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流出雑記 

ポツドール『夢の城』

2012年10月29日 | Weblog

はじめてポツドールを見た。夢の城。2006年に初演された作品のKYOTO EXPERIMENTでの再演。

開演前の舞台上は映画館のように全面を覆うスクリーンが降りていて、白い一枚の膜が舞台と客席の間に張られている。まずそういう仕切りが目の前にある。

スクリーンには携帯の電源はお切りください という文字が出ていて、客入れの間ずっと流れている曲、耳に残るべとっとしたクセのある日本語の歌は岡村ちゃんだ、岡村靖幸。曲が変わって音量が上がりスクリーンにはAM2:00と出て幕が上がる。

街頭の音。幕の奥には窓があった。ちょうど他人のアパートを部屋をベランダ側から見たときの、見覚えある風景のアップ。

サッシの窓で舞台と客席は完全に仕切られている。部屋のなかは蛍光灯の白い灯りの下、数人の若い男女がいる。部屋の壁にはタレントの顔など雑誌の切り抜きが縦横無尽にコラージュされている。天井に貼付けられたジャマイカの暖簾、日の丸、玄関に垂れ下がるレイなどとにかく隅々までデコレートされ、日本製無国籍迷彩部屋と化している。床は敷き詰められた万年床でとっ散らかって部屋というか、寝ぐら穴ぐら、巣のようになっている。ハンガーを集めて巣を作るカラスのことを思い出す。住人の彼らも金や赤、派手に染めた髪、日焼けした肌にタトゥー、ひと昔前話題になった汚ギャルとかギャル男というか、そもそもどんな容姿をしていたのかを眩ませた「日本人」の姿をしている。

彼らは緩慢に動く。だるい人でもそこまで緩慢に動かないよというくらいにのそのそ、オラウータンのように。彼らは会話というものをしない。黙しているというより、必要ないから忘れた、というふうな沈黙。部屋もそこにいる人たちもこの国のどこかに実在していそうだけれど、その実態をトレースし、再現することが目指されているのではなく、これはまったく創出され抽出された人の姿であることはその状態から見て取れる。
彼らはゲームをしたりセックスしたり漫画を読んだりトイレに行ったり菓子を食べたり取り合ったり吐いたりしている。行動の動機は発生した欲望を手の届くところでその都度満たすことにあり、特別な意味をもった行為はなくそのどれもが並列している。
家族という秩序のない彼らのコロニー。群れの生活。そこに野球ゲームの音楽と実況が終始流れている。

日本という国、日本人。そもそもあった日本独自の生活様式を尊重するよりも、欧米諸国に向けて近代化をアピールするため欧化政策がとられて以降、利便性と効率化の追求にウエイトが置かれる現在の生活に至る。もはや欧化という言葉が意味のないものになっているとしても、やはり「化」である事実の痕跡は消えず、何をどのように真似ても日本人のフィルタを通して出来上がってしまった独自の様式のなかに住まうことになる。民族特有の衣食住、生活様式から長い年月のあいだに培われた体は、すぐに上書きされるものではないけれど、いつかは有効であった歩き方、思想、伝統も文化も、今やそれにあてはめるべき生活環境が変貌し、多様化しすぎ作用点を失っているように思う。受け継がれるものより、それを吹っ切る速度で常に更新されるものの寄せ集めに囲まれているような暮らしを各々営み、その結果散乱した体。体を統制する暮らし、伝統を欠いた生活というのは、煎じ詰めるとこういうことになるんじゃないかと思ってしまう。「化」である日本人。舞台上の体はフィクションであるけれど、そういう視点で見つめるとリアリティをもって迫ってくる。

 

窓枠によって観客はその部屋を傍観する、他人の部屋を外側から眺めている者として客席に座っている。彼らの発する臭気も体液もガラスの向こうに遮断されてこちらまでは届かない。だから次のシーンで窓枠が取っ払われ、客席とあの部屋を分かつものが舞台と客席であるという認識のみになったとき、客席の自分がどこにいてこの部屋を見ているのか、客席の位置が明らかにさっきまでとは違う、危ういところに移動したのを感じた。役者が客席にやってきて、観客を巻き込む手法でなく、舞台と客席の間にフレームを差し挟む、引き抜くことで観客を引き入れる、いざなう。

