坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

人道と平等

2008年03月02日 | 坊主の家計簿
 3月2日

 外食  酢豚定食        750円
 食類  薩摩七夕       1690円
     しそにんにく       93円
     地大根          60円
     きくらげ天        78円
     やきとり        100円
     バナナ         110円
     かにかま         78円
     サラダ法蓮草       78円
     かいわれ         30円
     うどん玉         18円
     じゃこ         168円
     トマトジュース2     96円
 
 合計             3349円
 3月累計           3644円

 仕事が早めに終わったし、天気もよかったので久々に大盛り酢豚定食を食べに行く。
 大盛り酢豚定食を頂いて、腹パンパン。部屋に戻って日曜昼間の定番『ミナミの帝王』を見てから仮眠する。
 晩御飯は野菜を中心に軽めに。
 遅めの晩御飯を食べつつ、ニュースワイドショーを見る。

 何やら、朝青龍が関西空港で「死ね!このヤロー!」と云ったらしい。
 http://www.nikkansports.com/sports/sumo/p-sp-tp3-20080226-327537.html
 これは想像するに大相撲業界に元新日本プロレスの新間寿氏が入ったのではないのかと考えられる。故にそのうちに朝青龍が両国辺りで白鵬に対して暴力事件を起すのではないだろうか?ちゃんと新聞記者がいる前で。恐るべし新間寿。プロレス界で話を聞かなくなったと思てたら相撲業界に居たとは。。。これで大相撲人気も復活するであろう。。。
 なんだが、私もプロレスファンである。よって、ここはこういうのに乗っかろう。
 「朝青龍は横綱としての品格が足らん。『死ね!このヤロー!』とは何たる暴言か」
 と思ったのだが、場所が関西空港なのね。なら、しゃーない。関西空港は大阪である。大阪で「死ね!」とは日常会話であり、例え「死ね!このヤロー!」と云われた人が大阪府警に電話して現場にやって来たとしても警官から「こっちは忙しいねんぞ。死ね!このヤロー!」と云われるだろう。弁護士、裁判官も同じである。皆が寄って集って「死ね!このヤロー!」と云う事必須であろう。

 と、まあ、大阪という街にはそういう側面もある。
 大阪の日曜昼下がりには『ミナミの帝王』であるが、もっと早い時間には吉本新喜劇もやっている。ちなみに土曜日にもやっている。何故なら大阪はお笑い王国であるからだ。

 先日ある番組で若い女性に「恋人を選ぶ条件は?」との質問に「面白くて笑かしてくれる人」と云うのがあった。
 そうなのである。「優しい人」や「真面目な人」、「お金持ち」とかそういうのも価値であるのだろうが、「面白い人」っちゅうのも価値なのだ。
 しかもこれがかなり重大な価値基準である。大阪では「優しい」「真面目」「金持ち」だけでなく、「面白くて笑かしてくれる」という事がないと人間として評価されないのである。
 資本主義では金持ちが力を持つらしいが、ここ大阪では『お笑い』が力を持つ『お笑い主義』なのだ。。。

 人道主義が気になる。当然、詳しく知らん。
 人道主義と基本的人権とが直接関係あるのかどうかも知らん。
 基本的人権っちゅうのは、天皇でも誰でも同じ権利しか有していない、っちゅう事だろう。同じ人間なんだし。これも日本国憲法上は知らん。知らんが、そういうものでないと『基本的人権』として呼べないのではないかと考える。だから、『基本的人権』がある世の中では人は同じ価値しか持つ事が出来ず、偉い人等いない。好きキライの判断は許されるが、偉い、偉くないの価値判断は許されないのではないのか?それが故に『基本的人権』ではないのかと。
 
 人道主義。
 資本主義では金持ちが偉いのと同じく、やはり人道主義では人道貢献をした人が偉いのだろうか?人道貢献をより多くした人、例えばマザーテレサなんぞという人は、死にかけの老人よりも偉いのが人道主義なのだろうか?
 何度も批判するが、例のイラク人質事件ではそうであった。高遠氏等3人が自費で帰って来た事に関しての批判も凄かった。「何故彼らが自費で帰って来なければならないのか?」と。確かフランスの方だったと記憶しているのだが、ある方が「日本政府は酷い。だから私が彼らが負担した金銭を負担する」とか云っていた記憶があるのだが。
 自費で帰って来るのが当たり前の事であり、他の旅行客もトラブルに巻き込まれた場合には日本政府が立て替えた金銭を自己負担するらしい。但し、日本政府は買い物が下手なので金額が高い。故に名前は忘れたが元一水会の兄ちゃんとカメラマンの兄ちゃんは日本政府に頼らずに帰って来た。まあ、そっちの方が航空機のチケット代は安いし。旅慣れてまんな。
 故に、私にとって、あの事件で「左翼は死んだ」。っちゅうか、人道主義は差別思想であると明らかになった。
 人道貢献を沢山した人が一般人よりも『尊い』のは人間平等の観点からしてどうなのだ?私にはどう考えても『間違って居る』としか思えない。

