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流出雑記 

インプロセッションの會

2011年01月30日 | Weblog

来月から月に一度、インプロセッションの會をやります。
その日集まった人たちで即興セッションします。
動く、踊る、演奏する、話す、読む、描く、などさまざまな表現をする人がそれぞれの方法で場を共有し、時間をつくること。
その時その場で起こっていることを感知して作品化の為の台詞や振りではないものを瞬時にそれぞれに選択すること。その重なりでひとつの時間を渡ること。

どうすれば即興の時間が豊かになるか、毎回考えながらやって行きたいと思っています。即興の時間が豊か、とはそれぞれが自由に影響し合える状態です。
フリーなセッションをしてみるもよし、いくつかルールを決めたり、何かモチーフと関わるなどいろいろ試せる場になればと思います。そしてもっと暴れようよ。
どなたでもご参加ください。よろしくお願いします。

日時/2月13日(日)14時30分~17時
場所/かぜのね 多目的スペース(出町柳駅すぐ)
参加費/500円

※かぜのね、カフェの奥に多目的スペースがあります。

※場所は14時から使えるので、アップ、準備等できます。畳敷き16畳のスペースです。

※自転車は駐輪場に停めてください。

質問などあれば連絡ください。
figromage@mail.goo.ne.jp 増田


小豆さよならの日

2011年01月27日 | Weblog

ここ数日、小豆は水以外のものをほとんど口にしなくなっていた。

缶詰の種類を変えたり、猫ミルクでおじやみたいにしても食べようとしない。その間何度か病院で点滴を打ってもらったが、体力が戻る兆しはなかった。猫の平熱は38度くらいだそうだが、体温計は35度をやっと越したところを差していた。小豆はこれまで何度かもうだめかも知れないと言われる体調悪化の度に、獣医さんも不思議がる超回復をみせて復活していた。でも今回は外側からできる手立てをいくら施しても体が応じない。

どういう経緯か迷い猫になって極度の飢えを知っている小豆は食べものに強い執着があった。腎不全からくる口内炎の痛みで食べたくても食べられないときとは違う、鼻先に持っていっても顔を背ける。それを見ていると生きている状態を繋ぎ止めるにはにはこの世界の生きものを食べないといけないのだと思う。当然なのだが。そうすることをもうしない、ということは徐々に小豆は小豆から離れていくということだ。小豆のかたちと小豆を動かしているものが離れていく。多くの縁が編み込まれて具現化しているそのかたちがほつれて隙間から出て行ってしまう。

この何も食べていないお腹はひらったく、肺のあたりは肋骨のかたちで膨らんで見える。うちにきたばかりの頃は目を離した隙に柳月堂のくるみぱんをかじっていたり、お膳にお皿を並べてご飯をよそっている隙にだし巻きが一切れなくなっていたりしていた。

からだに力が入らなくなった小豆は首の座らない新生児のようで、立ち上がれなくなってからはカーペットに爪をひっかけて寝返りをうったり、走る夢を見ているのか、時々手足をぱたぱた動かしたりしていた。
私は仕事で出ている日がほとんどで、傍にいられるのは夜だけだったが、家で仕事をしている夫は、目を離すと息をしていないような気がして数分おきに寝ている小豆のほうを振り返りながら暮らしていた。

夜は体温が下がらないようにホットカーペットの上に寝かせて、夫と私で小豆を挟んでコタツで寝る。

翌日の昼、私は仕事に出なければいけなかった。その頃小豆の心拍はかなり速度が落ちていた。でも物音に反応して耳が動いていたし、目も見えている。いってきますを言ってドアを閉めた。自転車に乗る。ペダルを踏む。家から離れていく。

地下鉄に乗ってすぐ夫から着信があった。きっとそうだと思った。私が家を出てすぐに小豆は息を引き取った。

出がけにそうだと狼狽えたかも知れない。仕事中、急にそれを知るのも遠すぎて悲しい。なんだか小豆も一緒に家を出たような感じがした。

2件の仕事を終えて帰宅したのは夜。

小豆はふわふわのベッドの中で丸くなって眠っているようだった。

 

去年の5月15日、深夜に夫ががりがりに痩せた猫をひろってきた。来たばかりのときはびゃーとがらがらの声で鳴いていた。黒と茶色のまだらの毛並みはサビ柄といってザ・野良猫の風貌だった。黒っぽいので写真に撮るのが難しい。

よく食べ、よく飲み、おしっこもたくさんするので猫砂は月に一度箱買いだった。獣医さんにも足繁く通った。よく膝に乗ってきてそれは頭突きかと思う甘え方をしてきた。夜はベッドに入って来て腕枕で眠った。二階に上がって電気を消した一階の部屋に寝るよーと声をかけると返事してととと、と上がってくる小豆を見るのが好きだった。夫の茶色のパジャマと小豆の毛並みの色が似ているので、並んでいるところが可愛らしくて携帯で写真を撮った。初夏から真夏、秋、冬、3つの季節。もっと長かったように思うが一緒にいたのは8ヶ月間だった。

 

次の日の午後、葬儀場へ。

夫とバイクで行くので、タオルで包んで後ろの私が抱いて行く。丸まったまま固まっている小豆をベージュのバスタオルに包むと三角形の頂点に小豆の顔が出るかたちになり、天むすみたいだった。

北白川にある葬儀場、近づくと煙突が2本ほど見えた。ちいさなプレハブの葬儀場には観音様、左右に造花、お焼香をする前に般若心経をながしますかと聞かれたが、それはいらないと思った。

紺色に黄色い星の柄の箱に入れられて火葬場に運ばれて行く。火葬場は人のよりずっと焼却炉感がオブラートされていない。

小豆がいつも食べていたかりかりのごはん、我々も今日のお昼にトーストして食べてきたおいしく焼けたパン、夫と私が枕に掛けていたのでたぶんそれぞれのにおいの付いている猫柄のハンカチ、菊の花を添えた。

炉の中はもう火が入っていて、外に付いている計測器は400度を超している。葬儀場の人がその中に小豆を乗せたプレートを入れようとした。何をしに来たのかわかっていてもそんなところに入れたら燃えてしまうと思って炉に近づきかけたら、危ないですからと制された。

炉の扉を閉めて、火をいれさせていただきますと言われ、手を合わせるとゴウという音がして温度計の数字がみるみるうちに上がっていった。

40分程待った。煙突からは煙ではなく陽炎のような熱気が出てゆらゆらと風景を滲ませていた。山肌には氷の粒になった雪が残っている。

骨になった小豆は頸椎から尻尾の先端、いちばん太い足の骨から爪の先、肋骨、頭蓋、下あご、上あご、歯、喉仏は特にしっかりかたちを保っていた。骨壺に足から順に手で拾って納めていく。

納骨しないでうちに連れて帰る。ネコヤナギをお供えした。

 


家にいる冬の日

2011年01月17日 | Weblog

最近、起きてエアコンを付け、猫たちの朝ご飯をしてからヨガをする。寒くてこたつに潜るともうそこの住人になってしまいそうなので、動けば体温も上がるだろうと思ったのだ。しばらく使っていなかったヨガマットを出して来て太陽礼拝を10回ほどすると、起き抜けの堪え難い寒さに棒のようになっていた体が少しほどける。困るのはなぜかいつも途中でヨガマットの上に乗ってくる小豆。太陽礼拝の動きの流れに猫をどけるという動作が組み込まれる。

カーペットの上に仰向けに寝ると心臓の収縮運動をはっきりと感じる。血が巡っている。

アシュタンガのポーズの順番がもううろ覚えなのでその後は伸ばしたいところを好きに伸ばしたりもぞもぞしている。

みかんとアーモンドを食べる。ナッツとドライフルーツはネットで買う方が断然安いことに気がついてまとめ買いした。そこで生アーモンドというのを見つけてそれを初めて買ってみた。見かけはローストしてあるアーモンドより色が薄く、知らずに食べると湿気てると勘違いしそうなほどあのカリッとした歯ごたえがない。でも噛んでいるとなんとも言えない甘みが出てくる。

もうすぐ我が家にホームベーカリーさんがやってくる。

正月に夫の実家に帰った時、母とパン作りをした。そのとき焼いた天然酵母のくるみパンがおいしくて、うらやましいと言っていたら結婚1周年記念ということでホームベーカリーを買うお祝いをいただいた。

ネットで注文して届くのを待つあいだ、天然酵母というのを育ててみている。作り方は簡単で煮沸瓶にレーズンと水を入れて4日ほど温かいところに置いておく。ときどき蓋を開けて瓶を揺すり酸素を補給して発酵するのを待つ。昨日からはじめたのでまだあまり変化はない。濁った水にレーズンが浮いている瓶を夫が不可解そうに手に取って眺めていた。これでくるみやドライフルーツのぎっしり詰まったパンを焼くのだ。

今日は一日休み。掃除をしてから夕飯までずっと絵を描く。絵が変わってきている。

ずっとビートルズの「strawberry fields forever」を聞いていた。ビートルズのなかで今まで聞き流していたが、この曲がまさに今日の感じだった。途中で弦楽器が入ってくるところが特に。

Beatles - Strawberry Fields Forever

夕飯はそうめんちゃんぷる。

食後パウンドケーキを焼いた。この頃よく焼いている。バナナブレッド、クランベリージャムを混ぜ込んだほんのりピンクのケーキ、緑色の抹茶味。寒いとオーブンを使いたい気持ちになるらしい。

一昨日ぜんざいを炊いたとき家にある砂糖を使い切ってしまって、今日はメープルシロップや練乳など甘みのあるものをかき集めてアーモンドプードルを入れて焼いてみた。勘で適当に作っても失敗しないのがパウンドケーキのいいところ。

そんなわけで最近うちには欠かさずケーキがある。それから思い出したこと。

 

小学校の5年生位から中学の最初まで英会話を習っていた。生徒は3人くらいで先生のおうちに行って授業をうける。

先生は50代くらいの女性で、大きくはないが白い家に4人家族で住んでいた。他の家族の人と顔を会わすことは時々あった。庭先には年のいった柴犬がつながれていた。庭には歩道にはみ出す程においのする葉っぱがたくさん植わっていて、それはレモンバームと教えてもらった。先生は、今はもう忙しいからできないけど、昔はうちの冷蔵庫を開ければ必ずケーキがあったのよ、家にケーキを切らしたことないくらい毎日焼いてたのよと言っていた。この葉っぱをケーキの上に飾ったりするとも言った。そんなことばかり覚えていて肝心の英語の方はさほど身に付かなかった。

もうひとつ忘れられないのは、この先生のうちではじめて食べたもの。ある日なぜだったか出してくれた、瓶に入ったトマトソースのようなものと、三角のチップス、それに緑色の見たことのない食べ物。それはアボカドだった。

当時大きいスーパーには出回ってはいたようだが、まだまだ一般的ではない異国の食べ物だった。

チップはトルティーヤと言って、トウモロコシから出来てますと言ってその上にアボカドを乗せ、赤いソースを少しかける食べ方を見せてくれた。同じようにしてあまりにおいもしないチーズのような明るい緑色を食べてみて驚いた。

これが私の初めての「こんなにおいしいものがこの世にあったなんて」だった。

わさび醤油でもいけるのよと小皿に醤油を垂らして持ってきてくれた。それは野菜なのに高級なお刺身のようだった。

先生は体に白い斑点の出る病気に悩んでいた。今どうされているだろう。

 

 


