9時半起床
身支度して出発。最近、変速切り替えと暗くなったら自動でライトが付く自転車に乗り換えた。冬に坂道で大転倒してから自転車の軸が歪んだらしく、どうもペダルが重かったので買い替えたいと思っていたら、ちょうどそれが盗まれて決心がついた。
出町柳で自転車を駐輪場に入れ、柳月堂でくるみパンを買い、京阪に乗る。
京橋から環状線、天王寺でさらに乗り換え奈良の「志都美(しずみ)」というきりっとした名前の駅で降りる。初めてくる仕事場。
電車の道中、志都美に近づくに連れて風景に田畑の割合が増えていったので、閑かなところなのだろうという予測はついた。
地図を見ながら歩く。駅前付近は若い家族が住むような戸建てのハウスが並ぶ。軒先にはピンクのハナミズキの頼りない枝が揺れ、ベランダでは小さい鯉のぼりがはたはた泳いでいる。
もう4月末だというのに京都は朝夕コートがないと寒く感じるが、こちらはもう少し暖かい曇り。
駅前から離れるとだんだん瓦屋根のずっしりした町並みに変わり、漆喰の白が目につく。蔵付きの家もあり、わざわざ「家屋敷」と呼びたくなる様相をしている。
野菜や菓子類、その他日用品をごちゃっと売っている、店の奥にただならぬ湿気を感じる商店。お堂が妙に大きくて立派なお地蔵さんの前で花柄の日傘を差した老婆がよくスーパーで売っている98円のわらび餅を供えて屈み込んでいる。
その側を流れる用水路の緑の水の中には赤い花びらがたくさん浮かんでいた。よく見ると大小様々な金魚だった。
10分程歩き、地図の目印になってる郵便局まで来て電話をかけると仕事の依頼主が迎えに来てくれた。
周囲の家と同じように大きな家。
応接間にいると上品な奥様が「おぶうでもどうぞ」とお茶を出してくださる。お茶をおぶうと言ったのを初めて聞く。
九谷焼の茶器に煎茶、小豆の入った干菓子が懐紙の上にふたつ。
こういう時、私が小学生くらいで、実家で来客があった時、お茶にお菓子を添えた場合、大概の大人は手を付けなかったことを思い出す。
せっかく出されたのになぜ食べないのか、手を付けるといやしくおもわれるのだろうかと遠巻きに眺めつつお客が帰った後、母や祖母に了承を得て、そのお残しにありつくのを待ち詫びていた。
大人になった今そういうことは時と場合によると思うが、目の前の干菓子は小豆の寒天寄せで、まわりには砂糖が薄氷のように張っている。食べたい。 それで、ひとつ食べてお茶をすすりもうひとつは耐えた。砂糖のシャリという食感。
この家には玄関がもうひとつあり、そこには犬が一匹横たわっていた。
何枚も毛布やタオルが敷かれていて、上からもバスタオルをかけられているので、首から上しか見えないが柴犬。前足を一本、目を塞ぐように顔にのせている。その手が時々動く。人で言うと120歳近い老犬で、もう立つことも自分で食べることできないので、注射器でミルクを飲ませ、時々カステラをちぎってあげているそうだ。犬も人も最後はおんなじようなことになるなあと依頼主は言う。
依頼主は数年前に退職し、どうみても悠々自適の生活を送っている。
仕事を終えると、奥様が「ちょうど時候のものですから」と柏餅を出してくださった。皿にはまたふたつ乗っている。
依頼主は英語の教師だったそうで、書斎には英語の小説ばかり並んでいた。英語なら1冊で済む本を日本語訳で読むと2冊分くらいになるそうで、英語のまま読む方が早いし表現もわかりやすいので読書は今も英文だそう。作家の名前は忘れたが推理小説にはまっていると言っていた。
台所に戻り、またあらわれた奥様、今度は芍薬一輪持っていた。
もうすぐこの家に同居する孫の家庭訪問で先生がいらっしゃるからと花瓶を探している。広い庭から切ってこられた薄桃色の芍薬は、真昼の陽気で開ききって外側の花びらが今にもこぼれそうだった。
柏餅もひとつは頂き、ひとつは耐えた。
私が帰るのと入れ違いに嫁と孫と小学校の先生にも出くわす。なんだか可笑しかった。
また電車を乗り継ぎ京都に戻る。
今日の夕飯は簡単に炒め物にしようと思っていたが、案外早く戻って来れたので、帰りながら何故か無性に食べたくなっていたハンバーグを作ろうと、挽き肉を買って帰った。
