坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ナンセンス!

2008年03月26日 | 坊主の家計簿
 3月26日

 食類  発泡酒6         640円
     豚肉           252円
     キャベツ         100円
     餃子           200円
     もずく           86円
     焼そば麺          20円

 合計              1298円
 3月累計           90778円

 腰痛、少しマシになったが安静、安静と。よってダラダラと。

 『映画 めがね』
 映画のメッセージもよく解るのだが、いかんせん映画としてクサい。クドい。
 「これでもか!」っちゅう感じでブルジョアの道楽自由のメッセージが全編に映し出される。『かもめ食堂』がサラッとして良かったからレンタルしたのだが、『めがね』はクドい。
 市川実日子が変わらず素晴らしいし、出てくる役者さんがみんな芝居上手だし、カメラもエエ。んが、ダメやな。

 『サウスバウンド』
 結構良かったし、笑えます。「ナンセンス!」というオヤジのセリフがギャグみたいだし、エエ感じ。
 これも新作なのでストーリーは書かないが、まあ、主人公は沖縄出身。学生運動の闘士。地元沖縄に帰る。沖縄には沖縄の誇りがある。

 文化なんぞ他所から見たら変なもの。沖縄には沖縄の宗教があり、文化がある。
 最近はマトモになったと思うのだが、以前に読んだ大谷派の沖縄開教の人の文章が酷かった。沖縄には沖縄の文化があるに決まっているのだが、それを認めようとしない風に私には読めた。かなり激怒して掲載されていた某雑誌に少し関わって居る人に批判しまくっていたのだが。
 今は金城実とかが大谷派になったので、まあ、そんな事はないだろうが。あのオッさんがそんな事を許すはずがないし。

 真宗仏教も沖縄からすると当然『ヤマト』から来たもの。『ヤマト』から来た、ある意味近代的な宗教。

 学生運動をやられていた人、まあ、サウスバウンドの主人公みたいな人が女人禁制・大峰山の麓に住んだらどういう事になるのだろうか?
 もっと、限定する。学生運動をやられていて、大谷派僧侶になった人が女人禁制・大峰山の麓に住んだと仮定する。
 女人禁制・大峰山の人達は『近代』から取り残されて、昔ながらの風習、都市部や、今現在からすると差別的な風習を守って生きておられる。
 学生運動上がりの僧侶は当然、その『いなかの人達』と一緒に生活する。そこに人がいてるわけだし。都市部からすると変な風習を大切にしておられる。「時代遅れかも知れませんが。。。」と古老は云う。
 そこに外部から『解放』の名の下に現地の風習を潰しにやって来る人達が大挙やってくる。「話し合いに来ました」と云いながらも何故か登山の格好をしている。あくまでも女人禁制の山に登るつもりであるらしい。
 私なら、「ナンセンス!」と、地元の人達『いなかの人達』と共に断固闘うが、まあ、どうなのだろうか?時代遅れだろうがなんだろうが、そこに生きておられる人を無視する思想は私にはナンセンスとしか思えないし。
 まあ、今の大谷派の多くの人は一緒になって時代遅れを弾圧しにやって来るのだろうが(笑)。弾圧者の代表的な存在の人を講師として呼んでいるわけだし。ナンセンス!

 しゃて、何やら『幸運乃光』とかいう宗教法人に対して一部業務停止命令が出されるらしい。
 http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY200803260216.html
 各宗教法人には各宗教法人のやり方があるので基本は何も言えない。各宗教法人のやり方があるのだろうし、うち等真宗教団だって、他の宗教からすると変な事だらけだろうし。
 ただ、思うのだが、「ああ、何をしてるねんやろ。。。」である。

 日本人の多くは、自覚的に他所の宗教に鞍替えしない限りは仏教徒であるはずだ。江戸時代の檀家制度が基本そのままのはずである。だから、以前に居たお寺では田舎から新興住宅地に移り住んで来た人達も、いざ葬儀になると実家や、本家(?)等に電話して宗派を聞くし。自覚的に「私はクリスチャンになりました」だのと意思決定しない限りは、基本仏教徒であるはずである。
 だが、多くの家は仏壇(お内仏)と一緒に神棚もある。
 『神仏』というが、仏教と、神道は全く別の宗教である。全く別の宗教にも関わらず、同じ家に仏壇(お内仏)と神棚がある。見慣れた光景になっているのだが、非常に不思議な光景でもある。
 まあ、『伝統』といってしまえばそれだけなのだが、じゃあ、仏教徒って何なん?と、でんな。。。

 江戸期の檀家制度と違って、今は宗教が選べる時代である。というか、寺院だってその歴史を探れば宗派を変えている所が多々あるはず。宗教は選んで良いのだ。ごく当たり前の話なのだが。
 選んで、自分で決めて、「この宗教がエエな」と思えば、変えてもエエのだ。当たり前の話だが。
 例えば大峰山の麓の人達が、真宗仏教の話を聞いて、「おお、こっちの方がエエな」と、今までの宗教を捨てて真宗に帰依してもエエのだ。
 沖縄の金城実なんぞその典型だろうし。まあ、親類に何を云われてるのか知らんが。何を云われても、個人の信仰なんぞそんなもんやろ。

 少し前に書いたのか、書いてから消してしまったのか憶えてないし、確かめるのも面倒だが、真宗大谷派も宗教団体なのだ。決して『風景』などではなく、宗教団体なのだ。『幸運乃光』と同じ宗教団体でしかない。
 当然、宗教教団である以上、信仰は個人のものである。決して「実家がそうだから。」ではない。実家がそうでも、個人の信仰が違えば捨てても構わない。それが宗教である。それを宗教と呼ぶ。

 宗教は決して習俗ではない。逆か?習俗だって宗教なのだ。
 地鎮祭だろうが、玉ぐし料公金支出だろうが、靖国参拝だろうが、宗教行為なのだ。
 当然、葬儀だろうが、法事だろうが、月参りだろうが、宗教行為なのだ。
 宗教である限りは、自分で判断して、自分で決めるしかあり得ない。習俗だの伝統だのと宗教である事をぼやかしてしまうのはナンセンスである。
 当然、宗教を変えても何の問題もない。
 『習俗だから』と強制される筋合いは全くない。伝統を守り受け継ぐだけで、個人をおろそかにするのは、ナンセンスである。

 って、この「ナンセンス!」も、伝統芸やのぉ(笑)
 伝統は、受け継ぎたい個人が自分で選んで受け継ぐものです。
 宗教だろうが、天皇制だろうが。
 
 伝統より先に『自分』という存在がいる事を忘れたらあきまへんで。
 世間より先に『自分』という存在がいる事を忘れたらあきまへんで。

 【「まじめでやさしくて、おとなしいあの子がそんなことをするなんて考えられない。なぜそんなことをしたのか見当もつかない」】(http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY200803260005.htmlより)
 真面目で優しく、大人しいから問題やねんやろうが。
 自分の人生は自分で決めてエエねんで。
 「ナンセンス!」って、教師だろうが、親だろうが、世間に云うたれ!