 あらゆる人間が全て平等である。とは素晴らしい思想である。
 ただ、それを扱うのが欲深い人間である。だから、人道貢献でもって人に優劣を付けたがる。というか、付けている。人道主義という新たな優生思想の出来上がり。単なる悪魔の思想の出来上がり。
 そしてそれは当然人気がある。差別化が大好きであるから。差別して人を見下す事に快感を憶えてしまうのが、きっと人間っちゅう存在なんだろうし。
 故に対等になんか見れない。平等なんかに見れない。
 人道貢献をする人は偉く、特別な存在。

 例えば、マザーテレサと死刑囚が居たとする。
 死刑囚は連続強姦殺人を犯してしまった人。片や人道貢献のビックネームのマザーテレサ。

 本来の人道主義には詳しくないが、昨今流行の『人道主義』ではこの二人の価値は同じではない。
 仮に二人同時に治療しなければならない状態になった時に、両者にその事を伝えないという条件でならきっとマザーテレサに優先権があるだろう。
 先に死刑囚が病院に付いたとしても。治療する時間を考えて、マザーテレサの到着を待つだろう。それが昨今流行の人道主義ではないのか。
 これのどこが平等なんだろうか?私には新しい差別思想にしか思えないのだが。
 マザーテレサの事はよく知らないが、きっとマザーテレサなら「先に死刑囚を治療して下さい」と云うだろう。先に到着してても。まあ、医師が『平等主義』なら、先に病院に到着した方を治療するのだろうが。同じ状態なら。

 仏教説話の中にシビ王の物語がある。詳しくはこっちを参照(http://red.ap.teacup.com/tetsujo/1.html
 まあ、鷹に追われた鳩がシビ王の所に助けを求めてやって来た。鷹を追い払う事は簡単だが、そうすると鷹は飢え死にしてしまう。困ったシビ王は自分の肉を鷹に与える事にした。まあ、鳩と同じくらいならエエと思たんだろう。そこでシビ王は鳩を天秤に乗せて鳩と同じくらいの量の自分の肉を天秤に乗せた。だが、天秤は釣り合わない。肉の量をどんどん増やしても天秤は釣り合わない。シビ王は気づいた。命の重さに。命の平等性に。そして自分自身が天秤に乗って始めて天秤が釣り合った。
 そして鷹は「そんなに喰われへんわ。」と吐き捨てた。。。

 いかん、酒が。。。まあ、厳密な話はリンク先を読んでもらうとしてやな。
 この物語は人道主義が立ち返るべき問題を提起していると思うのだが。

 人は様々な人生を生きている。マザーテレサになる様な人も居れば、連続強姦殺人を犯す人もいる。昨今流行の『人道主義』に慢心して新たな差別思想にしている人も居る。それぞれの関係存在として生きてこられた中の人生なんだろう。その中で「たまたま」色々な行動をとられただけの話ではないのだろうか。
 人道主義は好きであるが、扱うのは欲深い差別者であるただの人である。悟りをひらいた完璧な人がするのではない。欲深い差別者が、煩悩具足の凡夫がするのである。人道主義をしたからといって煩悩がなくなるわけではない。煩悩が少なくなるわけでもない。聖者になるわけでもない。凡夫がする人道貢献である。

 人道貢献、まあ、そろそろ面倒だしボランティアと言い換えるが、ボランティアする事が聖者であるわけがない。聖者等いないのだ。それが絶対の平等であり、それしかない。
 関係存在としてのそれぞれの生き方の中でボランティアを出来る人はすればイイだけであり、やらない人はやらなくてもエエだけの話。
 だが、昨今、なんかこの辺がおかしくなっていると思うのだが。
 「ボランティアをするのが尊い」や
 「ボランティアをするのは偽善である」とか。
 『尊い』のも幻想だ。
 『偽善』なんぞ存在自体が偽善やろうが。偽善がメシ喰ってるだけの話やろうが。偽善せんと生きれるわけがない。生きれるというのなら、それは心の醜い部分を見たくないだけではないのか?
 どっちでもエエねん。んなもん。相互批判をするのは大事だが、相互批判して互いに「同じ人間である」と立ち返ればそれでエエやん、と思う。

 ちなみに真宗仏教では念仏する事が念仏者です。
 ボランティアする人は単に『ボランティアする人』です。
 偽善者がキライな人は単に『偽善者がキライな人』です。
 他にも諸々あって、例えば戦争に反対する人は単に『戦争に反対する人』です。
 日の丸振る人は単に『日の丸振る人』です。
 ですから、その人達が念仏申してたら私は当然の事、念仏者として認めます。当たり前です。念仏申しているのですから。

 右翼は右に傾き、左翼は左に傾く。何かに傾いている、最低でも自分に傾いているわけだし、なんかそういうのが大事ではないのかな?と思う昨今。
 傾いているにも関わらず、「これこそが正しい」と信じ込んでしまうのが『差別』を生み出しているのではないのか。