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流出雑記 

「話セバ解カル」

2008年01月29日 | Weblog
劇団地点の公演を観た。
「話セバ解カル」 タイトルに惹かれた。
この言葉が使われる場面で思い浮かぶのは浮気がバレて妻に出ていかれそうな旦那の
「待てよ。話せば解かる!」
など、なんとか相手をそこに引き止める為の内容以前の言葉だ。
しかし、映画やドラマなどで耳にすることはあるが、日常で使うにはなんだか芝居がかったような、妙な感じがする。
「話せば解かる」は芝居の中の言葉ではないかと思う。

相手をそこに引き止める為の話す内容以前の言葉。

話セバ解カル

カタカナになっている分、この言葉に含まれる心境が機械的・理性的に処理され冷却されつつ、しかし読むと低い熱を帯びるように感じる。


素舞台に5人の役者が一人ずつ登場し、演説するようなかたちで15分ほど喋るという構造になっている。

テキストはそれぞれ違うものを2、3種類複合して使用し、「自分達からなるべく遠いもの」を選んでいる ということらしい。

役者はそれぞれ脈絡のないダイビングのスーツと足ヒレや成人式の振り袖や手錠を掛けた姿などであらわれ 喋る。

一言一句細かく操作された言葉は時にはラップのようにリズムとの関係の中で意味、無意味が浮かんだり沈んだりしながら、自分の発語への反応、動き 、物語の筋道なしに役者が舞台に立っている自力を感じた。

役者と演出家との間にあった作業の時間を思った。

あるテキストという布地を、役者というトルソーの上で立体裁断して仕立てたもの
。     どんな着心地なのか聞いてみたい。
そんなことを思う私には演劇を観たというよりある種のショウを見たような後味が残る公演だった。

女子的一日

2008年01月27日 | Weblog
朝から梅田で仕事。
前日の夜、ある舞台の衣裳の手伝いで久々にミシンを踏んで二時間睡眠。

昼過ぎに仕事を終え、ベーグルのお店でアボガドとエビのサンドイッチを食べる。
何か食べに行ってアボガドなんとかを見つけると絶対頼んでしまう。

飲み物を頼むと高くなるので水。
同じことをしてる20代女性を多数見受ける。
皆どういう仕事をしてるのだろう。
素早く食べおわり込み合う店を出た。

三番街や阪急百貨店のバーゲンの残り福があるかも知れないので、覗いてみることにする。
大阪で買い物をすることなんてほとんど無いのだが。

京都で街に出ても服や靴なんてめったに買わない。
買えないとも言えますが。
でも服はともかく靴はあんまり安い値段では欲しいものがないし、出会っちゃったら思い切ろうと決めた。

ファイナルバーゲン土曜日の百貨店は超大繁盛。

靴売場は脱いだり履いたりで特に人がごった返す。
棚にびっしりならぶ靴。
ツモリチサトの靴が好きなのだが、凝ったデザインのパンプスはいいんだけど、ヒールの高いシックな靴はいまいち。
ハイヒールがほしかった。棚を流し見ていく。
先が尖りすぎている、丸すぎる、ヒールの形がなんか鈍臭い、エナメルが下品、バーゲンでも高すぎる靴。
似たり寄ったりに見えてくる。
ダメかなと思った頃、目に留まった一足。安定感のあるクラシックな形とヒールの高さ・色合い・バランスが良かった。
置いてあったのは22で23がまだあるか店員に尋ねるとあるということで。

買いー。

おしゃれは足元からですもの。

靴の話題をもう一足。
今月発売の「装苑」に高校の同級生が靴職人として紹介されていた。
「ベロ・トゥイコ」という自分のブランドを立ち上げて仕事をしている。
高校生の頃から人柄もセンスもパワフルで、そんな彼女の作るそう簡単に履きこなせないような強力な個性のある靴。
履くと不思議な力を得れそうな。
先日うちにやってきたカレーが好きな写真家はお金を貯めて彼女の靴を買うと言っていた。
そりゃあ素敵な計画だ。

深夜にガトーショコラを焼いた。

不注意で冷ましてる途中にまさかの落下事故発生。

チョコレートのにおいに包まれて女子的一日は終わる。

2008年01月24日 | Weblog
私は私というものに何かひっかかり続けている。


私とは何かと、考える迄もないと言われるような類のものに捕われるのだが、そういうことをこれから舞台において表現したいと思っているわけではない。
何かしらの答えを求めている訳でもない。

