ふたりとも休日の朝。久々にトーストを焼いてみたら、トーストってこんなに美味しかったかと思った。週間天気予報では傘マークがついていたけれど、曇りになっているので、出掛ける。
夫は村上春樹、私は保坂和志の本がほしかったので、まず三条のブックオフに行った。この古本屋、規模は大きいが保坂和志はほとんどない。
そのすぐ傍にある三条通りの気になっていた定食屋、篠田屋に行ってみた。
昭和の時を留めた店内は昼どきで中年男性たちで半分ほど席は埋まっているがしんとしている。テレビモニターも音楽も流していない。いわゆるという感じの麺丼ものが並ぶお品書きの中でおすすめらしい中華そば、この店オリジナルらしい皿盛りというのを注文する。お手洗いに行くのには厨房を通る。厨房は土間になっていて、大きな釜があり、炊事場という雰囲気だった。そこで老夫婦が調理をし、その娘と思われる中年女性が注文、会計などをしている。中華そばは期待通り中華そばと言われるもののセンターを貫いていた。皿盛りというのは、カレー風味の和風あんかけごはんに薄いトンカツが乗っているものだった。カレー丼ではなく、カレーライス形式に皿に盛りつけられている。客はほぼそれを注文し、そうでなければ中華そばをすすっている。
皿盛りを味見させてもらったら、カレーの風味も出汁もかなり優しい。カツにさっとウスターソースをかけるとちょうどいいくらいだった。私だったらあんにもう少し味をつけると思ったけど、これがこの店らしい感じの食べ物だった。
午後から映画を見ることにしていた。時間があったので、四条烏丸から錦、寺町、御幸町をぐるっと歩いて上映前に京都シネマに戻る。
気になっていた『アクトオブキリング』を観る。60年代のインドネシアであった大虐殺を行った、今はもう孫のいる年齢に達するブレマンと呼ばれた民間の兵士というかヤクザのような男たちを追ったドキュメンタリー。彼らは「共産主義者」と見なした数え切れない人々を虐殺しているが、その罪を問われることはなく、現在はインドネシア内で英雄的な立場にあり、裕福な生活を送っているらしかった。そんな彼らに当時行っていた虐殺の場面を映画の中で再現する話しを持ちかけると、それを喜んで引き受ける。自分たちのやったことを世界に知らしめるチャンスだと。自分たちの力と恐ろしさは彼らの誇りであり、殺人への罪の意識というものはそれらの記憶にまるで被さっていない口振りで、この場所で大量の人を殺したんだ、こうやって針金で首を絞めるんだと説明する。殺人者たちが殺された人も演じ、虐殺の場面が再現される。尋問、虐待、処刑。
インドネシアという国はどういう国なのか。つい最近、東ティモール独立運動に関するドキュメンタリーを見る機会があった。その映画のなかでも東ティモールに軍事介入し虐殺行為を行っていたのはインドネシア軍だった。
調べるとどちらもスハルト政権下で起こったことらしかった。スハルトのキャリアは軍人から始まっている。
スハルトの前の大統領はスカルノでつまりデヴィ夫人の旦那さんだった訳だが、親共路線だったスカルノ政権下に左派系軍人らによる陸軍将校殺人事件が起こった。そのことによる混乱を治めるため、スカルノはスハルトに事態の収拾にあたる権限を与え、スハルトはこれを速やかに鎮圧する。同年陸軍大臣兼参謀総長に就任したスハルトは事件に関わったとされる共産党指導者、党員、疑いのある市民を大虐殺し、物理的に組織を解体した。敵対するものは容赦無く粛清する。
東ティモールでのインドネシア軍の行ないもあまりに残忍で、虐殺現場の写真は何かの為に戦うというより、民間人に対してそこが無法地帯であるかのような振る舞いの痕を記録していた。
それが何によって引き起こされているのかわからなかった。
もうひとつ調べていて知ったことは、スハルトは郷土防衛義勇軍、略称PETA「ペタ」出身であるということ。
ペタとは、太平洋戦争期、1943年10月、日本軍政下におかれた東インド(現在のインドネシア)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織。インドネシア人指揮官がみずから率いる民族軍として構想されたものである。こうした民族軍の設立については、日本側とインドネシア側の双方から要請があった。日本軍政当局が民族独立を確約せず、住民の動員や資源の調達に協力を求めることに不満が高まっていた。1943年5月に設置された兵補の制度は日本軍の補助兵力にすぎず、これもインドネシア人の不満を解消するものではなかった。彼らが望んでいたのは、日本軍から独立した、インドネシア人の将校と兵士からなる自前の民族軍の設立だった。
日本人の側には、武器を与えられた現地住民が反日運動に荷担するのではないかという不安があった(その不安は後のブリタル反乱事件で現実化する)。インドネシア人の側には、かつてオランダの植民地支配下にあったとき、現地住民から構成された植民地軍が民族主義運動弾圧に利用されたという苦い過去があった。
こうして設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、軍事訓練等は日本軍の指導の下に実施された。訓練はすべて日本軍の歩兵操典を基準にしておこなわれた。訓練はきびしく、訓練兵のなかには病気になったり死亡したりする例もあった。軍事訓練とともに重視されたのは精神教育であり、そこでは日本軍の軍人勅諭が用いられ、祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気などについて、インドネシア人青年は徹底的に教え込まれた。
末端の兵士たちは纏わされた役割を引き受け、殺人者となり、そのうちに殺人に対する麻痺が起こって加速したという想像をする。人は、そうなることができてしまうし、なってしまうのだ。だからアクトオブキリングは映画タイトルではなく、実際に起こったことを言い表しているように思える。
東ティモールでもインドネシア国内での虐殺でも同じような陽動が根本にあったことは確かだが、それ自体は例えば指示をしたものに悪の根源があるかといえばそうとは言い切れない。もちろんそのように仕向けた人間はいて、そのことに罪がないわけではないが、目に見えるように個人に着せられるような罪でなく、歴史のなかで醸造された根深いものがあるのを感じた。
中庸を選ぶ事ができない状況、何かを淘汰すべしという思想のあり方は、どこかで誰かが追いつめられざるを得なくなるということ、その極点でこういう悲惨なことが現実に起きるということを改めて考えた。