スクリーンが降りてAM9:00と表示される。 夜が明けた。散々暴れた夜の埃と二酸化炭素と彼らは床に沈殿して眠る。夜とは打って変わった静けさのなかで女がひとり髪にドライヤーをあてている。どういう訳かこのドライヤーの音はこの部屋の酸素を充填しているように有機的に聞こえてくる。東側の流しの窓から光がさして部屋には朝がきていた。

来た朝を見ている、という時間がなんだかとてもいい。朝が来るということ、陽が昇り朝が来ることに御来光なんて言葉が充てられている、雄大な山から昇る朝日でなくても、このゴミみたいな部屋に入る陽の光から朝の聖性を感じてしまうのは、あの卑俗の夜を見たあとだからだろうか。あの夜がなければこの朝は、やはり来ない。

各々目覚め、身支度をしたりしなかったり、どこかに出掛けていく。 PM3:00の西陽の部屋。すべきこと、しなければならないことがないふやけた昼間の部屋、どこへも出掛けない男はどこへも行かず何もしなくても生きているので、どうしても何かをしてその時を過ごさねばならない。甲斐ある事無い事、テレビゲームであろうが仕事であろうが。何か。

陽が暮れて出掛けていた彼らは部屋に戻る。ひとりの女が台所で包丁の音をさせはじめる。別の女は皿をあらう。部屋の真ん中の布団をめくりボクシングのグローブを鍋つかみにして男が鍋を運ぶ。そうだ。鍋の取っ手は素手で触ると熱いから。調理器を置いて鍋の周りに皆集まる。夕食風景。
女が部屋の隅にあったキーボードに触る。彼女はピアノが弾ける、ああ小さい頃に習った、それを覚えているんだ、と食事やそういうそれまでは見えなかった過去の記憶、その時間があったことが垣間見え、舞台上の体に差し色のように血が通う感覚。音は音楽になり、部屋のなかで鳴っていた曲は増幅され客席に響く。

また夜が深くなる。
女がなぜか泣いている。ひとりの男はそれに気づく。付けっ放しのテレビは青空をバックに日の丸をはためかせ君が代を流す。男はそれに合わせてスピードスケートの真似をする。女を泣き止ませようとしているのかどうか。放送が終わる。
スクリーンにエンドロールが流れる。それが終わると幕が上がりまたサッシの窓があらわれる。その向こうで彼らは眠っている。次にそこに見えてくるのは、ガラスが鏡になってうつされた視線の先にある我々、観客の姿だった。劇の時間と俳優へ拍手を送ることで昇華する観劇の後味を残さず、観客自身に最後の最後ではね返ってきた視線は、この劇において見るべきもの、向けるべき視線の先を示されているようだった。ポツドールの作品が語られるときその過激さは取り上げられるだろうが、彼らが見せたいものの本意は今回の作品を見る限りそこにはないと感じる。観客に見せるための劇ではなく観客にとって見ること、そのことを問い、拡張する劇の時間だった。席を立ち劇場を出て行く観客の『夢の城』から出たあとの、それぞれの目にうつる世界はどのように感じられただろう。

ひとつひとつのシーン毎にスクリーンが降り、時間が表示される。
時間が区切られることで目が一旦リセットされる。人の生きている様子を語らずにそのまま見せるための区切りが一種物語を構成する要素のような働きをもっていた。
表現されている内容、物語、その表現の技巧というものより、しつらえられた時間のなかでただ人を見ることができるということに観劇における大きな喜びがある。私にとっての。どんな舞台でも舞台上の人が喋ったり動いたりするのを見ているのだが、そのすべてが人の姿を見たと思える訳ではなく、そう思えるものに出会うことのほうがなんだか稀。

手法もアプローチの仕方も違うけれどタル・ベーラの『ニーチェの馬』を思い出すところがあった。
それは生きていることそのものに触れようとする手つきの真摯さにあるように思う。