ただ私の地盤がそういうものであるということ。

それは足をとられてどこにも行けない沼です。

しかし思う。
底無しの沼は。
沈み続けたらどうなるだろうと。

暗転。
開演、何かがはじまるまでのわずかな暗やみの中、舞台袖でそんなことを思う。

底無し沼にふと星をみるような自由さと広さが

あ。

目を開けて夢を見ている。
こういう体感は舞台で何かがはじまるその手前のわずかな時間にある個人的なものであるが私自身が舞台へ引きよせられる動機となる。
役者は一個人でありながら自由自在な存在として仕掛けられた場所で完全にふりをするというやり方で観客を騙す。騙すことでしか成立しない。
それは事実である。
沼にいても。

舞台に立つことで得た体感から引っ張りだされた言葉は主観的であるし、観客にとって舞台がどうこう以前のことである。
観客の視点から読まれた時にただの戯言であるかも知れない。

舞台で私は纏い、ふりをする。
何かのふりがやりたいなんて妙なことだ。
しかし何よりその中で、裸体の時間、日常の取り繕いからも離れて
なにもはじまる前に

そういうものに惹かれるのです。



大寒だもの

2008年01月21日 | Weblog
今日は大寒といって、一年でいちばん寒い日だそうです。

なのでおでんにする。

おでんの具を選ぶのは楽しい。
スーパーを2件くらい巡ってしまう。
いつもは牛すじだが今回はあまりに手羽元が安かったせいで急遽鳥おでんとなった。
昆布とかつおぶし、手羽元でだしをとり、塩、しょうゆ、砂糖、みりんを加えると大根を早く煮たくてたまらない汁ができた。

スターティングメンバー
大根。
隠し包丁を入れしっかり下茹でするのがポイント。
こんにゃくは唐辛子入りのと蒟蒻発表の二種類をチョイス。
練りものはちくわ、野菜揚げ天、じゃがもちボールとかいうやつ
そして本命のがんもどき

控えの選手、餅巾着、ウインナー、はんぺん。
明日以降の出場となります。

そういえば実家のおでんには焼売が浮いていた。
明日やってみよ。

たまごはね、忘れてる訳ではないのです。
茹でたりするのを怠りました。

ちなみに写真の約2.5倍の量がまだ隣の鍋にあるのダ。

食後、伊予かんを剥きながら4年前に悩んで買いそびれたまま見つからなくなったCDをついに購入したので聴く。
好きなモーツァルトの交響曲第40番をピアノで弾いてる。
あまり詳しくないのだが、カツァリスというフランスのピアニスト。3、4楽章がいいな。 

次回は好きな音楽について書いてみようと思う。
 

冬のある日

2008年01月20日 | Weblog
10時頃、外が騒々しくて目覚めると猿が数頭うろついていた。家の前に飾っていたイガ栗が割られ、実だけ食べて散らかすわ時計草の実はむしられるわ。
冬山には食物が少ないのだろう。許す。

我が家は朝昼兼用ごはん。
トースト・目玉焼き・ほうれん草と豆のマスタードマヨサラダとカフェオレ。
超熟びいきだが今日は本仕込み。

午後から岡崎の辺りで仕事。外に出ると寒いがカラっと晴れていい感じ。
なんかとても好きな陽水の「夢の中へ」をリピートしながら自転車で走る。
先日、同タイトルの映画(園子温監督)を見たが夢の中へも外へも行けず放置されたように終わりダメだった。
最近午後からの仕事が多いので、ほとんど毎晩夜更かしビデオ上映会が催される。昨夜は「ヘドウ゛ィグ・アンド・ザ・アングリーインチ」と「エレファントマン」の2本立て。

夕方に仕事を終え、北白川を帰りながら花屋や本屋に立ち寄り、大学近辺でダーリンと待ち合わせる。
晩ご飯は前々から一度行ってみようと話していたラメーン屋に決めた。
一年に一度行くか行かんかのラーメン屋。
ふたりともさしてラーメン好きでもないので一乗寺近辺に住んでる甲斐なし。
前にテレビで取り上げられたのを見て、それ以来彼の行ってみたい場所となっていた北白川「ますたに」へ。
6時半くらい、混んではいない。並とチャーシュー大、頼んですぐ出る。
批評できるほど通ではないが、なんか安定感がありおいしかったです。
そんな量が多いこともないのに胃が満たされた。

今夜は漫画ナイトにしようということでガケ書房でそれぞ気になる漫画を買って帰宅。

寄り道してスーパーで買ったかぼちゃプリンを食べたらだいぶ胃にずっしりきた。
さらに読んだ漫画が末永史の劇画タッチで重暗い「二階屋の売春婦」。
ずっしり来て横たわり目覚めると日付が変わる頃に。胃はさっきより軽くなった。

