ここを渡ってくる人の安全を
確かめるつもりが
橋を叩き落として
誰もそこを渡って来れず
渡らせ橋は水に流れる
流水模様の浴衣に袖を通し
水子地蔵を拝みに出掛ける
下駄の音
時々魚の跳ねる音
ひと気のないぬるい夜を漂流し
永久橋から川向こうを眺めれば
横たわる深い溝
あちらとこちらを別け隔て
目と鼻の先
徒歩10分の果てしなさ
浮世にあって浮き足立ったまま
ままならぬ二足歩行で
抜き足も差し足も
抜き差しならず
右も左もわからぬうちに
前にならえ
右向け右
スキップであろうがステップであろうが
足並みを揃えることに
異議申し立てる左利きは
右中心の世に鏡文字で
徹底抗戦の意志をしたためる
生来の利き手に
導かれた基本姿勢を
真に受けて構築された精神の
左舷前方を泳いできたけれど
足に藻が絡みつき
浮世に溺れ
救助隊の浮き輪につかまり
一命を取り留め
取り留めのない会話を交わした
救助隊員と恋に落ち
二年後に結婚
三年後には娘をもうけた
浮世に浮かぶ雲の群れと
団地の四階ベランダにはためく
洗いたての洗濯物
網戸から風に乗って柔軟剤のにおい
右利きの娘はもう五才になる
卵の買い置きも尽きて
孵化の望みをなくしたら
手持ち無沙汰のさみしさに
あてどなく毛糸を編んで夜を明かす
長々と伸びたそれはきっと
マフラと呼ばれるだろうが
そんなつもりもなくただただ編み込んだ
延々続く時間の痕跡
ろうそく明かりの灯る部屋
充血した目に映る室内は煤けて
トマトジュースで数百年
生き延びてきたけれど
それももう終わり
次の朝が来たら朝日を浴びて
灰になる決心をした
最後のゴールデンバットに火を点けて
肺を煙に巻くけれど
一時も忘れたことがない
ついぞ味わうことのなかった貴方の血の味
そればかりが相変わらず鮮明に
輝ける悔いとして胸に
刺さっている
初心翻り惰性の趣きで蛇行して
蛇の道はガラガラヘビの鳴り物入り
昼夜問わず枕元まで祭囃子がついて回る
眠れぬ夜の夢音頭
隈を作って歌舞いて候
花道の端から端まで
ずずずいっと
裾を引いて
だらりの帯の尾を引いて
花魁道中さながらに
練り歩く花道の先は夢の島
埋め立てた日々の残骸の陸
発生したガスに引火して
容易に消えない火の手が上がり
類焼した背中を燻らせる
いこる背骨がはぜるなら
山あらしか火の鳥か
いずれにしてもジレンマの最中
夏の裏側に取り残された発育の跡
根深く恩恵を吸い上げて
吸い上げ続けた果てに枯渇した土地で
閉じた唇の隙間から泡をふいたのは
知らず知らずに摂取してきた毒素のせい
他を寄せ付けぬ繁茂の
煩雑なまでに根も葉もありすぎて
過密な事実の上に
アスファルトの上塗り
事なかれ事なかれ
慣れろ均される事に
事なかれ事なかれ
尽く油ぎって都合よく虹を夢み
舗装された道を歩行する
風は吹けど帆の張り方を知らぬまま
雨降って地固まるのを人は
絶望的に待てなくなっている
まだ今年は始まったばかりで昨日が観劇初めだったけれど、すでに今年一番良かった舞台になるんじゃないかと思う。
森ノ宮ピロティホールで『レミング』を見た。演出は維新派の松本雄吉さんで、来月同演出家の次の作品に出演するけれど、そういうことを差し引いた感想として、作品に感動するところがあった。
『レミング』の初演を見ていないし、他の演出家による上演も見たことがない。戯曲も読んだことがなく、寺山修司にはげしく惹かれたこともない。内容に関しての予備知識はほとんどない状態で見た。
