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流出雑記 

『DRAMATHOLOGY』

2009年05月31日 | Weblog
このドラマソロジーというのは今度の公演のタイトルです。
伊丹市在住の70~90代の方々と舞台を創るワークショップを去年11月から始め、気付けば本番まで約1ヶ月、迫って来やがったという時期に差しかかっております。

詳細はこちらをご覧ください↓

『DRAMATHOLOGY』


ぜひ!

5月20日

2009年05月20日 | Weblog
朝刊、夕刊届く度にインフルエンザの感染者数が増えていく。
7月の公演のため毎週通っている伊丹でも感染者が出たため今週は稽古が出来ず、街に出ればマスクをしている人の多さに驚く。
アルト-の「ペストと演劇」について書いているものをもう一度読みたくなる。

京都では休校処置はとられていないので、予定通り午後から精華大で仕事。
薄い上着もいらない暑さ。
家々の軒先の植物を見ながら自転車で走る。夏に向けて我が家に何を植えようか考え中。少し時間があったので、コーナンの園芸部に寄る。若い緑色のゴーヤ、トマトなどの夏野菜の苗、母の日に売れ残った大量のバスケット入りカーネーションは特価で炎天下にほっぽり出されて枯れかかっている。
朝霧草というのが欲しかった。シルバー系グリーンで細い葉がブラシ状になっていてきれいなのだが、売っていたのは育ちすぎてびろんびろんになっていたのでやめ。

地下鉄の国際会館前から数分置きにやってくるスクールバスに乗り大学へ。

3分や2分の短いポーズのクロッキー。3時間で約40ポーズすることになる。
先週も同じクラスに来たので、ポーズがかぶらないように心がける。
モデル台は中央にあり、学生さんはぐるりと座っているので正面を変えながらポーズを構成。
後半に差し掛かると手の位置などは大体やり尽くしてきた感じになる。
ただ突っ立っているだけでもフォルムはそこに表れているのだが、何かしらのポーズをとらないと体でないような浮き足立った心持ちになってしまう。
重心、スタンス、ひねり、首の角度、目線…

なんだか体が開拓されるようだった。

終わって、シャンプーが無くなりそうだったのを思い出してドラッグストア-に寄る。
我が家は真っ黒な「墨」というシャンプーを使っている。
「墨」を片手に生理用品のコーナーをうろついて、ライナーを手に取った瞬間、反対の手に持っていた「墨」のボトルを床に落とした。
サンダルの足に冷たいものがかかった。足下を見る。ボトルにヒビが入り、床にタールのような黒光りする液体が飛び散っていた。
しばらく考えた。

ライナーと割れた「墨」を持ってレジに行き、謝ると薬剤師のお兄さんは、ティッシュを貸してくれ、床は後で掃除しておくのでと親切な応対だった。
その後別のレジで割れていない「墨」を買って帰った。




脱衣

2009年05月19日 | Weblog
裸の存在とは何か 。
それは服を着ていないという意味の裸でなく、在り方としての、潜在的身体。

私たちは既に生まれ、育てられた環境、ある国家の文化と価値基準の中で生きている。
その中で身につけたもの、身についたもの。着せ付けられているもの。意識的にまとっている便利な蓑のようなもの。
様々なレベルのものが折り重なり、部分的には癒着して、それが意識的なものだったのか無意識のうちに身に付いたものなのかあたかも皮膚のような顔になっている。

私の思う裸形というものを書いてみる。
それは立つともしゃべることも育つこともないトーフのような、半熟状態の、無垢というようなものでなく、ただ不気味な心肺運動につなぎ止められた身体であった。
なぜそうなるかというと、ひとつの身体が外的要因を削いだところに在ると想像してみると、そこには他者及び食物、住居、国、地形とにかくあらゆるものが消え去り、何もない真空の場所に据えることとなり、その状況では生存することが出来ないということになるが、想像の上でその存在を生かしてみる。
すると不気味に運動し続ける心肺の周りを囲う筋組織は、皮膚は、太陽光の届かない海の底に棲む深海魚のような柔い白いもので出来ていた。胎児にような質感なのだが、成長しているものとして、私と同じ25年生きている体だと仮定する。
成長しているというよりふやけて膨張するのに近いようなイメージがあり、わけのわからないくらい巨大な体が何もない所に在るといったものを思い浮かべた。

