地下鉄の最終連絡を逃して、まだ終電があった宇治の実家に避難。
稽古の毎日。振付家のアイザックはとても穏和で丁寧に人に接するけれど、いざクリエイションになると子供のように破天荒な一面が垣間見える。
西洋の人によってインストールされた東洋的な脱力感の雰囲気を持っている。名付けるなら「苔に包まれた無邪気」。
良くも悪くも時間感覚の舵取りがゆるいので、アイザックの逡巡に任せているとあらぬ方向に座礁したままもうこんな時間か、という具合になることがよくある。最初はそれに身を任せていたけれど、そうしているより何か言って場を動かす方が今回は活性化することがわかってきた。私の、この場における自分の振る舞い方のコツがわかってきたのだと思う。どれくらい待てばいいか、どれくらい話せばいいか。
昨日、ダンスドラマトゥルクのリムさんのお話を聞いた。ピチェの「Black&White」のドラマトゥルクもしていたそうで、この仕事がどういうものであるかというのを実際携わった作品の映像を交えて。
あるプロダクションのなかで信頼を得ながらフレキシブルに立ち回れることが要求される。ある意味パフォーマー。
リムさんの話しを聞きながら、ダンスドラマトゥルクって今回のアイザック制作に通訳で入っている伊藤拓さんのやっていることだと思った。
まずそれをするのに必要な人格的資質があり、自身でも演出をされるから、作品に対するサジェスションも出来る。とにかく単に言語だけの問題でなくてもう居てくれないと困る人。間違いなくいちばん働いている。演出助手ではない。助手ではない。
それまでのドラマトゥルクのイメージは、知識豊富な人が作品への助言をするというようなことが主だと思っていた。それが望まれる場もあるのかも知れないけれど、その人の持ち物でなく、その人自体が必要なのが今回の現場で、それはそのまま作品の方向性を示す言葉なると思う。