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流出雑記 

天使論 福井

2012年09月27日 | Weblog

天使論福井公演、福井駅新幹線高架下。新幹線はまだ開通していないし高架の建設も途中で止まっている。なので真上を新幹線がゴーゴー走る訳ではないが、平行に並ぶJR福井駅とえちぜん鉄道の駅に挟まれているので、数十分おきの発着音と共に上演。駅のホームや通りすがりの人が時々足を止めて見ている視線。初演の神奈川芸術劇場大スタジオとは打って変わって野外での公演だったが、オープンなスペースで普段あまり劇場に来ることのないお客さんが多く足を運んでくださったことは何よりよかった。

本番までの数日を福井で過ごした。福井の夫の実家でお世話になる。いつも盆正月に帰ってくるときは自転車でスーパーに行ったりすることがなかったけれど、今回はそういう生活圏内を走って買い物をしたり、ザリガニのいそうな小川や公園や路地を通った。実家の向かいにある神社には淡い色の三毛がいて、仲良くなりカフェオレと呼ぶ事にした。

公演本番まではゆったりしていても、押し出されつつあるトコロテンのように圧が常にかかっていて、何もしてなくても無駄にエネルギーを使っている気がする。ちょっと用事をしたあとや、稽古したあとは特にすぐ眠たくなる。 そんな今いち役に立たない嫁を労わってくれる母、剣道場を稽古場に使うことを快く承諾してくれた父。孫も産まず変な動きをしている嫁。

母は趣味で朝日の観測をしている。普段夜遅く寝て日が昇る時間は深い眠りの中にいるが、滞在中一日だけ朝起こしてもらって朝日を見た。
フリースを羽織らないと明け方はもう寒い。山際を薄っすらオレンジがかった光の線が縁取る。街並みはまだ夜の霧が残ってそのなかに半分沈んでいる。家々は灰色の箱の陳列のようで、そのひとつひとつの中に生活が詰まっている感じがしない。単なるかたちに見える。と思っているうちに山際から空の色がどんどん変わっていく。オレンジは拡がって雲に反射し金色に光る。その周りは雲と濃い青のグラデーション。左の方に縦に伸びる短い虹色が見えた。光をみすぎて目が変だから錯覚かと思ったけれど、彩雲だと母が教えてくれた。

いつも寝ているあいだ、毎朝こんなダイナミックなショーが開催され、しかも入場無料、誰でもタダで見られる。 というかそういうところにいるなんてラッキーだと思いながら自分の体温で温めるには冷えすぎて二度寝できなくなった手足を湯船に浸かってふやかした。

公演終えた夜にみた夢。二階の仏間の横の部屋を寝室にしてもらっていたのだが、仏壇からくすくす笑う声が聞こえてきた。子供っぽいが大人の女性の声だっ た。部屋にいたのは私ひとり。怖いので走って一階に逃げて父と母に仏壇から笑い声聞こえますと報告すると、父と母は、ああ、…それは、時々聞こえるんや、 とやっぱりなという感じで答えた。

 


花嫁

2012年09月18日 | Weblog

真ん中の妹結婚式の朝。

昨夜の残りごはんを下の妹が握った塩結び、半日あまりまともに食べられない花嫁の朝食。

母と花嫁は先に家を出て、続いて下の妹を見送り、洗濯ものを干してから家を出た。今日はじめて黒留を着る。 持っていないので事前に選んで借りた。年齢的に華やかな柄にラメをあしらったものを勧められたが、どうも好まず、60代くらいの方の為に置いているという、かなり地味らしい鶴柄を選んだ。それでも私には地味に見えない。着なれた人でも黒留は自分で着つけられないと母が言っていたのがなぜであるか着つけられながらわかった。バランスのシビアさと着崩れるということがあってはならない正装なのだと襟元からにゅっと出ている首を見て思う。式場のホテルではなく徒歩10分ほどのところで着つけてもらったので、そこから歩いて向かう。おおよそミセスには見えない黒留姿のせいだろう視線を感じる。仮装じゃないです、礼装ですと思いながら歩く。当然歩幅がいつもより狭いので憶測より時間がかかった。

ホテルに着くと礼服の夫がロビーに迎えにきてくれた。髪もジェルで固まっている。親族控室にはもう親戚がそろっていた。日焼けしすぎてどうなるかと思っていたサッカーをしている下の妹もきれいにファンデーションでカバーされ、短い髪もアップに見えるようセットされていた。昨夜問題になっていた白くて浮きすぎるショールも馴染んでいた。アテンダーから声がかかり両家廊下に2列に並ぶ。このとき親族紹介はまだで、近いが微妙な距離感のまま神前式の部屋へ向かう。白無垢に綿帽子の妹と黒紋付の彼がいる。夫はそれを見ただけでちょっと涙腺ゆるんだという。

