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生体肝移植手術

♪君の寝顔が~ 激しすぎるから~♪ のTVCMではないが、病室
のベッドで寝ていると、無防備になる。

体調が悪く、疲れて寝ているので仕方ないが、今思い出すと結構はず
かしかったりする。

誰かスポーツ新聞でも掛けておいてくれればいいのに・・・・・のに。





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<・・・一年前>

・・・2005.10月4日

とにかく今振り返っても、移植手術前後の事は、良く思い出せないのだ。

確かに当時の状態は相当悪かったらしく、いつ頃からか自分を意識できな
いでいた。

術前、ICUに移ったのだが、その時のことがわずかに思いだせるくらい。
医療機械や計測器具の鳴り止まない音と、やたらと明るい部屋。
医師と看護士が挨拶に来てくれたことは記憶にある。

何日ICUにいたのか、いつどうやって手術室に向かったのか、まったく
覚えていない。

10月4日、手術の日。
ドナーになってくれた姉は、歩いて手術室に入ったそうで、自分はICU
の隣の手術室へストレッチャーで。

朝8時手術室入室、終了翌朝2時30分。

手術の内容は ここ

術後、ICUに戻ってから、目覚めた時の記憶もない。

気付いた時は、脳の機能障害による恐ろしい体験が始まっていた。


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負けるものか!

最近、同じような病気と闘っている人達のHPを見て、本当に勇気
付けられている。
皆、苦しい時間を過ごし、回復し、元気に活動している。

メールなどを頂くことも多くなり、たくさん励まされ、そして感動
を与えて下さる。
病気に負けない心と体、自分一人では得られないもの。


この先、どんな辛いことが待っていても、生きていれば何とかなる!
勇気や感動を自分が与えられるような存在になるまで、病気になん
て負けていられません!




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<・・・一年前>

・・・2005.9月

移植手術というものを強く意識させられ、それから逃れようとする
気持ちは日増しに強くなっていった。
辛い透析も自分の中では希望の光、毎日の血液検査の結果に一
喜一憂する毎日だった。

入院以来続いている絶食も、あまり苦にはならなかった。
食欲が無かったから、といってしまえばそれまでだが、今考えると
良く耐えたな、と。
結局、絶食期間は2ヶ月以上にも及んだ。


「Aせんせい、何とか移植しないですむように、これからも頑張り
ますから何とかここで治して下さい。Aせんせいだけが頼りです。」
9月中頃、医師にこうやって訴えたのを良く覚えている。
透析による治療がなかなか効果をあげず、(悪くもならなかったが)
自分なりに先が見え始めた頃だ。

「私達も全力を尽くしています。良い方向に向かうようにもう少し
頑張りましょう。」
Aせんせいは真剣にこの病気と向かい合ってくれていた。
前例がないことは積極的に調べ、H大病院とは常に連絡を取り合い、
いつも勉強をし、良く話しを聞いてくれた。

とにかくいつ病状が悪化するか分からない状態。自分では意識だけ
はハッキリしていたので、結構落ち着いてはいたのだが。

後で分かったことだが、移植手術をしたくてもできない人、又、保険
適用外で高額の医療費がかかってしまう場合
があること、などで
移植そのものをあきらめてしまう人が多くいることを知った。

その時は、移植手術なんて考えられなかったのだが、姉の肝臓が幸運
にもドナーとして適合した事、この事実が、今自分がこうして存在し
ていること、そしてその後訪れる生体肝移植手術への始まりだった。
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生きるために…

昨日、一昨日と次男のサッカーの試合。天候に恵まれ気持ち良く応援
する事ができた。
昨年の今頃は一番苦しかった時期で、屋外でサッカーを見て、改めて
健康の大切さを実感した。



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<・・・一年前>

・・・2005.8月下旬か9月上旬

「これは今すぐ移植手術をしましょう、という話しではありません。
今の治療(透析)を続けていくなかで、症状が急変した場合手遅れ
にならない為、又、今のままでは症状の改善がみられない場合の為
の準備と考えて下さい。」

K病院に転院し、少し経った頃、H大病院のF医師が来て下さり、
生体肝移植についての説明を受けたが、こんな話しで始まったような
記憶がある。
K病院のO医師、A医師がH大病院と連絡を取り合い、最悪の場合
を想定し準備を進めておいて下さっていた。

H大病院からはF医師の他、移植コーディネーターの方、こちらは
妻と父そして2人の姉が出席した。 ・

「生体肝移植」・・・
・ドナー(肝臓提供者)なくして手術はありえないこと。
・患者とドナーが、血液型と肝臓の大きさが合うこと
・患者とドナーが同時手術となるので、家族の負担が大きくなること
・ドナーは20歳以上で、2等身以内、もしくは配偶者であること。
・ドナーは健康であり、且つ検査をして適合しなければ行えないこと。
・患者はもちろん、ドナーも危険を伴うこと。
・身体に大きな傷を残してしまうこと。
・ICUについて
・そして移植手術後のこと(薬、入院期間etc)など

F医師からの説明はこのようなものだったと思う。
そして、そのドナーの条件を満たす者として2人の姉が最適であり、
各種検査を受ける必要と、その受け入れについても説明があった。

しばらくは当事者である自分の意思とは関係のないところで話しは
進んでいった。

「松本さん御自身はどうですか?」
F医師に振られ、何とも言えない気持ちで話しを聞いていた自分は、
しばらく言葉が出なかった。頭の中がパニック状態で、今置かれて
いる自分の立場があまりにも悲しかった。

