伊丹、アイホール「ソロダンスをつくる」出演させていただいた発表公演、無事に終える。
出演者10人それぞれ踊るきっかけを探しそこから動きを展開し、寺田さんのとのやりとりのなかでそれを少しずつ更新しながらひとりの時間を立ち上げていった。誰かの企てたものでなく、まずどうにかして自分の時間を立ち上げる、そのことだったと今振り返って思う。だからそれぞれが言わば丸ごとだった。ダンスの経験があろうがなかろうがこれまで生きてきて選択したもの/選択しなかったものしかなく、何ができるか、何が出来ないか、向き合うというかぶち当たってみる他ないという感じだった。その過程に演出の寺田さんのまなざしは介入しているけれど、それぞれの体臭を消してしまうことはなかった。全体の構成が出来るまでの稽古場は個人作業となるので、思いついた動きを反復していたり何やらもそもそ動いていたり放心していたりチョコレートを齧っていたりおかきを齧っていたりずっとイヤホンで音を聞いていたり、各々ガラパゴス化した状態を最終的に構成された寺田さんの演出の手つきに出演しつつ共感を覚えた。それぞれの世界観を汲んで過剰でなく引き出してくださる吉本さんの明かり、それぞれに適した状態でいろんなところから流れてくる齋藤さんの音の仕事もws発表という名の公演には贅沢に思えてしまうすばらしさで、自分の他9通りの立ち方からも受け取ったものがいろいろあった。
ダンスと出会って10年ちょっと経つがずっと振付というものに違和感があった。予定したこと、こうやってこうなってという流れを毎回再現すること自体に「ダンス」を感じなかった。でもそのとき自分が「ダンス」と呼んでいるものは創作以前、最初に体が動きだすときの衝動で、自分で意識的に選択し再現するものとはほど遠いと思われたからだ。
はっきり自覚したのは私にとって「ダンス」と「踊ること」は違うということだった。つまりあらかじめフォルムを選び抜きその移り変わりを試行錯誤し、それを再現すべく力の入れよう抜きようを稽古することでしか練りだせない時間があり、さらに予定した道すじがあるから新たに気付くこと、思いつくことがある。でも即興のなかで再現を求めない時間に身を投じることでしか出来ないこともある。何かを作るとか表現するとかいうところに体を従事させることから離れること。どちらかのためのそれではなく自分にとってはその両方の必要を感じる。
稽古中「自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。」という土方巽の言葉をよく思い出していた。
今日は仕事。ポーズ中かかっていたラジオからブルーハーツの「人にやさしく」が流れてきた。そのせいで帰りの電車でブルーハーツが聞きたくなって動画でさがしたライブ映像。リンダリンダを歌う前にヒロトがこういった。「この世に結果なんてねえんだからよ、今思うようにやるんよ。」