多様化しているように思われる。
私たちはどんどん心身ともに出無精になっていくのだろうか。
共感というものを暑苦しく、どことなく気恥ずかしいものと感じる風潮、私的な範囲に留まる世界観、他人の痛みなどほんとうのところわからないと言ってしまえばおしまいだが、それで良いとは思えない。

食べることはそこで生きる人をかたち作る。個の悲しみや苦しみを同じように体験することはできなくても同じ釜の飯を食うことで日常の一端に関わり、その体をつくっているものを味わい、さらに食べたものは自分の体の一部になるという体験はラップやブラウン管をつきやぶらなければできない。
しかし覆われたところにすでに愛着すらあり、この安穏から本気で出ていこうとはなかなか決心できることではない。
私はとりあえず自分の、ものを食う日常を思い直してみた。
スーパーに行く。野菜はきれいに洗ってあり、土で育ったこと、肉が牛や豚や鳥のかたちをしていたことから遠い。まず食材からしてラップ越しになっている。
コンビニに行く。誰が握ったわけでもない、冷たい安心感のあるおにぎり。たくさんのパッケージが並んでいる。
口に入るまでにそれがどのように育ち、つくられたのかよくわからないが、わからないまま食べている。けれどそんなことがさして疑問として引っ掛からない奇妙な喉越しの良さ。その喉越しが何より引っ掛かる。
さっきまで食べていたシリアルビスケットのパッケージを見る。数十種類のビタミン配合とある。見えないけれどきっとそれは体に良く、安心できるものだ。と私は思う。
思っている。
これでいいのだと。
そうだろうかと。

粉っぽいひと

2007年08月16日 | Weblog
心を砕くとか身を粉にするとかそんな言葉があるが、いずれも自分自身を賭けて誰かを思ったり何かを為そうとする姿を表している。そんなときにはきっと粉塵が舞うはずだと思った。
粉っぽい人。
どんなにおいがするのだろう。
茨木のり子の詩に少女の視点から見てある奥さんについて書かれたものがある。正しくは忘れてしまったが、以下のような内容。
あの人の肩に積もっている美しいものはなんだろう、少女はそれをほしいと思った。やがて時が経ち少女も大人になり気が付いた。あの奥さんの肩に積もっていた美しいものは日々人を愛してゆくためのただの疲労であったと。
この詩からもそういった粉っぽさを感じた。
白粉や小麦粉や粉洗剤やベビーパウダーが混ざったような 何と言えない粉っぽさ。甘さが伴っているイメージがある。
桜餅の香りの成分のクマリンやヘリオトロープの香料を嗅ぐとそんなことを考える。
この夏初めてコンセプトをたててひとつの香水を調香する。そのときに最初に思い浮かんだものがヨコハマメリーというドキュメンタリー映画。戦後ヨコハマで米軍将校を相手に娼婦をしていたメリーさんと呼ばれる実在の女性を追ったストーリーになっている。
彼女は米軍がいなくなり街が時代と共に変わって年号が平成になっても街角に立ち続けた。
古い白レースのドレスに白いパンプス、それに舞踏の白塗りのような化粧、まるで大野一雄のような姿で人々が行き交う街に立っている。なぜ老いてなお、そうし続けたのか。そんな理由よりとにかくその日常に生きている物語のような彼女の姿に捕われた。自分の人生を演りきった人の無言の饒舌を感じる。語られない物語を孕んだ存在からイメージが沸き起こってきた。白粉、アンティークレース、古いドレッサーの引き出しに残った埃っぽい化粧品の残り香。
透明感のある京紫、白濁 。 菫、ヘリオトロープ、イリス、白檀、オークモス、アンバー、トンカ、ラベンダー、パチュリ。
虚構のような人生に纏われた香り。彼女のあまりに正直な偽りの為に。
心を砕き、身を粉にしてその体をはって生きる人のパウダリーを。
そんな香りを作りたいと思った。

ジンジャー狂

2007年08月14日 | Weblog
新発売のディアボロジンジャー試してみました。すっきりしてて夏むきでおいしかったが、欲を言えばもうちょっと生姜辛さがあるといい。
STONESというグリーンジンジャーワインも飲んでみた。とろんとした甘みの中に生姜がぴりっと効いている。かなり甘いのとアルコールが苦手なので氷でかなり薄めるかソーダで割る。
アイスカフェオレにも少し入れてみた。これはヒットでした。
生姜の辛さとミルクの柔らかさはよく合う。冬はよくチャイやジンジャーミルクを作ります。
生姜のしぼり汁とミルクだけでできるプリンがあって、これにはコツがあり失敗すると全然固まらない。ポイントはミルクの温度にあるようです。失敗してもジンジャーミルクとして飲めるしね。
回転寿しに行ったら最初にとるのは無論ガリ。
ジンジャークッキー、生姜湯、生姜焼き、あ、ひやしあめ

冷え症にも良いし、良い。生姜は良い。

お帰りなさい

2007年08月11日 | Weblog
5、6年振りに墓参りに行く。墓地の入り口でお花と線香をもとめると若い方はめずらしいわあと言われる。親としか来たことがなかったので、広い墓地の中なんとなく覚えているあたりを探す。いろんな名字、戦没者のための碑のようなお墓、横には戦死した東南アジアの地名が印されている。それを気にしたり、供えの花のバリエーションなどを見ながら。ホオズキと白いユリと黄色い花、リンドウの組み合わせがかわいかった。蓮の実入りのはぎゅっと密度があって豪華に見える。
墓は案外とあっさり見つかった。
2日ほど前に誰かが来たようで半分枯れた小菊が供えてあった。掃除をし、蝋燭に火を点け午前中と言えど日差しの強い夏空の下で蝋燭の火を見ると、あーこれがお盆の色合いだなと思う。そして蝉の合唱。
あまり良い花は買えなかったがいつか私がどこより素敵な花を供えますと約束をした。
小さい頃は墓参りといえば有無を言わさず連れていかれる行事のひとつだったが、自発的に墓を参るようになってしまった。歳とったなぁ。でも、自分がいま在るに至った経緯には膨大なつながりがあったのだと思うとそのことを確認したくなる。私の血のなかに流れているものにはまだ未知が潜んでいるような、それを起こしてみたいような、私の知る由もない蓄積に支えられていると感じられる時がある。なんだか妙に興奮しながら手を合わせた。