自分の時は緊張で神前式自体の事をあまり覚えていなかった。斎主が履いている爪先が丸い形の不思議な靴、神前に大根とキュウリ、人参、茄子などが供えられていることなど今回見て知った。ただ自分のときは巫女さんのうちの片方が新米だったらしく、要領を得てないことが傍目にもよくわかったが、今回の巫女さんふたりのシンクロ率の高さはすばらしかった。ただ片方はなぜかつけまつげをしていた。

三三九度、新郎誓いの言葉を読む、神前に玉串を捧げる。親族は何度か立ったり座ったりするが、祖父はその動作がすでに辛そうだった。今回会場内の移動は車椅子を借りることになり、下の妹が介助役をしている。

親族でお神酒を飲み干す。寿と書かれた赤い杯からお神酒に口をつけると香りが一瞬ふぁっと口の中に広がり、喉と胃を通ってそこが発熱するのが少量だからこそよくわかる。米からつくられたこの透明の液体が持っている品格とお神酒の意味を身を持って感じる。

披露宴は冒頭からカラフルな照明の演出があってまさかスモークたいてせり上がってくるんじゃなかろうなと一瞬ドキドキさせられた。

新郎の母の持ち物の赤い色打掛けはとても豪華で、よく似会っていた。お色直しの時は私と下の妹がエスコートに呼ばれた。ケーキカット、キャンドルサービス、友人のスピーチ、両親への手紙、敬老の日が近かったので祖父母へのプレゼントもあった。

プロフィールビデオの幼少期、子供だった私と妹たち、とても若い父と母。こんなだっただろうか。時間はいつのまに流れていたのだろう。結婚するなんて想像すらしなかった、未来への不安も何も感じなかった頃。なんにも心配せず笑って3人並んで布団に入っている。もう戻ってこないけれど、あの時間が家族にあり今に繋がっているということに、さみしさとありがたさが同時に込み上げる。そういう感動のど真ん中にちゃんと身を浸す。

夫は据え置きで撮っておこうと言いながらビデオカメラをまわしてくれたが、式場カメラマン経験があるせいでスタッフの動きを見ながら進行がわかるらしく、結局カメラを操ってクオリティーの高い記録ビデオを完成させてしまった。式の翌日新婚旅行に出かけたふたりが帰ってきたら喜ぶに違いない。


 

 

 

 


2012/9/15

2012年09月18日 | Weblog

起床。
この夏毎日飲んでいたかぼちゃジュースを今日も飲む。茹でて凍らせたかぼちゃ、豆乳、氷、スキムミルク、きび砂糖、シナモンをミキサーにかけたもの。

洗濯。掃除。玄関に水を打つ。 小麦、今日は荷物を出した黒いリュックの上で落ち着いている。猫は敷物が好きらしい。


昼夫帰宅。ネギ、ちくわ、辛唐、きゅうりの味噌漬け、卵入り冷蔵庫の中一掃チャーハン。この辛唐を切ったあと、しっかり手を洗わないまま目や鼻の下を擦ってしまうと痛い目にあう。料理には少量でも相当効く。来週から天使論福井公演で一週間ほど家をあけるため傷む材料を使い切りたい。あと玉ねぎとキムチ。

シャツ、ネクタイ、ベストにアイロン。きなこクッキー焼いておやつ。

ばらに薬。ディオレサンス、あたらしいつぼみをつけている。

夕方家を出て京都駅へ。
グランヴィアに泊まっている祖父母に会う。明日ここで結婚式を挙げる妹が祖父母に部屋をとっていた。14階の客室は見晴らしがよく、たいしたホテルを知らないけれど、今まで見たことのあるなかでいちばんハイグレードな部屋だった。祖父母もこんなホテルに泊まったことないと言い、テレビを付けるのにも手こずっている。チェックインの付き添いに来ていた母はエスプレッソマシンと格闘し、カップからコーヒーを溢れさせている。

母から聞いてはいたが、祖父はかなり痩せてしまっていた。胃ガンをして胃を切除して以来食が細くなったうえに、入れ歯を作り直しているとかで歯がなく、柔らかいものしか食べられず、暑さで食欲も低下し、いよいよ体力が落ちて動くのが億劫になり比例して筋力も落ちている。

