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流出雑記 

『庭みたいなもの』横浜上陸

2011年09月20日 | Weblog
横浜にいる。

7人の出演者のうち私含む4人の関西組が宿泊しているのは、横浜駅近くのゲストハウス。
端々に宿主のこだわりが見受けられる木のお家。男女一部屋ずつ二段ベッドの部屋で寝起きしている。居心地の良い宿である。
ただ風呂がない。シャワーはあるが、ひねるタイプの蛇口でなくて、押してすぐ勝手に止まるタイプで、しかも水圧が異様に高いので、水圧におののきつつ何度も蛇口をプッシュする妙な踊りを踊らされる。

小屋入りまでの稽古場は横浜駅から2駅の日ノ出町にある。ここには一度来たことがあった。土日は競馬を見にくるおっさんで駅前は溢れかえり、そのおっさんたちご用達であろう店々で構成される、ザ歓楽街という感じ。日ノ出町で降りて、改札へ向かう通路にはどこからかの濃厚な揚げ物のにおいが充満している。この街に似つかわしい油ぎったアロマ。
近くにはメリーさんのいたイセザキモールもある。
稽古場は、元酒場だったところを片付けて再利用しているので、バーカウンターなどがそのままある。周囲は風俗店多し。
日がくれてから男性だけで歩いていると客引きがわらわら寄ってくるので、女性が一緒に歩いているほうが護衛になる。

稽古では、各シーンの調整。
私にとってはモノと言葉と体の間隔を明確にしてゆく感じ。

昨夜は稽古後、タイ料理屋に行き、辛くてうまいものをいろいろ食べ、反町にある銭湯で湯に浸かり、オロナミンCを飲んで、深夜に演劇的身体とダンス的身体の言葉の解釈の違い等を話す。

どこでもわりとよく眠れる。

『庭みたいなもの』公演情報はこちらから
http://www.kaat.jp/pf/zan.html





『庭みたいなもの』伊丹跡

2011年09月13日 | Weblog
11日『庭みたいなもの』無事楽日を迎える。

終演後、今回かなり大掛かりだった美術は手際よくばらされてゆき、数時間後に全ての木材とモノたちは運び出され、元の格子模様に戻ったアイホールの床を眺めながら思った。庭みたいなものという作品を経た体にはどんな模様、凹凸が残っているだろうかと。それで手探りするようにこれを書き始めた。

モノから導きだされる言葉や動き、それを他者に伝える、あるいは受け取る。各シーンは出演者同士のそのようなやりとりから作られている。伝える方は「送信者」受けとる方は「受信者」と呼ばれていた。
その辺に落ちてるモノを、言葉と身体で梱包するような作業だ、というふうに稽古場ではよく言われた。
モノについて語るとは、まず基本はその対象について本来の名称や用途を説明するというより、形状、質感、においなど五感でモノを捉えなおすようなやり方になる。表面につやのある木を触ればすべすべする、サビついたもの触ればざらざらする、などというふうに。それをやっているうちにそこからもう少し変形してくる。変形の仕方はモノや送信者、受信者によりほんとうに様々。
当然ながらモノを説明する人によってモノの捉え方は異なり、古い鞄を開いたときにその中のにおいを臭いと言う人もいれば、別の人が同じことをすると、カビのにおい、押入れのにおい、というような言葉にもなりうるし、開いた鞄の金具に意識がいく場合もある。

80分の作品のほぼすべてのシーンは、演出、編集は入っているにせよ、パフォーマーたちから導き出された言葉や動きで構成されている。
そのためにモノに対する感受のし方の違い、出演者7人の違いが作品にまともに響く、ということがあり、私が耳にした感想には賛否両論あったが、賛の方にはパフォーマーがそれぞれに面白かった、味わい深かったと言う感想を多くいただいた。その要因のひとつは、そういった演出方法がとられたためであり、それは作品を豊かにする要因でもあったと思う。