ラムピス

2007年08月06日 | Weblog
ダーリンが開発した夏の飲み物、ラムピス。
「このカクテルには名前があるんですよ、これはね、娼婦の冠っていうんですよ。」
カルピスの甘味と酸味にラムの芳醇な風味がプラスされた一杯。
ワインピスや冷酒ピスも試してみたい。
飲み物へのこだわりといえば、ジンジャーエール。
自家製するほどです。おろした生姜とシナモン、クローブ、スターアニス、鷹の爪などのスパイスと砂糖で煮てこして冷ましレモン汁とソーダで割って飲む。ウィルキンソンより辛いときもあるけどおいしい。
将来カフェをやることになったら、ラムピスと自家製ジンジャーエールはメニューに載せよう。

ゆであずき缶

2007年08月05日 | Weblog
和菓子が(洋菓子も)好きですが、あんこそのものをものすごく欲するときがある。
そんな時はモナカなんかじゃ駄目だ 
あずきを缶からダイレクトにスプーンですくって食べなけば。
この幸せを
お好きな方はぜひお試しください。でも1缶一気はつらいので、残ったやつは次の日パンに乗せて小倉トーストにするとか、アイスクリームやヨーグルトにまぜて楽しむのがよろしいかと思います。

あと最近よく食べたくなるのはスーパーで売ってる1パック安い時には78円くらいになるわらび餅。
要するに貧乏なんですね。
祇園小森でパフェとか 出町いせはんで特製あんみつとか
ほしがりません勝つまでは。

『赤い天使』

2007年08月04日 | Weblog
という映画をかりて観た。監督は増村保造。
中国大陸の野戦病院に配属された、若尾文子演ずる24才の従軍看護婦。
前戦の病院では敵襲で次々と担ぎ込まれる負傷兵が病室から溢れだして外に並べられ何百人とうごめいている。負傷兵は「切断」、「摘出」、「死亡」と号令のように十秒とかからず診察されてゆく。麻酔も輸血用の血も足りない。部分麻酔をかけ、鋸のようなもので爆撃で砕かれた手足をごりごり切断する。叫びと刃の音が止まない。切断された手足が何本も大きなバケツにほうりこまれ、床は血や肉片で散らかっている。軍医も看護婦も三日三晩ぶっ通しで手術し、白衣は血塗れ。地獄としかいいようのない状況。
『赤い天使』ではそんな戦場における性が生々しく描かれている。
看護婦を犯し、コレラに感染した慰安婦をそれでもよこせと押し寄せる兵隊たち。女性を剥奪された男ばかりの集団で、慈しみ抱き留められる場所がどこにもなくいつ死んでもおかしくない日々を生きながら、誰かの体を求める欲望が掻き立てられない訳が無い。男たちの行いは残忍だが、それほどまでに止むに止まれぬ欲望が人の中には仕込まれているのだと思った。皮膚をもった宿命を感じる。
爆撃で両腕をなくした兵隊がどうか自分の体に触れてくれと看護婦に懇願する。彼は自慰することができない。入院して半年、苦悩する彼は生きていても家族に会うこともできず、ひとり取り残されて体という場所にくくりつけられた苦悩そのもののように見えた。看護婦は彼の願いを聞き入れるが、それは彼を愛しているからではなく、彼女が愛していたのは、軍医だった。
自分は兵隊を「かたわ」にするか殺すかどちらかだ、といいながら、すでに医者とは言えない自らの仕事への堪え難さの中でそれでも軍医として威厳をもって仕事をしつづけ、その現実から束の間でも逃れるためにモルヒネを打って眠りにつく日々。彼の苦痛を少しでもやわらげ、命が助かった者を少しでも救いたいという思いから彼女は体を許す。触れるよろこび、一時孤独な体どうしが生む熱に包まれた。彼は口で筆をとり、彼女への感謝の手紙を残して翌日、病院の屋上から身を投げた。
自分が殺したのだと彼女は自分を呪った。
彼女は軍医に、愛している、自分を抱いてほしいと伝える。しかし彼はモルヒネのせいで男としての機能を失っていた。
駐屯地にはコレラが蔓延し、兵力も残り少なく夜襲にあえば今夜が最期という晩にモルヒネの禁断症状をなんとか越えてふたりは結ばれる。
軍医に俺の軍服着てみろよ、と言われて子供のようにぶかぶかの軍服を着て葡萄酒を注げ!と命令したりして遊ぶふたり。それまでのふたりの関係には心を許してからもずっと張り詰めた距離があったのだが、最期の夜、戯れるようなふたりの姿があった。白いホーローのカップで最後の葡萄酒を飲み、やがて砲撃の音が鳴り響いた。お互いに認識票といって胸にキスマークを残し、戦場へ出ていく。
死に隣接する性の姿。
死の予感を伴っているもの。常に自覚している訳ではないがわたしたちは皆そういうものだ。あとかたもなく消えることがわたしたちのからだのどこかに既に書き込まれている。
それでも、それだから身を粉にし心を砕き愛そうとするものはやはり美しいと思う。