若い頃は東映ニューフェイスを受けに行ったらどうだと言われたハンサムな祖父だが、今は骨格が際立って容姿より皮膚の下の骨が主張するようになった。母が祖父に寒くなったらこれ羽織りとバスローブを渡すが重そうだ。祖母は相変わらずころころで元気だった。弱っている祖父に根性が足りんからやと言い放つ。祖母のバイタリティを祖父に移植できればと心底思う。

母と祖母は夕食をとりに出て、祖父は外を出歩く体力がないので部屋に何か柔らかい食べものを買ってきてもらって食べる。

宇治の実家にいる明日花嫁になる妹のところへ行く。
妹たちは帰ってきた。花嫁妹はさっきしてもらったネイルが気に入らないらしく爪に着いた石をいじくっている。下の妹はサッカーから帰ってきて真っ黒に日焼けしていた。
夕食。最近母が注文しているらしい中華の下ごしらえ済み調理セット。仕事で帰りが遅い日がほとんどの母だが、出来合いのものを買ってくるより自分で火を通したものを食べる方がやはりいいようだ。調味料と材料を付いてるレシピ通りにやる。鶏と色どり野菜の炒め、ピーマン肉詰めフカヒレ風あんかけ、中華おこげスープ。片栗粉なども小分けして入っている。明日の主役は配膳準備、こんがりした方の妹と調理。出来た料理を並べるとこの手間と時間でこの品数できるとは、という豪華さだった。

こんがりした妹の今後数年の堅実な計画、明日嫁に行く妹の心境、母のはなし、父のはなしをした。

こんがりした妹が弾くギター、ウルフルズのバンザイに合わせて姉が踊るはなむけ。

こんがりした妹は明日の為にドレスを新調した。ピーコックグリーンのサテン地でコルセットのような編上げのバックススタイルが凝っている。百貨店で見立てたらしく仕立てもいい。ただショールが真っ白のひらひらオーガンジーでそれがあまりにとってつけたようで、おまけにその白さが黒い顔を一層引き立たせている。これはいかんと姉らで他のショールを合わせたりしてみたが、ドレスの雰囲気に見合うものがない。そのひらひらは1万円もしたらしく、せっかく買ったのに使わないのもあれだし、ヘアとメイクを美容室で頼むから今見てると浮いてるけど何とかなるよというところで決着した。こんがりした妹に青いネイルを施す。サッカーのキーパーだが、実は白魚のような指をしている。この手はずんぐりした指の姉らとも似ていないし、父でも母でもない誰かしらからの隔世遺伝である。花嫁は気に入らないネイルに数千円はたいたことをまだ悔しがっている。

母も帰宅し、明日は朝からそれぞれ支度があるので早めに床についた。

 

 

 

 


2012/9/8

2012年09月10日 | Weblog
自分と同じくらいの大きさの楽器を持ち運んでいる人を見るとなんかうれしくなる。 あるいは楽器でなくても弓道の弓とか竹刀とか。でもチェロとかコントラバスを抱えている人に出くわしたときのうれしさは格別。 どうみても楽に持ち運べるものじゃないのに、それが必要不可欠で、運んでいるのか運ばれてるのか、物と同行する人の姿がなんだかいい。 仕事終わって京都に向かう帰りの電車、土曜で友人の結婚式帰りらしいパーティースタイルの女の子がよく目につく。コサージュ、三つ編み、サテンとシフォンの合わさった軽いドレス。帰り際、花嫁から手渡されたプチギフトをハンカチに包んだまま握りしめている。久々に顔を合わす友人たちとの会話、祝いの席の晴れがましさのあとひとり帰るぷつりと糸のきれたような疲労感。普段より高いヒールなのに座れない電車。窓にうつる自分の姿を風景と重ねぼんやり眺め、明日のことや少し先のことをとりとめもなく思う。 昼仕事夜仕事。 自転車で東大路を走って、didiというカレー屋の前を通過した。店に客は誰もいなかったけど、とんでもなくいいにおいがして、明日はああいうにおいのカレーにしようと鶏と玉ねぎとヨーグルト買って帰る。

2012/9/6

2012年09月06日 | Weblog

起床、洗濯。洗濯したかった。昨日買ったダウニーを使うため。洗濯機周辺が外国のにおいになった。

アボカドの見極めには自信がある。買ってその日に食べるか、翌日かによってのベストコンディションも外さない。ほしいときにベストなものがみつからないときはスーパーをはしごする。