末永史を読んだのは初めてだ。
私にとってやまだ紫+つげ義春という感じ。
短篇で、初期の作品は二十代に描かれたもの。
時代は違えど共感するところもある。以下引用。

今日の新宿はやけっぱちのあかるさだった
豊かそうにニコニコした人達は貧しい私を錯覚させる
そしてボーナス
みんな
一年分の労働の怨みを夢中で笑いながら
一万何千円ものオーバーコートを買っていた
労働にかかっちゃ   
ちゃちな才能なんてひとたまりもない
ボーナスをにぎって必死でニコニコしてる人達と
一枚のLPに
空腹借金
酔えない酒をおしこむ女
ああ何て
鼻もちならない


そこまでヒドくないけどね。
私。

自意識の過剰と飛翔

2008年01月16日 | Weblog
自意識・・・自分自身についての意識 自我意識、自己意識。広辞苑より
客観的に思い描いた自分。私について。

産まれてから約24年の月日の中で様々なことを身につけた。
育った環境の中で気が付くと身についていたもの
習得しようと努力したもの
それは立って歩けることからぜんざいの炊き方まで様々なレベルに及ぶ。
それらが絡まりあって現在私は私と名乗る状態にある。

社会の中では言われたように出来ること、よく気が付くとか手際がよいということが人として評価される。
周囲から必要とされることが自分の価値となり、存在理由となってゆく。
何か自分が出来ることを誰かが必要とし、その関係の成立によって身をたてて生きていく。
「私」の存在は他者に託されているのだろうか。
他者に対する自分の在り方、受け取られ方ですべてが決まってくる。
自分の意志の実現は他者との間に浮かんでいるように思われる。
自分が他者からどのように感じられているかということに無関心ではいられない。

私が舞台に立ちたいと思う欲望の中に
「居ながらにして消えたい」 ということがある。
ただ消えるのなら死というものがあるが、ポイントは「居ながら」という点である。
私は私でしかなくこの感覚器官、体から逃れることは出来ない。
だからこの場所で必死になる。
しかし現実社会で身を以て必死になるということは、要領よく仕事ができ気配りができ役立つ、今の世の中の状態をすべてとする人間になるということになってしまう。私が引っかかるのはそこである。その抜け目ない人格コントロールと、そういったことしか価値とされないことに疑問を感じる。

完全に自意識から切り離された人を想像してみた。

無我や悟りの域とは少し違う。私はそんな境地に至ったことはないが、そのような場合は自意識から切り離されたというより自意識がひたすら遠ざかり宇宙くらい遠くから自分を引いて見たような感じではないだろうか。それは自意識の遠隔操作であり、絹糸を細く細く紡ぐようなある意味洗練されたコントロールといえるように思う。
狂気による錯乱とも別種のものである。

私が思う自意識から切り離された人というのは、もはや立っていることもしない。
眠っているのでも死んでいるのでもなくべろんと。その質感をたとえるなら豆腐のような。
呼吸とまばたきはしている。でも意志をもって動くことの無い状態。
今まで身につけたことすべてを無くすとこういうことになる。
だとしたらそれが本来の、自然な「私」というものか。
いやそれも頷けない。
それは極度に不自然な状態である。
「虚」の状態 
そんな感じがする。
この「虚」はどこか不気味だが、つまり虚構の虚である。
「虚」的なものは誰しもが持っている要素だが、「虚」を意識化し身体的に捉える感受性の持ち主は演劇体質なのだと思う。
フィクションを引き受ける強度というのもこのあたりにある。
そしてこの「虚」がただのウツロではだめである。
この「虚」は「居」を兼ねるものでなければならない。
ここで言う「居」は社会生活の為に身につけたものとは違う、フィクショナルな時間を生きる為のもの「虚」を基盤とした「居」である。
「私」でありつつ無記名の存在の「挙」手。 はじまり。
役者になろうという人はそもそも自意識過剰なところがある。
観られる場に立つのだから、そうならざるを得ない部分もある。
自意識の過剰の果てに宗教的な悟りとはまた違う方法によってそれこそ宇宙まで。
飛翔するようでなければ浮かばれない。

カレーの国から

2008年01月16日 | Weblog
友だちが帰国した。
同じ高校出身で今は写真をやっているのだが、私はいつか彼女の作品集が出ることを願ってやまない。というくらいファンであり撮ってもらったこともある。
旅の話しと小梅に会いに我が家までご足労いただいた。
事前に
1.カレー
2.カレーじゃないもの
どちらがいいか尋ねると、1ということで本場帰りの舌にミカレーで挑む。

