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流出雑記 

2016/7/20

2016年07月21日 | Weblog
ラース フォン トリアー「エレメント オブ クライム」長編処女作らしい。あめ色の色調のタルコフスキーのようだった。
テオ アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」DVDの裏の人が電信棒にとまっている画を見たくて借りた。移民は皆地面より暗い色の服を着ている。国境の川を挟んで結婚式をするシーン。土手から隠れていた暗い服の人びとがわらわら現れるのを反対岸から撮っているのがよかった。

しばらく一人暮らしだった。ひとりだと鍋食器も決まったものしか使わず同じものをお腹が空いたら食べて過ごす。使わないとなと思っていた半年前に賞味期限が切れていた生春巻きの皮は使いきった。品数を作らないので巻くとかの、やや手間なことをしてもいいなと思えて。あと暑いとそういうものを食べたくなる。

だいたい絵を描いていた。紙の大きさを上げたくなってきた。

2016/7/16

2016年07月17日 | Weblog
晴れ。

咳で目覚める。治ってきたと思っていたのに。不思議なのは隣の人も似た咳をしている。

クッションカバーと敷布団にかけてるカバーを洗う。クッションがへたってきているのが気になり復活させる方法を探したら、洗って乾燥機でまわすとふっくらするとあったのでやってみた。多少戻った。
「野火」を見たきっかけで、大岡昇平を読む機会があったので、なんとなく塚本晋也をもう一本見てみようとビデオ屋で見つけた「六月の蛇」 。
話題になってる「FAKE」はまだ見ず森達也「A」を見る。撮られたのはちょうど20年前。警官といざこざになるシーンだけ見た覚えがあったけれど、この映画を以前見たかどうかの記憶はない。教団の信者、警察、周辺住民、それぞれが信じるどんな正しさもすべて作り物に思えてくるし、実際そうだ。「A2」というのもあったかられを返しに行ってそれを借りたいし「FAKE」がより楽しみになった。

2016/7/14

2016年07月16日 | Weblog
晴れ。

ここ数日、乾いた咳が止まらない。風の余韻にしてはしつこい。咳で変な時間に目が覚めたり。

泉鏡花「外科室」、ルビの多さと看護婦や周りの人が伯爵夫人に話しかける台詞な面白い。中上健次「赫髪」「水の女」。中上健次の直筆原稿が吉増剛造展に展示されていた。悪筆というか、それ自体フィクションみたいな癖のある筆跡の字が紙を埋めているのは異様な密度で、その筆から生を受けた作中人物たちはただならぬ濃い体臭を伴っている。赫髪に出てくる赤い髪の女は若くもなくふたり子供を産んでいて、赤い髪もばさばさしていて女なのだけれど、ちょっとした言葉やしぐさから感じとれるものが美しかった。インスタントラーメンが食べたくなる。

咳止めの薬を買ってみた。粉で苦い。

夜、大島渚「白昼の通り魔」、原作が武田泰淳だった。

2016/7/13

2016年07月14日 | Weblog
降ったり止んだり1日

自分じゃほとんど飲まないのに母は行事として梅酒を漬ける。置ききれなくなった5年物がでかい瓶ごとうちに来た。とりあえず梅の実だけ取り出してジャムにする。

かなり昔に読んだ大久保ニューの美術学校の漫画で、学生が描いてる絵を見て先生が「お前の絵は手癖なんだよな」と言って批評する場面があったのを思い出した。私が描くものも手癖以外の何物でもない。何かを描いている訳ではないから、ただ手癖の線を重ねて消している。
また上から描いては消し描いては消す。それで残ったものが絵、ということになる。手癖でしかない線からそうやって、描いて消して残った画策できないものを引っぱり出そうとしている。引っりだしたものの延長上に描いていると意図が絡み付いてくる。それをまた消して。
手癖の集積の果てが見たいがために手癖を捨てない。描いているものがあるとすれば唯一それだと思う。
そうやって私は私を他人にしようとする。