ある日コック見習いの住む下宿の部屋の壁が突然なくなり、隣人である夫婦、病気の夫と看病する妻の部屋との仕切りがなくなる。大家に修理を依頼してもそんな下宿はどこにもないと言われ、壁のなくなった部屋には現実なのか誰かの空想なのか夢なのか判別のつかない人々が次々とやってくるようになる。都市生活者の往来、隣人の夫婦は病気の夫を看病しているように見えて実は妻の方が病気であったかも知れない、医者を演じているかも知れない患者、患者を演じているかも知れない医者、何十年も同じ映画のシーンを撮り続ける大女優、だったかも知れない女、女優を撮影する監督の役をしているだけなのかも知れない映画監督、カメラを構えて撮影するふりをしているだけなのかも知れない撮影班、往来する都市生活者たちは撮影現場のエキストラかも知れない、さらにそこで撮影しているそれらすべてもフィルムのなかの出来事でしかないのかも知れない、舞台上で起こっているすべては、コック見習いの住む下宿の畳をめくった床下に住むその母の幻想だったかも知れない、コック見習いも精神を煩っているだけなのかも知れない、ほんとうは床下に母などいないのかも知れない。
どの登場人物のありように疑いが掛かっている。それですべての登場人物が誰でもない人に見えてくるというか、最後に残る人物の印象というのが舞台上にいる「誰か」ではなく現実には「表舞台には上がってくることのない人たち」のことだった。社会的な視点から弱者、病者、不適合者と見なされる、言わば社会の辺境にある者の占拠、叛乱のようで、演劇とはそういう価値転倒、現実にははみ出してしまうもの、いかがわしいものを宿す場であるべきと私は思っているので、そういったところに掴まれた。大きな劇場にほぼ満席の観客、贅沢な舞台装置や照明、衣装、キャスティングで主演を立ててわかりやすいドラマを巧みにやってのけるのでなく、上演が終始演劇に対しての批評としてあるように思われた。さらに「演じる」ということに付された疑問はもっと広範囲の、つまり現実を生きる振舞いすべてに対する投げ掛けとしても受け取れる。演じることそれ自体が台詞を発した瞬間に作品に批評されるかのような、それでいてそれを照り返す強い形式を持った演技、演じるということが要求され、それを記号的に機能させることができるキャスティングになっていた。
歌劇と言っていいくらい次々にシーンと音楽と踊りが変わり、場面転換の流れに一切隙がない。そのなかで中盤、奇妙な間のあるシーンがあった。往来もいなくなりコック見習いがひとりで舞台の上手から下手を数回行き来する。靴音がマイクで拾われて聞こえる以外に音は無く、舞台上は極力シンプルな状態になっている。それがけっこう長いので一瞬舞台の機構が止まってしまったのかと思うようなインターバル、空き地のような時間があらわれ、それがとても良かった。
そこからはまた息を吹き返したかのようなテンポの芝居が展開され、ラストシーンに差し掛かると銀色の紙吹雪が舞う。過剰な程舞い続け、この作品の主題になっているステップを全員でしつこいくらいに踏み続ける。終わらない。ザッ ザザッ ザッザッザというリズム。なかなか終わらない。足で踏みながら途中屈んで同じリズムで床をノックするように叩いた。それが今自分たちの立っている場所を確かめているようでもあり、ここはどこなのか、床のずっと奥の奥、裏側のさらに突き抜けた先、足場のない世界の果てを尋ねるノックのようでもあった。プロセニアムの枠の中が着地点を見失ってちょっと狂ってしまったんじゃないか、その狂いに劇場自体が巻き込まれているかのような感覚に陥ることはちょっと今までにない醍醐味だった。
心肺をティッシュのように配り歩いてしまえば
手元に何も残らないのは当然で
すかすかしたゆとりのない胸元に
豊かなものは宿らない
心配事は誰にも見つからないように
マヨネーズでもつけて食べてしまって
消化することで同化
循環器系のめぐりにのせて
ゆくゆく心配であったことを溶かし
豊満な胸元の一部とするほうが
よほど建設的である
キラーヒールの湾曲に
気付かないまま身を任せ
彼女は地下鉄のホームに
斜めに立っていた
体の重みを売りに出し
望んだわけではない場所に漂着したなりで
あやふやに根をおろし
粘着質な用土に若さの糧を
むしろ吸い取られながら
いつだって数割の
無理を含んだ彼女のかたちは
歪んだの骨格の上に
最低限の肉をつけて
そこが彼女のこの世の居場所
そもそも黒髪が生えていたことを
頭皮から忘却して
バッグと揃いのモノグラムの柄を
細胞に転写する
つけまつげに包囲された緑の瞳と
一瞬目が合った