「いやです。なんとか移植をしない方向で・・・」
涙をこらえて、そう声を搾り出すのが精一杯だった。
こんなことをして、生きる価値が自分にあるのか。
何よりも自分には何もできない、家族と医師達にすべてを委ねなけ
ればならない状況に、なんだか違う世界にいるような気がしていた。


「御家族の方から何かありませんか」
父は「私の肝臓じゃだめなんでしょうか」と訴えたが、「お父さん
の場合年齢的に無理があると思います。手術には危険も伴いますし」
妻は「私は・・・」、「奥さんは体格的に肝臓が小さすぎて」
そう、サイズが合わないと無理なのだ。

上の姉は次姉と「私達がドナーになるから」と、精一杯冷静に、そ
して必死に訴えてくれた。
こうなったら何が何でも、今の透析治療に託すしかない・・・。
自分にできるのは唯一それだけだと。

この時は、移植手術は自分の中では絶対にありえなかった。
少しだけ、”死”を意識した、生まれて初めての瞬間だった。
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今になって思うこと。

昨晩、TVドラマ「手の上のシャボン玉」を見た。
生体肝移植にまつわる、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(移植患者)の関係が描かれていた。

結局、手術を受けるまでで終わり、かなりドラマチックで、自分の時と比べてちょっと・・・という感じだった。

自分の時・・・ 一年前、透析治療を受けているK病院にH大病院のF医師が最悪の場合を想定し、生体肝移植の説明をしに来て下さった。
この時の説明で自分の置かれている立場を始めて理解し、大きなショックを覚えたことを鮮明に覚えている。

「生体肝移植」・・・
・何よりドナーなくして手術はありえないこと。
・20歳以上であること。
・日本の場合、2等身以内、もしくは配偶者であること。
・検査をして適合しなければ行えないこと。
・患者はもちろん、ドナーも危険を伴うこと。
・身体に大きな傷を残してしまうこと。etc・・・

昨晩のドラマではないが、そうまでして生きる価値が自分にあるのか。必死で透析治療による根治を訴えた。


父:「私の肝臓じゃだめですか」、医師:「お父さんの場合年齢的にちょっと」
妻:「私は・・・」、医師:「奥さんは体格的に肝臓が小さすぎて」
もういいよ、もう、心でそう思いつつ・・・
2人の姉も「私が、私が」と必死に訴えてくれた。
こうなったら何が何でも、今の透析治療に託すしかない・・・。

でもだめだった。
結局、姉2人が適合検査を受けてくれ、次姉が運良く適合。

次姉に大手術の恐怖と大きな傷と、そして次姉の2人の娘に大きな不安を与えてしまいながらも、私は命を救われた。

今思うと、”死”に対して、当時より現在のほうがはるかに恐怖心が強く、移植に対して、当時はなんの知識も無く、絶望感だけが支配していたような気がする。


”家族の総意” ・・・
昨晩のドラマ「私たちみんなそろって家族なんだよ、3人いて始めて家族なんだよ」
そうなんだ、自分も”家族の総意”で助けられたんです。

姉たちは、術前も術後も常に明るく振る舞ってくれた。
父や妻をいっぱい励ましてくれた。
父は姉たちに移植をお願いしてくれた。
妻がいなかっら、術後の回復はありえなかった。
二ヶ月近く脳機能が変な自分に毎日々話しかけてくれなかったら。


のちに妻に聞かされた。移植手術直後、ドナーとなってくれた姉がおぼろげな意識の中で最初の言葉、
「肝臓足りた?、小さくなかった?」

足りたよ~~~! 今こうして生きてるよ~~~!
そしてそして、もっともっと生きてやるよ~~~!
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生体肝移植

昨日夜のTV番組で韓国の方の生体肝移植の話題を放送して
いた。見た方も多いと思いますが。
若くしてC型肝炎を患った父親が、若干16歳の娘の肝臓の
2/3をもらって移植手術を行うというものでした。


この16歳の少女は小さな頃から父親が苦しむ姿を目の当た
りにして育ち、日々肝臓について勉強し、ドナーとして法律
で許される16歳になるのを待って「私が父さんのドナーに
なる」と宣言していました。

父親は「娘の身体を傷付けてまで生きてはいけない」と言い
ますが、母親の「これが家族みんなの気持ちだから」という
言葉で手術に踏切り、2年後の今は2人共元気に過ごしてい
ます。


昨年の9月、自分もまさに同じ状況にいました。
透析の為入院した病院に、後々大変お世話になるH大学病院
のF医師が最悪の場合を想定し、足を運んで下さり、家族皆
に移植についての説明をして頂きました。

あまりにも想像もしていなかった衝撃的な話しの連続で、
その時のショックの大きさだけは今でもはっきり覚えています。
運良く適合者が見つかったとしても、自分の為にその人の身体
を危険にさらし、大きな傷を残してしまう。
生死を争う状況に自分の身が置かれていても、どうしてもその
ことを、そのことだけを考えてしまうのです。
産まれて初めて”死”というものを意識した瞬間でした。



今はドナーとなってくれた姉はほぼ元気になりましたが、
「大丈夫?」といつ聞いても、いつも返ってくる答えは
「本当に全然大丈夫!」という言葉ばかり。
ドナーといっても大手術をしていることに違いはありません。
心配掛けまいとするその裏に、痛みやたくさんの苦労がある
ことは想像に絶えません。

今は姉を始め、家族やまわりの皆さんには、本当にこの言葉しか
ありません。
「ありがとうございました。」「本当にありがとう。」!!!






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