坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

罪からの逃走

2008年03月16日 | 坊主の家計簿
 3月16日

 雑費  シャツ4        7960円
     タバコ          300円
 食類  芋焼酎&ケチャップ     44円
     焼きそば3         98円
     もやし           29円
     にら            98円
     きゅうり          35円

 合計              8564円
 3月累計           66436円

 仕事後、お買い物。
 『芋焼酎&ケチャップ 44円』っちゅうのは貰ったビール券を使ったので。

 「ああ、落ち着いて勉強出来ひんのぉ。。。」と、愚痴。なんだが、逆に「落ち着いてやる勉強ってなんじゃい?」と疑問に思う。毎日生きてると毎日様々な出来事があり、様々な事に心を揺さぶられる。それを無視してする勉強ってなんじゃい?と。
 社会生活を無視してする勉強ではなく、様々な社会生活の中から揺さぶられた事を通して仏教に学んで行く、のが、勉強ではないのかと。だから勉強がおもしろいのだろうし。おもしろくない勉強は、自分と切り離された学問なんだろうし。
 当然、学問も大事であり、学問を志す動機は日々の生活での動揺や疑問であったはずなんだろうが、それが何時の間にか『切り離された感覚』になる。するとおもしろくなくなる。おもしろくなくなったら、最初の動機を掘り下げてみるなり、あるいは、日常生活に立ち戻り、もう一度出発すればエエのだと思うが。

 しゃて、チベットが大変である。北京オリンピックを前にして絶好のタイミングである。まあ、その辺が政治やな。
 ダライ・ラマ14世が今回の中国側の鎮圧行動を「大虐殺」と批判したらしい。
 http://mainichi.jp/select/today/news/20080317k0000m030064000c.html
 そりゃそうだろう。
 ただ、まあ、なんだ。別に『オリンピック』が平和な行事だとは思わんし、平和でなければオリンピックが開催出来ないのなら、真っ先にアメリカを開催国から除去するべきだ。アメリカが『人権』なんぞを口に出して中国を批判するのもありだが、その『人権』という大義名分を使って大量虐殺をしてるのは何処の国やねん。
 
 ついでに書くが、『日本の前の戦争は侵略戦争ではなかった』という意見もあるが、侵略戦争でなかったから問題ではなかったのか?聖戦だから問題ではなかったのか?解放だから問題ではなかったのか?人殺しは人殺しでっせ。
 埼玉県知事であったと思うが「自衛隊は人殺しの練習をしている」というような発言があったと思うのだが、違うのか?一体何が問題なのだ?自衛隊は軍隊であり、軍隊である以上は人殺しの練習をしているのは当然の事である。軍隊というのは『人を守る=人を殺す』事である。自衛隊はいつから医者になったのだ?赤十字になったのだ?いや、なって貰いたいものだが、現実は医療品でなく武器を持った軍隊であり、軍隊である以上は人殺しの練習をしているのが自衛隊である。
 同じく死刑も人殺しである。
 聖戦だろうが、人権解放の為の行動だろうが、人殺しには違いない。だから人殺しの武器を持って行くのだろうが。言い換えで綺麗事に済ますのは逃げだろうが。
 その上で自衛隊員に対する偏見を問題視すればエエわけであってやな。人を殺した人に対する偏見を問題視すればエエわけであってやな。言い換えで綺麗事に済まそうとする事はおかしい。

 あ、チベット。っちゅうか、ダライ・ラマ。
 たまに話しているとダライ・ラマ14世が全仏教徒にとっての尊い存在であると勘違いしてはる人がいるが、それは違う。チベット仏教は、まあ、色々な宗派があるみたいだが、真宗とは関係ないし。仏教の歴史が違う。
 当然の事ながら、世界にも日本にも仏教の最高指導者などいない。居たとしてもそれはそれぞれの宗派内だけの話。
 だから、私にとってダライ・ラマ14世とは、その辺の門徒のオッさん、オバはんと何ら変わりない。当然、私とも全く変わりない存在にしか過ぎない。
 え?「ダライ・ラマ14世とお前を比べるな?」ってか?じゃあ、差別するな。同じ仏教徒を差別するな。その『眼』をまず疑え。

  無戒名字の比丘なれど
  末法濁世の世となりて
  舎利弗目連にひとしくて
  供養恭敬をすすめしむ
  (親鸞)

 『無戒名字の比丘』まあ、『門徒』でんな、『門徒』だって、釈尊の高弟だった舎利弗や目連に『ひとしい』っちゅうのは、やっぱりすんごいなぁ。。。そりゃ、批難の大嵐でっせ。

 当然、私はダライ・ラマとも、ローマ法王とも、マザーテレサとも、高遠菜穂子氏とも、ブッシュ大統領とも、一自衛隊員とも、中国のお偉いさんとも、死刑囚の人達とも、全く同じ人権を有している。
 まあ、『人権』の本来の語意はよう解らんが、人間の作り出した『価値観』という偏見を無視すれば誰だって同じ人間やろうが。『品格』なんぞ偏見の戯言じゃ。
 
 当然、今回のチベットで殺された人とも同じ人間である。
 中国が何を説明しようが、何を言い訳しようが、どんな大義名分を立てようが、人殺しには変わりない。

 おまけ。
 煩悩が当たり前になると当然の如く、『煩悩』ではなくなる。当たり前になる。
 人殺しが当たり前になると、人殺しは人殺しでなくなる。
 ちょうど、毎日食べている命あるものを『食類』と言い換える事によって罪から逃げる様に。
 生き物に価値等ない。人間が作り出した価値等ない。価値がなくとも存在しているわけであって、故に尊い。価値があるから尊いのではなく、価値がないから尊い。
 価値を見出せなかったから『尊い』と。
 煩悩のマンマで、煩悩を肯定しただけで、エゴを肯定しただけでは自分から逃げてるだけ。罪がなければ、煩悩はない。そんな所に『罪悪深重』等という言葉はない。