ルル、ルルル お元気ですか 虫の声
梅士 Baishi
今日の気温は既に往時の残暑の勢いが衰えて31℃に下がった。
蒸し暑い夜ではあったが、虫の声が涼しい。
ルルル、ルルル・・・、お元気ですか。
人生いろいろと多様ですね。
昨日今日と久しぶりの二連休である。
昨日は未亡人となった母親が父他界後初めて博多に出てくるという
ので、その歓迎会の予約をいれた。
伴侶との死別ほど辛いものはないという。
ささやかな親孝行として、楽しくやりたいものだ。
その日、食事をしたホテルロビーで読書をしながら寝てしまった。
大川隆法著 幸福の科学出版刊『ザ・ネクストフロンティア』である。
あまりに含蓄がありすぎて意識があの世に旅立ってしまったのである。
結果、読書は今日の宿題になった。
眠気を残暑に乾かしながら、三週間ぶりにプールに出かけた。
息が続かない。
すぐに腕がこわばった。
トータル1200mくらいでリタイア。
う~ん、これはいかん・・・。
人生はミステリーである。
しかし、混沌であってはならないと思う。
やはり、使命感に基づく創作芸術でありたい。
芸術とは生みの苦しみである。
泥沼に咲く蓮のしたたかな努力である。
したたかであっても、あれほどに純粋な花を咲かせる。
したたかさは、戦いでもあろう。
使命なき戦いであってはなるまい。
しかし、試練というのは人間を成長させるものらしい。
若いときのイメージからは想像もできない洗練を感じさせる人がいる
ものだ。
試練なき人生は無意味である。
泥沼の試練には成長がある。
できれば、そこに悟りの花を咲かせたい。
それにしても、どうも従来の泥沼がぬるま湯に思えてきた。
「ゆで蛙シンドローム」に気をつけなければならない。
ワンランク上の戦いを仕掛けなければ、もう一段の発展が見えない。
博多に安住するようであってはいけないのではないか、と思えるとき
がある。
今年は、まだ一度も海外に出ていない。
久しぶりにバンコクから北部を目指そうか。
それともインドかネパールかインドネシアか。
ブラジルか、コロンビアかアルジェンチンか。
ユーロ破綻の前に、60円台前半まで下がったら、ヨーロッパも訪ね
てみたい。
う~ん、ということは、やっぱり英語を勉強しなおさなければいけない
ということか・・・。
少し気合を入れて勉強するとしよう。
【 亡国民主党・菅代表の行為責任と行為者責任 】
経営者のあり方として、「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」を
考える人でなければならない、というのが、ドラッカー先生の教えとし
て、大川隆法総裁が講じておられる。
⇒ 大川隆法著 幸福の科学出版刊 『ザ・ネクスト・フロンティア』
行為を裁いても人を裁かずという司法原理にも通じるであろうか。
しかし、感情は人を単位として評価するものである。
誰が正しいかではなく、何が正しいか、という視点は、修行者への評
価としては欠かせないであろうことは分かる。
人は過ちを犯す。
しかし、だから、その人は犯罪者だと断罪してしまっては修行になら
ない。
政治の世界でも、たしかに、卑劣な民主党の菅総理の手法は、何が
悪いかを検証することなく、官僚が悪い、鳩山と小沢が悪いという言い
方をして責任転嫁をする。
「誰が悪いか」ではなく、「何が悪いか」という分析的視点を見失うと、生
産性のない責任転嫁合戦となるに相違ない。
こういう視点は、教示されないとなかなか気付かないものである。
自分について考えると、嫌いな奴はいるが、何がいけないかははっ
きりとさせている。
その後の行いは観察しているが、芳しくない。
行為責任の傾向性としての行為者責任は信用問題としてあるので
はないかとは思う。
かろうじて、行為者主義ではなく、行為主義の視点は持っていると思う。
しかし、同じ人物が行為無価値を重ねると、行為者無価値になって
ゆく。
それは、人格責任を問われてしかるべき段階があるのではないか。
信用が大事というのはそういうことではないか。
ただし、原則は行為責任でなければならないことは確かなことである。
菅氏については、もはや霊天上界の一致した意見として、行為者
責任が問われていると思う。
市民活動家として、狭い範囲で貧民救済を行っている分には天使
的であれたものを、国家経営のレベルでは、亡国の政治家として国民
を危機に陥れかねない罪を問われることになる。
それは、防衛問題で外患誘致に近い政策を行っただけではなく、増
税政策で日本を更なる不況に叩き落そうとしている。
それだけでも行為者責任が問われてしかるべきだろう。
さらに見過ごせないのは、地方自治に政府の政治責任を丸投げして、
それを地方自治改革の目玉のように吹聴していることも見過ごせない。
高速道路の問題も、自治体に予算権と政策権を与えるとしているが、
道路は隣の自治体にもまたがっている。
それを、自治体単位の専権事項とするという政策のどこが革命的な
のか。
まさに、政治責任の放棄に他ならない。
それが、菅と小沢の議論の目玉の一つである。
おろかなことである。
小沢さんよ、まだ、反省が足りていないのではないのか。
そうした判定が、マスコミには全くついていない。
なぜなら、マスコミ同罪だからである。
マスコミ関係者の責任は、行為者責任に限りなく近いのではないか。
すなわち、マスコミに関わる個人が、その行為者責任を問われるほ
どの非行を繰り返して省みるところが無いということである。
彼らの人格責任は地獄で決済されるとして、現世における、日本の
亡国を見過ごしにするわけにはゆかない。
だから思う。
心ある愛国者よ、保守の勢力よ、幸福の科学に集え、幸福実現党
を応援せよ。
新世界建設の時代に命を受けた幸運を無にしてはならない。
エル・カンターレ、釈迦如来に帰依してこその今世の人生である。
使命はそこにある。
そのために、何をなすべきか、何ができるかをこそ考えるべきである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi