坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

正義の火の粉

2008年03月24日 | 坊主の家計簿
 3月24日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     洗濯洗剤         398円
 外食  つけ麺大         514円
 食類  わけぎ          138円
     豚バラ          214円
     お好み焼き粉       100円
     片栗粉           98円
     アミノ酸飲料4      388円
     焼き豆腐          69円
     牛肉           320円
     タマゴ          198円
     白菜半分          98円

 合計              2655円
 3月累計           88007円

 腰が。。。なんかよう解らんけど、仕事中に気づくと腰が痛い。。。これは
 1 昨夜の爆睡の半分はコタツで寝たので腰を痛めた
 2 ギックリ腰?
 なのか、よう解らんけど、腰が痛い。辛いっす。。。
 これは、
 1 体調が悪い
 2 お疲れモードである
 にプラスして
 3 腰が痛い
 と云う事であって、大変な状態なのだが、昨夜爆睡して、プラス今晩御通夜に行く前にも少しだけ仮眠したので微妙に元気なのだが。。。でも、腰が痛いっす。辛いっす。。。ついでに左指先をヤケドしてもうた。。。
 「キョー!キョッキョッキョッキョ!!!」
 と、一昔前ならヤケクソになっていたのだろうが、ヤケクソになっても損するのは自分やしなぁ。。。地味にしとこ。

 地味にテレビを見てた。何やらオリンピックの聖火式(?)か何かで中国に対する抗議があったらしい。
 『オリンピック』そのものに興味がなく、大阪が立候補した時も「やるのなら関空内だけでやれ。」の立場だったし、別にオリンピックなんぞはどうでもエエのだが、チベットに関して少し。
 チベットの僧侶はギックリ腰なったらサロンパスを貼るのかな?
 あ、ちゃうわ。もっとエエもんがありそうやし。でも、あれだけの低音で読経するわけやから、腰痛めたら大変やろな。

 何やら、チベット僧に対して中国政府は定期的に「宗教は間違いだ」みたいな事を講義しているらしい。テレビでチラッとしか見てないので、当然、よく知らん。知らんが「大きな御世話じゃ、ボケ!」と思う。
 ついでに思い出したのだが、ダライラマを選ぶパンチェンラマを中国政府が選んだらしい。これは「大きな御世話じゃ、ボケ!」で済む話ではない。
 
 多分、チベット僧から見たら私ら真宗仏教なんぞ『変』だろう。肉喰って、酒飲んで、結婚して、腰にサロンパスを貼ったりしてるわけだし。多分、「お前等ホンマに仏教僧なのか?」なんだろう。
 逆に私から見るとやはりチベット仏教は謎である。変である。だいたい、パンチェンラマもダライラマも生まれ変わりで選ばれるらしい。「生まれ変わりって、おい」の話なんだが、チベット仏教はそういう体系なんだろう。当然、どちらが優れているという話ではない。宗教に優れているもクソもない。あるのはその宗教を信仰している人がいるだけの話である。
 
 中国政府がチベットに対する弾圧の理由は、まあ、ざまざまな理由があるのだろうが、ふと「宗教はアヘンである」という有名な言葉を思い出す。ただ、私はこの言葉が本来どういう意味合いで書かれているのか知らない。が、まあ、「宗教はアヘンである」と云いたい気持ちもなんとなく解る。
 弾圧する様々な理由の中に、中国政府は大真面目にチベットの人達を宗教から救おうをしているのかも知れない。

 チベットに対して中国政府が1949年か1950年か知らんが、大真面目に『解放』しようとしたらしいのだが、その『解放』は当然、チベットには大迷惑以外の何ものでもなかったらしい。
 『チベット 中国 解放』と検索すると「中国はチベットを解放せよ!」という言葉が出て来たが、どうやら『解放』したらしいぞ(笑)
 ここに二つの『解放』がある。
 中国側が中国側の意志でもっての解放と、中国側の意志を外したチベットを尊重する解放。
 中国側の意志での解放なんぞ、所詮、中国側のワガママなんだろうし。ワガママを押し付けて「お前等の為や」等と、どの口がヌカしとるねん。
 その『口』は、きっと『正義の口』でないかと考える。
 
 日本のアジア諸国に対する『解放』だって、当然、大真面目だったのだろう。今日、幸いな事に色々な資料が漫画でも読める時代になって、私も読んだし。先の戦争は間違いなく正義の戦争であり、解放であった。が、故に問題である。正義の為の解放であったが故に問題である。

 先日の某集会であるオジさんがこんな事を云っていた。
 「差別はなくならないと云う人がいますが、私は私に降り掛かって来た差別の火の粉だけは自分ではらうのが責任だと感じています」やったけな?
 当然、少し異議はあるのだが、でも、『自分に降り掛かって来た火の粉』という表現は無茶苦茶大事ではないのか?と思う。それだけに停めておけばイイのだ。あるいは、同じく実際に火の粉がかかって来た人に連帯するぐらいに。
 
 中国政府なら、チベットの何が気に入らんかったのかはよく知らんが、「解放」ってなぁ。。。
 中国政府の人達がどういう正義での『解放』なのか知らんが、実際に火の粉が降り掛かっているのはチベットの人達。
 先の戦争では日本がどんなに正義の為だったとしても、戦場はアジア諸国。火の粉を振りかけたのはアジア諸国。
 火の粉を振り払うのに、正義もクソもない。焼き殺されない為に払わざるを得ない。

 ただ、「あいつは大量破壊兵器を持っている」等と、火の粉が降り掛からない内に、相手に火の粉を振りかけるから、人間社会は複雑で面白い。
 「このままでは日本も欧米の植民地になってしまう」と、解放の為に火の粉を振りかけるから面白い。
 人間って、複雑やのぉ。。。
 そういう複雑であり、ミスを散々犯すのが『人間』ではないのか?
 正義の為に、解放の為に相手の人権を蹂躙してしまうのが人間であり、そういう存在である、本来、そういう存在なんだ、という事を見出す行為は大切だと思うのだが。

 彼岸が終わっても、ここは変わらず彼岸ではなく、煩悩塗れの娑婆世間である。
 変わらず正義の大流行。
 正義の為の解放という言葉でもって、他者に火の粉を降り注ぐ。
 正義という理屈がなければ火の粉を振り払う事が出来ないはずがないはずなのだが、死刑囚が自分に降るかかる火の粉を振り払おうとする事に対する批判を聞くと、どうやらそうでもないらしい。どうやら、正義という言葉は、現実の火の粉よりも大きいらしい。
 だから、正義という言葉は危険極まりない。

 腰が痛いよぉ。。。