2012/10/20

2012年10月22日 | Weblog

深夜に家のなかが出汁のにおいに満ちているのはおでんを仕込んでいるため。

台所に立っていると小麦の視線を背後に感じる。だしガラの鰹節を待っているのだ。

大根とこんにゃくをそれぞれ下茹でして、そのあいだに出汁をひく。ゆで卵を作る。ほんとは牛すじも入れたいところだが、いいすじに出会わなかったので今回はなし。
おでんのゆで卵があまり好きじゃないが、卵なしというのもおでんとしてさみしい。3日食べるとして3つ茹でる。ゆで卵、特におでんのゆで卵の表面がボコボコになっているのは許し難い。茹でたあと冷水でしっかり冷ませばゆで卵は難なくきれいに剥けると知っているのに、冷凍庫に氷を取りに行くのを面倒くさがって、あら熱の取れた卵を剥いてみたら、どう気を付けても腹立たしいくらい薄皮に白身が密着して剥がれてくる。その時間の不毛さと言ったら、何度か卵をそのまま握りつぶすかゴミ箱に向かって全力投球したい衝動に駆られるが、食べ物を粗末にはどうしても扱えない。鶏と養鶏場の人の姿などが自動的によぎる。触れば触るほどぼこぼこになっていく卵を見ながらちょっと死にたいような気持ちになった。それは一個一個手で包んだ餃子を焼くのに失敗し、皿に移すとき大破したときの気持ちに類する。

そして悪意があってのことかと思われても仕方のない様相のゆで卵が3つ出来上がる。すぐさま包丁を手に取り、それらを真っ二つに割って黄身をえぐり出し、白身をまな板の上で叩き、玉ねぎのピクルスも巻き添えに、それらをあわせて胡椒とマヨネーズを投入し掻き混ぜて冷蔵庫にぶち込んで寝た。

今朝それをかりかりにトーストした薄切りのライ麦パンにたっぷり乗せてそれを食う。
あの後もう一度作ったゆで卵は琥珀色になった大根と共に土鍋のなかで柔らかな眠りに落ちている。

夕方土鍋を火にかけ、おでんを揺り起こす。煮込まなくてもいい練り物類を加え、ソーセージ、シュウマイを足すと土鍋はもう溢れんばかりの盛況ぶりで、トマトをまるごと煮てみようと思っていたのにその隙はなかった。


2012/10/22

2012年10月22日 | Weblog

空だったiPhoneのミュージックは槇原敬之で満たされている。

小麦が出て行ったきり戻らない。買い物から帰って、両手が荷物で塞がっている隙をつかれて突破、そのまま近くのお屋敷の生垣を超えて庭の方に走り去ってしまった。そこの縁のしたやその辺りにいることはいる。ごはんの器をもってカンカン鳴らしながら夕方になると呼んでみる。秋になってから小梅の分まで黙々と食べてころころになった小麦、万を時しての家出。もともと野良でいつも外に出たそうにはしていたが、お腹が空いて帰りたくなったら戻ってくると思って待っている。

先週から着付けを習い始めた。
自分で着物を着られないことはずっと残念なことだと思っていた。民族衣装なのに自分で着られない。その距離。
それで今やっと襦袢と着物を自分に着せつけて、名古屋帯を結ぶ練習をしている。たくし上げた垂れがお太鼓の中でぐさぐさになるのをどうすれば綺麗にまとめられるのだろう。という格闘中。

あんぱんを作るのにあんこを炊いたらたくさん出来たので、おはぎを作った。もち米がなくても白玉粉をうるち米に混ぜて炊けばいいという方法を知る。この方法はもち米を使うのと比べても遜色ない出来だったが、同じような方法で赤飯、というのもあって試したが、これは小豆ご飯という炊き込みご飯になった。


2012/10/15

2012年10月17日 | Weblog

朝、家を出て洛西の祖父の家に向かう。祖父の病院付き添い。
ここ最近とても痩せてしまった。体力も気力も抜け出てしまったようになっている。

阪急の桂駅で降りてそこからバス。バスの番号を忘れて祖母に電話で聞く。ついでにお昼の寿司を買ってくるよう言われる。
降りる駅のひとつ前に高島屋がある。この高島屋は河原町にあるような百貨店というより、なんとかショッピングセンターという感じで規模が小さい。地元の人たちは普段からここで買い物をしているらしい。食料品売り場で生ものがダメな祖母に鱧押し寿司、並んでいるなかで一番高くておいしそうだった特上握りは祖父、私はお昼を取らずに病院に行くものと思って、バスに乗る前にコンビニで赤飯おにぎりを食べてしまった後悔の胃で米の量が少ない海鮮太巻きにした。