ミカレーとは私が作る奇跡のカレーのことです。

日焼けしてるかと想像していたがきれいに色白のまま。
インドの日々の写真を見ながらいろんな話を聞く。
アパートを借りて拠点にしつつインドの中を旅行する3ヵ月間。
特におもしろかったのは、紅茶で有名なダージリンの風景。
市場のような雑多な町並みにイギリス植民地時代に建てられたずしんとしたヨーロッパ風の建築が混在し、モンゴル系やアラブ系などいろんな顔の人々が行き交う町。
アパートにいる間は自炊で、市場に買い物に行き鶏をもとめるとその場で絞めてくれるそう。
市場界隈はいろんなものの混雑した臭いが想像される。
物価は地域によってかなりの差があるようだが、服は、布地を買って仕立ても併せて300円というのは驚いた。
昼間は外に出ると暑すぎて夕方まで店も閉まってしまうらしい。
そういえば彼女の滞在期間と同じ頃私は花屋の日々を過ごしていたなぁ。

ミカレーは好評をいただいた。わーい。
小梅の写メをいっぱい撮って彼女は帰っていった。

またおいでやす。

正月DAYS

2008年01月05日 | Weblog
1日。
私の妹たち・母・ダーリンの5人でおせちを食べた後ラウンドワンのスポッチャで遊ぶ。卓球に始まり、ローラーブレード、ミニバイク、打ちっぱなしなどやり放題。脛の辺りが筋肉痛。

2日。
ダーリンの実家、福井へ。サンダーバードに乗って行く。
満席で通路に立ち乗り一時間半。横に3才と1才くらいの子連れ。
妻が前もって指定席を手配していなかった夫を罵り、そばで子供が泣き叫ぶ。
それが一段落するやおにぎりと弁当を出して通路で食べはじめた。案の定床にご飯をこぼしつつ。
迷惑親子から離れたところへ移動し、徐々に雪景色になっていく窓を見ながら子供より猫のほうが何百倍も可愛いいと親バカ話などしている内に福井着。
大晦日から元旦にかけて積もった雪の上に雨が降りそそぐ。冷蔵庫のような冷え方。
ご実家は昼からお客で忙しそう。そんなところに申し訳なく居た。
夜には落ち着き家族揃って食事。私の家族と正反対の男兄弟。
寒鰤のお刺身をいただいたが、すごくおいしかった。

3日。
私は夕方京都に戻った。ダーリンは同窓会などあるのでもうしばらく福井。
実家にあずかってもらっていた小梅に再会。ピアノの楽譜立ての後ろが落ち着く場所になったらしい。
みんなは明日から仕事なので早めに寝静まった。
この日、夜11時くらいに貯水タンクがなんとかでマンション全体が断水した。
お風呂は沸かしてあったので母と妹たちはそれでなんとかなったが私の頃にはぬるま湯に。冷えるのであきらめて寝てしまおうと思っていたら深夜3時に突然復帰。
新年早々当たり前に水の出る生活の素晴らしさを再確認する。

4日。
昼はひとりで掃除などして過ごす。今年初のバラの香り作りに着手。
夜、ねねの湯という大型銭湯に行く。
広い浴場に霧のような湯気。ぼうっとあらわれる白い体。
高野文子の漫画に銭湯の短編があるが、それを思い出した。

5日。
朝。小梅が雪のようにかつおぶしを撒いた。

私は本日仕事はじめです。

年賀

2008年01月01日 | Weblog
年末激忙しい花屋のピークを生ききり新年を迎えております。
年の瀬、店から近かった錦市場の一年でいちばん活気づく時期の朝を見た。高そうな鰹節や立派な棒だら、鯛、大小さまざまな餅、市場からの新鮮な魚を待っている氷の敷かれた陳列台、つやつやの黒豆、ごまめ。朝からごちそうを買いに来る人がちらほら。水を打つ音や今日の仕入れのことを話す声、錦の魚や漬物のにおいも活気づいて感じられる。
店の奥にちらっと茶の間が見えた。商売人の生活感。テレビを見ながらご飯を食べている。錦市場で暮らす人々も今頃お正月を迎えているだろう。
おめでとうございます。
大晦日から実家に帰り、一枚だけ買ってみた年末ジャンボの夢は潰え、はじめてうち以外の家に来た小梅はこたつに引きこもりなかなか出てこない。猫アレルギーの妹はずるずるになりながらも小梅に近付きずるずる。
皆はおせちお雑煮、年賀状を書いたりプレステしたり正月の風景。
お昼のお雑煮は多数決によりおすましだった。
私は断然白味噌派である。晩は何があろうと白味噌でお願いしたい。
白味噌は味が決まりにくいが、ほんだしなどを使っても最後に鰹節を入れることと、みりんと少量の砂糖で甘味を調節すると良いらしい。
白味噌雑煮に余ったお煮しめを入れて食べるのが大好き。
今年はおせちを作りたいと思う。

2008、皆に良き年になりますよーに。