しかし同時にそういう事ではないなと思う。
それは獲得されることのない、あくまで想像上の生き物の話しだ。

ではもう少し現実的に、成り得る裸形とは何か。
これまで身に付いたものすべてを取り払った何もない私 。
しかしこの私と呼んでいるもの、そのものは身についたものであるとも言える。
裸形の私の実体はない。 常に纏っているものの隙間から露出する空洞。潜在的身体の不在。
実は何もフィットしない そぐわないということ。
もはや身体と言う言葉自体が透明感を帯びてばらけていくもののように感じられる。

私が裸と呼んでいるものは実体を表すものではなく観念の言葉であり、それを軸に私は物事を考えているのだと思われる。

果てしない私による私の脱衣の要請に従うこと。
しかしその欲望はいわゆる無私の私へ向かうことは真逆のある傲慢さに裏付けられていることに気が付く。そういう恥さらしな気質を私は持っている。

くろまる

2009年05月05日 | Weblog
2時就寝10時起床

子供の日はすかーんと晴れていてほしいが曇りがち。
ゴールデンウィーク、ふたり揃って昼間に用がないのは今日だけなので出掛けることにする。

鯉のぼり。
子供の頃、住んでいた社宅の駐輪場から隣の平屋の立派な鯉のぼりがはためいているのが真下から見えた。強風が吹くとバサバサ音を立てて暴れるのが怖くて、今も鯉のぼりはなんとなく怖い。

京都駅へ。
ある目的を果たしに行く。
伊勢丹に「くろまる」というロールケーキを出しているカフェがある。
竹炭をねりこんだ真っ黒なスポンジ生地に生クリームが巻かれていて、炭の粉末で少ししゃりしゃりする独特の食感があるというひとしな。
ダーリンはそれをとても食べたかったらしい。
「くろまる」の存在を知った日からその見かけに惹かれて、あれはきっとおいしいはずだと彼の中でどんどん想像のレベルが上がっていた。

12時過ぎ京都駅着。
予想通りの人ごみ。
駅ビル内のスペイン料理店フィゲラスでお昼。
ここには私が魅了されたヴァチュールのタルトタタンがある。

タパスランチとパエリアランチを注文。
タパスには、サラダ、スパニッシュオムレツ、牛肉のトマト煮、パン、スープ、コーヒーが付いてくる。
パエリアは魚介の濃厚な出汁を吸ったサフランライスがとてもおいしい。

2年程前、ホットプレートでパエリアを作るのに、はまった時期があったが、またやってみようといいながらぱらりと仕上がった黄色い米を掬う。

その後駅ビル内をうろつき、3時に近くなり本日の目的地へ。

「くろまる」ワンカットドリンクセットで500円。

竹の籠に乗って「くろまる」は現れた。

緊張の一口目。二口目。
フードコートの一角、神妙な面持ちでロールケーキを賞味。

生地にはほのかにシナモンの風味がある。しゃりしゃりするという食感は思ったより控え目。
おいしいが、一本買って帰ろうという中毒性のあるものではなかった。
期待値のハードルをかなり上げていたダーリンだったが、それなりの満足感は得たようで、今度は堂島ロールに思いを馳せていた。

京都駅改札付近の混雑と人の流れを上から眺めているとおもしろい。
それを写真に撮ったりしていた。

京都駅に飽きて四条に移動。
藤大で、ダーリンは美しく形のシャツを買う。

私は6時から出町柳付近で仕事だった。
歩き回って疲れたので座ポーズがよかったが、残念ながら立ちポーズだった。

初整体験

2009年05月04日 | Weblog
1時就寝9時起床

ダーリンは同窓会に出るため昨夜福井に帰郷。
明け方、目が覚めた。
不快な体感。痛くも痒くもないが、後頭部が縮んで手足が散逸しそうな堪え難い感じがあって丸まったり寝返ったりしていた。
布団の中にいるのに全然温かくない。寒い訳ではないのだが、かなり体温が下がっているように感じた。
そもそも低体温だが、何だったのか、9時に目覚めたときは平気だった。

11時に整体を予約していた。
初体験。
とりあえず家から一番近い所にしてみた。
とりたてて体が不調というわけでもなかったが、体を不自然に使う仕事を長くしているし、少なからず骨盤が歪んだりしている気がして一度行ってみる事にした。