高島屋から歩いて祖父母の住む団地へ向かう道、小学生以来だがなんとなく歩いた覚えのあるところを歩いて行くとたどり着けた。整頓されたニュータウンの街並み、この辺は昔全部竹やぶやったと小さい頃に母から聞いた。正月にはいとこと凧揚げをしに来た広い公園もそのままだった。

この日は10月も真ん中に差し掛かろうというのに、薄いコートでもうっすら汗ばむ。

久しぶりにやってきた祖父母の家、物は多いが綺麗好きの祖母によってきちんと掃除され片付いている。まず仏壇にお参り。

祖父はなおしていた入れ歯が入って顔だけ見れば先月妹の結婚式で会ったときよりずいぶん元気になったように見えた。
3人で寿司。祖父は喜んで焼酎お湯割りを用意し、大トロから食べた。
祖母は小さな缶の発泡酒を開けた。私はお茶。祖父は半分食べられるかなと思っていた10貫のうち7貫食べてくれた。
食後、祖父は少し横になったあとトイレとベッドを二往復し、ひどい下痢やから今日は病院に行きたくないと言い出した。今日の検査を終えれば近所の町医者に隔日で注射に通えばいいので、ちょっと無理をしてでも連れて行かねばならなかった。元々口の悪い祖母は根性が足らんと罵りながら少し遅れると病院に電話をいれた。私も孫力を発揮し頑張って行こうとなだめる。

30分ほどして祖父はどうにか起き上がってくれ、タクシーを呼んだ。2階からゆっくり下まで降りる。体を支えるのに腕を組んだら祖父の腕は服に包まれた骨のようだった。10mほどの廊下を歩いて階段を3段降りると一旦階段に腰を下ろす。今の祖父にはその距離の移動で途中休憩が必要だった。団地の入り口までたどり着くとちょうどタクシーが着いた。

病院、血液内科。
栄養不足のため血液の中のなんとか言う成分が不足し、強い倦怠感があるらしい。数年前に胃がんをして祖父は既に胃がないけれど、これまで転移は見つかっていない。今日は採血と不足している成分を注射で入れ、点滴もすることになった。処置室に移動する。処置室には点滴、透析を受けている人たちが、カーテンで仕切られた狭いスペースの狭いベッドの上に横たわっている。

点滴は2時間かかると言われ、待つあいだ病院の地下のタリーズコーヒーでお茶をする。
祖母ホットティーとミックスサンド、私はトフィーラテというのにしたがこの飲み物は甘過ぎで、そんなときに限ってトールサイズを選んでしまった。祖母はサンドイッチ食べやと勧めるが、さっき寿司を食べたばかりでお腹がすいていない、というと、私があんたくらいの頃はごはん3杯は軽く食べたけどなと言う。

最近嫁いだ妹の話題から、祖母が嫁いだ頃の話になった。
街育ちの祖母が嫁いだ祖父の実家は田舎で、その暮らしはそれまで当たり前だったことが通らない、ちょっと異国に来たような、そんな日々の連続だったらしい。その頃すでに後家となっていた姑から、洗濯機も掃除機も電気代がかかるから使うなと言われ、湿した新聞紙を撒いて掃き掃除、洗濯は川でする。京都の北部、市内ではあるけれど寒さは街中と比較にならない。当時は今より雪深く、真冬の洗濯ではお湯を持って行ってもすぐに冷えてしまう。暖がとれるのは自分の首元しかなかった。少しでもましかとゴム手袋買い、それをはめて洗濯をしてみたが、近所であの家の嫁は洗濯するのに手袋をはめている、と噂が立ってそれが姑の耳にも入り、使えなくなった。とにかくなんでも噂の種になる。家のなかでの夫婦の会話すら襖一枚隔てた姑に聞かれる。耳に入ったことを近所の人との話題にされる。