しかし同時に気になっていることもある。殊自分に対して思う。
もっとモノを私見を差し挟まずに捉えることは出来なかったのか、ということ。
個々の体という場所で知覚するということは、それまで経てきたことがモノの捉え方とそれを伝える動きや言葉の選択に否応なく関与する。そこに固有性が浮かび上がってくる。それは自然なことであり、その差異が作品のおもしろさにつながったところは今回の公演においてはあったと言える。
しかし私は私に対してそれを丸々良しと思えないところがある。

にも関わらず作品中の自分の動きや言葉を省みたとき、「私」の主語の強さ、私がしている、私が考えている、私が思い出している、といった「私」への執着を私自身端々にべったりと感じる。

例えばモノに触れたとき、それが大きなものであったなら、私はその形状や質感を説明する前に、それを目の前にした時に動悸している心臓が気になってしまう。だから「とても大きい」とか「がっちりしている」と言うより先に心臓の動悸を言葉にして出てしまう。これは何もモノについて語っている言葉ではなく、モノに出くわした私の感想でしかないので反則である。にも関わらずそれが採用されているということは、作品の懐の深さだろうか。
その他モノを持ち上げたときの重さや軽さ、体重をかけられるものならその上に乗ってできる体勢が私にとってのモノの捉え方、説明であったりする。体感が関与していないと気が済まないところがある。
そうではなく、モノの表層を捉えることもできたし、稽古の段階でそれを試みなかった訳ではない。
しかし最終的に私は自分の信条とこれまで経て来た方法を採用していはしなかったか。それをやってしまうということが作品において良かったのかどうか、この作品のために開拓すべき体が私にとってまだあるのではないかと思うのである。

舞台に立つとき、その体はアノニマスな存在であるべきだと思っている。それを志向しながらも、実際には私見に依っている私。
何を危惧しているかといえば、個々の感性に依ったものを観客が見るとき、パフォーマーの個性や面白み以上に、行為する体から何を見出すことが出来るだろうかということである。
そこにある体に何かが見出されない限り、映り込まない限り、表現とは自己の充足の粋にまだ留まっているのではないか。
今、ここで、起こっていること、場に対してひらかれてあるということ、そこに立ち合う他者が存在し、そのような場に体を据える者の立ち方というもの。そのことを足元からもう一度検証してみる必要を感じている。

伊丹での初演を終えてから一週間、そんなようなことを日々考えていた。
来週は神奈川芸術劇場 KAATでの公演。その間にどのような発見をすることができるだろう。
最低限の荷物と余白をもった体を連れて明日横浜へ向かう。

『庭みたいなもの』初日

2011年09月10日 | Weblog
『庭みたいなもの』
昨日プレビュー無事終わり。
今日本番あけて、初日も無事終わり。
初日乾杯して終電で帰宅。

たぶん疲れているけれど高揚感が血流に残っているので元気。

張り詰める瞬間も弛める瞬間も逃さない。全身で触りにいく。

伊丹ではあと3回。

2011/9/7

2011年09月08日 | Weblog
台風過ぎて軒先の木製プランター破損。
昼は夏の格好でちょうど良いのに夜はもう長袖がないと肌寒い。

朝、玄関で何かを必死で追う小梅。靴を履こうとスニーカーを取ると陰から尾の切れたトカゲと切れた尾がにょろにょろ出てぎゃあと叫んだ。それで夫も起きてきた。

伊丹へ。

明日は公開ゲネ。
今日は細部の確認。タイミング調整。

昨日から右後頭部が時々ズキとする。右目が痛いことと関係があるのか。何の頭痛なのか。調べてみると後頭部片側の頭痛は、眼精疲労、肩凝り、ストレス等が原因らしかった。そういえば今回右手で重いものをもつシーンが多い。
ちなみに後頭部両側が強く痛む
ときはくも膜下出血の前兆であることもあるらしいので、そういうときはご注意を。