商店街の中にある去年できたばかりのメディカル整体。
受付には若い女性。
白い壁、青空の天井、アロマの香り、ヒーリングらしいミュージック。
先生はマスクをしていて顔はよくわからないが若くて声は穏やかだが目が鋭く眉毛が麻呂のよう、髪はジェルのようなものでぴっちり固められている。可視部分だけで判断するならヤンキーに分類される。

まず筋肉をほぐす。
肩から背骨にかけて。
私には肩が凝るという自覚症状がほとんどない。
首をひねったポーズをしたときなどは肩が詰まるなあという感じはあるが、一晩経つともう気にならない。
しかし私の肩は凝っていたらしい。
かなり凝ってますが、ふだん重い感じはないですかと聞かれる。
肩から背中にかけて全体的に凝り固まっていたそう。
これを放置しておくと筋肉が脊椎を圧迫して骨格の歪み、椎間板ヘルニアになる可能性が出てくるらしい。
普段からストレッチ等は習慣化してやっているが、自分ではほぐす事の出来なくなっている部分もあるそう。
不自然に静止してきた体の蓄積疲労というものはやはりあったのだ。

施術中痛みはない。ただうつ伏せで長時間寝ているのが少々辛い。
下半身、足の裏、頭。
その後骨格矯正。
骨にそれほど歪みは出ていないが骨盤の左側が少し前に出ていたそうで、それをどうやって治すのか興味津々でいた。
寝かされていたベッドのちょうど骨盤にあたる部分だけ10センチほど上がり、先生がぐっと押すと上がった部分がガシャンと落ちて元の平らな状態に戻る。それを3回ほどやると元に戻ってしまったらしい。
ゴキッという感じもない。

最後に何だか電磁波的なこわい音のする白い光を15分ほど浴び終了。

初めての施術後は瞑眩反応といって、体が歪んだ状態が正常だと思っていた脳が、歪みが正された状態を正常と認識するのに時間がかかり一時的に混乱するため人によっては怠くなったりするらしい。

支払いを終えて出ると1時過ぎ。
いったん家に戻り昼食と洗濯。
その後買い物へ出る。
母の日、アレンジメントを送ろうと思い、必要なものを買いそろえ、練習用に花を買う。練習用なので安いカーネーションとガーベラなど。
レモンリーフか木いちごなど葉ものがほしかったが近所の花屋に無く、仕方ないのでうちに生えているものでやってみた。
給水フォームをラッピングする。
花屋で教えてもらったことを思い出しながらなんとなく出来たのが写真。




江戸のオートクチュール

2009年05月03日 | Weblog
1時就寝6時40分起床

10時から天王寺で仕事。
午前午後通しの仕事なのでお昼持参。
昨日作ったとうふパンとマフィンにかぼちゃサラダを挟んで持って出る。

自転車で出町柳へ、京阪に乗る。
日曜の朝なので電車は空いている。
前の席のおばさんはラップに包んだおにぎり、通路を挟んだ横の席の若い男の人はコンビニのパンでそれぞれ朝食をとっている。
いつもは朝と言える時間に起きていない私の胃はものを食べるテンションではなかったので飲み物だけ飲んできたが、車内食風景を見ていると真似したくなりとうふパンを食べた。

9時半天王寺着。
JRからの出口を間違えてどこにいるのかわからなくなり駅員さんに道を聞き、朝から走り回る。

天王寺美術館の研究所。いくつかクラスがあり、モデルはヌードと着衣合わせ3人ほど来ている。
モデル同士が顔を合わせのはこういう機会くらいしかない。
控え室に入ると先に来ていたモデルは知っている人だった。
年齢はおそらく30代後半。元バレリーナらしいが、私はこの人が苦手であった。
初対面でも気さくに話し掛けてくれるのはいいが、妙に立ち入ったことを聞いてきたり、話題に品がない。長時間一緒にいると疲労するタイプの人である。