停電の日

2011年01月16日 | Weblog
夕方、昨夜炊いたぜんざいをおやつに食べようと思って、トースターで餅を焼いていたらブレーカーが落ちた。
我が家の一階は冬場、暖房器具を使いながら台所で電子レンジや電気ケトルを使うとよく落ちるので、またかとレバーを上げに行った。しかしブレーカーのレバーは落ちていなかった。でも電気は消えている。
あんまりしょっちゅう落ちるものだから器具や線がいたんでしまったのかも知れない。何度か上げ下げしてみたが明かりはつかない。
時刻は4時半をまわっていて、外は雪景色。このまま夜が来るのは困るので、とりあえず関電に電話する。深夜帯、休日サービスセンターにつながり、2時間以内に点検に行くが故障していたら今日は直せないかも知れないと言われた。
二階の電気は生きていたがエアコンだけが動かなかった。
一階のパネルヒータや座椅子を二階に上げて、どんどん冷えてくる暗い部屋から避難する。
玄関と台所のそばのテーブルにキャンドルを置き、冷えたのでコーヒーを入れようと久々にやかんで湯を沸かす。電気ケトルだと2分ばかりで沸くのに、コンロだとこれくらい時間がかかるのか、と青い火の上の黄色いやかんを見ながら湯が沸くのを待つ。ちょっとした非常事態に見舞われたときのいつもと違う楽しさと、今日復旧しなかったら困るという不安が混ざる。
暗い手元をキャンドルで照らしながらインスタントコーヒーの粉をカップに入れて沸いた湯を注ぐ。
こういう状況下にはインスタントコーヒーが合うなと思う。
コーヒーを二階に持って上がり、助けがくるまで絵を描いて待つ。

一時間ほどで雪のなか関電の人が来てくれた。
大元のブレーカーの中の器具が疲労してだめになっていたそうで、ネジを外して何かを取り替えるとパッといつもの部屋が現れた。

それからいつものように炊飯器でごはんを炊き、ケトルで湯を沸かす。タジン鍋で鶏を蒸し、味噌汁を作り暖かい部屋でテレビを見ながら夕食をとり、食後に抹茶のパウンドケーキとフレーバーティーを飲んだ。
さっきまで今夜は鍋で米を炊くかと思っていたのに。

便利な道具の上に整った生活があり、ない、使えないとなったときの無能さ、無知はちょっと怖いほどだった。
如何に生活が道具に寄りかかっているかをこういうことがないとなかなか振り返れなくなっている。生きていることと切っても切れないほど浸透しているこの当たり前の快適さと便利さ。

夜、ミヒャエル・ハネケの『セブンス コンチネント』を見る。
いくつか見たミヒャエル・ハネケ監督作品の中でだんとつに好きだった。昨日見た『ピアニスト』は嫌いではなかったが、もう一度見たいとは思わなかった。『セブンス コンチネント』はまた見たくなる日が来るだろうと思う。
ある家族の一家心中までの話し。実話が元になっているらしい。
変化、それも劇的なものでなく、ゆるやかに壊れていくような時間を紡ぐ編集とカメラの視線、繰り返される日常動作からその完全な破綻までの捉えかたが素晴らしかった。
夫婦と一人娘がそれまで生活していた家にあったもの、衣類から文房具から家財道具一式をそれぞれ黙々と引き裂き、破り捨て、叩き壊してゆくシーンがあるのだが、今日突然の停電に見舞われたことを思いながら見ていた。
私は生活を支える機能の不全にただ困惑し、復旧を待つばかりだったが、この人たちは生活の道具を、それに支えられ、くくりつけられている日々の繰り返しを完全に断ち切り捨て去る決意なのだと。
最後には全財産を紙屑同様に便所に流し、娘が餌をやっていた熱帯魚の水槽まで父親が叩き割ってしまう。
壊されたものの残骸にまみれて熱帯魚が跳ねて娘は泣き叫んだ。
数日後、家のなかで三人は遺体で発見される。

映画を見終わって、明かりを付けて風呂をお湯で満たす。
歯ブラシに歯磨き粉を付けて歯を磨く。
炭のシャンプーで地肌を丹念に洗いリンスをする。
石鹸で体を洗う。
細かい泡を立てて洗顔する。
洗濯機で洗ったバスタオルで体と髪を拭く。
化粧水、美容液、クリームを順番につける。
ボディクリームを塗る。
ドライヤーで髪を乾かす。
この文章を打ち終わったら、寝室をエアコンで温め、湯沸かし器のお湯を入れた湯たんぽを布団のなかに仕込んで目覚ましをかけて寝る。

