午後、コーポレアルマイムのワークを受ける。この頃そこで体を開拓するのがおもしろくてしょうがないことのひとつ。
その後アトリエ劇研でしたための『巣』という演劇を見る。
冒頭、暗転のなかから3人の若い女の子の掛け合いの台詞が聞こえてくる。明かりが入ると素舞台のブラックボックスに3人の姿があらわれ、それぞれの部屋についての話しがはじまる。
舞台の床に3箇所四角い明かりが落ちた。それはそれぞれの部屋の冷蔵庫をあらわしていて、その前でドアを引く動作をし、冷蔵庫の扉が開くと女の子たちはヴーと見えない冷蔵庫の音を出す。というように実際そこには何もないけれど、触るものの名称とそのときに出る音を口に出しながら彼女たちはそれぞれの部屋の台所を冷蔵庫から流し、コンロ、トースターと横移動しながら朝食の支度をする。
日々の導線、いちいち記憶していないようなほとんど無意識にさっさとやっている朝の支度の行為があらためて縁取られながら舞台の上で再現される。その縁取り線からうっすらとここではない彼女らの台所が見える。ラース・フォン・トリアーの『ドックヴィル』を少し思い出す。この映画はある村の話しなのに全シーンスタジオ内で撮影されていて、風景はなく昼夜はライトで調節され、村の家々の境目やドアも床に白チョークで書かれた線であらわされる。なのに見る者のイメージのなかで勝手に想像された架空の村の風景が目の中に残る不思議な映画だった。
別のシーンでは一人がけのテーブルと椅子が運ばれ、化粧ポーチを持った女の子がひとり登場して座る。化粧ポーチをひっくり返すと中からジェンガが出てきた。ジェンガの木のブロックを積み上げて、ひとりでブロックを抜きながら、ひとつ抜く毎に化粧水をつける、美容液をつけると化粧するときに使うものを声に出して言う。おもしろいのはそれらはすべて商品名まで言われること。例えば化粧水は「極潤ヒアルロン液をつける」、というふうに。様々な商品名を聞きながら、あたりまえだが眉墨一本とってみても商品でないもの、商品名がないものはひとつもないのだった。それとこれは年代の近い同性ゆえにわかることだが彼女が口にするコスメの商品名はどれも特別高価なものではなく20代前半の定職に就いていない女の子が限られた経済状況のなかで探して選んでいる手付きが想像されるもので、そんなところからもより彼女の生活感というものを鮮明に感じてしまう。彼女はバランスを取りながら外側に向かって名乗る状態の「私」を添加していく。アイラインを強く引きたい日と薄くアイシャドウを入れるくらいであまり目を触りたくない日もあるとジェンガのバランスを見ながら思っていた。
彼女はさまざまにある商品から自分に添加するものを買う。化粧品だけでなく着るもの、食べるもの、住居に至るまであらゆる商品を買って、そのなかで暮らしている。そこにいる彼女におびただしい商品名との否応ない関わりの一端を見、そのような生態系のなかで培われた体を見ている、という感覚があった。そしてそれは何も彼女に限ってのことでなく観客である私自身も同じように培われ、暮らしているものだと気付く。
いま部屋のなかを見渡してみる。1階の6畳の居間、消えているがパナソニックの液晶テレビが目の前にあり、その斜め上には無印良品の振り子時計、千本通りにある釘抜地蔵の赤いだるまの家内安全守り、ほんとうは1年経つとかえして新しいのを買うのに、マトリョーシカに似てかわいらしいので溜めていて今5体並んでいる。
ニックの座椅子に座り、無印良品のこたつに入り机の上のマックブックのキーを叩きながらこの文章を打っている。喉が渇くと、関西電力の電気で稼動しているナショナルのNR-B112Jという品番の冷蔵庫から、かおりちゃんの京番茶を無印良品のガラスの1ℓボトルに入れ、京都市水道局からの水を、ゼンケンのニューアクアセンチュリーという浄水器をとおした水で水出しにしたものを取り出し、これはもう買った場所も値段もわからないガラスのコップで、飲む。小腹が空くとシスコのエース家紋おしるこ味というビスケットをかじる。 もっと詳細にやれそうだがここでは省略。言葉にすると大体どんなふうか知りたかったのでやってみた。
またあるシーンでは兎のかぶり物をし可能な限り服を着込んだ女の子が帰宅する。いらっしゃいませ~ありがとうございま~すとバイトの時に繰り返し言っているであろう言葉を自動的に口が再生しているような投げやりさで唱えながらひたすら服を脱いで、脱いでいく。ようやくインナー姿になって服の山の横に座り煙草をふかす。やっとまともに息を吸えたというように。
「巣」、彼女たちが彼女たち自身をはぐくむ場所、それにまつわるいちいち覚えていないような日々の、でも間違いなく彼女たちの「私」に関わり、体そのものをかたち作ってしまっている日常のことごと、所作を見つめる目線から紡がれたものに、もはやあたりまえに思って意識化することのない体の構成因子を手に取りなおす時間をもらったようだった。演出家はきっと3人の俳優に膨大な質問をしながらこの作品を作ったのだろう。彼女たちは役名をもたず彼女たちの名前をもったまま舞台上にあった。でも単なる私語りにならないものとしてひとつひとつのシーンに見るものへフックが仕掛けられていたように思う。そのフックへの掛かかり具合は年代や性別で差があるかも知れない。それでも人の見つめ方や作品を紡ぐ手付きに可能性を感じた。