石畳 日傘は白き 芙蓉かな
馬糞 Bafun
寺町には石畳の道が通っている。
連日の猛暑の中で、石畳も熱い。
その日差しの中で、白いアメリカ芙蓉の花が一斉に日傘をさすように咲いて
いた。
夾竹桃が咲き始め、芙蓉が咲き始めた。
猛暑に遅れて、夏が来たかのようである。
四季とは何であろうか。
厳しい暑さ寒さの巡りに織り成す動植物の生き様ではないのか。
動物・植物を物として扱う人間がいる。
刑法上も、物として扱われている。
命に対するいとおしみ、畏れ、家族のような愛情がない。
命には特別の価値がある。
そのことが畏敬されるべきであろう。
【唯物論は神も仏もない世界観である】
命を粗末にする唯物論教育が、世の中を荒廃させている。
唯物論教育は、倫理道徳の根拠をもたない。
唯物論は、ただ、弱肉強食に担保されたルールないし、恐怖政治がかろうじ
て秩序に代替する。
唯物論社会は、食べものを粗末にする。
なぜなら、食べ物とは生きものだからである。
命に特別の価値を認めないのが唯物論である。
心が根拠を持たない唯物論が日本の教育観でもある。
心とは、脳が電子的に作り出す現象に過ぎないとされる。
唯物論の価値基準となる「物」の価値とは機能である。
人の価値も機能である。
だから、殺人罪などは本来必要がない。
器物損壊罪に死刑をふくめれば十分なのである。
生命には、「物の機能」以上の特別の価値は根拠を持たないからである。
もちろん、唯物論には神も仏もない。
むしろ、世の中を悪くする思想だとして排除される。
それが、戦後日本を精神的に荒廃させてきた思想である。
神も仏もない法の権威とは、権力としての暴力支配以外の何ものでもない。
同様に、唯物論の下にあって、民主主義は権力の根拠ではない。
大衆心理を操るメディアの暴力的権力手段に過ぎない。
権力とは煽動力に他ならないのである。
そのような国を望むのか。
物、あるいはその機能を超えた魂の実在、仏神の権威、信仰の本質的な価値
を認めるのか、それとも、唯物論の支配を認めるのか、それが問われているの
である。
宗教・哲学思想こそは、政治の生命線であり、国是をなすものである。
「王といえども、神と法の下にあり」
「民主主義といえども、仏神と法の下にあり」
憲法制定論議の中枢をなすべき論点である。
梅士 Baishi
■ リバイバル(韓国に買収されつつある対馬)
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