そんな訳なので休憩中も出来るだけ控え室に入らずデッサン室に留まり本を読んだりしていた。

昼休みは外に出て天王寺公園内でお昼を食べる。
バラも咲いてゴールデンウィークで人出多し。

美術館では「小袖」という展覧会がやっていた。
小袖とは袖の小さい着物で、華やかな色柄が好まれた江戸時代、女性は呉服屋にデザインを注文して作らせたそう。
四季折々のもの、花鳥風月、和歌や物語をモチーフに、後ろ身頃を画面に見立て見事な構図が展開されている。
時期のものをまとう楽しみ、四季の移り変わりが衣食住を彩る文化の豊かさを感じる。
桜、椿、梅、松、鉄線、萩、菊…
気を付けて広げないとほつれてしまいそうに薄くなった布地に金糸銀糸、やわらかい絹糸の刺繍は褪せることなく艶やかに模様を描いている。
女は季節に寄り添うと美しく生きられると何かで読んだ覚えがあるが、そうかも知れないと思った。

中には和歌の一節が仮名文字で刺繍されたものもあった。Tシャツにローマ字や漢字というのは違和感ないのに着物に文字が入っているのはなんだか奇妙に思えてしまう。暴走族の着ている長ランを思い出す。

しかしあまりゆっくり見ている時間がなく、着物の色柄を目薬を入れるように素早く目に入れて(武田百合子的表現)デッサン室に戻る。

午後のポーズを終えて、天王寺公園を出てすぐにある植物店に寄る。
銀雪という日本に自生する小さい蘭。洋蘭のように豪華で高級感のある姿ではなく、山道にさり気なく咲いてそうな感じ。なんだかすごく良い香りがしたので何かと嗅ぎまわっていたらそれだった。
スズランに近い香りに少しジャスミン系統の華やかさを感じる非常にバランスの良い芳香。

帰り道、京橋で乗り換えの時に京阪モールで服を衝動買いしてしまい本日のギャラ消える。


5月はじまり

2009年05月01日 | Weblog
4時就寝11時半起床
鳥取にいたときは1時まで寝て7時には起きる生活だったのにすっかり元通りに。

5月晴れ。洗濯。
掃除。小梅は7割くらい夏毛に生え変わった。掃除機の中はほとんど毛。

ダーリン起床。
お昼、マフィンサンド。
ダーリンはパンにベーコンエッグとチーズ、マヨネーズをたっぷりかけたものが好き。 
私はカッテージチーズとかぼちゃサラダを挟む。

一昨日夜、財布を無くした。
四条烏丸付近でスペイン料理を食べてその帰りに落としたのか、とにかく帰宅途中にスーパーに寄って財布がない事に気付いた。その財布は我が家の食費だけを入れているもので、月末で残金も知れていたし、カード類もスーパーのポイントカード程度だったのでさほど慌てはしなかった。とりあえず店に問い合わせてみたが見つからず。
その翌朝、五条署に財布が届いているとの連絡があった。

夕方、仕事で阪急に乗るので四条に出るついでに財布を取りに五条署へ。
二階の遺失物預かり所。窓口には先客、30代くらいの幸薄そうな男性。
どこかのATMでお金をおろして袋に入れたが鞄に入れずにそのまま置き去りにしてしまったらしい。
それらしきものは遺失物として届いていたが、何かの確認に手間取っている様子だった。
係の人は今日は渡せないと言うが、男性はどうしてもそのお金を今日支払わなければいけないらしかった。
「どうしても今日11万9千円振り込まんとあかんのですわ。マジで。お願いします。その緑の封筒に間違いないと思います。ほんまにお願いしますわ。」
と、なんだか鈍臭い舌の動きと口調で頼み込んでいた。

私の財布は中身共々無事手元に戻って来た。

4時から児童画教室のモデル。
小学生相手の仕事は初めてだった。
会場は、バレエ教室のフロアを借りた所。
鏡やバーレッスンのバーがあるフロアに生徒が各々レジャーシートを敷いて画材を並べている。中には油彩を持って来てイーゼルを立てている子もいた。
先生から事前にノースリーブのワンピースでとのことだったので、3着ほど持って行ったものから選んでもらう。
高校生の時に古着屋で買った赤いワンピースに決まった。

2時間4ポーズ固定

1年生から中1くらいまでの数十人。モデルを描くのが初めての子の方がほとんど。
先生が呼ぶ生徒の名前はルリアちゃんだのユウセイくんだの今どき感漂う凝ったものが多い。