嫁いで間もない頃、お彼岸でおはぎをこしらえてと姑に言われた祖母は、おはぎを作った事がなかった。祖母は慌てた。小豆も炊いた事がない。今なら「おはぎ 作り方」と検索すれば懇切丁寧に何度かやらないと分からないようなコツまでわかるレシピがすぐに手に入るけれど、祖母は文字道理手探りでどうにか小豆を炊き上げ、餅米を半殺しにしておはぎをこしらえた。そうやって探ったぶん忘れられないんだろう。

姑は何かにつけとにかく倹約するように言う人だったそうだ。畑があったので、米や野菜、大概のものは自給自足で事足りた。当時は当たり前だった手作りの味噌、祖母は漬物が食べられないが糠床もあった。食材で買うものと言えば揚げか豆腐。時々雑魚売りがやってくる。お母さん雑魚売りが来ましたけど、と姑にいうと、ほな弘(祖父)のお造り買うといて。それだけで他の者の分はなかった。野菜に不自由しないと言ってもある時期同じものばかりが続くことになる。だから殆ど同じものばかり食べていた。祖母にとって食事は楽しみというよりとにかく栄養摂取であったという。

姑のやることで祖母が許せなかったのは、前の日の残りの味噌汁に足して味噌汁を作ることだった。煮崩れた具とさっき入れたところの具が同居している味噌汁。今日は茄子の胡麻和えするさかい胡麻擦っといて、と言われた。姑は米を炊いているお釜の中に茄子を切って入れ、一緒に蒸した。茄子を別に調理する分の節約にはなっても、出来上がった胡麻和えには米粒が混ざり、米には茄子の色が移ってところどころ紫。奇麗好きな祖母はそうやってごちゃ混ぜになっているものが嫌だった。姑の質素倹約精神は戦中の名残なのだろうか、そういう心がけは当時普通だったのだろうか。そこまで切り詰める程貧しい訳ではなかったらしい。

畑と家事、今よりずっと体力を使う忙しさである時期は33キロまで痩せたという。乳の出が悪くなっても高価な粉ミルクを買うことは許されなかった。そんな間祖父は何をしていたのかと聞くと、新婚3日目くらいから日付が変わっても帰ってこず、近所の人からうちで麻雀してはるでと聞いたそうだ。顔で選んだのが間違いやった、近所の薬屋のボンにしといたらよかったと祖母。面食いなのだ。祖父の若い頃の写真は確かに映画俳優並みのハンサムだった。

とにかくプライバシー、娯楽のない、あんたら今の若いもんには絶対耐えられへん、という生活であった。

その後もいろいろあって借金、夜逃げ、深泥池へ飛び込もうかというところまで追い詰まった生活をどうにか乗り越えていまの祖母がある。自叙伝を書いてはどうかと思うほど苦労話が尽きない。

点滴が終わるまで居ようと思っていたが、あんたも家のことあるさかい今日はもう大丈夫やし帰りと言われ、駅直通のバスのところに連れて行かれ、バスに乗せられる。祖母は近所のスーパーにおじいさんのひげ剃り買いに行ってくるわと言ってバスが出るのを見送ったあとそっちの方へ歩いて行った。


2012/10/14

2012年10月15日 | Weblog

午後、夕飯の買い物のときカゴに森永のミルクキャラメルを入れた。

昨夜見た赤目四十八瀧心中未遂という映画のなかでヒロインの寺島しのぶが森永のミルクキャラメルを食べるシーンがあった。

遠足の度に支給されていた菓子だから味を覚えているけれど、あの黄色い箱を持っているというのをもう一度やってみたくなったのだ。 お会計をして肉や野菜を袋に入れ、キャラメルはポケットに入れて帰り道に開けた。 口のなかでの滞留時間3分くらいで、気付けばキャラメル自体はなくなっているが、バターと砂糖の甘いにおいだけ結構しつこく鼻の奥に引っかかっている。それで吸う息も吐く息も甘い。