伊丹十三のエッセイには食べ物についての解説がよく出てくる。スパゲッティーの正しい調理法とかフランスのパンの人生観が変わるおいしさとか。書かれた当時のスパゲッティーといえば喫茶店のナポリタンで、ヨーロッパ滞在歴のある伊丹十三にとって茹で過ぎの麺に追い討ちをかけるようにフライパンで火を入れた「いためうどん」はよほど堪え難かったらしい。エッセイのなかにアボカドの解説も出てくる。鰐梨。わになし。アボカドのことである。

「アヴォカードは西洋梨に似た形をしている。つまり、電球型とでもいおうか。皮は濃い緑色であるが、熟すに従って奇妙な黒色に近づく。肉は黄緑色である。アヴォカードは普通縦に二つに切ったその半分を一人前として出す。真ん中に大きな種があるが、これはもちろん刳り貫く。種を刳りぬいた穴へドレッシングを入れて出すわけだが、ドレッシングといってもたいがいオリーヴ・オイルにレモンと塩、胡椒といった簡単なものであるから、アヴォカードはまず料理以前の段階のものであると申せましょう。

アヴォカードの肉の味は、これはなんといったらいいのかねえ。チーズ?空豆?どうも違う。茹玉子の黄身の味にも似たところがある。ともかく、どう味わってみても乳製品という感じの奇妙な果物なのである。」

見たことも食べたこともないままこれを読んだら未知の食物アヴォカードにどれほど興味をそそられたことだろう。知っていて読んでも旨そうだし説明もうまい。

でそのアヴォカードを今日は縦に薄く切り、サンドイッチ用に切ったパンをトーストし、スライスオニオンとツナをマヨネーズで和えたのと一緒にはさむ。アボカド、ツナ、チーズを挟んだサンドイッチにラグナビーチメモリーという名前がついているのを、今まで別の店で3回見たことがある。由来が知りたい。食べたら眠くなって30分寝る。大量に夢を見る。

午後から「天使論」稽古。

夕方雷鳴。ちょうど帰るときに降り始め、本降りになる前にどうにか帰宅。

また眠気。30分寝る。起きて夕食準備。

下ごしらえは出来ていたのでみそ汁とサラダ作ってからあげ揚げるだけ。

もも肉2枚分下味がちょっと薄かったので塩つけて食べる。余る予定が余らず。

夕食後、居間に異様なものが走った。ムカデ。ゴキブリよりずっと恐ろしい。あれはちょっと手に負えない脅威的非日常的様態をしているではないか。夫が猫の爪研ぎ段ボールで何度もぶっ叩いてせん滅。固いのかしぶとい。完全に死んだ地点も判別し辛いので後処理も嫌である。夫、割り箸を3膳分輪ゴムでつないで長い長いムカデ菜箸を作り、それでつまみ上げ、外の排水溝に捨てた。

そして今また眠気。


2012/9/5

2012年09月05日 | Weblog

9月になっていた、ということに気付く。

日が暮れるのが確実に早くなった。少し前までは7時でもまだ外は明るかった。

ばら。ディオレサンス、新芽をたくさん吹いている。新芽はなぜか赤い。盛夏、取っても取っても現れる何かの幼虫にずいぶん葉を喰われたにおいスミレと伊豆スミレは一命を取り留めた。魚柳梅は枝の内半分立ち枯れ。植え替え時期か。野ボタンかリンドウがほしい。要するに紫が。

なくなった柔軟剤。ダウニーにしてみた。液のまま嗅ぐと胃もたれしそうな芳香である。以前横浜のゲストハウスに滞在したとき、置いてあったダウニーを初めて使ったが、干した後もおどろくほど衣類に香りが残った。部屋干しだと勝手に室内芳香も兼ねてしまう。そのときは強い香りもいいような気がしたが、日常の洗濯だとはたしてどうだろう。

見て見ぬ振りをしたまま数日が経過したクローゼット内で落下した突っ張り棒及び衣類。新たな突っ張り棒を買って来て重さを分散させる。

夫作、肉もやし炒め会心の出来。

先週の本番初日で体重が1キロが消失した。普段はほとんど変動がない。水分以外に何を使い尽くしたのだろう。

お盆に海に行ってから泳ぎたいと思うようになり、水泳を夫婦共通の趣味とすることにした。醍醐の温水プールへ。入場料は450円だが、スイミングキャップを買わされる。500円×2。ついでに水中メガネ1500円の初期投資。

