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流出雑記 

2012/2/25

2013年02月25日 | Weblog

伊丹、アイホール「ソロダンスをつくる」出演させていただいた発表公演、無事に終える。

出演者10人それぞれ踊るきっかけを探しそこから動きを展開し、寺田さんのとのやりとりのなかでそれを少しずつ更新しながらひとりの時間を立ち上げていった。誰かの企てたものでなく、まずどうにかして自分の時間を立ち上げる、そのことだったと今振り返って思う。だからそれぞれが言わば丸ごとだった。ダンスの経験があろうがなかろうがこれまで生きてきて選択したもの/選択しなかったものしかなく、何ができるか、何が出来ないか、向き合うというかぶち当たってみる他ないという感じだった。その過程に演出の寺田さんのまなざしは介入しているけれど、それぞれの体臭を消してしまうことはなかった。全体の構成が出来るまでの稽古場は個人作業となるので、思いついた動きを反復していたり何やらもそもそ動いていたり放心していたりチョコレートを齧っていたりおかきを齧っていたりずっとイヤホンで音を聞いていたり、各々ガラパゴス化した状態を最終的に構成された寺田さんの演出の手つきに出演しつつ共感を覚えた。それぞれの世界観を汲んで過剰でなく引き出してくださる吉本さんの明かり、それぞれに適した状態でいろんなところから流れてくる齋藤さんの音の仕事もws発表という名の公演には贅沢に思えてしまうすばらしさで、自分の他9通りの立ち方からも受け取ったものがいろいろあった。

ダンスと出会って10年ちょっと経つがずっと振付というものに違和感があった。予定したこと、こうやってこうなってという流れを毎回再現すること自体に「ダンス」を感じなかった。でもそのとき自分が「ダンス」と呼んでいるものは創作以前、最初に体が動きだすときの衝動で、自分で意識的に選択し再現するものとはほど遠いと思われたからだ。

はっきり自覚したのは私にとって「ダンス」と「踊ること」は違うということだった。つまりあらかじめフォルムを選び抜きその移り変わりを試行錯誤し、それを再現すべく力の入れよう抜きようを稽古することでしか練りだせない時間があり、さらに予定した道すじがあるから新たに気付くこと、思いつくことがある。でも即興のなかで再現を求めない時間に身を投じることでしか出来ないこともある。何かを作るとか表現するとかいうところに体を従事させることから離れること。どちらかのためのそれではなく自分にとってはその両方の必要を感じる。

稽古中「自分の肉体の中の井戸の水を一度飲んでみたらどうだろうか、自分のからだにはしご段をかけておりていったらどうだろうか。」という土方巽の言葉をよく思い出していた。

 

今日は仕事。ポーズ中かかっていたラジオからブルーハーツの「人にやさしく」が流れてきた。そのせいで帰りの電車でブルーハーツが聞きたくなって動画でさがしたライブ映像。リンダリンダを歌う前にヒロトがこういった。「この世に結果なんてねえんだからよ、今思うようにやるんよ。」


2013/2/16

2013年02月20日 | Weblog

貴重な休日。
ドライコース洗濯、掃除。さぼっていた拭き掃除も。溜まった埃に戒められる。
昼、鮭フレーク、ネギ、卵、生姜、冷蔵庫にあったものチャーハン。

3月3日「天使論」をやる公演のチラシを置いてもらいに大学、活動センターなど夫とバイクでめぐり、明日までの絵本の原画展を見にnowakiに行く。nowakiは絵本や焼き物を扱っている町家のお店。土間から上がると火鉢で炭がいこっているのが見えた。熱源は小さいけれど思うより広範囲ぬくい。

絵本の原画は画家手作りの標本箱のような木枠に収められている。夜と子供の絵。あまり絵本に詳しくなかったけれど、ノンタンみたいな感じのからからした日向のものとはちょっと違う、湿度のある暗闇のなかの物語。そういえば小学校くらいまで0時より先は未知の時間だった。初めて徹夜をしたのは中学生だったか。空が徐々に明るくなり道路が白く朝の顔になって、向かいのパン屋がシャッターを上げるのを見たのは。帰りがけに瀬戸内産レモンをふたつおすそわけしていただく。