2016/7/9

2016年07月11日 | Weblog

曇り雨

朝から妹が車で迎えに来て祖母のところへ。祖母が母の住んでいるマンションの近く、介護が受けられる高齢者向け住宅に引っ越すことになった。徐々に痴呆が始まっていると以前から母は言っていたけれど、ここ最近症状が急に進んだらしく、まだ移住してからの生活に馴染めるうちに動く方がいいというケアマネージャーである母の判断だった。

小雨のなか祖母の暮らす府営住宅。きれい好きなので家はいつも片付いているけれど、30年住んだ家には物が蓄積している。抜け殻になった家の整理は秋になってからしようとしばらくは借りたままになる。祖母は娘や孫のことは認識できるし急に今までと変わったとも思えないので、そんなに移住を急ぐ必要があるだろうかと思った。けれどしばらく話していることを聞いていたら内容がちぐはぐなことに気付く。もともとよく喋り、言葉の荒いところがある口調で、とりあえず出られる準備をする母や妹と私に意見をなんやかんや言うのを聞きながら、ああそうかと思う。引っ越しのため最低限必要な衣類等の荷物を用意しておくように母は伝えたそうだけれど、衣装ケースには季節感問わず肌着もタオルも一緒くたになった衣類がすし詰め状態になっていた。家を出る直前になって牛乳屋さんに連絡してないわ、連絡先がわからない。妹が牛乳瓶受けから連絡先を見つけて電話する。祖母は箪笥をあけて胸がはだけるのも構わずにこれがええかな、でもなあと着たり脱いだりしている。そんな調子で祖母は30年暮らした家を取り立てて名残惜しさもない様子で後にした。

母の車で祖母と母は先に新居へ。私と妹と2歳のおいはどこかでお昼を食べてから来るようにとお札を握らされ、道中にあった星乃珈琲に入る。店内にはドアの付いた個室があって、最近はこういう子供がいても来やすいようになっているんやねと感心する。なんでもよく食べていたおいは最近いやを覚えて偏食をするようになり、頼んだパスタも麺しか食べないし、パンケーキも上に乗っていた生クリームだけをこそげとった。座っているのが退屈で外に出たいと言うので妹と交代で駐車場のあたりをうろうろする。

祖母がこれから暮らすマンションには既に祖父が暮らしている。ワンルームの部屋が並んでいる。祖父と祖母はこれから斜めお向かいさんになる。二人はそれほど仲がよろしくないのでそれくらいがちょうどいい。水回りも真新しく、壁紙も真っ白。全面カーペット敷きのバリアフリーの床、セパレートのトイレとお風呂。お茶を入れたりちょっとしたものなら作れる電気調理器の台所もあるけれど食事は一階の食堂でとる。その部屋は当然それまでの暮らしのなかで積み重なった生活の澱がなく、むしろ新しいものしかなく、清潔で管理された安心と安全に囲まれている。そこが祖父母の終の住処になる。

 

 


2016/7/8

2016年07月09日 | Weblog
曇り雨
幼馴染みの家に行く。最寄り電車で山深い方に15分。
しばらく話して私がストレッチと脱力を、書道の先生である彼女から書道を教わるエクスチェンジを月1でやることになった。
6年生までは書道教室に通っていたけれど、真面目に筆を持つのはそれ以来かも知れない。筆は腕でなく体から動かすのだと教わる。彼女が字を書くところを見せてくれた。確かに腕は筆を垂直に固定し、動力は体から送られている。そうやって引かれた線には呼吸と勢いが含まれている。久々に筆を持った私の引く線は強張っていた。吉増剛造展を見て以来手で字を書くことをもう一度したかったから、良い機会。
手土産に持って行ったココナッツパウンドは美味しくできていた。
夕飯まで一緒して帰る。

2016/7/7

2016年07月08日 | Weblog
晴れ

起きたらものすごく暑くて汗をかいていた。ちょっとランニングしてきましたくらいの疲労感が起き抜けに。一階に降りてジーパンを洗って干しただけでぐったりする。このしんどさは風邪っぽいせいもあるのかと気を付けて水分をとりながら冷房を入れたら少し楽になり、午後から大阪に仕事。

