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流出雑記 

12月インプロセッションの会 備忘録

2011年12月07日 | Weblog

12月1日のインプロは仕事などで来れなくなった人が多く、開始時間になって集まったのは3人だった。

セッションはできるが、ちょっと喋ろうかという感じになり、ここ最近の公演等について話していた。

そのうちのひとりが先日発表した5分のソロがいまいち不評であったという話題から、時間もあることだし試しにそのソロを踊ってみてもらうことになった。

少し遅れて、とあるダンサー/振付家もやってきて、観客は3人になった。

 

8人のダンサーが「誰も見たことのない世界」というテーマでそれぞれ5分のソロを踊る公演だったそうだ。

 

彼女のソロを見た3人の感想として共通していたものは、振りによってどのような体をあぶりだりたいのか、それを見た観客にどのような状態を喚起させようとしているのかが伝わりにくいといったことだった。

見ていて言葉に翻訳できる身振り、ジェスチャー的な動きによって設定されたテーマをなぞろうとすることが踊るということを困難にしている様子だった。

 

続いて、ダンサー/振付家の彼女が、いま稽古中の作品を踊ってくれることになった。別のダンサーが過去に自身のソロとして作った振付だった。

 

自分の為のソロとして作られたときには他者に振りを渡すことを前提としていなかったものを、自分の体から引き剥がして他者にうつす。

他者の体にうつすということは、どれほど正確にやったとしても、別の体に翻訳されるということになる。

それを経てもなお変わらないものが作品の中に見出されるとしたら、作品のコアは本人が踊ったときよりも鮮明に浮かび上がるのではないだろうか。

体を動かすものの躍動が体に表象されている。与えられたものに対して、彼女は彼女のダンスを反応させていることが見ていて伝わってくる。

これは約10年前に作られた作品であり、当時を思わせるのは、選曲だったりするが、本質的に現在のコンテンポラリーダンスとの差異はほぼない。

 

ダンスを作る、踊る、ということ、コンテンポラリーダンスと呼ばれるものはこれからどのような活路を見出すことが出来るのか。

個々の体の持つ魅力、体の数だけダンスがある、という寛容さを否定せず、寄りかからず、私小説的なものの粋に留まらないものへと拡張させるには、何を踊るかというより、どのように踊るかということからまず問わねばならないのではないだろうか。踊りらしきものに取り繕われる踊りではなく。

そのためにすべきことは、

自己の体を徹底的に客体として扱うことである。

それでも、どうして相対化することの出来ない「私」がある。それは命綱であり、その張と緩、それを渡ることが踊らざるを得ないこととして繋がっている体。

踊ることとは何か、体とは何か。踊り手の数だけ答えがあるだろう。

終わりのない設問を前に、体を連れてうろついている。

 

即興をする意図は、発散的なものでなくて、他者を前に他者と共に場をつくるときに、その時その時に体の状態を自由に選択すること、自分の範疇に留まらず、遭遇するものから体を動かす回路を見出すことをやるための即興でなければならないと、自分がその場に立つときはそう思っている。

 

 

 


2011/11/30

2011年12月02日 | Weblog

連夜、猿の惑星。
家賃を支払い、稽古場を取りにゆき、おでんだねを買いにゆく。
ちくわぶを求めて。関西ではメジャーではないので、大きなスーパーに行かないと売ってない。東京のコンビニおでんで食べたらおいしかった。
うどんの塊、もしくはすいとんだが、そのどちらでもない。
捏ねて蒸すか茹でるかしているのだろう。原材料は小麦粉、としか書いていないが、そのくせ値段はうどんと比較するとかなり高い。
練り物が何種類か入っているセット、煮込みちくわ、餅巾着、厚揚げなど。大根、こんにゃく、卵は前日に仕込み済。
バイクで八瀬に紅葉を見に行く。

緑の葉があんなに赤くなるということをいつ見ても不思議に思う。
冷えたのでコンビニで缶コーヒーを飲んで帰る。

明日から12月。
2011年もついに終わりつつある。
11月最後の晩餐おでん。このあと3日はおでんで食いつなぐので、一番大きい土鍋に仕込む。

出汁が染み込んだ結晶の如き2日目の大根が好きだ。