遅れてやってきた女の子が入って来て私をみた第一声。 
「じっとしてはる。」

そうだよ~お姉さんはこうして日々じっとして日銭を稼いでいるのだよ~

中にひとり、大きくなったら玉木宏になりそうな足がやたらと長く日本人離れした体型の寡黙な美少年がいた。

6時過ぎに仕事を終えスーパーに寄って帰宅。
昼間に隣のおばちゃんから下湯で済みの竹の子を半分もらった。
今日のポーズ中はそれをどうやって食べようか考えていた。一番に思いつくのは竹の子ご飯だが、たまたま今日は豆ごはんの用意をすでにしてしまった後だった。

夕飯、にんじん入り豆ご飯、牛肉とタケノコのガーリックソテー、牛スジとこんにゃくの煮たの残り、納豆みそ汁。
こんな春の献立となった。



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2009年05月01日 | Weblog
生きていると
齢を重ねていくと
思い出やら荷物やら増えて
その重量でなんとなく物腰も佇まいも暮らしぶりも落ち着くところに落ち着いていつの間にか
そんな顔になる

アイホールのワークショップで70~90代の人たちを見ているとそんなことを思う。
私の生きた時間の約3倍の日々を渡ってきた人々。

病気などの体調の変化以外に体に意識的になるということのなかった人たちが、買い物や通院の為にどこかへ向かって「歩く」のでなく、「ただ歩く」ということを試みている。
足の裏を丁寧に地面に置いていくような、速度を落とした歩行。
本来は背筋を出来るだけまっすぐにして、余計な強張り、無意識の体のクセを意識化し出来るだけニュートラルな姿勢の歩きを目指すが、今回のワークショップ参加者の方々には年月が既に形成してしまった体というものがある。
首や肩の力を抜く事、足の裏の使い方などは或る程度指摘できるのだが、特に背筋の湾曲などはもはやその人の姿となっている。
そういうワークをしながら集中しているとき以外はほとんど一時も止まらず世間話しをして止めるまで止まらない人たちが、黙ってなかなか思い通りに運べない一歩と格闘している。
普段喋っているときは誰々さんというその人だが、ただ歩いている姿をみていると、「老い」というものを傍観しているように思えてくる。

例えば父親に久しぶりに会うと、お父さん歳とったなあと思う。
しかしそのときは「老い」という現象を傍観するというより「老いていく親」を見る私の個人的な感傷の気分が含まれる。
そして私も日々老いている身なのだが、肌の保水力低下のなど加齢に伴う変化は感じつつ、しかしそれを「老い」というふうには捉えていないし、まだ先の事という曖昧な現象としての実感しか今のところない。

ただ「老い」を見るということ。
老いた体を見る。

衰えるという言葉がある。
逆の言葉は栄える。
先日テレビで見た、ローザンヌ国際バレエコンクールの出場者の体。
訓練され鍛え上げられた体はあるルールの中で動きを制限し、それを意識的に完璧にコントロールし、その姿は超人的で価値あるものに見え、栄えているように見える。

老いた体と衰えという言葉が結びつくのは身体機能の低下による。
まっすぐ立たない背骨、思うように稼働しない関節部。
動きに制限が出てくる。
そうなるように鍛えた訳でもなく、意識的にコントロールしているのでもなく、そうなった体。

動きに制限があるという共通点はあるが、意識的なコントロールの有無の差。
コントロールできない「老い」
意識的にコントロールできないという事は、自分ではどうしようもない力が働きかけているという事で、いくら抗おうとその力から逃れられない。
ローザンヌに出ていた10代のダンサー達もいつか老いる。
誰にでも平等に働きかける「老い」は特別なことではない。
それに連れての体の変化は「今まで出来ていた事が出来なくなる」ことなので、それは実感として可能から不可能に、つまり衰えとして捉えられてしまう。
目に見える「老い」た体。

「老い」を受け止めた体で歩いている姿。
そこからは単なる衰えいう形容ではない佇まいが見て取れる。
それは選別、排除によって作り上げられたものではなく、寛大さ、受容、によってある体であると思われる。
生まれたときから孕んでいる「老い」が時によって人を押し広げていくような。
そうやって私たちを押し広げついにはこの体にさえ収まらなくなる。

絶景のような広大さ。
そんな広がりを人の中に見る事が出来るだろうか。