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流出雑記 

2015/6/25

2015年06月30日 | Weblog

横浜の赤レンガは舞鶴のよりも洋館のような立派な造りになっている。舞鶴のはもっとただ縦に長い倉庫という感じで、爆弾の保管庫だったらしい。今日の公演はアイザックも見に来ると聞いていた。
今回アイザックはたまたま航空券を懸賞を当てたとかで日本に数ヶ月滞在していた。そういえばアイザックとはじめて稽古したのは舞鶴の赤レンガ倉庫だったし、そのときの滞在制作上演も一度そこでやっている。師走の舞鶴は海辺のその雰囲気も手伝って市内とは別格の寒さだった。

時間通りにとか、ここで待ち合わせ、が全般的に苦手なアイザックはメールで7時くらいに劇場でと言っていたけれど、やっぱり開演ぎりぎりの7時半にたどり着いたらしい。間に合っただけよかった。

捩子さんの新作は『Urban Fork Entertainment』という。

冒頭、捩子さんが野球拳の歌を歌うイントロみたいなソロがある。野球拳というものはなんだかとてもUrbanでForkで Entertainmentな感じがある。

水道のことを話しているテキストが読まれる。舞台上に蛇口が浮いていて、人の手の届かないところにあるけれど、出演者が肩車みたいにすると届く。蛇口をひねると水が出る。水はその真下に最初から置かれているポリタンクに溜まっていく。けっこう高い位置から垂直に落ちて溜まっていく水は砂時計のように時間を可視化する装置のように見える。
舞台上にポリタンクはひとつしかないけれど、これが一杯になったらどうするのだろうとそこから先の水のことを思った。蛇口は開栓している。この水を止める動機があるとすれば、溢れる前にということだけれど、流れ落ちる水はポリタンクの底ではね返る音を立てて結構ハイペースに溜まっていく。水音のひびきが変わっていく。水が落ちているあいだは、水が容器のどこまで来ているか、もう半分くらいまで来ている、けれど別の容器は舞台上には見当たらない。どこかにあるのかも知れないけれど、流れ続けるにせよ止めるにせよ、とにかくこの水の行方が気になった。けれど予想は両方はずれて、水は溢れない調度いい量で勝手に止まった。その瞬間なぜ、誰が止めたのか、機構的にこの量が限界だったのか、と余計なことがいくつかよぎった。開栓したままの蛇口の水が勝手に止まったことは舞台の都合、という見方を私はしたので、この水が都市の地下、水道管を通り、舞台の時間に引き入れられているという道筋のイメージは弱くなった。どこからか届いてくる水ではなく、仕込まれた水と感じてしまった。このことにそれほどこだわって見ていない人の方がもしかしたら多いかも知れないけれど、私は舞台で水を扱うということ自体に注視してしまった。

水の存在が具体的に作品の時間の進行を作るものになるのだろうと見ていたから、そこから先の舞台の時間は滞留したような印象になる。何かが起こり、また別の何かが起こる。意図して時間をタイトに巻き取らないように作られているけれど、水たまりのような点々とした時間が続く。

一般的にダンスを作る稽古場のことを思い返すと、振付家から渡された振りをひたすら反復して踊り込むとか、何か演出家のイメージしているものを具現化する動きをダンサーが提示して、違うとかそれだいうやりとりをして作品化する要素を抽出し、構成していく。だからダンス作品として作られ、切り取られたものの周囲には、取捨選択の時点で省かれた舞台上では見せない/見えない体の状態、いらないとされたものが散在している。これは見せるに値しないとされたものが。この作品を見ていて、そういう周辺の体を舞台に上げているように見えた。