今日は高菜弁当
一日あっという間に過ぎ去り、いつものように終電で帰る。

明日は9時半入り。
ずっと午後入りでよかったので、9時迄に起きていれば間に合ったが、明日は8時の電車に乗らねばならず、つまり6時半には起きてなければならない。

不安。起きれるかどうかの不安。起きれるよね。

2011/9/2

2011年09月04日 | Weblog
台風近づく。

朝、京都は風が時より強く吹く。自転車で傘だと煽られそうになる。伊丹に着くと風は勢いを増して、阪急伊丹駅からアイホールへ酒造通りを歩いていたら、老松のあたりで突風を受けて傘ひっくり返り破損。

美術を仕込んだ状態でホールでの稽古。
実際場に入ってからでないと作れなかったシーンに取り掛かる。
ものにも人にも空間の構図にもアンテナをはって。

共演者のひとりが最後の晩餐はかぼちゃで良いと言い切る私と同じかぼちゃ好きで、同士に会えてうれしかったので、かぼちゃケーキを焼いて休憩中のおやつに持って行った。

休憩中に何人かでテンションを上げるときに聞く曲を披露しあった。
iPodやiPhoneからそれぞれいつも耳から体に流している音楽を空気中に放つ。皆それぞれお守りを持ってるような感じがする。

晩ご飯シャケ弁。

今日も終電で帰宅。

2011/9/1

2011年09月03日 | Weblog
9月に入った。

8時半起床

午後から稽古。

今日初めて美術の上にあがらせてもらった。明日からはここで稽古できる。

終電で帰宅。
帰ると電気とテレビが付いていた。一週間ばかり東京に行っていた夫帰る。
しばらく一人暮らしのペースだったので、帰ると家に人がいて、何かしゃべったりするのだった、そうだった、という感じ。話そうと気を遣ってみたがなんだかうまくいかない。
今日の稽古は体乗りきらなかった。
流れに乗ると長時間でも疲れないが、乗りそびれた一日の疲労はやりきれなさで湿気て重い。
そういうじっとり重量級のやつが家に帰ってくるのだから、たちが悪いに決まっている。
案の定会話の反射神経働かず。帰ってくるのを楽しみにしてたのだが、それを態度にうまく反映させられない。

切り替えがうまくできていない、申し訳ないよと思いながら寝る。

2011/8/31

2011年09月01日 | Weblog
8月最後の日。
午後から稽古。

起きて、太陽礼拝、かぼちゃジュース、ヘーゼルナッツとカレンツのパン。

昨日は一日休みだったので、洗濯、掃除、朝ごはん用のパンを焼いたり、美空ひばりの動画を見たりしていた。愛燦燦がすごい。

あとレンジで驚くほど茄子がおいしく食べられる方法を知った。
ヘタを残してがくだけ切り取り、フォークで数カ所突いて耐熱容器に入れて2分くらい。触れるようになったら適当に切る。とろんとした焼き茄子のようになる。
これにコチュジャンなどをつけて食べる。
中華ドレッシングを絡めて冷やしたのもおいしい。
かぼちゃの次に好きなものは茄子かも知れない。

今日から劇場仕込み始まる。
高松から4tトラックに積み込まれてやってきたカミイケタクヤさんの舞台美術を総出で荷下ろし。

稽古。

指示が細かくなっていく。その分自分の出す音や声、動きがどういうものであるか、具体性を帯びてくる。かつ諸要素は時間軸のなかで交差し複雑になっていく。

今日の稽古は6時終わり。
その後出演者の面々とみんみんで夕飯。
それぞれ天津飯、唐揚げ定食、焼肉飯など。
イカ炒飯と水餃子のセット600円にしてみた。水餃子か焼き焼売を選べるとあったが、焼売を焼き餃子にしてくれたら良いのにと思う。炒飯はおいしかった。

松ヶ崎で降りるとばらぱらきていた。明後日には台風が来る。どうやら直撃するらしい。

財布に余裕はないけれど、花が欲しくなり、帰りしなフレスコでワックスフラワーを買った。蝋梅のような質感のピンクの花。葉はティートリーのようなにおいがして、花は薄っすらトンカビーンズに似ている。

帰って今日は湯に浸かった。
いつも寝るのが4時前になってしまうので、今日は早寝を心掛ける。