今年の目標

2011年01月16日 | Weblog
無理のない早起きをすること
映画をたくさん見ること(週4本くらい)
魚料理のレパートリーを増やすこと
レ ブレドオルくらいおいしいパンを焼けるようになること
油絵をはじめること
もっと描くこと
季節の花を欠かさないこと
体をばらばらにすること
Apartment of Angels(スクラップブック)を作りあげること
相模くんと作品を作ること
インプロセッションの場をもつこと
踊ること
動くこと
しゃべること
露骨に不機嫌な顔をしないこと
人に会うこと
言葉を書くこと
必要なものを読むこと
せめて3時までには寝る意識でいること

『過去のない男』

2011年01月14日 | Weblog

これを見る前に『街のあかり』を見た。あとアキ・カウリスマキ監督のものは、学生の頃大学の図書館で『マッチ工場の少女』をぼーっと眺めた記憶がある。

『街のあかり』でも『過去のない男』でもそうだったが、役者は自然な振る舞いではなく、表情をあまり変えない、少し形式的な演技をする。でもその形式から微妙な心情が漏れだすのが見えるところがすごくおもしろい。

人間っていいもんだなと思う。『過去のない男』は音楽もとてもよかった。

スープを飲むシーンが何度か出てきて、良い映画を見て浮かれ気分のまま、深夜の台所に立って夫もスープを作りはじめた。

私はエンドロールのSTAYという曲を繰り返して聞きながらスープが出来るのを待った。 スープにはさいの目に切った玉ねぎとじゃがいもとソーセージ入り。夕飯をすっかり消化したお腹を温めた。

我が家の暮らしぶりにはどう見ても不分相応なでかいテレビは、くだらないものもでかく映すし、なんとなくつけているには場を占領しすぎるが、映画を見る時ばかりはこの大きさを選んで正解だったと思う。

ところで今夜ついに動画の載せ方がわかったので載せてみた。2分くらいでエンドロールが出てくる。


ヴァンダの部屋

2011年01月12日 | Weblog
年末に観たペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』。

ポルトガル、リスボン郊外にあるフォンタイーニャス地区というスラム街。
そこに住む人びとの生活風景を撮った映画。すべてのシーンが固定カメラで撮られていて、最初に決まったアングルからカメラの視線は動かない。1シーン1シーンの切り取りかたは写真のように画面を静止画にして眺めていたいと思わせる美しさを持っていた。
映画のために建て込まれたセットでなく、そこで生きている人たちの、日常のコンポジションであることが私にとってとても美しいと思うところだった。
丹念に切り取られているが、撮る側の作為に覆われることなく、単に貧困と麻薬に溺れる生活が曝け出されているのでもない眼差しの映画。ヒューマニスティックな意味合いではなくて。カメラを向けることが暴力的であったり搾取であったりしない、撮る側と撮られる側に疎通と距離が保たれて、その緊張感が終始維持されている。作品の立ち上がったところは現実でも、この映画はドキュメンタリー映画と呼ばれるものとは違っている。
現実を現実として捉えつつ、でもその内容だけに依らず、映画として観るものを捉える引力をもっている。それは、撮る側と撮られる側の関係性から生まれているのではないだろうか。撮られる側にカメラを前にした時の強張りはないが、映画に必要な緊張感は維持されている。撮る側にも遠慮や妥協を感じない。カメラを向ける以前に血の通った交流がなければこういうものは作れないと思う。

再開発が迫る騒音の街で生きている人たち。カメラに語りかけるのでなく、そこにカメラはないもののように、室内のシーンが多く、窓から入る自然光と部屋の暗がりが作るコントラストの強い画面、その中に壁紙やベッドカバーや肌の色が濃い影を帯びて映りこむ。
画面にはいつも暗がりがある。照らして見せるのでなく影から像を彫りおこすような印象。

