坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

仏という地震

2008年03月01日 | 坊主の家計簿
 3月1日

 外食  イカ天蕎麦         295円

 合計                295円
 3月累計              295円

 御仕事ちょい忙し。仕事が終わって昨夜の続きの調べものを少しした後に「仮眠しようかなぁ。。。どうしようかなぁ。。。」と迷いつつ現在に至る。今から仮眠してもシャーナイのでこのままブログ書いて寝よ。

 しゃて、フルハム三浦、ちゃうわ、三浦氏の久しぶりの『ロス疑惑』に合わせたかのように映画『それでもボクはやってない』がテレビでやってた。
 でも、私は『それでもボクはやってない』の主演の兄ちゃんが犯人だと思うのだが。何故ならあいつは映画『ハチミツとクローバー』で西田尚美のストーカーをやってたからだ。そういうやつは許さん。だから絶対にあいつが犯人だ。。。
 って、まあ、全然関係がないのだが、私は寝る前の最後の儀式としてユーチューブで『蒼井優』と検索して何かしらの動画を見て「ホッ」としてから寝るのだが、昨夜中国版で『ハチミツとクローバー』が全部アップされてたので思い出し怒り。西田尚美のファンでもあるねんぞ、わては。

 ん?冤罪。本人がやってなくとも周囲が犯人だと思い込む。
 例の和歌山カレー事件の容疑者も怪しいらしい。若一光司がテレビでやってたのだが、その中で林眞須美氏の夫が語っていた言葉「眞須美は金にならん事はせん」というのが非常にリアリティがある。
 ただ、林眞須美氏はああいうキャラであり、やはり周囲でも嫌われ者だったらしい。まあ、何かあった時に疑われやすいタイプ、損なタイプの人。

 色々な事件報道があっても、余程追いかけない限りきっと多くの人は「犯人はあの人だったのだ」と思ったままになる。
 まあ、テレビで事件報道を見て「なんて酷い事を。。。」といっても、実際はその時の気分だけではないのかな?多くの人は。別にどうでもイイ。余程の関係者以外はテレビや紙面の向こう側での出来事なんだから。
 だから「思った」事はそのまんま。林眞須美氏は犯人のまんま。
 当然、私も何が本当なのか知らない。解らない。解らないままに決めつけている。
 よく知らないにも関わらず。

 「思い」。
 そろそろ40になろうとしている。40歳である。
 「30以上の大人は信じるな!」のパンク兄ちゃんが40である。
 40年間の人生経験がある。80ジジイに比べると半分だが、それでも40年である。
 経験が思い込みを深める、のは私だけ?
 知識が思い込みを深める、のも私だけ?
 「おっちゃんの永年の経験でいうと、絶対に加瀬亮は嘘を付いてるな。アイツはなんせ西田尚美のストーカーをやってた男や。痴漢ぐらいしよるで」
 等々と。

 経験や知識、それに身分とか、努力とかから生じる自信とか。
 そういうものがあると、まあ、端的には『自信』なんだろうが、自信があると「思い」を疑えない。自分で自分を信じ込んでいるのだから当たり前か。
 自信があるから様々な人の声を聞けない。耳を傾ける事が出来ない。これを社会問題が好きな人は身分だけで押さえたがるのだろうが、端的に『一番遠い人』、つまり『敵』で考えた方がエエと思うのだが。耳を傾けるベクトルはその人の志向なんだろうし。差別されている人には耳を傾ける事が出来る人が、差別する人には耳を傾ける事が出来ない事はよくある話。
 だから、誰の話でも耳を傾ける事が出来る人が尊いわけであってやな、それが出来なくとも、『出来ない』という慚愧を通じて『耳を傾けよう』とする行為が大切ではないのか。
 所詮、自分の『思い』でもって、被差別者の声に耳を傾けているだけの話であって、また、自分の『思い』でもって敵の声には耳を傾ける事が出来ないだけの話であって。

 その『思い』を問題にする。当然、その『思い』が様々な社会構造を作り出している。
 思いを疑えない状態を『善人』というのだろうし。

 自分の『思い』を疑う事が出来ない、いや、しようとしない、のが私(達)であるような気がするのだが。
 だからこそ、そこから始まる課題が出てくるわけであってやな。
 
 法然門下を死罪・流罪にした人達は、自分達が煩悩具足の凡夫である事を忘却していた。悟ってしまって、何か自分達にそういう権限があると『思い込んでしまった』。
 私情で腹が立つ事や、意見の違いで腹が立つ事なんぞ当たり前にある。それは煩悩具足のわれらだから当然の事である。だが、それは同時に煩悩具足の凡夫である事を忘却しているからである。だから、安楽は念仏を勧めた。自分を死罪にしようとしている人に念仏を勧めた。

 親鸞は

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし

 という詩を書いたが、親鸞を流罪にした人達に対するラブレターの批判である。
 と、一連の愚禿悲嘆述懐に対して勝手に思う。

 差別する事は思い込みでしかない。違いを自分の思いで認められないだけの話。
 それを誤摩化すのが経験や知識、身分や努力や行動力。
 まあ、「こんなオレ様をアイツ等と一緒にするな!」っちゅう話。煩悩具足の凡夫なら誰にでもある話。
 煩悩具足の凡夫は酔っぱらい。酔っぱらいが「お前は酔っぱらっているやろ」と云われたら、「オレは酔っぱらってないわ!」と反射的に返してしまうのも煩悩の証し。凡夫の証し。