夕方仕事に向かう大阪方面行きJR、2人がけの椅子で私が座っている通路側の真横に立った中年サラリーマンはやってきたときから何か呟いていた。横目で見る限りごく普通のサラリーマンだが、呟きに耳をすますと 「しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね… 」 と誰に向けてでもなく独り言のように、一瞬聞き違いかと思ったが、やっぱり確かにそう言っている。  まずい人が傍に来てしまった。本を読むふりをして横目で動向に気をつける。スポーツ新聞を広げて読んでいる格好で 「おまえもおまえもおまえもおまえもしねしねしねしね…」と言い続ける。

吊り革にぶら下がって斜めに立ってみたり、暴れたりしないけれど小学生のように落ちつきがない。酒臭くないので酔っているわけでもなさそうな中年男性の自暴自棄。 周囲の人もちょっと警戒した様子になっている。 サラリーマンがスーツのポケットから何かを取り出す仕草をした。まさかポケットナイフじゃなかろうなこんなところでうっかり刺されるのはごめんだと、本をしまってすぐ逃げられるように手を空けておいた。京都から私が降りる高槻までは停車駅がなく、駅でもないのに立つと何か奴の気に障るかも知れないと思ったのと、わりと混んでいて動きにくかった。高槻までは約10分。ポケットから出てきたのはレシートくらいのしわしわの紙切れで、何か書いてあるものを見てまたポケットに仕舞った。

スーツの中で化膿している中年サラリーマンは、家に着いてスーツを脱いでひと風呂浴びたら少しさっぱりした気持ちになったりするんだろうか。 帰る家には誰か待っているんだろうか。

 次は高槻~というアナウンスが聞こえた。降りる客の流れに乗って席を立った。私が座っていた席にサラリーマンは座った。その横に座っていた青年は眠りこけていた。


最近思う事

2012年10月12日 | Weblog

iPhoneのなかに入っている音楽をカラにした。自転車に乗るときシャッフルで音楽を聞いているが選曲がどうもばちっとこなくて、片手でiPhoneを振りながら手動でシャッフルさせているうちに目的地に着いてしまう。選曲が悪いのでなく入ってる曲がなんとなく離れてきていると薄々感じてはいたが、やはりそうでカラにした。次に聞きたい音楽がわからないのでまだカラのまま。

ばら。ディオレサンスの次に買ったアンバークイーンの初開花。名前の通り琥珀色の花が咲く。香りはアールグレイにハチミツを入れたときの如く。ベルガモット、ティー、ハニー。上立ちが飛んだ夕方には緑茶石けんに近かった。

今後のばら計画。ディオレサンスはモーブ、アンバークイーンは黄橙なのだが、ばらでグラデーションを作りたい。モーブより強い紫はディオレサンスと同じデルバール社のシャルトルーズ・ドゥ・パルム。モーブと黄橙の間にベージュ系のこれはずっと欲しいばらエヴァンタイユ・ドール。この4つを並べてみたい。どのようになるかイメージするとこのよう。

 

シャルトルーズ・ドゥ・パルムもエヴァンタイユ・ドールも近所の園芸店に置いてあるのですぐにでもこの計画は実行できるが、手がでないのは値段が高いため。両方買って鉢も買うと1万円飛ぶ。ネットだともっと安いが、今は予約の苗しか出ていない。

あと粉粧楼というチャイナローズ。これは嗅いでみたい。携帯のなかの欲しいばらリストにはもっとたくさんの名前が咲き乱れているけれど。

土を入れ、乾けば水、悪い葉を取り、枝を整理し、時々薬。私がするのはそういう手助けくらいで、それだけで花は咲くという偉業を成し遂げる。 

手はなんの為にあるのか。こういう自分には到底作る事の出来ないものに触れることはその理由のひとつに数えられる。

最近思うこと。

自分が何かを作れると思っていることがとてもおこがましい。やれることはせいぜい既にあるものに手を添えていくことだ。自分が/何かを/というのが決定的に誤りであるように思える。主体は常に自分以外のものになければならないし、それで良く、それがまったく正しいように思う。しかし私というものは無いわけではない。これは何か為そうとするときの「私」という主語の置き所の問題だろうか。