今まで観たなかでもこれからも記憶に残り続ける映画だと思う。

初夢の日

2011年01月06日 | Weblog
5日3時40分に床に着き、4時30分に目が覚めるまでの間に見た夢。

日没、群青色の公園にいる。
若い浮浪者のような身なりの男がひとり、何か生まれたての動物のようなものを抱えて歩いてきた。
薄暗いのでよく見えないが、近くまで来て抱えているのは壊れた木馬だとわかる。男は私の近くまで歩いてきて、何も言わず木馬を目の前に置いた。ここに座ってみろということらしい。
嫌な気はしなかったので座ってみると浮力を感じた。そのまま木馬と一緒に浮いた。木馬が浮いているから浮いているだけでなく、私も浮力を帯びていた。あ、飛べるなと思い、跳ね上がるように力を使うと木馬をおいて体だけばねのように上に向かって飛び上がった。

飛んでいる夢は他の夢と少し違う。他の夢はよく頬っぺたをつねって確かめるように皮膚感覚があまりなく、記憶をコラージュした映像の中にいるような感じなのだが、この飛ぶ夢だけは他の夢と違って、肌で風を切る感じや、顔で風を突っ切るとき、鼻に強引に空気が入ってくる感じ、急降下するときの下腹部がそわそわする無重力感など体感がとても鮮明にある。
飛んだ時点で夢だということにはいつも気付いている。誰かが死んだ夢をみたとき泣きながら起きる、感情に乗り移る夢とは違って、体感のみの記憶が目覚めた体に残る。

突然ただ真っ暗な中を飛んでいるときもあったが、飛ぶまでの導入があるのは久しぶりだった。

小学校の頃、新聞の折り込みチラシに、このチラシを2枚手に持って羽ばたいたら飛べます、というのが挟まっていて、校庭で試したら飛べたという夢の作文を全校集会で読んだことがあった。体育館で読む練習をしているとき先生に、増田さんは舌ったらずやなあと言われ、帰ってからその意味を母に聞いて発音が下手ということと知り、読むのが嫌で仕方がなかったのをよく覚えている。

今回は家々の屋根が見えた。
限度はあったが、低い雲を突っ切るくらい、思ったより上空までいけることにも気付いた。

上の方まで行くと雲の中に光っているところがあった。
何があるのか見に行こうと思ってそこに届くように飛び上がってみた。最高到達点あたりでやっとその雲の上を見ることが出来た。
光っているのは雲に乗っている人だった。光源そのものでシルエットしか見えない。周囲に放射状の光の筋が出ている。
あちらも飛び上がって来る私を雲から下を覗くかたちで座っていた。
私は飛びながら静止することができないので、何度か上がったり下がったりしながらその姿を見に行ったが何度見てもさっきの姿勢から動かない。
光っている人はどうやら神様らしかった。
シルエットはソバージュの長髪で痩せがたの男性だったので、神様だとしたらキリスト教のかただと思う。
ただあまりにも動かないので、もしかすると張りぼてに電飾を飾ったものかも知れなかった。
どちらにせよ信仰心は微塵もない者の初夢に神様とはどういうことだろう。縁起の良し悪しで言えばどうか。良い気もするし良くない気もする。

あまり近づかない方が良いような気がしたので、同じ雲の上に乗るのは辞めておいた。
そのあと降り立ったのは暑い国の貧民街だった。
様々な人種の人びとは皆故意に絵の具で汚しをかけたようなぼろを着て、狭い路地の闇市を行き交っている。
下水のにおいがどこにいても漂って来る。いちばん人だかりが出来ていたのはガソリンみたいなにおいのするアルコールを売っている店だった。ビール色だがあまり発砲していない。皆それを飲むので、ガソリンのにおいの息を吐く。
その店の奥には大きなゴリラがいた。ゴリラにバナナをあげてみるといいと誰かに言われてそうしてみた。
ゴリラはバナナを食べると突然暴れ出し、人びとは散り散りに逃げて気がつくとゴリラも人も誰もいなくなっていた。白い砂の地面に太陽が反射して風景は白っぽく見える。
誰もいなくなったそこにちいさい動物が1匹いる。
猫。よくみると小豆だった。
小豆は口が痛い時によくやる仕草をして、調子が悪そうだった。
あーちゃんまた痛くなった?と話しかけたところで目が覚めた。
小豆は腕枕ですやすや眠っていた。