出演者10人は見かけとして懸命に全力で額に汗して踊ったりしないし、重力に抗して爪先立ったり、逆に重心を低くして重力を味方につけようともしていない。そんなことせずに、いる。地に足が着かない体というか、着けようにもその地面も不安定という感じでどこか宙ぶらりんに見える。でも、いる。ちょっとした集団の人が時々息を合わせたり合わせなかったり、いい音楽が流れているなかで一列に並んで伸びてあくびしたりしている。
例えば超絶技巧で踊られるダンスを見たときの観客は、それを見てすごいと思うけれど、そのすごいを少し詳しく言うと、私の体はあんなふうに足が上がらないしくるくる回れない。これ全部覚えてて、それでいて間違えないでしかも表現力豊かにやれるなんて、このために小さい頃から努力して来たのだろうな、私の体と同じものとは思えない、すごい。という感じだと思う。そのとき観客は特権的価値を持った体を前に自分の体との断絶を感じる。でも必ずしもそれが悪いわけではないし、それでこそ醍醐味と思えるダンスだってある。ただそういう価値を担う舞台芸術は既に他にあるから、そうではない角度から体を見ようとする視点で、今の日常を生きる体からダンスを立ち上げようとするときに、舞台上の体から特権的なもの、見られるために身につけた技巧や構えを出来るだけ解かれたところから舞台の時間を立ち上げることをこの作品では目指されたのではないか。

出演者があくびをしているシーンは数分あって、見ているとあくびがうつった。ダンスを見ていてうつるということは今あまりまでなかったなと思った。水、横浜の水道水は最後のシーンまで人質のように舞台上に置かれ、ポリタンクにただ溜まっていた。ポリタンクは最後、出演者の女の子に持ち上げられ、水は「浮遊」しながら去って行く。体が水になるのでも体が浮遊するのでもなくて、ポリタンクの水の浮遊に体が従事する。そこからダンスがはじまると思った。

この作品の出演者は舞台経験もバックボーンも異なる、異なった身体性を持った10人だった。

個々が個々として、そのままで良いという肯定感は何によって喚起されるのだろうか。ただその人らしいということが舞台上での良さに直結する訳ではたぶんない。出演者、行為する者の知覚はその場において生きながら、何かを上演中に選択する余地があるならば、その選択の指針となる作品のコアを正確に把握し、それを動きや言葉に変換し、作品の時間においてクリティカルに選び取らなければならない。見かけとしては何気なく。外すとしても意図を持って。そういう技術が必要になってくる。その技術は動きや発話の技巧を指すのではなく、むしろ比重はそっちになくて、その都度自分にあてられているroleは何であるかを状況から嗅ぎ取る瞬発的演技に近いものだと思う。

ただいることにしても、見られる構えを出来る限り解こうとしても、観客の視線の前では、こうしよう、という意図を持った状態からは簡単に逃れられない。そもそも自分に生(き)のままがあることをあてにしてはいけない。きっとそんなものはどこにもないと思うから。そういうときに必要な演技というもの、ただいることをするのはとても高度で、それをやるには微妙な内面の工作がいる。それが今演技と呼んだもの。でも工作の跡を残さない工作、手法化しない技術みたいなもの。それはキャラクタライズとは真逆にある。そのことはある部分出演者、行為する者が自分で方法を探さなければならない。どうやればいいかということを体系化することは難しいけれど、自意識を元手に、それが転じるところまで転がして追いつめるみたいなことではないかと思う。そこへのアプローチの方法はおそらく人によって異なるし、舞台の稽古ではない可能性もある。あとはその時々に関わる演出家と稽古場を共にすることで糸口を見いだすしかないのかなと、帰りの夜行バスに揺られながら作品についてというより、そこから派生した自問自答をしながら寝た。


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2 コメント

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Unknown (ぱす)
2015-07-01 00:05:12
ダンサーが作品のコアを把握し、対時間でクリティカルに動きと言葉で身体表現する、言い換えると、出演者は、舞台上で時間数列的に自己の役割を直覚し、同時的にムーヴィングする抽象的労働をしており、観客自身が仮に真似た場合の単純労働を超えた、「特権的」複雑労働として経済的価値が有る、とダンス舞台のサーヴィスを抽象的労働に捉え、マルクス経済学で御説明されていると思いました。その上で、御覧になられた横浜の舞台(私は観てませんが)について、単純労働=ダンス労働のニュメレールを提示していたと評されたのだと拝察しました。
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Unknown (mica)
2015-07-01 10:33:12
私が思って書いたことは、書いてくださったような言葉で言うこともできるんですね。書くときに考えていることを知ってる言葉引っ張り出してきて切ったり貼ったり練ったりみたいな感じなんですが、あなたの言葉は人工鉱物みたいです。おもしろい。
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