一昔前のある出会い1。大学に入ってすぐ、常に何か作らなければならないし、それによって己を確立すべしと意気込んでいた頃、とある喫茶店で働いていた。そこでであったある女性。少し年上で、間違いなく人の目に止まる群を抜いた美しさをもった人だったがとても控え目で、まるで早すぎる隠居を決め込んだような彼女は、日々薄暗い喫茶店のウェイトレスをしていた。芸術にも造詣が深いとみえ、鑑賞するのは好きなようだったが、ある時、私は表現するのが嫌なんです、と言った。その頃の私はそんなことを思った事がなく、むしろ表現することが存在理由のように思っていたので、なぜ彼女が嫌だと思うのか、理解できなかった。理解できなかった理由はいまなら説明がつく。その頃の私が今よりもっと何も知らなかったからだ。

一昔前のある出会い2。大学在学中に出会ったある詩人。言葉で詩を書くだけでなく平面の作品を出した個展などもしていた。そのときの作品。細かいところは正しいかどうか既に怪しい記憶だが、ポラロイドを2枚表同士合わせてどのくらいの期間か置いておく。あるときにその2枚を剥がすと、ゼラチンの部分がひっついて剥がれるので意図しない抽象的な柄が表れる、それを額に入れて飾るというような作品だった。実際に見ると、手で描いたりできない細い稲妻のような線が入っていたり、それ自体魅力的だった。そのとき詩人は静かに笑いながら、僕は剥がすだけ、と言った。 それを聞いてずるいと思った。必死でああでもないこうでもないと塗り重ね自問自答し、作るという意識に急かされたり濁されることのない、剥がすだけ。もちろんそこに至までの道のりが平坦ではなかっただろうことはなんとなく想像される。力を抜くという事は簡単なことではないから。

 

表現するのが嫌なんです  剥がすだけ

 

 

さてどうしたものかと思っているのです。と、思っている者がここにいてしまう。

 


2012/10/9

2012年10月09日 | Weblog

公演が終わり福井から戻って、落ち着いて生活するペースに戻る。

その間に子供が産まれた友人を訪ねたり、別の友人の結婚式に出席したり、舞台を見に出掛けたり。本番終わりで気が抜けた時期は風邪を引きやすい。あやしかったので昨夜はショウガとネギをたくさん入れたうどんと食後にルル、みかん。最近ちゃんと出汁を取るようになった。特にうどんそばは飛躍的においしくなる。暑い間は出来るだけ火を使わず料理したいと思う反動か寒くなってくるともう俄然煮炊きをしたくなる。米も鍋で炊いてしまう。うまくおこげを作るには火を消す直前に数十秒火を強め鍋底が微かにぱちぱちいう音を聞いて火を消す。そのときに上がってくる湯気のにおいは遠足の飯ごう炊さんだ。こげ味の強いご飯に豚の薄切り肉にやや固いにんじんとじゃがいものしゃばしゃばしたカレーをかけて食べた小学生の頃の記憶が立ちのぼる。

夏の間あまり手をかけていなかった玄関先の植物を整理。無性にばらがほしい。ばら。出掛けるついでがあれば園芸店を覗いて、数日ばらコーナーを徘徊した末に、アンバークイーンという名前の通り琥珀がかった色の花を咲かせる苗を連れて帰って来た。今最初のつぼみが咲きつつある。苗に付いているラベルでしか咲いた様子を知らない。どんなかたちで花がひらくのか、どんなかおりか、未知のものが傍にある。玄関に出ると変色した葉を取ったりしながらしばらく眺める。ばらは人に取り憑く質の花だというのがよくわかる。ばら以外にもあるだろうけど。前に定年後の男性方が菊栽培について話していたのを聞いた事がある。菊は手がかかり、細心の注意を払って見てやらないといけない。そういう繊細な目が養われるので菊栽培は、菊を育てるでなしに人を育てるものだとか。それを聞きながらああナルホドと思った。どういう対象にどのように関わるかによってその人の所作、身のこなしというものは作るともなく作られ、それがそのままその人の姿となっていくというのは確かにそうだ。

自転車で走るとキンモクセイのにおいが時折混ざる。猫たちは食欲が増して小麦は特にころころしてきた。毛布を出した。扇風機もそろそろ仕舞いたいが、夫は風呂上がりにまだ風にあたっている。