帰りふらふらする。塩が頭に浮かぶので、塩分が足りないような気がして帰ってきゅうりの浅漬けを食べたらちょっと元気が出た。
晩ご飯のきのこトマトチーズパスタは味が薄かった。塩をたして、塩分をとってますます元気が出た。
明日幼馴染みのところに行く手土産にココナッツパウンドケーキを焼けるくらいは元気になった。
ココナッツオイル高いから自分のためにはトーストに塗るくらいしか使わないけれど、手土産だから惜しみなく使う。

2016/7/6

2016年07月07日 | Weblog
晴れ

2日前くらいから喉が痛いのと外があまりに暑く、どうしても外出する必要がなかったので水やりをする以外家から出ないまま過ごした。
そのかわりシーツを洗ったり布団を干したりちょっと丁寧な掃除をする。
ドライカレーと、トマトソースを作る。玉ねぎが傷みそうだったから。

夜映画。「闇のあとの光」というメキシコね監督の映画。最近、映画の方でどんどん時間を巻き取りストーリーを手渡してくれる映画ばかり見ていたので、物語ることに終始しない映像で構成された、見ることに能動性を要求してくるタイプ映画の時間の流れを努力なしに見ていられなかった。
ストーリーがないわけではないけれど、奥まっていて、その周辺の枝葉の事々にフォーカスが当たる感じ。確かに、忘れ難いような映像が目の奥に残りはしている。走り回る牛と犬と幼女、家に平然と入ってくる工具箱を提げた真っ赤な悪魔、犬が骨つきの肉をごりごり言わせながら食べる、目覚めた親子の幸せな朝のベッド、手で首をもぎ取る男。こういう映像の感想を取り出そうとしたときに出てくる言葉はおもしろい。でも取り立てて人にすすめないかなと思う。
その前夜、M ナイト シャマラン「ヴィジット」最初、ホラーかと思った。けれど死人や霊がいる話しではない。生きた人間の話しだった。脅かされるのがいやなので、ホラー映画を避けている。一見やさしく穏やかでお菓子作りの得意なおばあちゃんに宿る狂気が極端に描かれていながら妙に生々しい印象だった。膝をどろどろにして犬くらいのスピードで床下を這い回りスカートが破れてお尻が丸見えになっているのに気付かずすたすた歩いて家に戻るところが異様だった。

2016/7/4

2016年07月04日 | Weblog
晴れ

2日前、7月で2歳になるおいの誕生日を祝った。ついでに6月誕生日だった私も祝ってもらった。おいは誕生日のことをまだよくわかっていないようだったけれど、家に人が寄り、いろいろもらって、おいはまだそのことを認識していないだろうけれど、パティシエである彼の母が作った手作り感のないくらい職人仕事のケーキをおぅぉ!とか言いながら食べていた。
誕生日はこの世に生まれついて、ただそれだけそのことをおめでとうと言われる。褒められたり評価されたりしているのでなく祝福を受ける。なんだかよくわかってないのにでも嬉しいことを表すおいの表情を見ながら、誕生日って生まれてただ生きていることを積極的に肯定しお祝い事にする儀式なのだと、ばかみたいに当たり前なことを思ったけれど、そう思うと結構大切ではないか。だって他にそんな日はないから。

2016/7/3

2016年07月04日 | Weblog
晴れ
奈良で仕事。

野火を読みきったその反射で、飢えもせず、平坦な戦場で私たちが生きながら見る風景や口にするものから、何を捉えることができるだろうか、というようなことを思う。
ある時代の、事情による、特殊な、危機的状況、その実体験から見つめられ煮詰められた人の言葉の創作物。その緻密にならざるを得ないこと、厚みを感じた。
現在地から、別にこれといって特殊でも、危機的状況でもない日々を煮詰めたら何が残るのか、何も!だとしても、この日々から見つめるより方法がない。なんでもないことの中をまさぐる手つきは。コンテンポラリーダンスですか。