帰りに岡崎のラブホテル街手前にある見た感じうっそうとしたカフェでお茶して北白川に戻りライフに寄る。
今日は餃子を作りたくなり、キャベツ、豚バラブロック、生姜、皮など買う。皮を大判にするか小さいサイズにするかで討論になった。大判の方が包みやすいし早いのでそっちを推したが夫は餃子の耳が少ない方が良いらしい。そのとき後ろから買い物カゴをぶら下げた某ダンサーの方に声をかけられ驚いて討論は白熱する前に収束。夫が包むのを手伝うから小さい方にしようと言うので譲った。
帰って餃子。
フードプロセッサーにキャベツと豚バラを任せ、にんにく生姜をおろして練る。キャベツはしぼると嵩が減るけれど、大体キャベツの量は肉の倍ほど。塩酒醤油ごま油味の素少し。あとは30個包む。

この日の餃子は会心の出来だった。

勝因は油の多いバラを選ぶこと、家で粗めに挽くこと。おそらく。

夜、「ルアーブルの靴磨き」を観る。

カウリスマキの映画の青果や花や室内のあの濃い色合いが好きだ。梶井基次郎が檸檬をあらわすときの「絵具をチューブから絞り出して固めたような」という形容を借りたくなったので借りる。ひとつひとつの物が物としてある感じがする。カウリスマキの映画に出てくる人物はいつもいわゆる自然な演技をしていないけれど、むしろ映画のなかでは調和が取れていて、人物は魅力的に映しだされる。人物たちは常に、まなざされている、という前提の上にいる感じがある。演技というのはつまりそういうものだけれど、映画の俳優はふつう見ている者がまるでいないように演じる。観客はスクリーンのなかで展開されるヒロインの恋やヒーローの活躍など登場人物たちの関係性と物語の展開を見る。でもカウリスマキの演出では、まなざされている前提そのものを意図的に残しているように見えるのだ。俳優の意識が見ている者の方に届いてくる。構造的に俳優が観客に向かって話しかけるというような手法を使うことなくそのことを可能にしている。カウリスマキはあの奇妙な俳優の状態を手法として作り出したのではなくて、カウリスマキ自身の目を通して繊細に人を見た結果ああなったのではないだろうか。鋳型にはめ込んで出来るものではないし、単に奇をてらった場合あの均衡状態を作り出すことは難しい。演じることに俳優が覆い尽くされないように俳優それぞれに対して丁寧に調律している感じがする。そこに血がかよっている。

そして何かがまっすぐだ。出てくる人物たちも。そのことに感動する。カウリスマキの映画を見ると人間でよかったと思う。でもカウリスマキと同じくらいハネケの映画にも魅了される。ハネケも別の視点から人間をまっすぐに見て狂気に触れる。

ブルーハーツとかまってちゃんが好きなのはどっちも私にとってまっすぐだからだなと思う。

 

ストレート まっすぐだね 

 

そういうものを私は愛す。


2013/2/14

2013年02月15日 | Weblog
2月の終りと3月の最初2週続きで別の公演がある。そうなるとどちらも迫ってきた今の時期はやはり多忙。でも腰の後ろの奴(体を動かす原動になるので私はゲンドウと呼んでいる)は目をギラギラさせている。むしろ私はそいつの気配かも知れない、と考えておく方が面白い。腰の後ろにアクターがいる、とある人から教わった。つまりこれは意識の持ちよう、何かしようとするときの自分の扱いようを示しているのだと思う。舞台の上で何かするときのありようは仮面を被るようなことでないという。
最近甘酒を常飲。酒粕は冷蔵庫常備品。
酒粕をお湯で溶き、牛乳で割ってきび砂糖を入れ温める。終電で帰り着き冷え枯渇した体に生気が補われる。スジャータの乳粥の如く。
天使論の稽古中。
食べたいものを考えると餃子が浮かんだ。
帰り道。
スーパーに寄ったら売出しで78円となったミンミンせみ餃子が何もかも心得た面持ちで待ち構えていた。
夜。
熱したフライパンに彼らを並べ、水に小麦粉を溶き回し掛け、蓋をして最後に油を注ぎ、羽を与えた。
餃子は点心から天使へと飛翔する。