夏休み明けの温水プールに浮いている人の過半数は高齢者であり、そのなかに小さい子供連れ、元水泳部らしきカップルなどが混ざり込む。飲食禁止とある。喉が渇いたらどうすればいいのかと思っていたら水飲み場があった。蛇口をひねって一口飲んだがカルキ味で飲めなかった。ビーチボールの使用禁止、水中歩行コースと遊泳コースに別れていてそのどちらかでないことは出来ない。市営のプールだからなのかエンタテイメント性は出来る限り排除され、市民のための健康施設の趣きが強調されている。常連とみえる高齢の女性がゆったりしたクロールで前を泳いで行った。バタ足もほとんど水しぶきを立てない。それを真似してやってみたが進まない。あの楽そうな泳法でどうやって推進力を生み出しているのか謎である。あまりに進まないので平泳ぎに変えた。背泳ぎは腕を回転させると顔に水がかかるのが嫌なので、腕はクリオネのように背中の方でひらひらさせる。やはり海水より体が浮かない気がする。

泳いだ後の疲労感は空気中の運動後の疲労感と種類が違う。ぐったりでなしにくたっとなる。髪が軋む。塩素。でもこのにおいはいい。

泳いで夕方すでに空腹だった。カナートに寄ったらピザ屋に吸い寄せられ5時前に夕食終えてしまう。

帰って寝る。

起きたらカラオケに行きたかった。遊び倒したい。


2012/9/3

2012年09月03日 | Weblog

テーマとして扱っている体(音声)、純粋に素材としての自身の体(イメージを体現する体)、素材でありながら作り手でもある自身の体(行われていることを見ている体)。waltwoという作品のなかにはそういう3段階構造の体のあり方があった。それを明確化すればおそらくそれぞれどうあるべきかがはっきりしたはずで、この作品のなかでやりきれなかったことはそういう部分。見せたいものをクリアに提示する方法をもう一歩詰めなければならなかったとやり終えてようやくわかる。

蔦のように絡まりついている体という観念。この作品のことに関わらずよくも悪くもいつもそこから発動する。それ以外の方法を知らない。でもそこから出てみたいと思った。体からは出られないけど。

 


常に振動している

2012年09月01日 | Weblog

常に振動している。

地震の話しじゃありません。

体はどうして、どのように動くのか。それをメスを用いて解剖し確認することは医学的に役立つけれど、どんつきだなと以前人体の不思議展を見て思った。
知的欲望は体をバラバラにし、物質化しようとする。そこはダンスと似ている。でも方法がまるで違う。ダンスは体にメスを入れるというより体をメスにするという感じがする。メスと同時に献体でもある。

距離のとれない自分の体というものを、体として対象化するために、体を構成しているマテリアルから客体として体に触れようとする。その客体化のまなざしはどこまで行っても主観であり、全部錯覚かも知れないとしても、それ以外に方法はない。
ダンスはこうなっていて、こうなっていて、こうです、なんて説明ではないし、説明や名付けることで補足できないものを内包していること魅力だと思っている。でもそれはダンスに対する盲信的な期待とも違う。
体というものを扱うときに、ダンスでは振りをつくって、それを体に覚え込ませて踊る、つまり振付ける。
けれど、同時に制御できない体の動きというものが絶対的に並走してある。
心拍、呼吸、(吸う吐くのコントロールなら出来るが、完全に止めることは出来ない)細胞の振動というのも私の意思ではない動力で動いている。これはあたりまえすぎて取り上げるまでもないことだろうか。でもそのことを無視できない。むしろ自分をコントロールできている気になっていることに違和感を覚えるほど、体は自己制御外の力ではじまって、終わる(自死を除いて)ものだと気付かされる。生命の本質は私の意思や意図ではないところにあり、体は本質的にそういうあり方をしている。私という手綱を握っている自己意識を持っている者とってこれは驚くべき事態ではないか。そういう自己の意識外の動力とダンスは深く関わりを持っている。そういう視点で体について考えるときに踊りというものが関わってくるように思うのだ。

振付けという言葉が昔からあまり好きではなかった。
振付けとは私のなかで「振り返り」「気付く」「気を付ける」と訳され、踊ることが反復になり、スムーズになり、クオリティが上がる、ということは、結果踊りからどんどん離れることじゃないかと思っていたからである。表現されたものより表出そのものにダンスを感じる、という感覚は明白だった。

体を構成する細胞たちは常に振動しているらしい。心肺の動き、新陳代謝、消化吸収、考えたりすることのできる意識をもった状態、すべてこの自覚のない粒のふるえに依拠している。

【振】[音]シン(呉)(漢)[訓]ふる ふるう ふれる 1 揺れ動く。揺り動かす。


踊ることに出会って10年過ぎ、振付けとは、その振動に関わるということだ、というところでこの言葉との折り合いがついた。

踊ることとはどのような視点をもち体について思考するか、ということから動き出す技術であると思う。