身支度して出発。最近、変速切り替えと暗くなったら自動でライトが付く自転車に乗り換えた。冬に坂道で大転倒してから自転車の軸が歪んだらしく、どうもペダルが重かったので買い替えたいと思っていたら、ちょうどそれが盗まれて決心がついた。
出町柳で自転車を駐輪場に入れ、柳月堂でくるみパンを買い、京阪に乗る。
京橋から環状線、天王寺でさらに乗り換え奈良の「志都美(しずみ)」というきりっとした名前の駅で降りる。初めてくる仕事場。
電車の道中、志都美に近づくに連れて風景に田畑の割合が増えていったので、閑かなところなのだろうという予測はついた。
地図を見ながら歩く。駅前付近は若い家族が住むような戸建てのハウスが並ぶ。軒先にはピンクのハナミズキの頼りない枝が揺れ、ベランダでは小さい鯉のぼりがはたはた泳いでいる。
もう4月末だというのに京都は朝夕コートがないと寒く感じるが、こちらはもう少し暖かい曇り。
駅前から離れるとだんだん瓦屋根のずっしりした町並みに変わり、漆喰の白が目につく。蔵付きの家もあり、わざわざ「家屋敷」と呼びたくなる様相をしている。
野菜や菓子類、その他日用品をごちゃっと売っている、店の奥にただならぬ湿気を感じる商店。お堂が妙に大きくて立派なお地蔵さんの前で花柄の日傘を差した老婆がよくスーパーで売っている98円のわらび餅を供えて屈み込んでいる。
その側を流れる用水路の緑の水の中には赤い花びらがたくさん浮かんでいた。よく見ると大小様々な金魚だった。
10分程歩き、地図の目印になってる郵便局まで来て電話をかけると仕事の依頼主が迎えに来てくれた。
周囲の家と同じように大きな家。
応接間にいると上品な奥様が「おぶうでもどうぞ」とお茶を出してくださる。お茶をおぶうと言ったのを初めて聞く。
九谷焼の茶器に煎茶、小豆の入った干菓子が懐紙の上にふたつ。
こういう時、私が小学生くらいで、実家で来客があった時、お茶にお菓子を添えた場合、大概の大人は手を付けなかったことを思い出す。
せっかく出されたのになぜ食べないのか、手を付けるといやしくおもわれるのだろうかと遠巻きに眺めつつお客が帰った後、母や祖母に了承を得て、そのお残しにありつくのを待ち詫びていた。
大人になった今そういうことは時と場合によると思うが、目の前の干菓子は小豆の寒天寄せで、まわりには砂糖が薄氷のように張っている。食べたい。 それで、ひとつ食べてお茶をすすりもうひとつは耐えた。砂糖のシャリという食感。
この家には玄関がもうひとつあり、そこには犬が一匹横たわっていた。
何枚も毛布やタオルが敷かれていて、上からもバスタオルをかけられているので、首から上しか見えないが柴犬。前足を一本、目を塞ぐように顔にのせている。その手が時々動く。人で言うと120歳近い老犬で、もう立つことも自分で食べることできないので、注射器でミルクを飲ませ、時々カステラをちぎってあげているそうだ。犬も人も最後はおんなじようなことになるなあと依頼主は言う。
依頼主は数年前に退職し、どうみても悠々自適の生活を送っている。
仕事を終えると、奥様が「ちょうど時候のものですから」と柏餅を出してくださった。皿にはまたふたつ乗っている。
依頼主は英語の教師だったそうで、書斎には英語の小説ばかり並んでいた。英語なら1冊で済む本を日本語訳で読むと2冊分くらいになるそうで、英語のまま読む方が早いし表現もわかりやすいので読書は今も英文だそう。作家の名前は忘れたが推理小説にはまっていると言っていた。
台所に戻り、またあらわれた奥様、今度は芍薬一輪持っていた。
もうすぐこの家に同居する孫の家庭訪問で先生がいらっしゃるからと花瓶を探している。広い庭から切ってこられた薄桃色の芍薬は、真昼の陽気で開ききって外側の花びらが今にもこぼれそうだった。
柏餅もひとつは頂き、ひとつは耐えた。
私が帰るのと入れ違いに嫁と孫と小学校の先生にも出くわす。なんだか可笑しかった。
また電車を乗り継ぎ京都に戻る。
今日の夕飯は簡単に炒め物にしようと思っていたが、案外早く戻って来れたので、帰りながら何故か無性に食べたくなっていたハンバーグを作ろうと、挽き肉を買って帰った。